VRの旅と、リアルの旅  東浩紀 『弱いつながり』

 
 ( 「VR時代のRV」 の続き)
 バーチャル・リアリティー(VR=仮想現実)が、リアル世界よりも “リアリティー” を持つような時代になると、人間にとって「旅」とは何なのか、という議論が起こってくるような気がする。
 なぜなら、今後飛躍的な進歩を遂げると予測されるVR機器を手に入れるだけで、人間は実際の旅行に行かなくても、世界中のあらゆる名所旧跡を自分の目よりもクリアに、詳細に眺めることができるようになるからだ。

 そのような機器は、すでにそうとう高度な段階にまで開発が進んでいて、視覚に飛び込んでくる映像が、テレビモニターのような平面ではなく、頭を動かせば360度対応するという、まさに本物の景色と同じような立体映像になるという。
 これをゲーム機に応用すれば、体験者が “3次元感覚” で、恐竜時代にタイムトリップしたり、海底を遊泳しているうちにサメと遭遇したり、宇宙船を操縦して敵の宇宙船とバトルを展開したりすることも可能となるとか。

 このような機器を使ったヴァーチャル旅行は、将来もっともポピュラーなアミューズメントとして普及していき、やがて人間は、普通の人ではなかなか行けない秘境のギニア高地とか、アマゾンの密林、ヒマラヤの山頂なども、あたかも自分が現場に立っているようなリアル感を伴って体験することができるようになるというのだ。

 こういう “VR旅行” が完璧に実現するのは、まだもう少し先なのかもしれないが、すでに我々の日常感覚は、徐々にリアル世界から離れ始めようとしている。
 ネット世界が、すでにそうなっている。
 行ってみたい場所を検索エンジンに打ち込むだけで、今はほとんどの地球上の風景が瞬時にモニターに現われてくる。
 テレビなどの旅行レポートも充実してきたが、しかし、まだそれは放映される日を待たなければ見ることはできない。
 だが、ネットの検索エンジンは、思い立った瞬間に、間髪入れずに人が見てみたい世界を眼前に取り出してくれる。

 しかも、グーグル検索のカスタマイズ化はかなり進化していて、人が何かを調べたいと思ったときに、検索エンジンの方で勝手に、その人の調べたい世界を予測検索してくれるらしい。
 だから、「世界遺産になった風景を集中的に調べたい」と思った人のパソコンには、グーグルがその人の嗜好するデータを効率よく収集してくれるため、類似情報がどんどん検索ページの上位に上がってくる。

 「便利になった」
 といえば、その通りだが、そこで実現される「VR旅行」と「リアルな旅行」では、いったい何が違うのだろう。

 批評家の東浩紀は、『弱いつながり 検索ワードを探す旅』という本のなかで、その違いを「移動時間のあるかなしか」だと指摘する。
 リアルな旅には、そこにたどり着くまでに「時間」がかかる。また、そこから戻るときにも「時間」を要する。
 そこが、プラウザを閉じれば、すぐに日常に戻るVR旅行とは異なっているという。

 リアル旅行が人に要求する “目的地にたどり着くまでの時間” は、効率社会の原則に従えば、“無駄な時間” である。
 しかし、そこで押し付けられる「時間」を享受することによって、旅そのものが変質していく、と東浩紀はいう。
 現地に着いた時に眺める景色そのものは、ネットの画像と変わらないかもしれない。
 しかし、そこにたどり着く間に、身体の中に染み込んでいく「移動時間」が、画一化されたネット画像とは異なる、その人の固有の風景を現前させる。

 どういうことか。
 つまり、人は「旅行先」にたどり着くまでの移動時間を使って、その目的地を想像したり、期待したり、推理したりするという精神活動を行うからだ。
 「旅行が非日常の体験だ」とよく言われるのは、実はこの移動時間中の精神活動が、日常的な思考から解放される契機を生み出すからである。

 ネットを通じて眺める風景は、「情報」でしかない。
 「情報はいくらでも複製(コピー)できるが、時間は複製できない」
 と東浩紀はいう。
 複製できないものこそが、人間の想像力を刺激する。
 要するに、リアル世界で「旅」することは、活発になっていく想像力の力を借りて、誰が見ても同じであるはずの風景を、見る人ごとに “異なる” 景観に作りかえる作業なのだ。
 検索エンジンで眺める “風景” は、ただの情報にすぎないから、誰が見ても同じものにとどまってしまう。

 情報は、ノイズを払いのけることで、精度を増す。
 しかし、想像力は、そのノイズの無作為な乱反射によって生まれる。
 それまで、その人が持っていたさまざまな知識や記憶の断片がノイズとなって、脳内でスパークし、撹拌され、きらきらと乱反射することによって、想像力は高まっていく。
 旅の移動時間は、その想像力を飛翔させていく必要不可欠な時間なのである。

 東浩紀は、学生時代に「表象文化論」というものを研究したという。
 表象文化論とは、いわば言語にできない体験を「言葉」にしようとする思考を指す。
 たとえば、災害や戦争のように、あまりにも深刻で複雑なものは、単純な記録だけではその本質に迫れない。そのような言語化できない世界を、あえて言語にしようと努力するときに、災害や戦争に巻き込まれたときの人間の痛みに対する想像力がつちかわれる。
 表象文化論でいう「表象」とは、いわば、「表象されないもの」を通じて、ものごとの本質を浮かび上がらせる作業のことをいうのかもしれない。

 彼は次のように書く(途中の行を多少省略した意訳)。

 「ネットは記号でできている世界である。(記号とは)文字だけに限った話ではない。音声や映像も記号である。
 … つまり、ネットはすべて人間が作った記号だけでできている世界なのだ。ネットには、そこに誰かがアップロードしようと思ったもの以外は転がっていない。 “表象不可能なもの” はそこに入らない。
 … 重要なのは、(その)言葉にならないものを言葉にしようと努力することである。
 … 言葉にならないものを、それでも言葉にしようと苦闘したとき、その言葉は本来の意図とは少し異なる方法で伝わることになる。哲学的な表現を使えば “誤配” されることになる。
 僕たちは、言葉にならないもの自体を知ることはできないけれども、その誤配を通して、言葉にならないものがこの世界に存在するという事実を知ることができる。
 要は、記号を扱いつつも、記号にならないものがこの世界にあることへの畏れを感じることができる」 

 多少小難しい表現だが、これは重要な指摘であるように思う。
 つまり、移動時間を費やすリアルな旅とは、“言葉にならないものがこの世界にある” ということを知る旅なのである。 

 この『弱いつながり 検索ワードを探す旅』という本は、I Tという情報技術革命によって情報へのアクセスが格段に向上した世の中で、いかに “情報化されない” 体験を手に入れるか、ということを追求した本である。

 情報化されない体験とは、個人の身体性が関わる体験である。
 たとえば、自分で歩いたり、バスに乗ったり、キャンピングカーを使ったりして体験する旅は、個人の身体を使わなければ手に入らないものであり、それがゆえに、他の誰とも共有できない、かけがえのない体験となる。
 
 そういう自分の身体性の根ざした欲望は、机の前に座って、検索エンジンを作動させて情報を得るときにも大事になってくる。
 誰もが無意識に使っているありきたりの言葉を使って検索エンジンを作動させても、そこから得られる情報は、やはり、ありきたりの情報に過ぎない。
 しかし、自分の身体性と関わる欲望は、ありきたりの言葉とは異なる検索ワードを探し始める。
 いわば、グーグル検索のカスタマイズ化を裏切って、グーグルが勝手に「この人ならばこういう情報を欲しがるだろう」という押し付けを振り切るような新しい言葉を探すこと。
 それが、ネット社会が人間に押し付ける画一化から逃れる方法となる。

 ネットには、あらゆる情報が日々流れ込み、それと接するユーザーは、どんな情報でも自分が任意に取得できるものだと信じ込んでいる。
 しかし、それは逆で、ネットの情報は、どんどん世の中の最大公約数の人間が求める情報の総和となっていく。
 そこには、自分が世の中のマジョリティーであるという安心感はあっても、自分が世の中から外れているのかもしれないという、不安も驚きもない。
 
 東浩紀はいう。
 「ネットにはあらゆる情報が溢れていることになっているけれど、むしろ重要な情報は見えない。ネットでは自分が見たいと思っているものしか見ることができないのだ。なぜなら、みな自分が載せたいと思うものしかネットに載せないからである」

 このようなネット情報の画一化は、まさに日本の景観の画一化と歩調を合わせている。
 日本国内にいるかぎり、九州に行っても、北海道に行っても、一歩コンビニに入れば並んでいる商品はみな同じ。ファミレスに入ってもメニューはみな同じ。書店に入っても、並んでいる本はみな同じ。
 それは、何も日本に限ったことではない。

 東浩紀は、「世界はいま急速に均質化している」という。
 20世紀には、旅に出ればまったく異なる他者、まったく異なる社会に出会うことが可能だった。けれども21世紀には、世界中のほとんどの人が、みな同じようなショッピングモールに行き、同じような服をまとい、同じような音楽を聴き、同じようなファストフードを食べる、そういう光景が当たり前になってきている。

 彼は、それを “息苦しい” という一方で、それを肯定もする。
 そこのところが、私にはよく分からない。
 彼はこういうのだ。
 
 「このような画一化を批判する人もいる。たしかに、地方性や固有性がフラットに均され、世界中がマクドナルドとハリウッドに収斂していくのは退屈かもしれない。
 しかし、そもそも人間は、民族や歴史の差異にかかわらず、みな同じ身体をしている。
 となると、求めるものにそこまでバリエーションがあるわけではない。その前提のうえで、商業施設や交通機関といったインフラのデザインが効率的な形に収斂していくのは、別に暴力でもなんでもなく、一種の必然のように思う。
 …… そこで文化の多様性が失われるとしても、それはやはり歓迎すべき動きである。それは、アジアやアフリカの人々が、貧困や病気といった苦しみから今急速に解放されつつあることを意味するからである」

 というのが、彼の言い分。
 世界の均一化を「息苦しい」という反面、一方ではそれを肯定する。
 この本を読んでいて、どうも印象が拡散してしまうのは、彼のそういう立ち位置のあやふやさが作用している。

 でも、それこそが、彼のいう「ノイズ」なのであろう。
 整然と矛盾なく整理された情報ではなく、光の当たり方によって、さまざまなきらめきを生み出すノイズ。
 それが大事だという彼の主張は、このようなベクトルの異なる視点の混在によって保障されていると見るべきかもしれない。

 最後に、この本で面白かったと思える部分を挙げる。
 それは「性」についての記述。
 彼は、18世紀の思想家ジャン・ジャック・ルソーに言及して、次のように語る。

 「ジャン・ジャック・ルソーは、文学史的に見ると、はじめて性について赤裸々に描いた作家でもある。
 … ルソーは、唯物論的に、人間をとても生々しくとらえていた。(僕は)、ネットは強い絆をますます強くする世界で、そこにノイズを入れるためにリアル世界があるのだと思っているが、そう考えると、人間に「性」があるということはとても重要だ。なぜなら、性の欲望はまさに人生に “ノイズ” を入れるものだからだ。
 (男と女が)一晩一緒に過ごしたという関係性が、(その人の)親子や同僚といった強い絆をやすやすと超えてしまうことがある。社会的に大成功を収めていた人が性犯罪で破滅することがあるかと思えば、まったくの敗北者が権力者(との性の結びつきで)政治を左右するようなパートナーになったりする。
 そういう非合理性が、人間関係のダイナミズムを生み出している。もし人間に性欲がなかったら、階級は今よりもはるかに固定されていたことだろう。人は性欲があるからこそ、本来ならば話もしなかったような人に話しかけたり、交流を持ったりしてしまう。
 ……人間は、目の前で異性に誘惑されれば思わず同衾してしまう、そういう弱い生き物であり、だからこそ、自分の限界を超えることができる」

 あらゆるアートや文学では、恋愛が大きなテーマとなっている。
 恋愛とは、身もフタもなくいえば「性衝動」である。
 ネットには、性衝動を満足させるようなあらゆる画像や記述があふれている。
 しかし、それは単なる「情報」でしかない。
 情報である限り、そこには「人」はいない。
 「人」がいなければ、性衝動は、単なる個人の排泄欲求のひとつにすぎない。

 東浩紀のこの本は、「リアル旅」と「VR旅」の違いを明らかにするとともに、「リアルセックス」と「VRセックス」の差も、いみじくも指摘しているように思える。
 
 
参考記事 「東浩紀 動物化するポストモダンの現代人」

参考記事 「ヒト型ロボットの誕生で、男の性欲はますますバーチャル志向になる」

参考記事 「都市と消費とショッピングモール」

参考記事 「二人のルソー (アンリ・ルソーとジャン・ジャック・ルソー)」

 
 

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VRの旅と、リアルの旅  東浩紀 『弱いつながり』 への4件のコメント

  1. かっちゃん より:

    「無いものは無い。」という時、要求に応えられるものはnothing という状態を指しているのか?それともeverythingが選択可能であることを意味しているのか・・・?

    東氏のレトリックはネットの両義性をかい潜る必要性から生じているかのようですね。ヒトという存在の生物学的/解剖学的デザインの共通性は、行動/言語による表現可能性の均質化のためにではなく、むしろ無数のアプリケーションとしての「生き様」を実現する為に採用された機能要素と考えるべきです。

    ノイズの効用は、多様な生の在り方に不確定要素を忍び込ませることで、軌道の過剰な修正を誘発し、結果としてのオーバーランがプラスにもマイナスにも作用する可能性を意識の中に気配として用意する事のように思われます。

    • 町田 より:

      >かっちゃん さん、ようこそ
      さすがに鋭い洞察であると驚嘆いたしました。
      >>「東氏のレトリックがネットの両義性をかい潜る必要性から生じた」というのは、そのとおりかもしれませんね。
      彼は、21世紀になってにわかに増大してきたネットの破壊力が、旧態依然とした日本の思想界の言説を打ち砕くことを見据えながらも、その混沌とした無秩序な広がりにも辟易していたように感じられます。

      >>「ヒトという存在の生物学的/解剖学的デザインの共通性は、行動/言語による表現可能性の均質化のためにではなく、無数のアプリケーションとしての『生き様』を実現するために採用された機能要素…」

      若干、高度な表現なので、粗雑な頭の私にはなかなかイメージが湧いてきませんでしたが、要するに、「みな同じ身体を持っているわけだから、インフラのデザインが効率的な形に収斂していくのは必然」という東氏の見方には不備があるということなわけですね。
      そうだとしたら、私もまた同感です。

      「ノイズ」というのもの対する解釈も、「科学的にいうと、そういうことなのか」と勉強させてもらいました。
      示唆的なコメント、ありがとうございました。
       

  2. かっちゃん より:

    いえいえ、「高度な表現〜」などめっそうもありませんデス。

    そうですね・・音楽は「機能要素」としては12音階の順列組み合わせとインターバルで出来ているし、駆動系と操舵系に外殻をヒューマンインターフェース付きで実装していることが「クルマ」としての成立条件と言って良いでしょうし・・。レゴブロックを見れば、機能をモジュール化することと、それを利用した成果物の多様性/均質化についての評価は同じ次元で捉えるべきものではないことは明確です。

    ただ、物理現象は基本的に空間(xyz=前後+右左+上下)の変化を捕捉できれば分析と対策が講じられるのに対して、人間の(価値追求)行動は、(個人的)好き嫌い、(集団的)善悪、(規範的)正誤の変化も(ノイズとして!)関与してくるので複雑なんですよね・・・。

    • 町田 より:

      >かっちゃん さん、ようこそ
      面白いですねぇ ! かっちゃん さんの表現。
      個々の言葉は、高度に抽象化されて難解ですけど、一面、ある種の生々しさが漂うにようにも思えます。
      物事をどんどん抽象化していくと、その極まったところに通俗的なリアリズムでは捉えられない「肉感的な手触り」が生まれることがあります。御コメントには、そのような印象を抱きました。

      「人間という動物は何をしでかすか分からない」という洞察を、>>「人間の個人的な好き嫌い」、「集団的善悪」、「規範的正誤の変化」などの諸要素に還元して再構築し、それを「ノイズ」に収斂させていくレトリックは、なかなかスリリングですよね。表現方法の勉強になると思いました。
       

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