健さんの美学

 
 俳優高倉健が逝去して、ここ数日のワイドショーはその訃報を知らせる特集一色になった。
 改めて、高倉健の存在の大きさを思わざるを得ない。


 
 しかし、それにしても、多くの人は高倉健の何に共感したのだろうか。
 ワイドショーの切り口を見ていると、もちろん俳優としての業績を称えるものも多いのだが、それ以上に、「人間」としての魅力に言及したものが目立つ。
 どうやら、「健さん」は、今の日本人が持っていないような美質を生涯貫き通した「人」であると見られているようなのだ。

 「今の日本人が持っていないもの」

 それは、「誠実」とか「人情」、「筋を通す」 … などという言葉で表現されがちであるが、要は、ストイシズムである。
 特に、最愛の妻であった江利チエミに生涯愛を捧げ、彼女の死後も他の女性をストイックに遠ざけていたというエピソードは、多くのファンから半ば驚嘆され、かつそこに最大の賛辞が集中しているかの感がある。

 それは「愛の深さ」がもたらしたものなのだろうか。
 もちろん、それが健さんの心の中心部を占めていたことは間違いのないことなのだが、それだけでは説明がつかない。
 
 私はそこに、『葉隠』などに代表されるような、武士道的精神の発露を見る思いがする。
 武士道の歴史は意外と新しく、江戸時代以前にさかのぼることはないというのが通説である。
 むしろ、300年続いた江戸期の平和による武士の惰弱化をいましめるように発達したものだから、ある意味、実利を度外視した “不自然なくらい” の精神性が際立つ。

 「武士道」の定義や解釈はさまざまあるようだが、その本質となるところは、そぎ落とすことによって生まれるストイシズムである。
 「自分を語らない」
 「欲をかくことを恥とする」
 「一度誓った愛は、たとえ相手が故人となろうとも、生涯貫く」
 そういうストイシズムを、高倉健という「人間」は、死ぬまで手放さなかった。

 その徹底ぶりが、彼の凛とした風情に結実していった。
 これほど、恥ずかしげな笑顔を持つ人間を、私はほかに見たことがない。
 万人が、「幸せ」のバロメーターとする笑顔に対して、彼は終始それを他人に見せることに恥じらいを持った。
 たぶん、江利チエミという伴侶を亡くした自分が人並みの幸福を得ていいのだろうか。
 そういう「ためらい」が、その照れくさそうな笑顔の奥にわだかまっていて、それが「人間・高倉健」の笑顔に、独特の陰影と孤独感を忍ばせていたのではないかと思う。

 高倉健は、その存在自体が、「抜かれることのない日本刀」であった。
 ひとたび抜けば、その鋭利で強靭な刃は、どのような人間をも一刀のもとに切り裂いていただろう。
 その怖さが分かるから、彼は(映画以外では)抜くことのない刀を胸に秘めて、他の人間に、仕事に、社会に接していた。

 でも、ファンは分かる。
 高倉健が忍ばせていた日本刀は、身の凍るような見事な反りを持った、魔性の美しささえ湛えた剣であったことを。
 日本人は、最後の「武士」を失ったのかもしれない。
 
 
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