スペクタクル映画の傑作 『十戒』

  
 この 1月30日(金)に、リドリー・スコットの『エクソダス 神と王』が公開されるという。
 往年の映画ファンには懐かしいハリウッド歴史大作映画『十戒』を、最新のVFXと3D技術を駆使してリメイクした壮大なスペクタクル映画らしい。

▼ リドリー・スコット 「エクソダス」

 監督がリドリー・スコットであり、かつ歴史スペクタクルであるならば、私にとっては絶対見逃せない映画であるが、ちょっと複雑な気分。
 というのは、『プロメテウス』を観て、「リドリー・スコットもちょっと老いたな」という印象を持ってしまったからだ。

 いまだに彼の最高傑作は『ブレードランナー』(1982年)と『エイリアン(1)』(1979年)であり、その下ぐらいに、『ブラック・レイン』(1989年)、『グラディエーター』(2000年)、『キングダム・オブ・ヘブン』(2005年)あたりが続くと思っている。
 それ以降の『ロビンフッド』(2010年)には少しがっかりして、『プロメテウス』(2012年)になると、ファンとして、その映像美にオマージュを捧げたが、映画としては批評する気にならなかった。

 だから、敬愛するリドリー・スコットには、もうあまり駄作は作ってほしくないのである。『ブレードランナー2』の企画も進んでいるらしいが、個人的には「やめた方がいいんではないかな」と思う。
 
 しかし、かつてセシル・B・デミル監督の『十戒』という映画を見て “歴史好きの少年”となった私は、やはりリドリー・スコットの最新作と見比べてみたいという気はする。

 セシル・B・デミル監督の映画『十戒』が日本で公開されたのは、1958年。
 主演のモーゼを演じたのは、チャールストン・ヘストン。
 そのライバル役のエジプト王ラメセスを演じたのが、ユル・ブリンナー。
 それを見た私は、8歳だった。
 
 物語は、旧約聖書に出てくるモーゼの「出エジプト記(エクソダス)」を描いたもの。
 もっとも、8歳の自分は、聖書にもモーゼにも興味がなかったし、それが何を意味するものかもよく分からなかった。
 
 でも、映画のポスターにはわくわくした。
 「海が真っ二つに分かれるシーン」が描かれていて、今でいうパニック映画のようなスリルを期待することができた。
 

 
 実際にスクリーンを見て、出てくるシーンの迫力には度肝を抜かれた。
 
 ピラミッド製作の現場では、スフィンクスの巨像が、豆粒のような人間の頭上を、のっそりと動いていく。
 その石造物の恐ろしいほどの重量感。
 それが、まさに3D 映画以上の迫力で、今にも画面を飛び出してくるかのように思えた。
 

 
 さらに、奴隷としてこき使われていたユダヤ人たちを引率し、脱エジプトを図るモーゼの堂々たる勇姿。


 
 ユダヤ人たちを追いかけるために、2頭立ての戦車に乗って砂漠を疾駆するエジプト軍の獰猛さ。
 

 
 故郷に逃れようとするユダヤ人たちの前に立ちはだかる紅海が、突如真っ二つに分かれて、海底の道を示すときの衝撃。
 

 
 今ならば、すべてCGで処理されてしまうような映像ばかりだが、この時代、大量のエキストラと巧みな合成で映し出されたシーンには、まさに「神がかり的な迫力」があった。
 あまりものショックに、映画が終わった後も、私はしばらく席を立てないくらいの脱力状態に陥ってしまった。
 
 歴史スペクタクル映画としては、この後に作られた『ベン・ハー』や『エル・シド』の方が完成度が高い。
 しかし、“衝撃度” においては、やはりこの最初に見た『十戒』の方が強い。
 なにしろ、自分を “西洋史オタク” にしたきっかけのような映画なのだから。
 
 この時代、ハリウッド史劇に “ユダヤもの” がよく登場したのには理由がある。
 もともとアメリカの映画産業は、ユダヤ移民に支えられてきたという背景がある。ユダヤ人は、世界のどこにおいても伝統的な産業から締め出される傾向があったため、彼らは、アメリカにおいて産業としての骨格がまだ定まっていなかった新しい映画産業に活路を見出す傾向が強かったのだ。
 
 だから、ハリウッド史劇といえば、キリスト教ものというのが定型となり、特にこの『十戒』などは、もろにユダヤ教の原点ともいえる「旧約聖書」そのものがテーマとなっている。
 
 いま再鑑賞してみると、さすがに、この “宗教くささ” には多少辟易(へきえき)とするところがある。
 しかし、この時代の制作者たちが、「 “神のご威光” を示すには観客を驚かせるのが一番」と割り切っていたせいなのか、当時の史劇には、スペクタクルシーンの演出にもの凄いエネルギーを注いでいたものが多い。
 ある意味、アメリカのハリウッド史劇の黄金期であった。
 
……………………………………………………………………
 
 この映画に描かれるモーゼの「出エジプト記」というのは、キリスト教神学的に、実に面白いテーマを含んでいると語る人もいる。
 つまり、ここではじめて「偶像崇拝の禁止」という、極めて大事な一神教的テーマが浮上してくるというのだ。
 
 映画を見ていると、ユダヤ人の群れを率いてエジプトから逃れたモーゼが、一人でシナイ山に登り、その山頂で、神(ヤーウェ またはエホバともいう)から、直接10項目の戒律を授かるというシーンが出てくる。
 
 粘土板のようなものに、雷光がバシバシ当たって、それが文字になる(もちろん、“神様” の姿そのものは見えない) 。


 
 それが『旧約聖書』の「十戒」なわけだが、そこには「盗みをするな」、「人を殺すな」、「姦淫はするな」、「ウソをつくな」、「父母を敬え」などという人倫を説く戒律が示されている。
 
 基本的には、人間同士が集まって生活するときの基本ルールを示したものばかりだが、そのトップに来るのが、「私以外の何ものも神としてあがめてはいけない」という戒め(いましめ)と「偶像を作ってはならない」という戒め。
 
 この二つが、基本的に、一神教の根幹を成す思想となった。
 
 しかし、「偶像崇拝の禁止」というのは、このモーゼの時代には、“異様” な考え方だったらしい。
 古代宗教のほとんどは、偶像を祭った。
 
 人間は、なかなか形のないものを拝めない。
 どうしても、精神を集中させるためのシンボルを必要とする。
 
 キリスト教の場合は、後に、十字架にかかるイエスというシンボルが生まれたけれど、モーゼがユダヤの民にもたらしのは、拝む対象を持たない神様だった。
 
 ところが、いくら神様が(モーゼを通じて)ユダヤの民にそう迫ったとしても、ユダヤ人たちは、なかなかそういう考え方になじまなかったという。
 映画『十戒』では、モーゼが出かけている隙をねらって、ユダヤ人たちが、牛の頭を持つ金の像を作り、それを神に見立てて、異教的な祭りに酔いしれるシーンが出てくる。
 もちろん、モーゼに見つかって、こっぴどく怒られるわけだが。
 
 モーゼは何を意図していたのか。
 
 彼は、民族や文化を超える宗教を狙っていたともいわれている。
 もちろん、モーゼの崇めているのは、ユダヤ民族のためのユダヤ教である。
 しかし、モーゼは、その神がユダヤ人たちの神であると同時に、ユダヤ人を超える神であることも狙っていた。
 
 民族・文化単位で完結する宗教は、ほとんど偶像を持つ。
 ギリシャ神話においてもしかり、ゲルマン・ケルト神話においてもしかり。
 しかし、偶像を崇拝する限り、それは固有の民族の固有の文化に根ざした宗教を超えることはできない。
 
 モーゼは、その偶像を禁止することによって、ユダヤ民族とユダヤ文化を超える、より抽象度が高く、より普遍性のある宗教を考えていた。
 
 モーゼのそのアイデアは、いったいどこから生まれたのだろう?
 
 それはモーゼが、実はユダヤ人ではなく、エジプト人だったからだ、と唱える人がいる。
 精神分析学の大御所であるジークムント・フロイトである。
 
 フロイトは、『モーゼと一神教』という本の中で、モーゼが一神教を唱えたのは、エジプト人であったモーゼが、自分が考えている一神教の実験をユダヤ人を使って試してみようと考えたからだ、と述べている。
 (述べている … などと生意気に書いたが、私は原典を読んだわけではない。これはある解説書に書いてあったことの受け売り)。
 
 もちろん、「モーゼがエジプト人であった」などと主張する人は、学者の中ではフロイト以外にはいないらしい。歴史学者からも聖書学者からも、この「モーゼ=エジプト人」説は無視されている。
 
 実際、フロイト自身も、そのような扱いを受ける本であろうことをあらかじめ見越し、自ら「これは歴史小説だ」と断わっているとか。
 
 もちろん、ユダヤ民族の英雄であるモーゼが「実はエジプト人であった」などということになれば、当のユダヤ人たちが黙ってはいまい(フロイト自身はユダヤ人だったけれど)。
 
 だから、映画『十戒』においても、モーゼはユダヤ人の捨て子であり、籠に乗って川を流れてきたところを、エジプト王族の王女の一人に拾われたという設定になっている。
 
 しかし、実際のモーゼの出自がどうであれば、いずれにせよ彼は、エジプト的な学問と知識を身につけた若者として成長していく。
 
 このエジプト的な教養を積んでいく過程で、モーゼは、かつてこの国に、宇宙全体の造物主である唯一神が崇拝されたことがあったという事実を知るようになる。
 それが、アトンといわれる神で、多神教的なエジプトの信仰体系の中では極めて異色の神様だった。
 
 そのアトン信仰を、ある種、強引ともいえる強制力でエジプト全土に広めさせようとしたのが、第18王朝期(紀元前1300年代)に登場したイクナートン(アメンホテプ 4世 写真下)というファラオ(王)だった。
 

 
 このアトン信仰というのは、それまでの呪術的・魔術的な色彩で彩られていたエジプト固有の信仰体系をバサっと断ち切るもので、かなり抽象度が高く、普遍性を持ったものであったといわれる。
 
 なぜ、エジプトにそのような神が急に必要になったかというと、ちょうど第18王朝時代というのはエジプトが世界帝国になった時期と重なり、数々の異なる宗教や文化を持つ異民族を統治しなければならなくなったからだそうだ。
 
 つまり、アトンは、各地に散ばる神々を統合する上位概念として、ちょうど「王の王」を “皇帝” と称するような感じで生まれてきた神様であったようだ。
 
 しかし、イクナートンが急激に進めた “宗教改革” は、当然、それまで既得権益をむさぼっていた神官階級の反発を招くことになった。
 また、抽象度の高い宗教は、祖先代々から伝わる素朴な民間信仰を守ってきた人々にもなじまなかっただろう。
 
 イクナートンの死後、あっけなくアトン信仰は廃棄され、ファラオの宮殿は破壊されて、エジプトは元の偶像崇拝的・多神教の信仰体系に戻ったとのこと。
 
 そこで、フロイトはいう。
 「モーゼという人物は、そのアトン信仰の消え去る光景を目にして悔しい思いを重ねたイクナートンの縁者か、もしくはファラオを支えた高官であった」と。
 
 だからこそ、モーゼは、イクナートンの意志を引き継ぎ、リベンジの意味も込めて、エジプト人がうち棄てた “アトン信仰” を、今度はユダヤ人の間に広めようとしたというわけである。
 
 実際には、イクナートンの生きていた時代と、モーゼの時代は100年ほど違うらしく、実証的にその仮説を裏付けるのはそうとう無理があるらしい。
 
 それでも、この仮説から導き出される推論は、ユダヤ教に対するいくつかの疑問に見事に答えるものを持っている。
 
 たとえば、ユダヤ人が「神」を選んだのではなく、「神」の方がユダヤ人を選んだという奇妙な経緯(いきさつ)。
 
 普通、ある部族、民族、文化に属する者たちは、みな自分たちから「神」を選ぶ(つくる)。
 「神」の方が勝手に自分の教えを崇めてくれる「民」を選ぶというのは、奇怪な事件なのだ。
 しかし、その疑問も、モーゼが「ユダヤ人を使って一神教の実験をしてみよう」と考えていたとするならば、すんなり氷解する。
 
 モーゼは、ユダヤの民を率いて、神の定めた “約束の地” カナンを目指すが、そこに到達する前に死ぬ。
 フロイトは、それを得意の自説である “実父殺し” の概念と結びつけ、唯一神への信仰を強要したモーゼに対するユダヤ人の反抗による殺害と捉えるようだが、もし、モーゼが、ユダヤ人たちにとって「しょせん外国人にすぎなかった」とするならば、フロイト説にも説得力が生まれる。
 
 ただ、このような仮説は、歴史的学や考古学的な検証、さらに聖書学的な考察において実証することができない。
 フロイトが自らいうように、「小説」でしか表現できないのだ。
 
 しかし、「小説」としてしか存在が許されないことが、逆にフロイト説の強靭な生命力の秘密になっているのではあるまいか。
 
 「小説は、事実であることを自ら拒否する」
 … が、ゆえに、研究者を永遠に挑発する資料になり続ける。
   
 
関連記事 「宗教がわかれば世界は見えるか ? 」
   
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参考記事 「レプリカントの命 『ブレードランナー』 」

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参考記事 「リドリー・スコット 『ロビンフッド』 」

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スペクタクル映画の傑作 『十戒』 への12件のコメント

  1. よしひこ より:

    おじゃまします。
    『モーゼと一神教』ってそういう内容なんですね。面白い話を有難うございます。
    たまたまですけど、この正月休みはマンガ旧約聖書(里中満智子)を読み、休み明けは『山本七平の旧約聖書物語』(新装版)が出ていたので購入。そしてこちらで「十戒」を目にして、これは「神の思召し」なのかと。(笑)

    • 町田 より:

      >よしひこ さん、ようこそ
      今、「宗教」って、世界的に大きなテーマになりつつある感じがしますよね。
      特に、一神教というものが … 。

      最近のパリにおけるイスラム過激派によるテロ事件。その発端は、「偶像崇拝を禁止するイスラムの戒律に反して、フランスの新聞社が、預言者ムハンマドを侮辱するようなイラストを載せたから …、というようなものらしいのですが、これは「表現の自由」が大事かどうか、というような視点で語られるべきようなものではないと、感じているのです。

      一神教において、「偶像崇拝」がなぜいけないのか、という(我々日本人には理解に苦しむ)根本的な問題が問われているように感じます。
      そもそも、キリスト教だって、「神の子イエス」の磔刑像はシンボル的に敬いますけれど、その “お父さん” である神の姿はどこにもない。
      なんか不思議ですよね。

      ま、一神教って、人類が遭遇した不思議な思考体系であるように感じます。
      中東のローカルな地域で生まれたこの考え方が、なぜ世界を席巻するようになったのか。
      考えてみると、知的好奇心が無類に刺激されます。
      山本七平氏などの著作から得た面白い発見があれば、ぜひご紹介ください。
       

  2. Take より:

    十戒は、「神の啓示」という難しい話よりも、仰る通り集団生活の基本ルールの文字化だと思います。
    そうすると人が書いた文字だからその解釈を歪曲しようとする動きも出て来る。
    たとえばいま日本でも大きな問題にされているのが憲法9条と自衛隊の権限みたく、やはり文字では表しきれないのが「法」の限界なんでしょう。
    そこで一番確かなのは、解釈のはざまに陥った時は「神の導き」どうすれば神に喜ばれるかだけを考えろ、として第1の掟はでてきたのかな?と思います。しかし、神の姿は見えない(私は有る、有るという者だ、という不可思議な神の声)。「見えない神だけを見つめろ」は難しくモーセが山から下ってきたときには、結局民は見える形の金の牛を作っていてモーセはそれを怒ります。
    語れば色々なテーマが湧いてきますが、宗教というのは矛盾だとか理解不能があったとしても信じる人にとってはそれがすべてなんだから論議をしても意見が一致するというのは難しい事なのでしょうね。

    • 町田 より:

      >Take さん、ようこそ
      なるほど。深い示唆に富んだコメント、ありがとうございます。

      人が「文字」として残した「法」であるならば、当然、人によってさまざまな解釈が成立する余地が出てくるわけで、解釈と解釈のはざま陥ったときは、人間同士で解決することが難しいケースも出てくる。

      そこで、>>「神にどうすれば喜ばれるかだけを考える」ことが “解決”に至る道筋を照らす光になるということですね。

      それは、「神の声」を内面化するというようなことになるのでしょうか。
      もし、そうだとしたら、それが人間の「倫理」の始まりということになるわけですね。

      そうなると、「倫理」というものは、個々人の価値判断の枠組みを超えて、絶対的なものと触れ合うときに生まれてくるということになるのでしょうか。

      こういう捉え方は間違っているのかもしれませんが、Take さんのコメントをいただいて、そんなことまで考えさせられました。
      いろいろな思考を促すようなお話、ありがとうございました。
       

  3. よしひこ より:

    例のフランスの新聞は性懲りも無くムハンマドを漫画にしているようですが、「風刺」は権力者に向けられるものなのだから、イスラムの普通の人々を不快にする表現はひとまず控えるべきだと思われます。
    さて、『山本七平の旧約聖書物語』の「モーセ」の章から、要約的に少し引用してみます。

    モーセの一神教の特徴はどこにあるのか。それは「神と人とが契約した」という「契約一神教」にある。
    神はイスラエルのためにカナン人を追い払ってその地をイスラエルに与える。ただこの契約だけが絶対なのであって、イスラエルはカナン人と契約を結んではならない。
    ここで重要なことは「神と人との契約が絶対であり、人と人との契約で神との契約を破ってはならない」ということなのである。
    メンデンホールという学者は、この背後に「ヒッタイト宗主権条約」があったであろうと推定する。ヒッタイトの大皇帝が従属する小王に、その領土の保全を約束する、という条約である。いわばイスラエルは、大皇帝ならぬ神ヤハウェを宗主権者とし、同時に神は、イスラエルをその民にし、カナンの地という領土の獲得と保全を約束したわけである。

    ・・・ということで、やはり現実の人間の支配被支配関係が神と人間との関係に投影されているらしいです。

    とにかく一神教はふしぎです。歴史的には4世紀のローマ帝国のキリスト教化、7世紀以降の中東のイスラム化はどうしてそうなったのか、よく分からない謎です。現在でも地球上の人類の過半数は一神教の信者なので、日本人としては一神教は分からないんだけれども分かろうとする努力が求められていると感じます。

    • 町田 より:

      >よしひこ さん、ようこそ
      ムハンマドの漫画の再度掲載の件、私もまたよしひこさんと同様に考えます。
      欧米社会では「表現の自由」が認められているといったって、あれは、あくまでもローカルルールですよね。
      あの新聞社は、そういうローカルルールの<外>に立って物事を考えるという訓練がまったくなされていないんでしょうね。それこそ<他者>に対する畏れもリスペクトもない。ヨーロッパも落ちぶれたものです。

      ご丁寧にも、山本七平さんの引用をご提示いただき、誠にありがとうございます。
      やっぱり「契約」がキーだったんですね。
      >>「重要なことは、神と人との契約が絶対であり、人と人との契約で、神との契約を破ってはならない」
      というのは、ユダヤ教という一神教の凄いところというか、いやはや言葉を失います。
      確かに、最初は現実の人間の「支配被支配」という関係が投影されているのかもしれませんが、イスラエルが「神との契約」という概念を持ち出したからこそ、「人と人」との契約においても厳粛な拘束力というものが生まれてきたのではないかという気がいたします。

      4世紀ごろのヨーロッパのキリスト教化と、7世紀の中東のイスラム化というのは、じっくり調べてみると、ほんとうに面白いことがたくさん掘り出されそうな気がいたします。

      難しいことは分かりませんが、ヨーロッパに関していえば、西ローマ帝国の末期において、弱体化していた政権の運営担当者たちは、もうキリスト教に頼るしか統治理念を見い出せなくなっていたのではないでしょうか。異教的なゲルマン系諸民族を薫陶するには、キリスト教的な理念を駆使する方が都合が良かったのではないかと思います。

      中東のイスラム化に関しては、貨幣経済の浸透と都市の勃興が大きく関わっていたように感じます。ムハンマドの出自は商人であり、彼は小さな共同体同士を統合していく貨幣の力を十分に分かっていたと思いますので、孤立した共同体同士をつなぐ普遍宗教というものを、貨幣経済のアナロジーから思いついていったのではないかという気がいたします。

      実際に、コーランという聖典には商業的発想がふんだんに見られ、使われるタームにも商業用語がたくさん入り込んでいるそうです。
      ムハンマドは、交易を通じて、ユダヤ教徒やキリスト教徒のいる各都市を回っていましたから、様々な商品と文化が入り乱れる国際都市の感受性を身に付けていたのでしょう。

      だから、コーランの普遍性というのは、ムハンマドが国際的な商人であったこととは無縁ではないように思います。
      …… といっても、これは牟田口義郎さんという方が書かれた『物語 中東の歴史』(中公新書)という本の受け売りです(笑)。
      この本のことは、かつてブログでも書いたことがあるのですが、イスラム教が生まれてくる背景を、それこそ物語として読める大変面白いものでした。

      よしひこ さんのおっしゃる通り、これからは日本人も一神教を理解しようとする努力が必要だと思えてなりません。

      わざわざ、山本七平さんの引用までいただき、本当にありがとうございました。
       

  4. keiko より:

    CMで チャールトンヘストンの『十戒』とは違う切り口の(エクソダス)を長らく待ってはいましたが 今日思いがけないいきさつで目の前に映画館があり おまけに上演時間のまことにタイミングがよく、、、つい見てしまいました
    ヘストンの風格に溢れた 神性を感じる演技に比べ クリスチャンベールのモーゼは養子の身分をわきまえた控えめな普通のひととしての表情や演出、、妻や子への愛情の葛藤、、義兄弟ラムセスへの複雑な愛など人間味を出しています
    監督とはと、、監督の現代への解析や信条に思いを致させるという私にとっては意外な結果でした

    見ている間当然のことですが昨今のis…国やら彷彿の画像あり複雑かつ困惑かつ納得、、、でチケット購入前の逡巡の気分を思い出しました これもタイミングでした
    私はただただ絵画的に最後の紅海の割れる場面を期待していたのですが 素晴らしかったです 3Dにしなくてよかった
    昔だったら何回でも映画館に居つづけられたのに、、、 又来ようと思いました

    イギリスのスタジオでステージのプールをナイル川に見立てて紅海の割れるシーンを撮影したと聞きましたがそんなちゃちなことには到底思えません
    最近の気象の変化から実際の竜巻の画像を多用してるのではないかと思うほどのリアル感でした
    八百万の神を文化の基底においているヤマト民族にとってはあの辺りは全く理解不能ですが 善きもの麗しきものの源流のある所と思えば 理解はしたいと思っています
    新年早々のインフルエンザ、、、3月の展示の準備でへろへろしています
    わが町田さんは 破竹の勢い、、、いつも元気をいただいていますから、、、ね

    お母さんのこと、、、私も身につまされました ご自分にとっても大事な時間ですね

    今年もよろしくお願い致します

    • 町田 より:

      >Keiko さん、ようこそ
      ご覧になったのですかぁ !! 『エクソダス 神と王』。
      実は、私はまだ観ていないんですよ。
      でも、Keiko さんのレビューを拝読し、ぜひともこれは観ておかねばならないと強く思いました。

      クリスチャン・ベールは、確かにチャールストン・ヘストンのような歌舞役者が花道で大見得を切るような演技はしませんけれど、感情のこまやかさを上手に表現できる役者ですよね。ジェームズ・マンゴールド監督の『3時10分、決断のとき』を観ていて、そう思いました。

      紅海の割れるシーンは、そんなに素晴らしかったですか。
      やぁ、観てみたい。
      リドリー・スコットですものね。
      映像表現力はいまだ衰えていないということなんですね。

      義母のことなど、いろいろお気遣いいただき、ありがとうございます。
      奇跡が起こったのか、現在のところ容態も小康状態を保ち、介護システムを持つ病院への移転も検討できるような状態になりつつあります。

      こちらこそ、今年もよろしくお願い申し上げます。
       

  5. keiko より:

    エクソダス、、見て来られたんですね
    今拝読して一粒で2度美味しいような満足を味わいました
    リドリースコット監督が映像で語るひと云われているのがよくわかりました
    私は異常気象の空の 予測出来ない荒々しさや豊麗さは神のお仕事だと思うことがよくあります
    一つ一つが説明的で神々しかった(十戒)に比べてクリスチャンは 己の資質を問い続ける人間的な弱いモーゼを演じました 砂漠で彷徨うモーゼは汚らしく心もとない,,だから私も感情移入して一緒に気を揉んでしまう(?)

    衣装やインテリアも凝りにこって考証と制作の努力はその部分だけでも特筆ものだった ラムセスの黄金のドレスや甲冑はだれよりも目立ったし 対照的にモーゼは武士だけど思索的な内面性がよく出ていると思いました

    印象的なのはあどけなさ残る透明感(ここがすごい)の少年を見せたことです納得でした
    神は見えるひとには見える、、そっと傍に寄り添っていてくれる、、、と云うような
    視点をもたれたんですね
    馬車の中からふと横を歩いている少年と目が合い,,,微笑み交わす,,訪れた平安の気分、、うつくしい少年でした

    こう書いた時、,映画のはじまりに出た (トニースコットに捧ぐ)というオマージュが 脳裏に甦りました

    読みなおさず出した前回の投稿には書き間違いがありましたが気をつけますよろしく

    • 町田 より:

      >Keiko さん、ようこそ
      『エクソダス』を観に行ったのは、やはりkeikoさんの印象記が大きなきっかけとなりました。良い作品をご紹介いただき、ありがとうございました。
      もし、レビューをこのブログにお寄せいただかなければ、忙しさにかまけてタイミングを失い、DVDが出るのを待つか、WOWOWあたりでテレビ放映されるのを待っていたかもしれません。

      ラムセスの衣装を含め、映像的な見ごたえは確かにありましたね。
      古代エジプトというのは、衣装的なきらびやかさも含め、独自の文化を創造したように思います。エジプト文化がなければ、ギリシャ文化も生まれなかったでしょうし、そういった意味で、エジプト文化はヨーロッパ文化の源流であったかもしれないと思うこともあります。

      いろいろな見どころのあった映画だと思いますが、やはりkeiko さんも、馬車に乗ったモーゼが少年と微笑みを交わすシーンに注目されたわけですね。
      あのときの二人の笑顔は良かったですね。
      「うまくいったね !」
      という “共犯者” の喜びを共有し合うような笑顔で、人間と神が和解した瞬間が描かれているように感じました。

      楽しく、かつ有意義なレビューをお寄せいただき、感謝いたします。
       

  6. 清水敏正 より:

    神と王、見ました。チャールトンヘストンの十戒に比べると現代的な味付けで、良いと思いました。クリスチャンベールも良いかな。

    • 町田 より:

      >清水敏正さん、ようこそ
      2ヶ月ほど入院しておりましたので、コメントの返信が遅くなったことお許しください。

      で、この映画。
      確かに “現代的な感じ” がいたしましたね。
      昔のチャールストン・ヘストン主演の『十戒』も面白いことは面白かったのですが、ややユダヤ教的な匂いが強すぎて、少し胃にもたれるような感じもしました。

      それに比べ、今回は “宗教” との距離の取り方がほどよくて、エンターティメントとして楽しめたように思えます。
       

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