幕張キャンピングカーショー 2015

 
 2月13日(金)から16日(月)にわたって幕張メッセにて開催された「ジャパンキャンピングカーショー2015」は、本当に実りあるショーだった。

 このショーは、毎年その年の“イヤーズモデル”を世に問うような斬新な新車が目白押しとなるイベントでもあるが、その新型車の傾向が、今年はかなり実質的なコンセプトをはらむようになった。

 「熟成」

 という言葉がぴったりするような、軸足がしっかりと大地に根を下ろした技術開発が多く見られたように思う。
 “アジア最大のキャンピングカーショー” という謳い文句が、展示車両の台数だけを意味するのではなく、日本のキャンピングカー産業の土台が確実に形成されたきたことを感じさせる。

▼ 来場者の数も国内最大級のイベントにふさわしいものとなった。

 それでは、各社の代表的な新車(の一部だけ)をざっとご紹介。(※ これ以外の新車の詳細もいずれ掲載します)

▼ ハイマーML-I 580

▼ コイズミ/かるキャンデッキクルーザー

▼ フロットモビール/シュピーレン(新オプション仕様車)

▼ ナッツRV/クレソンボヤージュ

▼ かーいんてりあ高橋/水陸両用ミニビッグトレーラー

▼ バンショップミカミ/新型テントむし

▼ タコス/ベリー

▼ フィールドライフ/新型シード

▼ バンテックセールス/新型ジル

▼ バンテックセールス/NV200ベース新型マルチユースビークル

▼ アネックス/コンポーザー

 
 

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日本文化の中空構造

 
 今年(2015年)の正月だったと思うけれど、テレビで『100分de日本人論』というのをやっていて、それを録画したものをついさっき観た。

 要は、日本人の間に名著として語り継がれている書籍を紹介しながら、そこから汲み取れる「日本人の感受性」やら「日本文化の特質」を説き明かすという番組だった。

 テキストとして取り上げられた書籍は次の通り。
 九鬼周造 『「いき」の構造』
 折口信夫 『死者の書』
 河合隼雄 『中空構造 日本の深層』
 鈴木大拙 『日本的霊性』

 上記の本を、上から順に著述家の松岡正剛、小説家の赤坂真理、精神科医の斎藤環、宗教学者の中沢新一らが講師を務め、本の “読みどころ” を視聴者に伝えていく。
 そのなかでも折口信夫の『死者の書』と、河合隼雄の『中空構造 日本の深層』の話が印象に残った。

 このブログ・エントリーでは、斎藤環(さいとう・たまき)氏が解説した『中空構造 日本の深層』(河合隼雄 著 1982年)を取り上げて、その感想を簡単に記す。

 「中空」とは、“がらんどう”という意味である。
 斎藤氏によると、この本の著者である河合隼雄は、「日本文化の中心は、からっぽなのだ」と言っているという。
 これは、政治学・社会学では丸山眞男がこれに近いことを言っていて、そんなに目新しい指摘だとも思わないが、河合氏がそのことに気づいていく過程というのは、まるでミステリー小説を読むようで面白い。

 ユング派精神科医の河合隼雄は、患者の臨床例を見ているうちに、西欧流の精神医学の方法論が必ずしも日本人の精神障害者には当てはまらないことに気づいたという。
 そのとき、彼は「日本人の精神構造は、ヨーロッパ人とは違うのではないか?」と思い始め、いろいろな文献を探るうちに、ついに日本神話にまでたどり着く。

 すると、奇妙なことが見えてきた。
 日本の神話には、正体不明の謎の神様というのが、必ず出てくるのだ。 
 それも、よく知られる兄弟の神様たちの間に、ポツンと登場する。
 
 たとえば、有名な女神のアマテラスと、その弟のスサノオ。
 この二人の神様は、子供の絵本からアニメ、エンターティメント小説に至るまで非常によく登場するのだが、実はその間にもう一人「ツクヨミ」という男の兄弟が存在する。
 このツクヨミは、アマテラスたちと一緒に誕生したときにだけ名前が記されるのだが、以降まったく姿を見せなくなる。

 河合隼雄は、「奇妙だな」と思いつつ、さらに別の神話を探っていくと、実はどの神話においても、有名な神様たちの間には必ずといっていいほど、誕生したときだけ名前を呼ばれ、あとは姿を消してしまう神様が登場することが分かった。

 そういう消えた神様というのは、どこへ行って、何をしているのか?

 彼らは、キャラクターが正反対と思えるような有名な神様たちの間に立ち、密かに、その二人の “緩衝地帯” のような役割をしているのではないか … と河合氏は考えた。
 
 たとえば、太陽の光のように大地に豊饒を約束するアマテラスと、乱暴狼藉を繰り返してこの世を暗黒で包もうとするスサノオ。
 この二人が面と向かい合えば、妥協の余地がない対立が生まれるはずだが、それがなんとなくうまくいっているのは、神話の記述には現われない「ツクヨミ」という謎の兄弟の交渉力や調停力が発揮されているからではないか。

 そう考えた河合隼雄は、そこから一気に、
 「日本文化の特徴は、中心となるものが隠されており、その“見えない存在” が、実は左右のバランスを取りながら、社会全体を機能させている」
 という推論にたどり着く。

 この番組に登場して、各テーマごとに面白い論考を披露していた松岡正剛氏は、自分が運営する人気Webの『千夜千冊』の中でも、この河合隼雄の『中空構造 日本の深層』を取り上げて、次のように述べている。
 

  
 「河合は書いてはいないが、神話構造だけではなくて、日本には多くの中空構造がある。
 だいたい神社がそうなっている。
 神社というものは中心に行けばいくほど、何もなくなっていく。一応は中心に魂匣(たまばこ)のようなものがあるのだが、そこにはたいていは何も入っていないか、適当な代替物しか入っていない。
 また、鏡があるが、これはまさに外からの光を反射するだけで、そこに神という実体がない。そればかりか、そもそも日本の神々は神社にすら常住していない」

 この感じは、実は私にもよく分かるのだ。

 もうかれこそ30年ぐらい前になるが、かつて私は、出張のついでに伊勢神宮を見物に行き、そこで20年ごとに遷宮するときの候補地というのを見たことがあった。
 そのとき、非常に不思議な気分に包まれた。

 それは見事に、な~んにもない場所だったのだ。
四方をシメ縄で囲まれた大地が広がっているだけで、きれいに均された土の上を、午後の木漏れ日が、風に吹かれて揺れていた。

 そのな~んにもない空間を見ているだけで、落ち葉がひらりと一葉だけ湖水に落ちたような波紋が、心の中に拡がっていった。
 自分の心の波動は確実に捉えることができるのに、それを表現する言葉がどんどん遠ざかっていく、
 生意気にも、そのとき私は、「神道の本質が解った」などとつぶやいたような気がする。

 十字架や仏像のように、コアになるものをシンボライズせずにはいられないキリスト教や仏教と違って、神道の中心にあるものは「無」だった。
 そこには、はじめから神々などというものも、いなかったのだ。
 「無」であるからこそ、吹き渡る風が清々しかった。

 「何もない」
 
 それは、数字でいえば0(ゼロ)なのだが、ゼロは無限にも通じている。
 「何もない」ということは、その先には、人智では把握することのできない世界が広がっていることを暗示する。

 何もないから、何でも吸収する。
 そして、一度吸収されたものは、虚無へと開かれた扉を抜け、その向こうで無化されたのち、ただの「風」となって還ってくる。

 「風」は目には見えない。
 そして、それ自身は何もなさない。
 でも、気配を通じて何かを伝える。
 日本人の “中空構造” とは、風のようなものである。
  
 
参考記事 「斎藤環 著 『世界が土曜の夜の夢なら』(ヤンキーの美学)」
 
 

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徳大寺さんお別れの会

  
 この2月9日(月)に東京・千代田区のホテルニューオータニにて、自動車評論家の故 徳大寺有恒さんを偲ぶ「お別れの会」が催されました。

 徳大寺さんは、昨年(2014年)11月 7日に逝去されましたが、作家の北方謙三さん、カージャーナリストの津々見友彦さん、元レーサー黒澤元始さん、イラストレーターの穂積和夫さんら11人の方が発起人となって、生前親交のあった多くの方々にお声をかけ、今回の会が開かれる運びとなりました。

 なにしろ、カージャーナリストとして、日本の自動車評論の新境地を開拓した人でもあり、自動車以外のアート、音楽、文学などの分野においても鋭い洞察力を発揮された人だけあって、集まられた方々も多種多様。
 主要自動車メーカーの役員から、自動車雑誌の編集者たち。自動車評論家、モータースポーツ関係者、カメラマン、デザイナー。
 故人と生前親しく仕事をされた方々が一堂に会した盛大な会となりました。

 ▼ 供花スタンドにも、トヨタ自動車、日産自動車などの代表者の名がずらりと並び、徳大寺さんが日本の自動車産業の興隆に多大な業績を残したことが偲ばれます。

 ▼ 相当な数の方々が来られたようで、実数は分かりませんが、個人的な印象では200~300人ほどかと …

 ▼ 作家の北方謙三さんも挨拶。「徳大寺さんはわがままな人だったけれど、それだけ少年のような純真さがあって、最後まで気が合った仲間でした」とも。 

 ▼ 徳大寺さんが生前に書かれた著作がずらりと陳列。私が担当した『ダンディー・トーク』も中央にしっかり飾られておりました。

 ▼ 徳大寺さんの個性がにじみ出るような愛用品の数々。ローライフレックス、ライカなどの愛用カメラから、数々のパイプ、モンブランの万年筆。『ダンディー・トーク』のなかでも紹介させていただいた小物類はみな懐かしく、涙が出そうになりました。

 ▼ とにかくネクタイの好きな人でした。一緒に仕事をさせてもらったとき、横浜の「ポピー」という洋品店に連れて行ってもらい、ネクタイを選んでもらったことがあります。きっとこの中にも「ポピー」のネクタイがあるのでしょう。

 ▼ 生前の活躍ぶりを記録した数々のパネルも展示。右側の写真は『ダンディー・トーク』のグラビアで使われたもの。場所は横浜の旧ニューグランドホテルのエントランス。お尻が見える車はジャガー240サルーン。

 ▼ 立食形式のパーティーではお寿司コーナーが人気。有名な銀座久兵衛が出店を出していました。

 ▼ 徳大寺さんの奥様、悠子さん。「これから一緒に旅行などに行くのを楽しみにしていたところ、あまりにも早い逝去でがっかりしました。でも、ホッとしたような安らかな顔だったので、ようやく解放されたのかな … とも思い、ご苦労さまでした、という言葉が自然に出てきました」と挨拶。

 ▼ お土産は徳大寺さんの “遺作” ともなった2冊の著作。『徳大寺有恒 ぼくの日本自動車史』(草思社)、『俺と走れ 自動車評論30年史』(講談社)。これから読むのが楽しみです。


  
 
関連記事 「徳大寺有恒氏 死去」

参考記事 「徳大寺有恒という生き方」

参考記事 「徳大寺有恒 『ダンディー・トーク』 」
 
 

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リドリー・スコット「エクソダス」

 
 リドリー・スコットの歴史ものとなれば、万難を排しても観に行かなければならない。
 … というほど、彼の熱烈なファンである私は、当然のごとく『エクソダス 神と王』を観に出かけた。

 事前に、ネットのレビューをいくつか拾ってみた。
 賛否両論であった。
 「映像としては満足のいくものであったが、ドラマとしては盛り上がりに欠ける」
 というニュアンスの批評が多かった。

 観ないうちから、「… そうだろうなぁ」という予感はした。
 リドリー・スコットの歴史ものといえば、2000年の『グラディエーター』以降、『キングダム・オブ・ヘブン』(2005年)、『ロビンフッド』(2010年)と観ているうちに、だんだんパワーが落ちてきているのを感じていたからだ。

 SFモノまで広げてみても、『プロメテウス』(2012年)あたりになると、映像美の凄さは認められたとしても、コンセプトメイクの破たんははっきりしていた。
 だから、この『エクソダス』にも危惧は感じていたのだ。


▲ 宿命のライバルとなるモーゼ(クリスチャン・ベール 左)とラムセス(ジョエル・エドガートン)

 しかし、この作品は良かった。
 十分に楽しめた。
 ストーリーテリングの巧みさをしっかり保持しながら、リドリー・スコットらしい度肝を抜く映像表現もふんだんに散りばめられていて、極上のエンターティメントに仕上がっていたと思う。

 個人的な順位付けでいうと、『グラディエーター』の次ぐらいには据えられるのではないか。
 そんな印象を持った。

 多くのレビューで語られていたことだが、旧約聖書の “十戒” のエピソードを取り上げながらも、すべてを「神の奇跡」に還元するのではなく、きわめて合理的な解釈が施されていたところに、この映画の特徴がある。
 
 モーゼは、シナイ山の山頂に登り、そこで神(もしくは神の使い?)に出会うわけだが、その姿は、何の変哲もない羊飼いの少年でしかない。
 それも、山頂で転倒し、意識が混濁したモーゼの目に映ったただの幻覚にすぎないという解釈も成り立つような登場の仕方である。
 だから、そこで交わされる「神との対話」は、モーゼの自己問答に過ぎないという見方もできるようになっている。

 最大の山場である、モーゼがヘブライ人たちを率いて紅海を渡るシーン。
 1958年に作られた『十戒』のように、紅海が真っ二つに割れ、真ん中に「奇跡の道」が現われるといった度肝を抜く映像表現にはなっていない。
 引き潮になって、徒歩で渡れるくらいの浅瀬が現われるという解釈なのだ。

 しかし、その徒歩で渡れる浅瀬を踏み外すことなくヘブライ人たちが渡りきれるのか? というスリルは満点で、事実、その後を追うエジプトの戦車部隊は、“神の仕打ち” を思わせる黒雲と雷鳴とどろく天候の急変により、小山のような波に巻き込まれて全滅してしまう。
 海が真っ二つに割れなくても、「さすが !」と唸らせるような映像はしっかり作り込んであるのだ。

 チャールストン・ヘストン主演の『十戒』に比べると、「神」の存在感が後退しているのを感じた。
 代わりに、「人間」が主役に躍り出ている。

 『十戒』は、偉大なる神の前ではすべての人間は非力であり、モーゼといえども、神の偉大さを民に伝えるメッセンジャーでしかなかったが、『エクソダス』のモーゼは、少年の姿で現れる「神」に、ときに悪態をつく。
 「俺は、あんな残酷な仕打ちでエジプト人たちを懲らしめるのは好きじゃない」
 などと自分の感情を神にぶつけたりするのだ。

 すると、少年の方も、
 「じゃ、ヘブライ人たちはこのまま苦しみ続けていいのかよ?」
 と、ふくれっ面でモーゼに抗議する。
 そのやり取りが、なんとも人間くさい。
 そこには何の神秘性もなければ仰々しさもない。

 神に対する猜疑心を捨てきれないモーゼは、その分、「人間」として懊悩する。
 果たして、自分には40万人のヘブライ人を統率して、“約束の地” であるカナンまで無事に民を送り届けることができるのだろうか?
 リーダーとしての資質を常に自分で問い続けるモーゼは、孤独で、ひ弱で、頼りない。

 しかし、モーゼはその分、統率する民たちの中で、もっとも弱い人々に対するまなざしを研ぎ澄ませていく。
 自分を殺そうとして、剣をふるって突進してくるエジプト王ラムセスに対しても、迫りくる大波を前に、
 「もうこの波から逃れて引き返すことはできない。お前も俺たちといっしょに対岸を目指そう」
 と、救いの言葉を投げかける。

 そのモーゼの温かさが、素朴ながらも有無を言わせぬヒューマニズムの強さをこの映画にもたらす。

 無事に紅海を渡りきってカナンを目指すモーゼは、馬車の中から、ヘブライ人たちに混じって黙々と歩き続ける少年をみつける。
 シナイ山の山頂で、モーゼに神の意志を伝えた謎の少年である。

 モーゼと少年の間に、得も言われぬ温かい微笑が交わされる。
 次の瞬間、少年の姿はヘブライ人たちの集団に呑まれて消えてしまう。
 もちろん、モーゼの幻覚であったかもしれない。

 無理難題を人間に強いて、敵対する者に対しては残酷な仕打ちを施す無慈悲な神。
 しかし、その神は同時に、ひっそりと人間のそばに寄り添い、人間に温かい微笑を授ける存在でもある。
 気づく人だけが、そのことを知る。

 「神は隣人として現れる」
 リドリー・スコットは、そう言っているようにもみえる。

 「神」を、駄々っ子のように見える少年の姿で可視化させたという発想は、やはり卓越していたと言わざるを得ない。
 少年一般が持っている「無垢さ」は、ときに大人に対しては残酷であり、ときにとてつもない慈悲に満ちている。
 リドリー・スコットの神への思いが伝わってくる。
  
  
関連記事 「スペクタクル映画の傑作 『十戒』 」

参考記事 「レプリカントの命 (ブレードランナー論序説)」

参考記事 「グラディエーター」
 
参考記事 「リドリー・スコット 『プロメテウス』 」 

参考記事 「ロビン・フッド」

参考記事 「写真を撮るなら絵画から学べ」
 
 

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RVパークこころ屋

※ 本データは2015年2月現在のものです
       
 
 キャンピングカーの専用宿泊施設として整備されてきた「RVパーク」にもいろいろあって、道の駅のような地方自治体が関与しているようなものから、立ち寄り温泉のような民間施設が開いたものまでさまざま。
 施設的には、運営母体が大きければ大きいほど、それなりにシステムが整っているという見方もできるが、しかし、そのような管理者たちの誰もがキャンピングカー泊というものに熟知しているわけではない。

 その点、キャンピングカーライフの経験が深いオーナーが運営する「RVパーク」はやはり一味違う。
 長野県諏訪市にある「RVパークこころ屋」は、そんなキャンピングカー好きのパン屋さん夫婦が営んでいるため、RV好きの客にとっては、とても居心地のいい場所だ。


 
 なにしろ、店の横にはオーナーの愛車である北米系モーターホームのB.C.ヴァーノンがど~んと置かれていて、見るからにキャンピングカーと縁が深そうな店構えになっている。
 RVパーク用エリアとして用意されているのは、そのB.C.ヴァーノンの前。
 台数は5台分確保されているが、オーナーにうかがうと、さらに2台ほど詰められるという。

 ここに泊まったユーザーへのサービスもしっかり行き届いている。
 通常は 9:00にオープンするパン屋さんなのだが、RVパーク利用者に対しては、8:00から出来立てのパンを販売してくれる。
 さらに、2日前までに予約を入れた利用者には、精魂込めて焼き上げられた「RVパークオリジナルパン」がプレゼントされる。


 
 店のオーナー中山卓哉さんの作る自家製酵母パンは、近所の利用者からも大評判。天然酵母パンを一つひとつ丁寧に焼き上げていくから、国産小麦の香りとモチモチの歯触りが絶妙にマッチし、舌の上で、えもいわれぬふくよかな味わいが広がる。そんなパンを求めて、遠方からはるばる買い求めに来る人々も多い。


 
 この「RVパークこころ屋」がオープンしたのは2014年の7月11日。
 オーナーの中山さんが、自分のパン工房の駐車場にRVパークを設けようと考えたのは、キャンピングカー仲間がこの駐車場で寝泊まりすることがたびたびあったからだという。

 トイレはある。
 AC電源の供給もできる。
 水場もある。
 温泉も近い。
 中山さんの心の中のRVパーク構想は、そういうキャンピングカーを愛する人たちとの自然な会話のなかで、徐々に形を整えていったようだ。

 表通りから一本外れた町の中のパン屋さん。
 しかも、道の駅のように駐車場が広いわけではない。
 それでも、RVパークを開設してからの問い合わせは多く、開いた年のお盆シーズンは、諏訪湖の花火大会を見るために出かけてきたキャンピングカーユーザーで満杯になったという。オープンしてから4ヶ月目ぐらいには、もう70台近くのユーザーがここを訪れたとも。

 人気の秘密は、やはり長野県でも有数な観光地である諏訪湖の魅力かもしれない。
 なにしろ、諏訪湖周辺は、大人も子供も一緒に楽しめるレジャー施設から、落ち着いた雰囲気を求める人たちに向けた美術館・博物館のようなものも目白押し。
 少し足を伸ばせば甲信地方の山々も近く、雄大な景観を眺めながら、自然の草花を楽しみ、秋は紅葉などを鑑賞することもできる。  
 
 温泉は、この「こころ屋」から、約4.5km離れたところにある「すわっこランド」がお薦め。スポーツジム、飲食コーナー、屋内・屋外プールなどがそろった日帰り温泉施設だが、大人610円・子ども300円でたっぷり遊べるのが魅力。
 そのほかにも、周辺にはさまざまな温泉があり、家族構成や好みに応じていろいろ楽しめそうだ。

 
RVパークこころ屋 インフォメーション

所在地:長野県諏訪市湖南3948-1
電話:0266-57-2656/オーナー携帯:090-3228-5568
URLhttp://www.kocoroya.net/
通常利用料金:1泊 2,000円/1台、※7m以上は1泊2,500円/1台
冬季料金:12月~3月31日まで通常2000円のところ電源込みで1000円
アクセス:中央道諏訪ICから車で約10分。ナビでは「こころ屋」で検索。

パン屋定休日:毎週火日
パン屋営業時間:9:00~18:00
メール:shopmaster@kocoroya.net

トイレ・洗面所の利用時間:24時間利用可能(冬季は8:00~18:00の間のみ)
ゴミ処理対応  可(有料)
・指定ゴミ袋1枚につき500円
・排水は、ダンプ(大型)500円・カセット200円
・給水20Lまで無料
・ドラムコード・延長コードは貸し出し無料
・レベラー(2台分)は貸し出し無料
…………………………………………………………………………

町田のRVパーク探訪記事

「RVパークやまなみの湯」(山梨県)


「RVパーク南きよさと」(山梨県)

「RVパークたまがわ」 (山口県)

「RVパークおおた」 (群馬県)
 
「RVパークやまが」(熊本県)
 
「RVパーク豊平どんぐり村」 (広島県) 
 
「RVパークひなの里かつうら」 (徳島県)
            
「RVパーク毛馬内 七滝温泉」(秋田県)

「RVパークさかた温泉」 (青森県)

「RVパークエビスヤ」 (山形県)

「RVパークアップルランド」 (青森県)
  
「RVパーク犬山ローレライ麦酒館」(愛知県)
 
「RVパークおだぎりガーデン」(栃木県)
 
「RVパークまほろぼ」(宮城県) 

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RVビックフットさんのHPで2014ガイドを紹介

 
 埼玉を中心に拠点を持つキャンピングカーの老舗「アールブイ・ビックフット」さんが、そのホームページの2015年2月4日付けの「ニュース&更新情報」のコーナーで、私が編集をしている『キャンピングカースーパーガイド2014』を取り上げて紹介してくださいました。

 この本では、巻頭に「キャンピングカーの電気革命」という特集を組んだのですが、その中で同社の牧瀬芳一代表にご登場いただき、ACSというオリジナルの電装システムについて語っていただきました。
 その部分が、このほど同社のHPに掲載されました。

http://www.ccs-rv.com/acsoasiskiji.html

 掲載記事を詳細に再現したPDFが張られていますので、ご検分ください。
  
  
関連記事 「RVビックフットさんのHPで2014ガイドを紹介
 
 

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幕張ショー バンテックブースの見所

 
 アジア最大のキャンピングカーショーと謳われる「ジャパン キャンピングカーショー2015」がこの 2月13日(金)から 2月16日(月)にかけて、千葉県の幕張メッセにて 4日間開催される。

 各出展物の情報もこちらに多数入ってきているので、事前に公表できるものはこのブログにても紹介させたいただこうと思う。

 まずはバンテックセールスさんの新車情報から。

▼ 昨年の幕張ショーにおける準備中のバンテックブース

 株式会社バンテックセールス(佐藤徹社長)では、2015年の「ジャパンキャンピングカーショー」には満を持して2台の新型車を投入するという。

 その1台は、今や日本のキャブコンの “代名詞” として定着した感のある同社の看板車種「ZiL (ジル)」である。
 今回フルモデルチェンジしたZiLには、バンテックセールスの開発してきた数々の新技術がいかんなく投入され、昨年までに積み上げてきた他車に対するアドバンテージをさらにクリアな形で指し示すことになりそうだ。

 新型Zilは、現Zilユーザーをもターゲットに捉えるほどの快適な新機能を多用しており、新規採用部品も随所に見られる。
 その一つといえるのが、エマージェンシースイッチ。これはバッテリー上がりのような緊急時に、サブバッテリーよりメインバッテリーに充電して走行を可能にする装備で、この新型ZiLで公表されたあと、順次同社の他のモデルに普及させていくという。

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 もう一台の新車は参考出品ではあるが、日産のNV200をベースにしたボディカットタイプのマルチユースビークル。

 NV200をベースにしたキャンピングカーや車中泊車は、すでに各社からバンコン/キャブコンを問わず、あらゆるスタイルのものが出揃ったといえるが、このたびバンテックセールスが手がけた車両は、それまでのNV200ベースの車とは一線を画する斬新なもの。

 ボディカットタイプとはいえ、これまで見られたような平面構成のパネルバン的形状ではなく、スライドドアとバックドアを装備しているところがミソ。このスライドドアによって狭い駐車場での乗降が楽になるばかりではなく、バックドアを活用すれば商用車として使用することも可能となる。

 ボディー造形にも新鮮な試みがなされている。
 SR(スーパーレインフォース)という新しい構造で仕上げられていることがその特徴の一つ。
 SRとは、FRP製の外板(アウター)と内板(インナー)の間に発泡ウレタンを充填させた高断熱高強度 のボディを意味したもの。
 外板と内板はそれぞれ異なる複雑な形状をしているが、どの部位の断面にもしっかりと発泡ウレタンが行き渡っているところにこの車のきめ細かさが表われている。

 また、窓には、耐衝撃性の高いポリカーボネート製の窓が装着されており、耐衝撃性の向上が図られている。

 ルーフには、「キャッツルーフ」といわれる同社のオリジナルルーフが採用される。このルーフ形状は、両サイドへの雨垂れを軽減し、かつ空力性能の向上が図られており、バックドアへの雨垂れを軽減するバックドアヘッダーの形状にも工夫が凝らされている。

 さらに、「バッフルフェンダー」と呼ばれるリヤフェンダー形状もユニークだ。このフェンダーデザインには、走行中の風による抵抗を最小限に押さえ、かつ斜め後方から見たときの違和感を軽減するという効果が盛られている。

 全長499cm、全幅 193cm、全高242cm。
 最小回転半径5.2m。
 90度旋回できる最小道路幅は3.2m。

 さらに、地上高54cmという低い床が実現されており、そのため大人が直立して車内を歩き回れるくらいの180cmという室内高が実現されている。

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 また、キャンピングカーパーツセンターを抱えるバンテックセールスだけに、今回は新しい用品もお目見えする。

BS/CS110°衛星アンテナ DACP-452
・仰角も含め、自動追尾型フルオートアンテナ。
・現市場に対し、価格面でも大きく優位性がある。

Dometic D-Luxウィンド
・アクリル面がフラットになった洗練されたデザインが特徴。 
・表面がスモーク
・無段階シェード&モスキートネット
・無段階ノッチステー

パノラミックビューシステム(アラウンドビューモニター)
※ ↑ 参考出品 (商品化間近)
・全方向(前後左右)を上部から 映し込むことによって、車庫入れ時や走行時の安全性が確保できる。
・車両周囲の状況をモニタリングできるため、車格の大きなキャンピングカーの扱いが楽になる。

なお、以上のことに関するお問い合わせは下記へ。

(株)バンテックセールス 
所在地:埼玉県所沢市日比田95-1
連絡先:04-2936-6528
  
 
バンテックセールス関連の過去記事
 
コルドリーブス

ジル・ノーブルにかける開発者たちの熱い思い
 
 

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ジョージャクとは情弱と書く

 
 今年の正月が終わるころ、自分よりも、30歳ぐらい若い人たちと飲む機会があった。
 デザイン畑の人やら、音楽家で政治・文化・思想系のポータルサイトなどを運営していたりする人々である。

 いやぁ、みんな物事をよく考えているよ。
 60歳を過ぎると、だいたい同年齢ぐらいの人たちとしか交流がなくなってしまうから、話題も健康問題やら、老後の趣味やら、現状維持的な話になりがち。
 だから、未来に目を向けている若い人たちの話を聞いていると、自分の頭から脳ミソを取り出し、真水でじゃぶじゃぶ洗うような爽快感を得られる。

 一連の会話のなかで、ときどき「ジョージャク」という単語が出てきた。
 “情報弱者” という言葉の短縮形らしい。
 もう4~5年前ぐらいから使われていた言葉らしいのだが、うかつなことに、そういう言葉があることを、こっちは全然知らなかった。

 で、「ジョージャク」の意味をさらに詳しく知りたくなって、家に帰ってネットを開いてみると、情報弱者一般のなかで、特に「I Tを使いこなせない人」を指すということが分かってきた。
 Wikiなどを見ると、
 「I Tに関する知識が十分でないため、放送やインターネットから情報を享受できない人」
 … みたいな説明がなされている。

 で、検索エンジンでさらに言葉の意味を調べてみると、みな一様に、
 「情弱ではこれからの社会を生き抜けない」
 とか、
 「情弱はカモにされるだけ」
 とか、
 「情弱から脱するには …」
 みたいなことばかり書かれている。
 いわば、I Tリテラシーのない人間は、この社会では生きていけない脱落者扱いなんだわ。
 まさに、そういう言葉がネットで飛び交っていることすら知らなかった私が、見事に「情弱」なわけよ。
 でも、情弱を揶揄する人たちのおごり高ぶりを見て、あまり愉快な気はしなかった。

 しかし、私がその晩話した若い人たちが語っていた「ジョージャク」という言葉の響きは少し違って聞こえた。
 彼らは、「I Tリテラシーに乏しい」という意味に限定することなく、広く「マスコミそのものに踊らされている」というニュアンスで使っていた。
 たとえば、いまの流行モノ。
 音楽でもファッションでも、あるいは新商品でも、何かが「流行している」という現象は、すべて企業側が緻密に計算した情報操作に過ぎないという。

 音楽などは、「このアーチストやこのアイドルで一儲けしよう」という企画が立てられたときには、テレビの出演交渉から雑誌取材の段どりから、イベント運営に至るまで、すべて巧妙な仕掛けが施される。

 もちろん、昔から芸能界の運営はみなそのように進められてきたのだけれど、それを仕掛ける代理店の資金力なども昔とは比べものにならないほど膨大になっているから、仕掛け方がハンパない。
 一夜にして、大スターを誕生させるなど朝飯前。
 そして巨額な資金を投入して、一気にマーケットを開拓し、ものすごい早いスピードで資金回収を行う。

 ファッションなんかでも、「この生地が余りそうだから、来年のブームはこれでいこう」ぐらいのノリで、流行色やらデザインが決定される。
 そうやって、ターゲットを定め、一流のコピーライターが憎いキャッチを考え、なうてのカメラマンが旬のモデルを使って、ため息が出るくらいの映像美をひねり出す。

 で、そういう企画自体をワイドショーなどに売り込み、ニュースキャスターが、「いま20代の女性を中心に、こういう現象が起きています」などとニュース仕立てで報道する。
 そこで新しい造語が生まれ、「レキジョ(歴女)」だとか、「リケジョ(理系女)」とかメディアが飛びつきそうなキャッチが作られていく。

 そして、消費動向に詳しいといわれる専門家が、その “トレンド” が生まれた背景を、人々の社会意識の変化やら経済動向などに絡み合わせてもっともらしい解説を施す。 

 昔読んだ何かの記事で、誰かがこんなことを言っていた。

 「(テレビにおいて)民放のお客様は視聴者じゃない。民放の正体は株式会社だから、CMなどにお金を出すスポンサーがほんとうのお客様である。だから、テレビ画面に映っているのは『情報』ではない。情報の姿を借りた『商品』だ」

 そういうメディア操作に簡単に踊らされる消費者が、すなわち本当の意味での「情報弱者」ではないのか?
 私に、そのことを伝えてくれた若い人は、「ジョージャク」という言葉を、そういう文脈で使った。

 消費者が “踊らされる” というのは、何も今の時代に限ったことではないけれど、今はジョージャクの人がどんどん増えているので、業界が仕掛けたときにはその波及効果がすさまじいらしい。
 昔と違って、膨大な資金を投入すれば、それに倍するリターンが約束されているという。ますます資金力があるところだけが、儲かっていく仕組みになっているようだ。

 で、結論なんだけれど、「情報弱者」とは、情報に “うとい” 人のことを言うのではなくて、情報を “うのみ” にする人なんだ、ということ。
 他人の「ジョージャク」を笑っている人がいたとしたら、その人自身が情弱だったという時代が来ているのかもしれない。
 
 

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老人医療の現在

 
 一時は「危篤」と言われた義母だったが、収容された病院の看護が行き届いているせいか、一進一退を続けながら、10日余り戦い続けている。
 予断を許さない状態が続いているとはいえ、ひとまずの小康状態を得たという感じだ。

 介護施設で倒れたとき、もし、そこの専属医の判断をうのみにして受け入れていたら、今頃義母はこの世にいなかったかもしれない。

 介護施設の専属医は、「危篤」の連絡を受けて急いで駆け付けた家内にこう伝えたという。

 「おそらく今晩か明日ぐらいが峠でしょう。急いで病院に連れていってもこのような状態になると、どの病院も手の施しようがありません。
 それに、現在どの病院も臨終まぎわの高齢者を受け入れるような余裕がないのです。瀕死の若い人たちを救い出すだけでも、どの病院も手一杯なのです。
 だから、これから急いで救急車を手配して、いろいろな病院に連絡を取りながら都内を回ったところで、おそらく受け入れてくれるところは皆無でしょう。
 そして、そのような処置をとることは本人にも負担がかかることだし、最期のときは、静かに運命を受け入れるようにさせてあげた方が本人には楽な場合もある。なるべくこの施設内で安らかに見守ってあげてください」

 専属医は、家内をそう諭したという。
 そして、
 「それが、自分が40年医師を続けて理解してきた日本の医療現場の実情です」
 と説明したとも。

 本当だろうか。
 私には、そういう医師の現状認識というものが、にわかに信じられない。
 
 家内は、その医師の言葉から、
 「あなたのお母さんはもう90歳まで生きられたのでしょう? もう十分じゃないですか。それよりも若い人たちの命を救わねばならないのです」
 と言っているように感じたという。

 合理的に考えれば、それは正しいのかもしれない。
 しかし、身内の人間にとっては、そんな「日本の医療現場の実情」など聞いたところで、自分を納得させる余裕なんて持てない。

 家内は、その医師の説得に逆らって、おそるおそる懇願したという。
 「たとえ、1%の確率であって、母がまだ生きられる可能性があるかぎり、救急車を手配して、病院を探すようにしてください」

 すると、その医師はにわかに高圧的な態度になって、
 「それならば、それはあくまでも患者の家族の個人的な要望だということにしてくださいよ。医師としての私の決定ではないので、私の名前は出さないようにしてください」
 と難渋を示したという。

 いったいどういうことなのか?
 常識的に考えて、この医師の言動は解せない。
 まるで、自分に医療ミスでもあって、その発覚を恐れているようではないか。

 実際に収容してくれる救急病院が見つかり、そこでさまざまな検査を行った結果、脳梗塞が再発したという診断が下された。
 その事実を、介護施設の専属医は見逃したか、故意に隠したか。
 なにしろ、「脳波を検査したところでは異常なし」とその医師は判断したのだから。
 介護施設にあるような検査機器で、いったいどれだけの検査ができたというのだろう。

 今になって思うと、もうその段階で検査ミスが生じていたと考えてもおかしくない。
 「救急車を呼ぶのをやめろ」
 と言い放った段階で、その医師は何かを隠蔽しようとしたと疑われてもしょうがないのではないか。

 私は、このことに関して、事の当否を判断する材料を持たない。
 これから、ますます高齢化社会を迎える今の日本においては、臨終間際の老人が息を引き取るまでの間、手厚く看護するような余裕がなくなっていくのは確かなことだろう。
 どこの病院でも、瀕死の老人たちが溢れかえり、それを看取るまでの時間もコストも社会が保障できなくなっていくのは目に見えている。
 
 そういう老人を抱えた家族は、「それがこれからの社会の現状だ」と自分に言い聞かせて、じっと耐えなければならなくなるのだろうか。
 「少しの間でも、親の命をながらえさせてほしい」
 という素朴な希望を持ってはいけないような社会が来ようとしているのだろうか。
 
 もし、家内がその医師の言うことを素直に聞いて、そのまま義母をその介護施設内に放置したら、たぶん医師の言うとおり、その場で亡くなっていただろう。
 
 しかし、母は病院に収容されたために、それから10日以上生きている。
 人の生き死に関する決定的な判断が、たった一人の医師の言葉で左右されてしまうことの怖さを感じざるを得ない。
 この間、本当にいろいろなことを考えさせられた。
 
 

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イスラム国はいつまで続くのか

 
 ここ一週間ほど、テレビを観ていると、日本人の人質問題も絡んでいるため、ニュースは連日「イスラム国」に関連したものが大半を占めていた。


 
 こういう“国家”を名乗る過激派組織というのは、一般人には珍しいのか、ワイドショーでは、「イスラム国とはどんな組織か」、「イスラム教」とはどんな宗教なのかということを解説しているケースが多かった。

 そられの解説では、「イスラム国は、“国”を名乗っても、国際社会では『国家』として認められていないただのテロ組織にすぎない」と説明されていたが、少なくとも彼らが『国家』を名乗った以上、国際社会に向かって、なんらかの自分たちの理念を主張したいという目的があったのだろう。
 その目的とは何か。

 いろいろな表現があるだろうと思うが、一言でいえば、それは「近代」への反逆である。
 この場合の「近代」とは、19世紀から20世紀にかけて、世界中を覆った「欧米的な政治・宗教・経済」の総体をいう。

 我々日本人も、欧米流の近代的な進歩史観になじんでしまっているから、「世界は時代を経るごとに進歩し、生活も快適になる(はずだ)」と、どこかで素朴に信じ込んでいるところがある。
 そう考えると、「イスラム国」や「アルカイダ」のようなイスラム原理主義的な理念は、時代に逆行するような野蛮な考えと断罪しがちであるが、そういう進歩史観のようなものは、彼らのように「時代が進むと堕落してしまう」と信じ込んでしまっている人々に対しては、無力だ。

 なにしろ、彼らは、「預言者ムハンマドの没後3世代(あるいは300年間)に見られた世の状態が理想的であった」とするのだから、その後の世界の歴史は、その “理想” から逸脱していった歴史に過ぎないわけである。

 つまり、彼らにとって「近代」とは、欧米が進める世俗的で堕落した風潮が世界を覆い尽くしていく時代を指し、彼らは、今のこの地球上の国々は(彼らにとっての)“健全な(?)”人間性が損なわれる道を進んでいると思えるのだろう。
 欧米諸国は、そういうイスラム原理主義的体制を「民主的ではない」と非難するが、宗教的指導者による神聖政治を目指すイスラム原理主義からみれば、民主政治なるものこそ “堕落した衆愚政治” なのだから、そういう非難は彼らの嘲笑を買うばかりだ。

 しかし、彼らはそういう「神聖国家」を目指しながら、自分たちに従順に服従しない人々を残虐な目に遭わせ、暴行・殺戮・収奪・レイプなどを好き放題やっているというのはどういうことか、まったく理解に苦しむ。
 少なくともムハンマドは、そういう荒廃した世を正そうとして、イスラムの教えを広めようとしたのではなかったのか。だから、良識あるムスリムたちが、彼らの存在を嘆かわしいと思うのは当たり前かもしれない。

 一つ言えることは、この「イスラム国」の欧米先進国に対する敵意を、単なる「キリスト教 VS イスラム教」という宗教対立として考えるのは間違いだということだ。
 「イスラム国」が抱えている宗教対立とは、むしろ、同じイスラム教内のシーア派に対するスンニ派の敵意と見なしてもいいように感じる。

 彼らが目の敵(かたき)にしているのは、今の地球上を覆い尽くしていく欧米流の “価値観” に対してである。
 特に、「グローバリズム」という名のもとに、アメリカン・ローカル・スタンダードが世界中を侵食していることに対する嫌悪と呪詛が、彼らの意識の根底にある。

 彼らは、そのグローバリズムが世界を覆い尽くすことに武力行使で報いることをはっきりと打ち出したが、奇妙なことは、彼らがまさにグローバリズムから生まれてきたことだ。
 グローバリズムを推進するネット環境をうまく利用し、彼らの “国家宣伝” をYOU TUBEの動画配信などを通じて行い、地域や文化圏の異なる若者たちにジハードに参加するように呼びかけているのだから、まさにグローバル思考になじんだ人間たちでなければできない仕業だ。
 
 ただ、確実にいえることは、「イスラム国」そのものは非常に短命に終わるだろうということだ。
 極端に厳格な政治的・宗教的理念を掲げ、短期間のうちに理想社会をつくろうとした運動はすべて破産している。
 ルネサンス期のサヴォナローラの宗教改革、19世紀の洸秀全による太平天国の乱、近年のカンボジアのポルポト政権などはみなそうだった。

 19世紀に、スーダンの領有権を主張していたイギリスと戦い、スーダンを独立させようとしたマフディーの乱もその一つ。
 マフディーは、スーダンを今日でいうイスラム原理主義を忠実に信奉する神聖国家をつくろうとしたが、そのあまりもの厳格さがゆえに、彼の死後、それに反発した民衆によってマフディー体制は崩壊したといわれている。

 結局、一つの政治理念・宗教理念だけで民衆を支配することなどできないのだ。それは歴史が証明してきたことなのだが、“イスラム神聖郷”を目指す原理主義の指導者たちは、歴史から学ぶことができないのだろう。

 「ユートピア」とは、そもそも「現実には存在しない理想郷」という意味だから、もしそれが実現してしまったら、その段階で現実と乖離した「ディストピア(暗黒郷)」にならざるを得ない。
 彼らのユートピアは、人間の「生命」が指導層の活力を維持するための “エネルギー” として消費されるような、まさにSF映画の『マトリックス』のような様相を呈するだろう。

 
参考記事 「物語 『中東の歴史』 」
 
 

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