「怖い絵」とは何か

 
 近ごろ、“美術の解説本” がやたらと刊行されているような気がする。
 その大半は、「名画の見方」のようなものだ。
 ゴッホ、マネ、モネ、ルノワール、フェルメール、ダ・ヴィンチ、ラファエロ ……。
 そういう有名な画家の人気作品の観賞の仕方を手ほどきするような本が多い。
 
 といっても、難しい芸術論が語られているわけではなく、たいてい “謎解き” の要素を採り入れた読み物が主流となっている。
 装丁や判のサイズなども女性読者を意識したものが多く、昔の美術解説書のような “硬い” イメージはない。

 アートを題材にした、お洒落で、知的なエンターティメント。
 昨今の「絵画の手引き書」は、そんな傾向を強めている。
 
 このような美術解説本ブームのきっかけとなったのは、中野京子さんが2007年に出した『怖い絵』からではないかという気がする。
 この本は大いに当たって、発売後まもなくベストセラーになり、その後、『怖い絵2』、『怖い絵3』という続編が次々と誕生することになった。

 この『怖い絵』シリーズは、難解な美術解説書が多いなかで、美術に関心がない人でも面白く読めるし、一章読むと、その絵に対するウンチクが語れるほどに、まとまった知識が得られる。
 
 そういった意味で、この著者の関心領域の広さには、いつも感心する。
 本職の美術史、図像学に限らず、広く歴史一般に対する関心の持ち方に対しては頭が下がる。
 さらに、著者は、科学史、技術史、服飾史にも精通。
 そのような多岐に渡る情報を、誰が読んでも楽しめる「知的なエンターティメント」に仕立ててしまうこの作家の力量はたいしたものだと思う。
 
 この中野京子さんの本以来、美術の語り口が変わったように感じられる。
 絵画を知らない素人でも分かるように、小難しい美術論を最小限に抑えた平易な文章になってきている。
 それは、ある意味でいいことだと思う。
 
 しかし、正直にいうと、中野さんの本は、どこか自分には物足りないのだ。
 その理由は何なのか。

 実は、こんなことがあった。
 
 本屋を回っているうちに、角川文庫から発行された中野京子さんの『怖い絵 泣く女編』という本を見た。
 『怖い絵』シリーズは1作目から欠かさず読んでいるので、これも条件反射的に買ったのである。
 
 ところが、随所に、以前見たような “絵” が掲載されているのに気がついた。
 
 「あれ、同じ本を買っちゃったのかな?」
 自分にはよくあることなので、一瞬そう思った。
 しかし、読み進めていくと、文章の方ははじめて読むもののように思える。
 
 「きっと同じ “絵” を、前とは異なる切り口で解説した本なのだろう」
 と思って読んでいたが、そろそろ終わる頃になって、やっと文章も前に読んだことがある … という確信を深めた。
 
 本棚を丹念に調べてみたら、やっぱり、同じ本を2冊買っていたのだ。
 この角川文庫本の『怖い絵 泣く女編』(↓)は、実は、以前刊行された単行本の『怖い絵2』を文庫化したものであり、表紙のデザインが変わったため、同じ本だと気づかなかったのだ。


 
 ちょっとショックだった。
 同じ本を、終わり近くまで読んでもまったくそれに気づかなったということは、前に読んだ文章が頭の中に残っていなかったということである。
 
 著者に対しては、はなはだ失礼なことかもしれないが、けっきょく書かれていたものが印象に残っていなかったのだ。

 それは、どうしてなのかなぁ … と、少し考えた。
 
 結局、“解りやすさ” を狙った本の限界だと思った。
 美術を解説する “語り口” を、平易でなじみやすいものにするということは、その絵画を、「言葉で分かるレベル」にまで引き下げてしまうということに他ならない。
 結局、そこが “物足りなかったんだなぁ … ” と思うのだ。
 
 絵画というのは、言葉では説明のつかない部分を最後まで持ってしまう。
 言葉で解説できてしまう絵画なら、それは絵画である必要はないのだ。
 
 ところが、中野京子さんの博識は、その言葉で解説できない部分にも、解剖学者がメスをふるうように掘り下げていき、その闇の奥に眠っている “内蔵” の部分までをも白日のもとにさらしてしまう。
 
 しかし、本当の意味での「怖さ」というものは、言葉では説明のつかない闇の中に埋もれているはずだ。
 なのに、この本は、それを “言葉” で説明しようとする。

 「言葉で説明する」
 ということは、人間に思考力を取り戻させて、冷静さを回復させることにつながる。
 だから早い話、恐くなるのだ。
 本としては正解なのかもしれないが、そこで本当の「怖さ」は後退する。
 
 でも、ひょっとしたら、それこそ今の時代のニーズに応えるものかもしれないとも思った。
 
 現代社会は、「恐怖」より「不安」の方が勝っている社会である。

 「恐怖」と「不安」は、一見、似ている。
 どちらも、人間にネガティブな感情を植え付けるものだが、恐怖は「不条理」に属し、「不安」はロジックに属する。

 つまり、「不安」は、不安の原因を探るための思考回路を残している。
 しかし、「恐怖」は問答無用 ! とばかりに、人の思考を破壊する。

 エンターティメントにたとえて言えば、次のようになる。
 不安 → ミステリー/サスペンス
 恐怖 → ホラー

 TVドラマや小説においては、圧倒的に「ミステリー/サスペンス」の方が、「ホラー」よりも多い。
 やはり人は、「不安」を解消する糸口が見えたときの「安心感」が欲しいのだ。
 
 『怖い絵』シリーズは、まさにそのようなニーズに応えている本である。
 ホラーではなく、ミステリーなのだ。
 そこには、本当の怖さはないが、「怖さ」をゲームのように楽しむための洗練されたロジックは保証されている。

 そうは分かっているのだが、やはり物足りない。
 
 
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「怖い絵」とは何か への6件のコメント

  1. Get より:

    今日は
    大分方向違いのコメントで恐縮ですが、
    ”怖い音” 
    怖い声に分類するのも失礼とは思いますが、
    コメント欄を読んで笑ってしまいました。
    昼間は良いとして、確かに夜、一人の時に聞きたくないです。
    これです。

    https://www.youtube.com/watch?v=3S-5u41ew5k

    • 町田 より:

      >Get さん、ようこそ
      いやぁ、確かに怖かったぁ !
      ご紹介いただいたYOU TUBEの動画。
      ちょっと『リング』の貞子がしゃべっているような感じですね。
      これ、バックに流れる音楽の異様さも影響しているんじゃないでしょうかね。
      一度聞くと、ずっと心の隅に残りそうです。
       

  2. 北鎌倉 より:

    感性って、心のなかの良い部分を代表といった扱いになっています。また感性は理屈じゃない、理屈じゃないからせ説明することができない。証明する必要がない、感性のきらめきっていえば、内容についてはそれ以上考えなくていい。
    感性の正体がわからなくても、絵を見たり、音楽を聴いたり、旅行したりすることで、それは磨けることになっている。
    感性の裏返しが、心の闇ということになっています。実質的に悪い部分の代表です。やはり理屈じゃないってことがポイントで、つまり、得体の知れない悪いものはみんな心の闇のせいってことになる。
    心のどこかに闇があるという発想は正しいのか。それを云うなら、心はその全体が闇なんじゃないか。感性豊か=心の闇が豊かってことじゃないか。
    感性と心の闇はひとつのもの。誰も直感ではわかっていて、でも時々の都合によって便利に使い分けてしまう。たぶん、人間というよくわからない塊について考えつづけるのをやめて、早く楽になりたいから。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      「感性」と「闇」の対置関係で人間の心を説明していく発想は面白いですね。
      一般の人は、それを二項対立のように考えて、便利に使い分けていますが、本当はその両者は同一のものであり、感性が豊かであるということは、同時に闇の部分も深いということであるいうご指摘、納得です。

      仮に「闇」の部分を、精神分析学的に、「深層意識」ないしは「無意識」としておきましょうか。
      「意識」を規定するのは、心の底に隠された「無意識」の部分ですから、「無意識」がエネルギーを持っていれば、それに照射された意識部分もエネルギーを帯びてくるということになりますね。
       

  3. 北鎌倉 より:

    フロイトの「精神分析学」は、人間(患者)の心を科学的・客観的に分析する学問と言われてていますが、フロイトの原語の本には「ゼーレ」(たましい)という言葉を使っているのですが、英語に翻訳されるときには、抜かされているんです。アメリカは科学的に考ええる傾向があります。
    フロイトにとって精神分析は、患者の精神異常を客観的に対象化して、分析してしまうものではなくて、同時に自分の心の深層を探るものでもあったんです。
    フロイトは精神分析の学を作り上げながら、同時に、心とはそれだけでは簡単にかたずけられない、もっと奥の領域があることをわかっていたのかもしれません。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      おっしゃるとおりだと思います。
      アメリカ心理学は「科学」かもしれないけれど、フロイトの「精神分析」は「思想」ですよね。だからこそ、フロイトの著述は、文学、哲学、芸術などあらゆる20世紀文化に影響を与えました。
      それに対し、アメリカ心理学は、うつ病を “風邪” のように薬で治す治療法にたどり着き、結果的に巨大グローバル製薬会社を儲けさせる方向に進みました。
      フロイトの「ゼーレ(魂)」を英語に翻訳するときに抜かしてしまうのは、ゼーレなどというものは、ケミカル(薬剤的)に処理できないからでしょう。
       

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