印象に残る言葉

 
 1年を振り返ったりする番組がテレビでも多く放映される年末は、とかく人間を回顧的にする。
 社会の動きを振り返ると同時に、自分の歩いてきた足跡などをたどったりするのは年末に多い気がする。

 そこで、私もちょいと自分の足跡を振り返るつもりで、人から聞いたり、本を読んだりしたものの中から、今の自分の “思考の枠組み” みたいなものを作ってくれた「名言」を集めてみようと思う。

 名言
 … といっても、私の場合、「役に立つ」ような言葉には、ほとんど触手が動かない。

 役に立つ言葉というのは、たとえば、
 「人間は、自分と同レベルだと思っていた身近な隣人が成功すると屈辱を感じるものだが、友だちの幸せに素直に拍手をできる人が次の成功者になれる」
 とか、
 「本当に強い人間は群れない。人は無力だから群れるのではない。群れるから無力になるのだ」
 とか、
 「ヒーローとは、多くの人を生き残らせるために、自分が犠牲になる覚悟を抱いた人間のことをいう」
 
 … みたいな言葉が世間では “名言” といわれるようだが、こういう “気の利いた説教” みたいな話には、自分はそれほど興味を感じない。
 そうではなくて、ほんとうの名言というのは、その言葉の中には “結論” がないものをいうのではなかろうか。
 結論がない代わりに、思考をうながす。
 つまり、心に残る言葉というのは、そこで言われたことへの結論を、自分自身で探さなければならない言葉ではないか、と思うのだ。

 たとえば、フランスの画家ポール・ゴーギャンは、その代表作たる絵に、
 「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか」  
 というタイトルをつけた。


 
 この言葉は、いつも心のどこかに引っかかっている。
 人間にとって、こんなに無力な問はない。
 問そのものに、もう「解答などない」ということが露骨なくらいくっきりと浮かんでいる。
 しかし、この言葉には、物心のついた子供が夜空を見上げて「宇宙の果てには何があるんだろう?」と密かに問うときの、あの心を震わせるような恍惚と畏れが秘められている。
 「答がない」だけでなく、「問」そのものを口に出すことをためらわせるような根源的な恐ろしさが、この言葉にはある。
 
 
 モーリス・ブランショというフランスの哲学者の言った一言も、終始頭を離れない。

 「書くこと、それは語り終えることのありえないものの残響になることである」

 難しすぎて、いまだに何を言っているのか、よく分からない。
 しかし、この言葉の中には、ものすごくイメージを膨らませてくれるものがある。

 人が何かを書いて、言葉として残す。
 しかし、それは「語り終えることのありえないもの」の残響(エコー)に過ぎないというわけだ。

 では、「語り終えることのありえないもの」とは、いったい何を指すのだろう?
 仏文の研究者たちなら、それをうまい言葉で解説するのかもしれないが、(たぶんそういうのを読んでも私の粗雑な頭ではどうせ理解できないと思うが、)この言葉自体に、とてつもない美しさが秘められている。
 美しい言葉というのは、たとえ “役に立たない言葉” であったにせよ、人に思考をうながす力があると思うのだ。
 
 
 辰濃和男氏の書いた『文章のみがき方』という本の中にも、美しい言葉があった。
 福井県丸岡町(現坂井市)が募集した「日本一短い手紙」の中から選ばれた一文だ。
 文章というのは、いろいろなものを削ぎ落とし、最後にこれだけは伝えたいと厳選された言葉だけで綴られたものが人の胸を打つ、というその一例として掲げられたものである。
  
 「いのち」の終わりに三日下さい。
 母とひなかざり。貴男(あなた)と観覧車。
 子供達に茶碗蒸しを。

 たぶん、死期を悟った病気の女性が、すがるような思いで書き残した手紙だったのだろう。
 読んでいて、涙がこぼれそうになった。
  
  
 川本三郎が書いた『言葉のなかに風景が立ち上がる』という本の中にも、忘れられない言葉がある。これは自分で読んだのではなく、週刊誌の書評欄で目にした文章だ。
 その本の中で、川本三郎は、清岡卓行という詩人の次のような詩の一節を引用しているという。

 「それが美
  であると意識するまえの
  かすかな驚き
  が好きだ」 

 すごくよく分かるのだ、この感じ。
 風景を見たり、あるいは絵画を見たりして、「美しい」と感じる前には、必ずそれを「美」と捉える前の、わずかな心の動きが、さざなみのように広がる。
 実は、その小さな驚きの方が、「美」を感受する以上に、人間の根源的な心の動きをあらわしているのではなかろうか。
 上の詩は、まさに人間の “心” が動き出す瞬間を見事に捉えているように思う。
 
 
 詩や短歌という文学形式は、短い言葉に制限されているために、逆に奥行きと広がりを持つ。
 『現代短歌100人20首』と言う本には、三枝浩樹という歌人の次のような一首が収録されている。

 「寂代(さびしろ)という街、夢にあらわれぬ。いかなる街か知るよしもなし」

 まさに、夢の本質を突いたような短歌だ。
 夢の世界をさまようときの、頼りなさ、心細さ、はかなさみたいなものが、見事に結晶化されている。

 まず、「寂代(さびしろ)」という街の名が美しい。もちろん作者の夢の中に出てきた街であろうが、(あるいは意図的な造語か分からないが、)もうこの名前だけで、具体的な風景が目に浮かぶようだ。
 人の姿がまばらなような、どこか霞の中に浮かんでいるような、なんともいえない寂寥感が漂っている。
 そして、「知るよしもなし」という突っぱねたような結び方が秀逸。
 その言葉に、知りえないものに触れたときに人間の心を襲ってくる「諦め」と、「愛着」が滲んでいる。
  
 
 今は、もうテレビタレントとして、しっかりその存在基盤を確立した小島慶子だが、彼女は長い間ラジオの世界で活躍していた人だった。
 その小島慶子が、ラジオパーソナリティーからテレビの方に軸足を移し始めた頃、朝日新聞からインタビューを受けたことがある。

 彼女は、けっして人間の映像が映ることのないラジオというメディアの特質を次のように語る。

 「人の姿は、けっこう遠くにいても見えます。では声は? 近くにいないと聞こえない。声が聞こえるということは、生活空間に他者が現れるということなんです」

 このとき彼女の言った「他者」という言葉にシビれた。
 彼女は、リスナーから電話を通じて、いろいろな相談を受けるコーナーを持っていたときの思い出を、このように語ったのだ。
 「他者」とは、この場合、顔も見えず、素性も分からないただの他人が、突然のっぴきならない存在として、パーソナリティーである小島慶子の意識に食い込んできた状況を表現している。
 「声」だけを頼りに、相手の人生を丸ごと抱えて引き受けるという、小島慶子の覚悟のようなものが、「他者」という言葉から伝わってくる。

 こういう言葉に触れたとき、なるべく自分はそれを書き写すようにしている。
 そのときは意味が分からなくても、書き写して、何度か読んでいるうちに、何かが見えてくる。
 その「何か」が、今度は次の言葉を探す力を与えてくれる。
    
    
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印象に残る言葉 への2件のコメント

  1. 木挽町 より:

    なるほど。その通り。大賛成。気持ちよくなるエッセイでした。言葉の表現って素晴らしい。

    • 町田 より:

      >木挽町さん、ようこそ
      ほんとうに、いつもいつもエールをいただき、ありがとうございます。
      木挽町さんのおかげで、自分もまた昔書いたものを読み返すきっかけが与えられます。
      その中には、「へぇー、こんなこと書いてしまったんか !」と呆れるようなものもあるし、「案外、うまいことしゃべってんじゃん」と、(恥ずかしながら)悦に入るものもあったりします。
      自分を見直す契機を与えらえているような気分です。
       

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