日本文化の中空構造

 
 今年(2015年)の正月だったと思うけれど、テレビで『100分de日本人論』というのをやっていて、それを録画したものをついさっき観た。

 要は、日本人の間に名著として語り継がれている書籍を紹介しながら、そこから汲み取れる「日本人の感受性」やら「日本文化の特質」を説き明かすという番組だった。

 テキストとして取り上げられた書籍は次の通り。
 九鬼周造 『「いき」の構造』
 折口信夫 『死者の書』
 河合隼雄 『中空構造 日本の深層』
 鈴木大拙 『日本的霊性』

 上記の本を、上から順に著述家の松岡正剛、小説家の赤坂真理、精神科医の斎藤環、宗教学者の中沢新一らが講師を務め、本の “読みどころ” を視聴者に伝えていく。
 そのなかでも折口信夫の『死者の書』と、河合隼雄の『中空構造 日本の深層』の話が印象に残った。

 このブログ・エントリーでは、斎藤環(さいとう・たまき)氏が解説した『中空構造 日本の深層』(河合隼雄 著 1982年)を取り上げて、その感想を簡単に記す。

 「中空」とは、“がらんどう”という意味である。
 斎藤氏によると、この本の著者である河合隼雄は、「日本文化の中心は、からっぽなのだ」と言っているという。
 これは、政治学・社会学では丸山眞男がこれに近いことを言っていて、そんなに目新しい指摘だとも思わないが、河合氏がそのことに気づいていく過程というのは、まるでミステリー小説を読むようで面白い。

 ユング派精神科医の河合隼雄は、患者の臨床例を見ているうちに、西欧流の精神医学の方法論が必ずしも日本人の精神障害者には当てはまらないことに気づいたという。
 そのとき、彼は「日本人の精神構造は、ヨーロッパ人とは違うのではないか?」と思い始め、いろいろな文献を探るうちに、ついに日本神話にまでたどり着く。

 すると、奇妙なことが見えてきた。
 日本の神話には、正体不明の謎の神様というのが、必ず出てくるのだ。 
 それも、よく知られる兄弟の神様たちの間に、ポツンと登場する。
 
 たとえば、有名な女神のアマテラスと、その弟のスサノオ。
 この二人の神様は、子供の絵本からアニメ、エンターティメント小説に至るまで非常によく登場するのだが、実はその間にもう一人「ツクヨミ」という男の兄弟が存在する。
 このツクヨミは、アマテラスたちと一緒に誕生したときにだけ名前が記されるのだが、以降まったく姿を見せなくなる。

 河合隼雄は、「奇妙だな」と思いつつ、さらに別の神話を探っていくと、実はどの神話においても、有名な神様たちの間には必ずといっていいほど、誕生したときだけ名前を呼ばれ、あとは姿を消してしまう神様が登場することが分かった。

 そういう消えた神様というのは、どこへ行って、何をしているのか?

 彼らは、キャラクターが正反対と思えるような有名な神様たちの間に立ち、密かに、その二人の “緩衝地帯” のような役割をしているのではないか … と河合氏は考えた。
 
 たとえば、太陽の光のように大地に豊饒を約束するアマテラスと、乱暴狼藉を繰り返してこの世を暗黒で包もうとするスサノオ。
 この二人が面と向かい合えば、妥協の余地がない対立が生まれるはずだが、それがなんとなくうまくいっているのは、神話の記述には現われない「ツクヨミ」という謎の兄弟の交渉力や調停力が発揮されているからではないか。

 そう考えた河合隼雄は、そこから一気に、
 「日本文化の特徴は、中心となるものが隠されており、その“見えない存在” が、実は左右のバランスを取りながら、社会全体を機能させている」
 という推論にたどり着く。

 この番組に登場して、各テーマごとに面白い論考を披露していた松岡正剛氏は、自分が運営する人気Webの『千夜千冊』の中でも、この河合隼雄の『中空構造 日本の深層』を取り上げて、次のように述べている。
 

  
 「河合は書いてはいないが、神話構造だけではなくて、日本には多くの中空構造がある。
 だいたい神社がそうなっている。
 神社というものは中心に行けばいくほど、何もなくなっていく。一応は中心に魂匣(たまばこ)のようなものがあるのだが、そこにはたいていは何も入っていないか、適当な代替物しか入っていない。
 また、鏡があるが、これはまさに外からの光を反射するだけで、そこに神という実体がない。そればかりか、そもそも日本の神々は神社にすら常住していない」

 この感じは、実は私にもよく分かるのだ。

 もうかれこそ30年ぐらい前になるが、かつて私は、出張のついでに伊勢神宮を見物に行き、そこで20年ごとに遷宮するときの候補地というのを見たことがあった。
 そのとき、非常に不思議な気分に包まれた。

 それは見事に、な~んにもない場所だったのだ。
四方をシメ縄で囲まれた大地が広がっているだけで、きれいに均された土の上を、午後の木漏れ日が、風に吹かれて揺れていた。

 そのな~んにもない空間を見ているだけで、落ち葉がひらりと一葉だけ湖水に落ちたような波紋が、心の中に拡がっていった。
 自分の心の波動は確実に捉えることができるのに、それを表現する言葉がどんどん遠ざかっていく、
 生意気にも、そのとき私は、「神道の本質が解った」などとつぶやいたような気がする。

 十字架や仏像のように、コアになるものをシンボライズせずにはいられないキリスト教や仏教と違って、神道の中心にあるものは「無」だった。
 そこには、はじめから神々などというものも、いなかったのだ。
 「無」であるからこそ、吹き渡る風が清々しかった。

 「何もない」
 
 それは、数字でいえば0(ゼロ)なのだが、ゼロは無限にも通じている。
 「何もない」ということは、その先には、人智では把握することのできない世界が広がっていることを暗示する。

 何もないから、何でも吸収する。
 そして、一度吸収されたものは、虚無へと開かれた扉を抜け、その向こうで無化されたのち、ただの「風」となって還ってくる。

 「風」は目には見えない。
 そして、それ自身は何もなさない。
 でも、気配を通じて何かを伝える。
 日本人の “中空構造” とは、風のようなものである。
  
 
参考記事 「斎藤環 著 『世界が土曜の夜の夢なら』(ヤンキーの美学)」
 
 

カテゴリー: コラム&エッセイ, 映画&本   パーマリンク

日本文化の中空構造 への4件のコメント

  1. かっちゃん より:

    ドーナツの”穴”は、ドーナツでしょうか?

    ウェブでは読めないのですが、この本はおそらく町田さんの興味をそそると思います。
    http://webcatplus.nii.ac.jp/webcatplus/details/work/775029.html

    よろしければ是非。

    • 町田 より:

      >かっちゃん さん、ようこそ
      向井周太郎さんの『両義像 – 意味の空間』(『デザインの原像 かたちの詩学2』という論考)面白そうですね。
      まさに、「ドーナツの “穴” は、ドーナツか?」という疑問に答えてくれそうな書籍と感じます。
      詳しいことは読まない限り分からないとは思いますが、まさに“中空構造”とは何か? ということをうまく説き明かしてくれそうな参考文献だと思えます。

      ドーナツの穴は、ドーナツか?

      う~ん~ ! 面白い。
      刺激的な情報をお寄せいただき、ありがとうございました。
      (返信遅れて申し訳ございません。ここのところ歯痛で神経を痛めており、自分のブログを開く気も萎えていたもので…)
       

  2. 雲助 より:

    なるほど面白い考察ですね。何となく「間」とか「余白」なんて日本語が思い浮かびました。
    想像の余地を投げかけて終わりにする曖昧さをよしとする文化とも言えるのでしょうか?

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