イスラム国はいつまで続くのか

 
 ここ一週間ほど、テレビを観ていると、日本人の人質問題も絡んでいるため、ニュースは連日「イスラム国」に関連したものが大半を占めていた。


 
 こういう“国家”を名乗る過激派組織というのは、一般人には珍しいのか、ワイドショーでは、「イスラム国とはどんな組織か」、「イスラム教」とはどんな宗教なのかということを解説しているケースが多かった。

 そられの解説では、「イスラム国は、“国”を名乗っても、国際社会では『国家』として認められていないただのテロ組織にすぎない」と説明されていたが、少なくとも彼らが『国家』を名乗った以上、国際社会に向かって、なんらかの自分たちの理念を主張したいという目的があったのだろう。
 その目的とは何か。

 いろいろな表現があるだろうと思うが、一言でいえば、それは「近代」への反逆である。
 この場合の「近代」とは、19世紀から20世紀にかけて、世界中を覆った「欧米的な政治・宗教・経済」の総体をいう。

 我々日本人も、欧米流の近代的な進歩史観になじんでしまっているから、「世界は時代を経るごとに進歩し、生活も快適になる(はずだ)」と、どこかで素朴に信じ込んでいるところがある。
 そう考えると、「イスラム国」や「アルカイダ」のようなイスラム原理主義的な理念は、時代に逆行するような野蛮な考えと断罪しがちであるが、そういう進歩史観のようなものは、彼らのように「時代が進むと堕落してしまう」と信じ込んでしまっている人々に対しては、無力だ。

 なにしろ、彼らは、「預言者ムハンマドの没後3世代(あるいは300年間)に見られた世の状態が理想的であった」とするのだから、その後の世界の歴史は、その “理想” から逸脱していった歴史に過ぎないわけである。

 つまり、彼らにとって「近代」とは、欧米が進める世俗的で堕落した風潮が世界を覆い尽くしていく時代を指し、彼らは、今のこの地球上の国々は(彼らにとっての)“健全な(?)”人間性が損なわれる道を進んでいると思えるのだろう。
 欧米諸国は、そういうイスラム原理主義的体制を「民主的ではない」と非難するが、宗教的指導者による神聖政治を目指すイスラム原理主義からみれば、民主政治なるものこそ “堕落した衆愚政治” なのだから、そういう非難は彼らの嘲笑を買うばかりだ。

 しかし、彼らはそういう「神聖国家」を目指しながら、自分たちに従順に服従しない人々を残虐な目に遭わせ、暴行・殺戮・収奪・レイプなどを好き放題やっているというのはどういうことか、まったく理解に苦しむ。
 少なくともムハンマドは、そういう荒廃した世を正そうとして、イスラムの教えを広めようとしたのではなかったのか。だから、良識あるムスリムたちが、彼らの存在を嘆かわしいと思うのは当たり前かもしれない。

 一つ言えることは、この「イスラム国」の欧米先進国に対する敵意を、単なる「キリスト教 VS イスラム教」という宗教対立として考えるのは間違いだということだ。
 「イスラム国」が抱えている宗教対立とは、むしろ、同じイスラム教内のシーア派に対するスンニ派の敵意と見なしてもいいように感じる。

 彼らが目の敵(かたき)にしているのは、今の地球上を覆い尽くしていく欧米流の “価値観” に対してである。
 特に、「グローバリズム」という名のもとに、アメリカン・ローカル・スタンダードが世界中を侵食していることに対する嫌悪と呪詛が、彼らの意識の根底にある。

 彼らは、そのグローバリズムが世界を覆い尽くすことに武力行使で報いることをはっきりと打ち出したが、奇妙なことは、彼らがまさにグローバリズムから生まれてきたことだ。
 グローバリズムを推進するネット環境をうまく利用し、彼らの “国家宣伝” をYOU TUBEの動画配信などを通じて行い、地域や文化圏の異なる若者たちにジハードに参加するように呼びかけているのだから、まさにグローバル思考になじんだ人間たちでなければできない仕業だ。
 
 ただ、確実にいえることは、「イスラム国」そのものは非常に短命に終わるだろうということだ。
 極端に厳格な政治的・宗教的理念を掲げ、短期間のうちに理想社会をつくろうとした運動はすべて破産している。
 ルネサンス期のサヴォナローラの宗教改革、19世紀の洸秀全による太平天国の乱、近年のカンボジアのポルポト政権などはみなそうだった。

 19世紀に、スーダンの領有権を主張していたイギリスと戦い、スーダンを独立させようとしたマフディーの乱もその一つ。
 マフディーは、スーダンを今日でいうイスラム原理主義を忠実に信奉する神聖国家をつくろうとしたが、そのあまりもの厳格さがゆえに、彼の死後、それに反発した民衆によってマフディー体制は崩壊したといわれている。

 結局、一つの政治理念・宗教理念だけで民衆を支配することなどできないのだ。それは歴史が証明してきたことなのだが、“イスラム神聖郷”を目指す原理主義の指導者たちは、歴史から学ぶことができないのだろう。

 「ユートピア」とは、そもそも「現実には存在しない理想郷」という意味だから、もしそれが実現してしまったら、その段階で現実と乖離した「ディストピア(暗黒郷)」にならざるを得ない。
 彼らのユートピアは、人間の「生命」が指導層の活力を維持するための “エネルギー” として消費されるような、まさにSF映画の『マトリックス』のような様相を呈するだろう。

 
参考記事 「物語 『中東の歴史』 」
 
 

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