オウム真理教事件から20年

 
 今から20年前、すなわち1995年 3月20日は、オウム真理教による地下鉄サリン事件が起こった日である。

 その20年目という区切りにちなんで、メディアでオウムの犯罪を振り返る特集が組まれているのをいくつか見た。
 「あの時代に、なぜあのような事が起きたのか」
 事件を回顧する識者は、そう問題提起し、
 「真相が解明されない以上、あのような惨劇は再び起こりうる」
 と警鐘を鳴らす。

 事件そのものを知らない10代~20代の若者が増え、オウムが解散した後においても、同組織の流れを受け継ぐ団体の勧誘を受けて、無防備に参入する人たちが後を絶たないとも。

元オウム信者の精神風景

 オウムが若者たちを惹きつけた理由は何だったのか。
 小説家の村上春樹は、オウムの元信者たちにインタビューした『約束された場所で』(1998年刊)という書物で、オウムに関わった人々の精神風景を浮かび上がらせようとした。


 
 その本の中で、オウムに入信した人々の求めたものがどのようなものであったかを、端的に伝えた一つのインタビューがある。

 「狩野浩之」という名前で登場する元オウム信者の話だ。
 1965年生まれの男性で、村上春樹が彼を取材したときは30代半ばという年齢であった。

 この狩野氏は、とにかく幼い頃から頭脳が鋭敏に回り、大人たちと議論しても負けたことがなかったそうだ。
 しかし、読書は苦手だったという。
 村上春樹が、「あなたは小説って読めないでしょ?」と聞くと、
 「読めないです。3ページくらいで忍耐力の限界がきちゃいます」
 と答えている。
 
 狩野氏は、こう言う。
 「(自分は)本を読むのがものすごく苦手だったんです。読んでいると、いろんなアラが見えてくる。特に哲学の本などは、偉い先生が『自分はこれだけ知性が高い』ということを示すためだけに書かれているような気がしたのです」

 狩野氏はこのように、既成の人文系書籍はアラばかり見えて読むのに耐えないと語るが、スピリチュアルな書籍にだけは関心を示したらしい。

 そういうスピリチュアル系の心霊学者で、スウェデンボルグという研究者がいる。
 その人のことを、狩野氏は次のように評価する。

 「スウェデンボルグは50歳を境に急に霊能者になって、死後の世界に対してものすごい量の記述を残した人ですが、その論理の鋭さには感心しました」

 狩野氏は、テーマが心霊研究のような実証的な科学とは相いれないものであっても、それを叙述する “理屈” に整合性があれば、それは信頼するに足るというのだ。
 
 そのように、スピリチュアルな世界にのめり込んでいった狩野氏が、最後にたどりついたのが、オウム真理教を創設した麻原彰晃の言葉だった。

 このとき、狩野氏は次のようなことを考えていたという。
 「形あるものはいつか壊れる。人間も同じ。必ず最後に死が来る。すべてのものが真っ直ぐに破滅に向かっている。
 言い換えれば、破滅こそが宇宙の法則。オウム真理教で説かれる仏教の根本的な無常観というのは、私が考えていた宇宙の破滅の法則と同じようなものだった。
 しかし、他の仏教の本は、内容が直接的ではなかった。自分が知りたい部分までうまく検索してたどり着けないという感じだった」

 その点、オウムの説く “仏教” は、クリアな言葉で、ストレートに破滅に向かう宇宙の法則を説き明かしたというのである。

 さすがの村上春樹も、たまりかねて、次のような発言をしている。
 「(他の仏教書や哲学書があいまいな部分を持っているとしても)、世の中の人々が送っている人生の大部分は、測定できない雑多なもので成り立っているんですよ。それを根こそぎ測定可能なものに変えていくというのは、おかしいのではないですか?」

 しかし、インタビューを受けた狩野氏は、その村上春樹の言葉をさえぎって、こう言う。

 「オウムには、どんな疑問に対してもすべて答が用意されていた。(人間が生きていくうえで抱えるあいまいなものに対して)、すべて明瞭な答が返ってくる。
 だから私は、(今は)仏教を数値で説明する方法を考えている」

 チベット密教やヒンズー教、さらにはキリスト教的な要素が錯綜しているオウムの教義が、はたして「仏教」と言い切れるかどうかは疑問だが、少なくともその信者たちには、その異端性がゆえに、まったく新しい境涯に自分を誘導してくれるものとして映ったのだろう。
 村上春樹のインタビューに答えて、狩野氏が「仏教を数値で説明する」と言ったのも、「既成の仏教はそれをしてこなかったから」という思い込みがあってのことでである。

 オウムの教えを外から眺める私たちは、ともすれば、信者たちが怪しげな神秘体験に感応したと考えがちだが、この狩野氏がいうように、彼らは、自らが経験した神秘体験には合理的な根拠があると信じていた節がある。

 実際には、それらの神秘体験は、薬物を使ったり、巧妙な洗脳技術による生理的な脳内変化に過ぎないのだが、オウムの教義にはそれを論理化する罠が仕掛けられていたといえるだろう。
 
 
人間の心は「数値」で解明できるのか?

 とにかく、狩野氏が言い切った「仏教を数値で説明する」という発言に、オウムに何かを求めた若者たちの一つの具体像を読み取ることができる。

 「仏教を数値で説明する」というのは、すなわち理詰めでものを考えるということだ。
 それは、科学的合理性を追求する手法として広く認められているものだが、そこに落とし穴がある。
 人間の心の問題は数値化できないからだ。
 喜怒哀楽の感情が起こったときに、人間の脳のどの部位が刺激されているかということは解ったとしても、喜怒哀楽というのは複合的なものだから、哀しみのなかに解放感があったり、歓喜の頂点で虚脱感が訪れたりする不思議さを説き明かせない。

 なぜなら、コンピューターと違って、人間の脳は一つの行動をしながらも、それとは関係ないさまざまな情報処理を同時並行的にこなす能力を持っており、単一な思考として取り出すことは不可能だからだ。
 「心」とは、この複合的な脳の情報処理を総体的に表現したもので、そのほとんどは無意識の領域に属する。(人間は、このような高度な情報処理能力を手に入れるのに、340万年かけている)。

 しかし、狩野氏は、そのような人間の “心” の成立過程を無視して、「心」は数値化できるし、「宗教」もまた数値に置き換えることが可能だと言い切る。

 このようなオウム側にいた人々を何人か観察した後に、村上春樹は、巻末に収録された精神科医の河合隼雄との対談で、こう語っている。

 「(オウムの信者たちと話していると)、宗教的な話になったときに、彼らの言葉に広がりというものがないことに気づいた。それはなぜなのだろうと、ずっと考えてきた。
 つまり、オウムの人たちは、口では『別の世界』を希求しているにもかかわらず、彼らの考える世界というのは、奇妙に単一で平板である。あるところから広がりが止まってしまっているように思えた」

 その例として、村上は、当時オウムの広報担当員として麻原彰晃に代わって、マスコミとの質疑応答をこなした上祐史浩に対する印象を、こう述べる。

 「(上祐という人は)非常に巧妙なレトリックを駆使して論陣を張る。しかし、彼が言っているのは、ひとつの限定された言語空間の中だけで通用する理屈でしかない。その先にまでには、まったく広がらない。
 だから、当然ながら人の心には届かない。… でも、(彼の議論の)相手は彼を言い負かすことができない。(彼の議論には)深みがなく、なんか変だと思っても、有効に反論できない。
 そのことをオウムの人たちに聞くと、それは上祐さんみたいに頭の良い人はいないからだ、とみんな言う」

 このエピソードにおいても、オウムにいた人々は、世の声には耳を閉ざしながら、教団内で信頼できると思った人のレトリックだけを頼りに世界を眺めていた様子が伝わってくる。

 村上春樹のこの観察を受けて、河合隼雄は答える。

 「(オウムに関わった人々も)、やはり最初は『世の中がなんか変だ』と疑問を持ってオウムに入ったわけですが、その『何か変だ』という疑問も、教団の中に入ると、『それはカルマ(業)だ』ということで、きれいに説明がついてしまう。一言ですべて説明がつく論理などというものは、絶対にダメなんです」

 河合隼雄は、そこで文学やアートの力というものに言及する。
 要は、文学やアートというものは、「この世が一言で説明できないもので成り立っている」ことと教えてくれるものだという。

 特に小説ともなれば、その人の教育レベル、生活環境、交友関係などといった後天的な体験の積み重ねによって、哲学のようにも読めるし、社会学のようにも読めるし、恋愛論のようにも読める。
 そのように、読者が求めるものによって内容が変化することを、もし「あいまいだ」というのならば、人間そのものが、本来あいまいな存在なのだ。

 そもそも、文学やアートに「あいまいなもの」を感じるということは、送り手の論理が錯綜しているから “あいまい” なのではない。
 受け手の頭脳が “思考中” だから、あいまいに思えるのである。
 しかし、その脳活動に費やしたエネルギーが、その人の思考力を鍛え、自分にとっての「真実」を見つけ出す力をつちかう。

 だから、そのようなプロセスを経ずして、いきなり回答が与えられたならば、その段階で、思考する人間の脳活動は停止する。
 オウムの人たちが、「解った !」と思わず膝を打つようなクリーンな回答というのは、彼らの脳活動の停止によってもたらされたものに過ぎない。

 そういった意味で、オウム側にいた人々のインタビュー集が、「本を読むのが苦手だった」と告白する人(狩野氏の例)から始まるのは象徴的だ。
 理解力は備わっていても、読書によって鍛えられたことのない脳は、シンプルで力強い論理に簡単に染色されてしまう。
 狩野氏の例は、まさにそのことを語っている。
 おそらく村上春樹も、そのことを意識してこの人の話を冒頭に持ってきたに違いない。
 
  
資本主義は、人間の「煩悩」を解放した

 村上春樹との対談のなかで、河合隼雄は次のようなことを述べる。
 すなわち、「近代社会は仏教でいう『煩悩(ぼんのう)』を解放することで進んできた」というのだ。

 多くの仏教でいわれる「煩悩」とは、物欲だとか色欲だとか、現世的功名心などの欲望一般を指し、それがゆえに人間は真の幸福から遠ざけられていると説く。
 しかし、資本主義マーケットは、その人間の「煩悩」に見せかけの輝きを与え、消費者にそれを追い求めるように仕向けることによって、拡大を図ってきた。
 
 そのため、近代資本主義は、商品の大量販売をもくろむあまり、広告展開やらメディア戦略を通じて、消費者の価値観の単一化を進めてきた。

 もちろん、そのような社会に欺瞞を感じる人間も出てくる。
 その一部の人たちが、「煩悩」からの解脱を求めてオウムに吸い寄せられ、さらには煩悩の元となる個人の私有物をまったく持たない出家生活に飛び込んでいった。

 だが、そういうオウム信者たちがすでに、資本主義マーケットの展開によって “刷り込み” された「単一型思考」に馴染んでいる。
 つまり、オウム的な思考というのは、逆にいえば、現代の資本主義社会を支えている価値観をとことんまで推し進めたものではなかったか、と推論することもできる。

 もちろん、オウム思想の向かう先は、現代社会の価値観の転覆にあった。
 しかし、その思想を語るときの筋道は、ベクトルこそ真逆を向きながら、資本主義マーケットを成立させた現代的価値観の追求と同じ軌跡を描いていた。

 マーケット形成のために、消費者の心を巧妙にくすぐる商品開発と、その感性をわしづかみする美辞麗句に満ちた資本主義的なキャッチ。
 それは、消費者の判断力が働かないうちに商品にシンパシーを抱かせる一種のマインドコントロールである。
 オウムの教義は、このような資本主義マーケットを成立させたマインドコントロールの手法を、疑似宗教的な装いでくるんで徹底したものに過ぎない。

 だから、こうも言えるだろう。
 オウムの教義は、現代社会の価値観をもっとも自分の心に取り込んだ人々の心を射止めたのだと。

 オウム入信者がたくさん生まれた1980年代というのは、日本の消費社会が爛熟期を迎えた時代だった。
 その時代に青春を過ごした若者たちは、洗練された商品広告に浸りきることで、時代の先端をゆく快感も知っただろう。

 しかし、その快感は、90年代に入って、やがてヒタヒタと足音を忍ばせて近づいてくるバブル崩壊の予感にとって代わる。

 バブル崩壊期に、若者たちの心に忍び込んできた「豊かな社会が終わろうとしている」という終末的な気分は、今の時代と比べ物にならないくらい強かったに違いない。
 事実、「世界の終わり」を予言した『ノストラダムスの大予言』という本は、1998年の発行部数において、空前絶後の209万部を誇った。
 
 
「世界の終わり」とは、ゲームでいうリセット

 その本では、1999年の7月に空から「恐怖の大魔王」が降ってきて、世界は滅亡すると説かれており、マジに信じ込んでいた小学生が多かったとも伝えられている。
 高校生ぐらいの女子の間でも、「世界が滅亡する前に、処女のまま死ぬんじゃなくて、セックスだけは経験しときたいよね」などという会話が真面目に交わされていたという話も聞く。

 440年も前の預言者の言葉を、現代社会に当てはめること自体に飛躍があるが、メディアがシャワーのように垂れ流す「単一思考」に慣れた人たちにとっては、それは「飛躍」ではなくて、きわめて自然な現状認識であったのかもしれない。

 実際に、オウム入信者は、このノストラダムスの予言と照合する形で、麻原彰晃の唱える「ハルマゲドン(最終戦争)」説に素直に感応している。
 それは、ゲームでいう “リセット” の感覚だったのだろう。

 もし、オウム信者の精神を「異常」だというのなら、それは我々の住む社会の価値観そのものが異常なのかもしれない。

 考えるべきことは、資本主義の成長にとって、「異常」はけっしてマイナスではないということなのだ。
 「異常」であることは、「正常な価値観」からの異質性を強調し、消費者の注目を集めるために必要不可欠の要素になるからだ。

 資本主義マーケットにおいては、すべての新商品は、“異常なもの” として注目されることによって、人々にはじめて認知される。
 我々が、その思考に慣れている限り、いつでもすぐそばに “オウムの誘惑” が待っている。
  
  
関連記事 「オウムのチープな教義を笑えるか?」
  
参考記事 「5のつく年は、何かが起こる」 
  
 

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オウム真理教事件から20年 への4件のコメント

  1. ようこ より:

    町田さん こんにちは

    麻原のような人物のところに 何故あれほど多くの若者が
    入信したという事が どうしても解せなくて
    背後に大きな情報操作機関の働きがあったのではないかと
    考えたりしました。

    町田さんの
    >終末的な気分は、今の時代と比べ物にならないくらい強かったに違いない
    に、本当に同調できます。
    あの年代の若者は人生40年説を信じていました。

    元少年Aがブログを新設されたというニュースがあって
    『存在の耐えられない透明さ』に行ってきました。
    レビューを読みましたが 私の感想をここでのべるのは
    ひかえます。

    その流れでyoutubaにアップされている 昔パリで殺人事件を
    起こした佐川の動画も見ました。

    事件がおきていつも感じるのは 犯罪の加害者もまた
    被害者であるということ、被害者とその家族は
    もっともつらい経験をするのですが
    加害者の家族のおかれた立場に、自分を置き替えて考えると
    とても苦しくなります。

    中にはこの親であれば この子がそうなるのも
    当然と思える場合もありますが、では何故 そういう親で
    あったのかと考えると答えが見いだせなくなります。

    • 町田 より:

      >ようこさん、ようこそ
      元少年Aが開設したブログのことは、ようこさんのこのメールではじめて知りました。

      新しいブログだというのに、もう本人のサイト以外のところで、いろいろな人々の感想などが入り乱れているんですね。びっくりです。
      内容は、まだほとんど読んでいませんが、イラストだけは見ました。
      なんというか、不気味な絵で、あまり長く見続けていることができません。
      しかし、インパクトはありました。…… 少年Aのイラストだという先入観がそうさせるのかもしれませんが、この人の内面には、確かに他の人間が踏み込めないほどの “闇” がありそうですね。
      常人には計り知れないほどの過剰な表現欲というか、アーチストなどという人々の表現欲とはまったく異なる、さらに過剰な表現欲というのか、それがどこから湧いてくるのか、僕らには謎のような気もします。

      ようこさんが指摘されたように、犯罪の加害者を抱えた家族というのは、どうしようもない焦燥を持つでしょうね。
      自分は何も悪いことをしていないのに、家族が起こした犯罪の罪も一緒に背負わなければならない。
      それこそ、究極の不条理だという気もします。
      うまく表現できませんが、キリスト教でいう原罪のようなものなのか。
      人間が抱える悩みの究極の形という気もします。

      ようこさんが、おっしゃるように、>>「答の見いだせない」問の一つなのかもしれませんね。
       

  2. ようこ より:

    おはよう 町田さん

    元少年Aの絵を見られたのですね、 私も同じで あの執拗な奇異さから
    生理的嫌悪感をもって 見続ける事ができませんでした
    異常に近づく、形状や色彩というものがあるのでしょうか?

    自分がどれほど正常であるかわからないけれど
    やはり脳の欠陥あるいは異質なものを感じる絵です
    でも文章(レビュー)は、 本が出るのも当然という気がしました。
    読むと 町田さんが感じられた過剰な表現欲の根が解けるかもしれません。

    彼が犯罪を犯していなかったら 埋もれてしまった才能かも知れませんが
    犯罪を犯していず 出版するチャンスがあたえられていたとしたら
    それなりの評価を得たのではと思えます。
    レビューからは絵の奇異さは感じられず、まったく別人のようです。

    頭デッカチで 肉体的な労働をしなくなってる若者が少なくない
    それが歪な脳を作りあげているのかも知れないし
    電気電波電動など、物質によって人間の脳は変容しているのか
    そうだとしたら そのうち私達には理解できないような人が~ 汗)

    • 町田 より:

      >ようこさん、ようこそ
      実は、元少年Aのブログというのは、その後もまだ完全に読み切っていないのです。
      だから、ようこさんの感想について適切な返信もできないのですが、彼のブログ全体の印象を端的に述べれば、やはり特異な感受性を持っている人であることは確かです。
      特にイラストのたぐいには、常人に及びもつかない “ものの感じ方” が色濃く漂っていますね。
      それを「才能」というには、ちょっと躊躇(ちゅうちょ)するものがあります。

      レビューなどの文章に関しては、それなりの評価ができるということなんですね。
      まだ読みこなしていないので、そこは判断留保させてください(笑)。

      ただ、『絶歌』という彼の本が発売された当初、いろいろなメディアで、その本の部分的な引用がなされましたが、それを見たり聞いたりしたかぎりにおいては、小説家志望の青年が、自己表現の衝動に突き動かされたまま、思い入れたっぷりに描いた “習作” の域を出ていないと感じました。
       
      言葉は悪いのですが、人の評価を待つ前に、作者が「自分の言葉に酔っているのではないか?」という印象を多少受けたのです。
      ただ、それも全文を読んでいないかぎり、決めつけはできませんけどね。  

      本が出た直後、テレビに出ていたあるコメンテーターが、「この本を書くことで、作者はさらに自分の本心を人に隠してしまったのではないか」と語った言葉が印象的でした。
      そうだとしたら、作者が自分で描いた “少年A像” というのは、あくまでも「人に見てもらいたい自分」でしかなく、隠しておきたい自分を他人の目からそらす気持ちがあったのかもしれないとも感じます。

      彼の本やブログに関しては、ようこさんと同じように、私もどう感想を述べればいいのかためらう気分があります。
      いろいろネガティブな評価が主流を占めるのでしょうけれど、ただ、一人の人間の内面を知るという意味で、決しておろそかにできない本やブログなのではないかという気もします。
       

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