最後のエッセイ

 
 池田晶子(いけだ・あきこ)という文筆家の書くエッセイが好きだった。
 彼女は、誰もが使う平易な言葉で、誰も思いつかないような独特な世界観を提示する人だった。

 「哲学者」
 という肩書を持つ人だったが、本人はそういう構えた呼称を嫌い、「文筆業」と名乗ることが多かった。

 2006年当時、私はこの人の連載するエッセイを読むために、『週刊新潮』と『サンデー毎日』を毎週買った。
 『週刊新潮』に連載されたエッセイのタイトルは、「人間自身」。
 そこで彼女は人の意表を衝くような、時として、人の気持ちを逆なでするような意見をからりと言ってのけた。
 文章は平易だが、常識にとらわれ過ぎた “善意の人々” を挑発するような意地の悪さも潜んでいて、その毒気に当てられて気が滅入った読者も多かったに違いない。

 でも、私にはその「毒」がとても爽やかに感じられた。
 できれば、その「毒」のシャワーを全身に浴びて、自分の浅薄な脳にこびりついた垢をきれいさっぱり洗い流したいと思っていた。

 ときに、こんな文章がある。

 「多くの大人は、子供より先に生きているから、自分の方が人生を知っていると思っている。しかしこれはウソである。彼らが知っているのは『生活』であって、『人生』ではない。大人は子供に生活を教えることが、人生を教えることだと勘違いしている」
 (週刊新潮 2006 10/26号 「人間自身 172回」)

 あるときは、こんなことを言う。

 「私は『男女平等問題』というものに関心がない。だから私はフェミニズムの陣営からは『女の敵』と見なされているらしい。
 私は、男女の区別は人間にとって本質的な問題ではないと思っている。確かに差別や区別は明らかに存在する。しかし人間にとって大事な生きる死ぬに関しては、男も女も必ず死ぬという意味で、平等である。
 私は、女の口から『男の論理』 『女の論理』というのが出てくると、あ、馬鹿だな、と感じる。そういう考え方は、この世に『男一般』 『女一般』が存在すると錯覚するところから出てくる。現実には、考え方がそれぞれ異なる個々別々な男と女がいるだけである」
 (週刊新潮 2006 10/5号 「人間自身 169回)

 さらには、次のような記事も。

 「いじめで自殺する子があとを絶たない。追いつめられた子供は、死をもって抗議するしかなくなる。
 死をもって抗議するということは、その良し悪しは別に、人間にだけ可能な行為である。誇りのために死ぬ。正義のために死ぬ。人間には命よりも大事なものがあると思うから、この行為は成立する。受ける側も、その意味を理解する。『命を賭けた行為だな』と。
 しかし戦後教育は、命よりも大事なものはないと教えてきた。つまり、どのようであれ、生き延びればよいのだと。
 人間には命よりも大事なものがあるということを理解しない社会が、抗議の自殺をも黙殺する」
 (週刊新潮 2006 11/23号 「人間自身 176回)

 「人の命は地球より重い」と教えてきた戦後教育の推進者たちは、上記のような意見を読むと、眼を剥いて怒り出すだろう。
 しかし、「人間には命よりも大事なものがある」という一言は、人間に思考をうながす。
 そこには、「人間」を規定するのは、物理的な肉体なのか、それとも精神なのかという根源的な問が提示されているからだ。

 私は、自殺そのものには否定的だが、そのような問の重さは分かる。
 「命を尊重する」ということを是とする人たちも、もう一度この根源的な問いに向き合うことによって、自分の言葉を鍛え直さないといけないように思う。

 そのような、辛辣な逆説を胸のすくような語り口に乗せて書かれる彼女のエッセイが、ある日、突然トーンを変えたことがあった。

 「季節は、春夏秋冬を繰り返しめぐるものだが、それでもそこに始まりと終わりとがある。
 人は、春は始まり、秋が終わりと感じる。冬が終わりなのではなく、むしろそれは始まりを胎(はら)んで静止する時間のようで、秋の方にこそ人は、終わりへ向かうという感じを持つ。
 日が暮れるのが確実に早くなり、3時を過ぎるともう日差しの気配が変わっている。傾いてきた日がつくる物の陰が、淡く、長くなり、急がなくちゃとせかされる気持ちになってくる。
 秋はそれ自体が暮れる季節だから、その夕暮れの寂しさは一段と迫るものがある。もみじが散ってから冬至の日までの夕暮れ時の寂しさは、文字どおり人生の終わりみたいだ。
 独り暮らしの年老いた未亡人が、夕暮れが辛いとこぼしていた。
 『見渡せば 花もモミジもなかりけり 裏のとま屋の秋の夕暮れ』
 (藤原定家)
 『終わりに向かう』とは、死へ向かうということに他ならない。
 『寂しい』とは、『生命力が衰えゆく感じ』を指している。
 元気に伸びゆく植物を見ると、我々の心は元気になり、枯れ衰えてゆく植物を見ると、我々の心は沈んでいく。
 なぜそうなのかというと、人間は同じ生命として、自らを植物のように感じるからだ。人間の感覚として最もプリミティブな層にある生命としての原感覚がそう仕向ける。
 季節が心そのものなのは、我々が自分でそう思っている以上に、自然的生命として存在しているからだ」 
 (サンデー毎日 2006 12/10号 「暮らしの哲学 33回」)

 この文章を読んだとき、いったい彼女はどうしたのだろうか? と私は思った。
 このような文芸調の詠嘆は、彼女がもっとも気恥ずかしいものだと回避していたものではなかったのか?

 ただ、美しい文章だと思った。
 「秋」という季節を表現するのに、これほど切ない文章はほかにないような気もした。文章の底に、どうしようもない深い哀しみが横たわっていて、読んでいるのが辛かった。

 『サンデー毎日』の連載エッセイは、確かにそれを最後に休止となったように記憶する。
 何度か「休止」の知らせが目次に載ったあと、「エッセイは終了した」という知らせが掲載された。

 池田晶子が腎臓ガンにより、46歳という短い生命を閉じたのは、最後の連載が掲載されてから2ヶ月半ほど経ってからである。
 彼女の描いた “秋にまつわる随想” は、病床から眺めた心の風景であったのかもしれない。

 池田晶子 2007年 2月23日永眠。
  
  

関連記事 「 『不思議』の発見者 池田晶子」

参考記事 「進化論は正しいか」

参考記事 「年を取るほど時間が早く過ぎていくのは何故 ?」
 
 

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最後のエッセイ への6件のコメント

  1. 古事記で、日本の国造りの神様とされている
    イザナギノミコト(男神)とイザナミノミコト(女神)ですが、
    イザナミノミコトが出産で命を落として黄泉の国に行った時、
    イザナギノミコトがイザナミノミコトを追って黄泉の国に行くのですが、
    (たぶん、子供たくさん抱えて途方にくれて母ちゃんが恋しくなったから)
    イザナミノミコトは「ちょっと時間をください。私を見てはいけません」と言ったのに、
    イザナギノミコトがどうしても妻が恋しくて見てしまうと、
    イザナミノミコトはもう腐ってうじまみれだったので、
    びっくりして逃げてきて、黄泉の国の入り口に大岩を置いて
    イザナミも怒って大喧嘩して離婚したそうです。
    イザナミノミコトは、よみがえり(黄泉帰り)の国で、
    次の生命に生まれ変わる準備をしている冬の季節だったのに、
    男というものが、春や夏の姿の女には惹かれて
    冬の姿の女は愛さないものであると知っていたので見るなと言ったのに、
    本当に男というものは!!と思います。
    千曳の岩というのを黄泉の国の出入り口において、
    けんかして離婚したままなんだそうですよ。
    日本の国造りの男女の神様が、
    離婚したままというのがなんとも・・・。

    • 町田 より:

      いとう ゆうこ さん、ようこそ
      日本神話のイザナギノミコトとイザナミノミコトの説話はあまりにも有名で、私もその概要はおぼろげながら知っているのですが、黄泉の国にいたイザナミが腐乱した肢体をさらしていたというのは、>>「次の生命に生まれ変わるための準備のためだった」という解釈は新鮮でした。
      なるほど !!
      と唸ったくらいです。

      これは、いとうさんのオリジナルの解釈なのでしょうか?
      それとも、すでにそういう指摘がどこかであったのでしょうか。
      もし、いとうさんのオリジナル解釈だとすれば、また何とも卓越した洞察であると感心せざるを得ません。

      おっしゃるとおりです。
      男というのは、いつも女の「春や夏の姿」しか見ようとしません。
      だいたい男の “恋愛” なんてみなそのようなものです。
      だから、男は結婚して、女房の「冬の姿」もかいま見たりすると、「春や夏の姿」をした別の女に目が向いてしまうのかもしれませんね。
      本当に、「男というものは !!」 …という感じです。

      イザナミの腐ったような冬の姿を見てしまったイザナギは哀しい。
      でも、逃げられたイザナミはもっと悲しかったでしょう。
      この日本神話は、男女の生理の違いとそれにまつわる悲劇を描いた出色のお話だったわけですね。
       

      • あ、ありがとうございます。
        解釈はオリジナルです。
        森の四季について、人は春夏のみずみずしさや
        秋の実りやメランコリーを好むけど、
        森を滋味豊かに育むのは、落ち葉を堆肥に分解する
        微生物が活躍する冬の時期だと聞いたことがあるので。

        男のさがについては、
        これはなにかもうしょうがないというか、
        男は基本的に、生まれてから死ぬまで
        種をまくことだけ考えて生きているお百姓さんなので、
        「今蒔いても実らないな」と本能が判断するのは
        しょうがないです・・・。

        • 町田 より:

          >いとう ゆうこ さん、ようこそ
          やっぱりイザナギ&イザナミの神話解析は、いとうゆうこ さんのオリジナル解釈ですか。とても面白い見解であると感嘆いたしました。

          いとう ゆうこさんのおかげで、冬という季節に関して、また新たな印象を加えることができました。
          このエントリーで取りあげた池田晶子さんも、「冬は終わりではなく、むしろ始まりを胎(はら)んで静止する時間」と書いています。逆にいえば、「冬とは四季のスタート」なんですね。
          >>「森を滋味豊かに育むのは、落ち葉を堆肥に分解する微生物が活躍する冬の時期」という表現に、一見ささくれだった慰藉のない冬景色にこそ「次の生命」を準備していたイザナミノミコトの覚悟が滲んでいたことが読み取れます。

          男のことを、>>「男は、種をまくことだけ考えて生きているお百姓さん」に譬える比喩も卓越しています。
          笑えますね。
          その通りです。
          男が種まきをするお百姓さんなら、女はさしずめその種を「生命」として成長させる大地そのものなのでしょうか。
          男が、永遠に女に勝てない理由も見えてきました。
           

  2. 木挽町 より:

    じっくり読ませていただきました。必ずまた読み返すだろうと思いました。ありがとうございました。

    • 町田 より:

      >木挽町さん、ようこそ
      池田晶子さんの書かれるもの、好きでした。美人でしたしね。
      この方の言葉に触れると、人間がものを考えるときには、男も女もないんだな、ということがよく分かります。
      人間の思考には、「男と女」の差などはなくて、「鋭いか凡庸か」という差だけしかいということが … 。
      彼女はそのことを、最も鋭い言葉で語った人であるように思います。
       

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