恋愛は罪悪である ― 漱石『こころ』100年

 

 2014年という年は、夏目漱石が『こころ』という小説を発表して100年目に当たるらしい。
 100年前の文学となれば、今の読者には取っつきにくいように思われがちだが、なんと、この『こころ』は、文庫本の販売実績では太宰治の『人間失格』の670万部を抜く700万部の売上げを達成し、押しも押されもしない “国民文学” として、多くの日本人に読まれ続けているという。

 その人気の秘密はどこにあるのか?

 … というテーマで、NHKのBSプレミアムでは、小森陽一、関川夏央、高橋源一郎、中野信子、鈴木杏といった文学者や脳科学者などを集めた読書会トークを行っていた。
 放映は 9月10日。それをテレビのハードディスクに録画しておいたので、この前ようやく観た。

 トークに参加した面々は、この小説に対し、一様に「奇妙なもの」を感じたと告白する。
 その「奇妙なもの」とは、「不可解」、「戸惑い」、「不条理」、「不自然」というような言葉に置き換えられるものであるらしい。
 要は、深く読み込めば読み込むほど謎めいたものが広がり、この小説を書いた漱石の意図が、蜃気楼か逃げ水のように遠ざかっていく感じなのだという。

 国語の教科書などでも頻繁に扱われる小説なので、あらすじを知っている人も多いかもしれない。

 ―― 主人公の「私」は、海水浴場で自分より年長の男性と親しくなり、その男を「先生」と呼んで、交流を深めるようになる。
 先生にはきれいな夫人がいるが、「私」が先生の家を訪ねて食卓をともにするようになっても、先生は「私」に対しても、夫人に対してもどこかよそよそしい。まるで自分の気持ちを他人に悟られるのを嫌っているような風情がある。
 その理由は、先生がその夫人と結婚するときに、やはり夫人を愛していた自分の親友の「K」を自殺に追い込んだからだ(…と「私」は後になってそのことを知らされる)。
 自分のエゴを貫いたばかりに、友人を自殺に追い込んだ先生は、罪悪感を日増しに募らせ、ついに「私」に遺書を残して、自分も自殺を遂げる。

 あらすじだけを簡単に追うと、そのような話なのだが、テレビ出演したゲストの専門家たちが「奇妙だ」と感じた空気感のようなものは、私にも残る。
 私はこれを社会人になってから読んだが、確かに、この小説には、どこか腑に落ちないところがあるのだ。
 一つには、Kという男が、愛する女性を友人に奪われたからといって、そんなに簡単に自殺できるものなのだろうか? という一点。
 また、「先生」は、その友人の死に“罪悪感”を感じたからといって、なぜ「私」に告白の手紙を残して、自分も自殺してしまうのか。

 そこから、「恋愛」は人を死に至らしめるほど恐ろしいものだという、およそ “愛” やら“ 恋” やらがあからさまに称揚される現代社会では信じられないような深い闇が顔をのぞかせてくる。

 そのことについて、専門家たちは、漱石がこの小説を書いた時代背景に注目する。
 漱石の生きた時代に、政治制度や産業構造の西洋化を推進してきた明治政府は、文化においても積極的に西洋思想を取り入れていた。
 そのなかでも大きな影響力を持ったのは「恋愛」という概念だった。

 男女が惚れあうという心情は、もちろんどの社会に共通したものであり、日本でも江戸期の人情本を中心に、日本的な “色恋” の文化は浸透していた。
 しかし、西洋からもたらされた「恋愛」は、個人の近代的な自立を前提とした思想的な意味合いが濃厚だったという。
 つまり、明治期に、日本人のインテリに浸透した西洋流恋愛観は、新時代の思想を象徴するものとして、いわば “ブーム” として日本に広まったのだ。

 漱石は、時の政府の命令により、当時の世界一の先進国文明を開化させていたイギリスに留学する。
 そこで、日本的な「色恋」とは別の文化である「恋愛」という概念に接し、それが、近代的な「個」を前提としたきわめて思想的なものであることを理解するが、一方では、その「近代的な個人」が、いかに不安定で、個人個人をバラバラにしてしまう悲劇の原因となっているかということも見抜く。

 そう考えると、『こころ』という小説は、日本に浸透してきた西洋流の「近代的個人」という理念が、これからますます日本人を悲劇に巻き込き込んでいくであろうことを警告する批判の書として読むこともできる。

 しかし、それだけでは、よくあるインテリの “近代批判” の定型を提示したにすぎない。
 漱石の緻密さは、その「近代」が、資本主義経済の進展と密接に結び付いたものであり、個々人の自立した「思想」というものも、しょせんは経済の流れと連動していることを見抜いた点にある。
 実際にこの小説では、「お金」がいかに人間の気持ちを惑わせ、また「お金」をめぐって、人が人に対して疑心暗鬼にならざるを得ない様子がさんざん描かれている。

 つまり、漱石は、人間のもっとも自然な心の発露であると思われている「恋愛」も、実は資本主義経済が進展していくためには必要不可欠な「観念」として推奨されたものであり、いわばマーケット拡大の要請に基づいた「心理操作」であることを見抜いていたのだ。

 どういうことか?

 テレビの読書会に出席した一人のコメンテーターは、(誰だったか忘れたが)、こんなことを言う。

 「人間にとって、自分の周囲に当たり前にあるようなモノは『欲望』の対象とはならない。それが『欲望』の対象として浮かび上がってくるのは、自分の周りにあるモノが、他の人間にも『欲望』されたときである」 (※  まさに、自分の身近にいた女性が、Kという男の出現によって、必要不可欠な「恋人」に変化したように)

 つまり、「人がモノを欲しがる原動力は、そのモノを、自分だけではなく、他者も欲望しているということの発見から生まれる」というわけだ。
 資本主義経済というものは、人間がモノを欲しがるという衝動がないと、ドライブしていかない。他人のモノを奪っても、自分が手に入れたいと念じるほどの強い衝動がないと、資本主義は大きく成長していかない。

 農耕や自然物の採集だけで人間が生きていた時代は、生命を維持するための「食欲」、「睡眠欲」、「性欲」という基本的な欲求しか人間は知らなかった。
 しかし、資本制社会の到来によって、人間はそれらの基本的欲求だけでは満足することのない、根源的な飢えを抱え込むことになる。
 その根源的な飢えというのは、人間の本来の欲求から生まれるものではなく、あくまでも、「より快適な暮らしが欲しい」、「よりうまいものを食いたい」、「より美人の女を娶りたい」という終点の見えないものへの渇望によって支えられる。
 そのとき、人間の「欲求」は「欲望」に変わったのだ。
 「欲望」は、資本主義という運動体が、みずからの成長と飛躍のために創造した新しい人間の生存原理であった。

 そのような近代制資本主義を駆動していく諸思想のなかで、「恋愛」はもっとも一般人の心になじむ卑近な思想であった、というのである。
 こういう考え方は、今でもバレンタインデーのチョコレート商戦だとか、カップル用の豪華ディナーを楽しめるレストランの繁栄ぶりに見て取れる。
 西洋の近代思想家のなかには、そもそも資本主義そのものが、フランスの貴族社会のなかで広まった恋愛術を背景に、女性の嗜好を満足させる「世界の富」を収集するという要請から生まれてきたものだと指摘する人もいる。

 人は「恋」のために、お金をつかう。
 それも、相手の関心を得るために、分不相応なまでの散財をすることもある。
 しかし、それがあってこそ、資本主義は活力あふれる前進を続けることができる。

 漱石の『こころ』は、自分の恋人が他の男にとっても「欲望の対象である」という明治の西洋思想に侵された男が、それを実践することによって、はじめて資本主義社会のなかで生きることのリアルさを手に入れた話でもある、というわけだ。
 しかし、漱石は、そのようなリアルな生の実感は、結局は「死をもって自分の罪をあがなう」という悲劇にたどり着くことをこの作品でほのめかしている。
 そういうストーリー構成に、日本的な「色恋」に教養的なシンパシーを感じていた漱石の西洋的「恋愛」に対する違和感や戸惑いが反映していると見ることもできる。
 そして、そういう漱石の感慨から、「恋愛は罪悪である」という先生の言葉も生まれてくることが分かる。

 たが、読書会に顔を連ねたメンバーは、そのような理知的な分析だけでは腑に落ちない、さらなる不可解な感触をこの作品から感じ取るという。
 確かに、他人を自死に追い込んだ責任を取って先生が自殺したという説明も成り立つが、その責任の取り方には、飛躍がありすぎる。
 そこには、罪を自覚して決着をつけるという動機以外の、「先生」の人生の在り方そのものが関与していると考えざるを得ない。

 それは何だったのか?

 作品には、それが描かれていない。
 だから、この作品には、読んだ人間を途方に暮れさせるような「謎」が居座り続けるのだ。
 漱石だけが知り得て、しかし読者に明かされていない「謎」が、永遠にこの作品には封じ込められている。
 
 その「謎解き」に関して、テレビに出演したゲストがそれぞれ言及していたし、またそれに触れた数多くの研究が残されているという。
 私自身も、番組のなかで示唆されたような、人間の恋愛衝動を資本制社会の構造だけで説明するのは無理があるように思える。
 
 しかし、そのように、読者の思索を誘う作品だからこそ、『こころ』は読まれ続けている、ともいえる。
 一度読んだ人にも、再読を促す。

 自分には、とても『こころ』の真相を追求するような力はないが、この小説がやはり後世の読者の想像力を刺激し続ける作品であることは認めざるを得ない。

 

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恋愛は罪悪である ― 漱石『こころ』100年 への5件のコメント

  1. keiko より:

    こんばんわ
    朝日新聞は最近種々の問題を噴出させましたが私のまわりではだから購読をやめようという人も居なかったようです  やめるのも面倒というのもあったかもしれません
    私は親が読んでいた、、見た目手触り、、活字の色、,,レイアウト、,などを通じて親を偲んで居るのかも だから見届けようと思いました

    (こころ)の100年ぶりの再連載がある意味朝日の延命をしたのではないか終了して次の三四郎がはじまっています
    昔あれだけ受験用にも読んでわかりきっていたはづなのに毎朝 紙芝居のようにぷつぷつ読まされる(こころ)はあれと思うほど知らないものだった

    この年まで生きていると先生なる人が心惹かれている家主の娘の居る自分の下宿に友人を連れてくれば何がおこるのかすぐ想像がつきます 増してや何とかその二人を近づけようと心にも無い仕掛けをする先生がとても不愉快でした
    恋愛経験の無い異常なまでのストイックなKが やがて愛するようになって行ったお嬢さんを先生にとられてすぐ自殺するだろうか、、、と私のまわりでも言ってるひとがいました

    でも連載が終わって時間のたった今見えて来たのは漱石の生きた時代を言わないわけにはいかないということ

    明治天皇が亡くなり明治という時代が突如終わった 明治という精神の終わりです
    明治維新のあと日本は急速に近代化したけどその張りつめたものが落ち着いた時 若者たちがどう生きて行けばいいのか、、丁度第2次世界大戦が終わったあとの日本人、,,特に教育者たちのジレンマはいかがかりであったかに思いいが至ると胸の痛む私です

    Kは何かにつけて煮詰めていくタイプ、,,自分の世界に居なかった女性の存在に気ついた時内面が瓦解して行ったんだと思う 

    町田さんもその辺りを他人が欲しがるものを見て自分の欲望とする、、、という心理のことを仰っていますね
    先生も自分の欲望の素を親友のKならどのように感じるのかKによって自分の心を凝視したのではないか
    しかし本心からKがお嬢さんを愛していると確信した時先生の心にもはじめて本当に欲しいものとしてお嬢さんが定着した 恋愛劇の一つの定番です

    Kの自殺後  なにも知らないお嬢さんとの結婚、、、どこか鬱々と楽しまない結婚生活,,,そんな先生を妻も私も救うことは出来ない
    まさに  天知る、、地知る  我知る、、、で先生は消えぬ罪悪感から逃れることは出来なかった

    まさに明治天皇がお隠れになり明治の根幹が音立てて崩れ漱石にも青年たちにも皆
    大義を失い未来というものを描けなくなった時代ではなかったでしょうか 近代人に忍び寄る虚しさのはじまりだったんでしょうか

    私は 心とはころころかわるからついた名前だと思うことがある

  2. keiko より:

    Kは好きなひとをとられたから自殺したのではなくもっと2重3重に自身の心を問うたのではないか 寺の息子として、、、などという観念の理由ではなく果てしない求道の道、、その途上で思いがけず心に入り込む女性にであって恋慕を感じたときがKの終わりのときではなかったのか
    残された先生は 首尾よくお嬢さんと結婚したが その生活は鬱々として楽しまなかった、、、その果ての単なる罪悪感からの自殺ではなく、、、Kの、、(、先生もお嬢さんも関係なく ただただKが自身の心のゆらぎに絶望して死を選んだ)のかと思い至ったときの のこされた先生と仮定してみると 本当にもう、、、絶句である

    • 町田 より:

      >keiko さん、ようこそ
      明治という時代をシンボリックに体現していた明治天皇が崩御され、漱石が「明治の精神が終わった」という感慨を持つことによって、『こころ』が成立したと解析されたKiko さんの解釈は、この作品を理解するうえで、大きな手がかりになりそうですね。
      実際に、そのような指摘をしている研究者たちもいるようです。

      >>「明治維新後の急速な近代化によって、時代の空気が強いる張りつめた緊張感が、当時の若者たちを追い詰めていた」
      Keiko さんは、そのような若者の代表として、作品に登場する「K」を考えていらっしゃるわけですね。その見立ても、当たっているように思います。

      また、2度目のコメントにおいて、「K」の自殺の原因を、単に「恋人の喪失」という観点で捉えるのではなく、広い意味での「求道」への挫折感として捉える視点も、慧眼であるように感じました。
      「K」の自殺において、「自分の世界に居なかった女性の存在に気づいたとき、Kの内面が瓦解してしまった」というご指摘も、それを裏付ける根拠のような気もします。

      そうなると、「先生」の自殺も、「他人の恋人を奪った罪悪感」から来るものというよりも、「K」の求道の挫折を見てしまったがゆえの懊悩や絶望感から来ているということになるわけですね。Keikoさんの指摘により、視野が一気に広がったように思いました。

      私は、keiko さんのおっしゃる >>「Kが、自分の世界に居なかった女性の存在に気づいたとき、(Kの)内面が瓦解してしまった」という指摘はきわめて重要なものであるように感じます。
      なぜなら、人間の精神は、いつでも “自分の世界に居なかった者” によって開かれるからです。
      それが、<他者との出会い>ということになるのではないでしょうか。

      お嬢さんを知らない前の「K」は、ある意味で、孤立しながらも安定した精神状態を保っていたわけですよね。しかし、「先生」の画策により、その安定した精神世界の “外部” を見てしまったわけです。
      「自分の外に、自分を存在を揺るがす恐ろしい世界があることを知ってしまった」とでもいうのでしょうか。それは今風にいうと、「アイデンティティークライシス」。

      往々にして、人間の自我は、そのようなアイデンティティークライシスを経て組み替えられるわけですが、「K」はその自我の組み替え作業に失敗してしまったのかもしれません。
      「アイデンティティーの確立」というのは、いわば西洋近代哲学の専売特許でしたから、漱石は欧米流のアイデンティティーの確立が、逆に日本人の悲劇を生むという省察を「K」の自殺に託したのかもしれませんね。

      いずれにせよ、『こころ』は、どのような方向から光を当てるかによって、輝きの質が変わってしまう多面体の鉱石です。
      Keiko さんの見方も、光の当たる場所を明確に特定し、そこにひときわ輝く一面を浮かび上がらせた素晴らしい推察であるように感じました。
       

  3. keiko より:

    町田先生  いつもいつもいざアップされたあとの我がコメントを読みますと思ったことを伝えていない文章力の無さを痛感するのですが そこをあたたかくうまくまとめてなるほどの結果に誘導してくださり  天までのせてくださり本当に温情を感じて唸っています

    アイデンテテイとは何気なく使っていましたが 自己同一性ですか 本来なら大体は青年期までに自分とは?自分らしさとは? 自分はどこへ向かおうとしているのか? 自分は一体生きて行く能力はあるのだろうか、、、などと種々模索をするものなのでしょうが うまくいかないときには人生の各場面において何度もそのクライシスを味わうものかもしれませんね

    私も ふっと閑になると思いがけず 心に穴があくのを感じます
    そんなとき 独走的哲学者梅原猛の(森の思想が人類を救う)を読むことがあります

    ips、、 執事ロボット、、卵子の検査、、朗報と思っているものの反乱がいずれおこってくるでしょう そんなとき3文字のこ、こ、ろ、が 垣間みることの出来ない深い所から発する光を放ってくれるのかもしれません
    暮れも押し詰まってきました 本当にご健勝を祈ります

    • 町田 より:

      Keiko さん、ようこそ
      「アイデンティティー」というのは、「クライシス」があってこそ、はじめて成立するようなものなのかもしれませんね。『こころ』の「K」のように、安定した自己の殻の中に閉じこもっている限りは、「自分=宇宙」というような全能感に満たされているでしょうから、アイデンティティーという概念を見つめる契機もないかもしれません。

      では、人間が「アイデンティティー」なるものに目覚めるのはいったいどんなときなのか?

      たぶん、その原初の形は恋愛にあるように思います。いくら気持ちを伝えようにも、それを受けてもらえるかどうかは相手次第。世界には、自分の一方的な意志だけではどうにもならないものが存在する。そういう<他者>を知ることによって、人はその<他者>と向き合う自己の存在も知る。
      そんな形で、人は誰でも経験する卑近な例として、恋愛から最初のアイデンティティーを獲得するのかなぁ … などと思ったりもします。『こころ』の「K」は、自己の内面空間が濃密過ぎたために、突然そこから引きずり出された衝撃も大きく、その獲得に失敗したのかもしれませんね。

      コンピューターや、その管理下に置かれるロボットがやがて、その創造主たる人間を凌駕するというのは、SF モノの定番ですが、どうやら “彼ら” には、「こころ」を作る機能は、やっぱりないらしいですね。
      「こころ」とは、精密で合理的な思考回路に、突如闖入者のようにまぎれ込んでくる「ノイズ(雑音)」ですから。

      コンピューターというのは、演算能力の効率化を図るために、そのマイナス因子となる「ノイズ」を絶えず排除しようとします。
      しかし、人間の脳は、人が逡巡したり、ネガティブな結論に傾きがちになったりしたときの混乱や戸惑いを背景に活性化するわけですね。
      要は、人間というものは多様なノイズの乱反射のなかで、あいまいに生きていくことを宿命づけられた存在ではないでしょうか。人間にそのような生き方を強いる「ノイズ」のことを、人は「こころ」という言葉で表現しているのではないかという気がします。

      いよいよ年末ムードが高まってきましたね。
      Keiko さんもご健勝に。
       

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