反知性主義の時代

 
 かつて思想的な立ち位置を示す標語であった「右翼」とか「左翼」という言葉が、今は意味をなさなくなった時代だといわれている。
 冷戦時代までは、わが国においては、マルクス主義を報じて革命を目指す思想を「左翼」。天皇を崇拝の頂点に置き、その左翼革命から “国を守る” 勢力を「右翼」という分かりやすい対立構造があった。

 しかし、冷戦構造が崩壊して、ソ連が資本主義国家となり、中国も開放経済に邁進するようになった現在、かつて日本で “左翼” といわれた人々は、“お手本とする国家” を失い、せいぜい「右傾化を強める安倍政権に反対して、日本の平和と民主主義を守ろう」風の、リベラリストとしての主張を繰り返すぐらいしかできない。
 
 一方、今の「右翼」といえば、ネットなどで「嫌韓」や「反中国」を標榜する “ネトウヨ” 勢力を指す場合が多く、そこには、かつての右翼が持っていたような思想的先鋭さはない。
 「右と左の対立」などという言説も、急速に風化しつつあるようだ。

 それに代わって、新たな対立軸として浮上してきたのが、「教養主義あるいは知性主義」と、それを毛嫌いする「反知性主義」だという。
 最近たまたま読んだ本が、2冊とも、これに言及するものであった。

ヤンキー化する日本

 一冊は、精神科医の斎藤環氏が著した『ヤンキー化する日本』(角川ONEテーマ21)。
 斎藤氏には、『世界が土曜の夜の夢なら - ヤンキーと精神分析』という面白い本があり、自分はこの本からいろいろな刺激を受けた。
 今回の『ヤンキー化する日本』はその続編ともなるものだが、前著のように持論を述べるだけではなく、“ヤンキー文化” を考察できる人々との対談集という体裁をとっている。

 斎藤氏は、同著のなかで、
 「現代は、ヤンキー文化がかつてないほどの広がりを見せている時代ではないか」
 とテーマを投げかけ、そこに、日本人の精神風土に深く根差した “反知性主義” の系譜を見出す。

 氏に言わせると、
 「ヤンキーは、熟慮を嫌う、理屈を嫌うという反知性主義の傾向が強い」
 … のだそうだ。
 
 それは、ヤンキーの好む言葉からも推測できる。
 「ヤンキーにとって無条件に「良いもの」とされている言葉は、『夢』、『直球』、『愛』、『熱』、『信頼』、『本気』、『真心』、『家族』、『仲間』、『覚悟』、『遊び』、『シンプル』、『リアル』、『正直』 … 」

 どれもヤンキーとは関係なく、現代日本社会で、当たり前のように賞賛されている言葉に過ぎない。
 しかし、それこそが、斎藤氏のいう “現代はヤンキー文化がかつてないほどの広がりを見せている” という考察を裏づける。

 それらの語群の背景にあるものは、
 「アツさと気合いで、やれるだけやってみろ、という行動主義」。

 ゴールには「夢」があり、そのゴールに向かうエネルギー源は「愛」や「熱」、そして「気合い」と「アゲ」が至上の価値観となる。
 つまり、
 「判断より決断が大事、考えるな、感じろという世界」
 感じるためには、思考は邪魔になる、という論理展開となる。
 
 
お笑い芸人たちが天下を取った背景

 同氏は、このようなヤンキー気質を持つ人物像として、次のようなモデルを提出する。

 「ヤンキー親和性の高い人々は、基本的にコニュニケーションが巧みである。いま学校で、スクールカーストの上位を占めるのは彼らだ。
 ちなみに教室内の身分を決定づけるのは基本的に 『コミュ力』 だが、その内実は会話能力などではない。空気が読めて、他人をいじって笑いが取れる才覚のことだ。理屈を言うヤツ、考えるヤツは『キモイ』と言われ、カーストの 『中』 以下になってしまう。
 彼らの『コミュ力』のロールモデルはお笑い芸人だ。お笑い界にはヤンキー出身の芸人も少なくない。
 ヤンキー的芸人といえば、引退した島田紳助がいる。
 彼は『自頭(じあたま)が良い』。彼が賞賛されたのは、司会者としての仕切りのうまさであった。
 このような自頭を計る基準もまた 『コミュ力』 である。学校空間のみならず、日本社会においてインテリが束になってもかなわないのは、『自頭の良い(キャラの立った)ヤンキー』 であろう」

 現代社会で人気を集めているのは、まさに、このような人物。
 特に、子供たちの注目を集めるお笑い芸人の大半は、上の引用がそのまま通用するようなキャラクターを持っている。
 お笑い芸人ではないが、かつて一世を風靡した橋下徹大阪知事も、この系譜に入る。
 橋下氏のように、「情報量の少ない会話を無限に続けることができる 『コミュ力』こそが、覇者の条件なのだ」という。 

 実際、橋下氏が反論するインテリたちを相手に、ばっさばっさと快刀乱麻に切り捨てるトーク番組は痛快ですらあった。
 それを観ていた若い人たちは、さぞや “知性なんてなんぼのものか” という思いに駆られたことだろう。
  
  
ヤンキーは実利をとる

 このような “反知性主義” 的な文化風土が形成されてきたのは、それほど新しいことではない。
 斎藤氏にいわせると、
 「昔から日本人の大多数の価値観では、空気を読まずに理想を語り続ける者は、どの集団でも敬遠され、『ホンネという現実』 を受け入れた者だけが周囲からの承認を集め、力を獲得してきた」
 … のだという。

 氏にいわせると、そもそも坂本龍馬の時代からそういう系譜が顕在化したのだとか。
 龍馬人気というのは、「理屈よりも自頭の良さで世の中をリードした」という神話が結晶化したもので、裏を返せば、ヤンキー人気。
 彼の先見性というのは、封建社会に生まれ育ったにもかかわらず、いちはやく資本主義的な嗅覚を働かして、商売を立国のかなめに据えようと考えたことにある。
 それがなぜ “ヤンキー的” かというと、理屈よりも実利を重んじたところにあった。
 
 斎藤氏はいう。
 「ヤンキーは反知性主義だからといって、勉強が苦手、とは限らない。自頭の良いエリートヤンキーは、タテマエとしては学歴をバカにしつつも、猛勉強して一流大学に入り、弁護士や行政書士の資格を取るものもいる。
 ただし、彼らは徹底して実学志向になる。哲学とか精神医学とか、実利につながらない学問は洟(はな)にもひっかけない」

 そこには、意外と計算高いリアリズムがあり、
 「彼らは、“社会を変えよう” とは言わない。“社会が変わる” とも信じていない。彼らの夢をポエム風にまとめると、こうなる。
 『世界は変わらない。変えられるのは自分だけだ』。
 つまり彼らは、自らの夢すらも実現可能な範囲にとどめておけるだけのリアリストなのだ」
 … ということになる。

 「社会を変えよう」
 というのは、これまで左翼的なインテリの専売特許だった。
 彼らは言い続けた。
 「今までの既存の政治体制や古びた思想から脱却し、大衆よ目覚めろ。家を捨てて荒野に立て」
 と。
 しかし、このような “切断” を強要する言説は、ヤンキーからもっとも毛嫌いされる。
 何しろ、ヤンキーが尊重するのは、「夢、愛、信頼、家族、仲間」なのだから。
 
 
安倍首相はヤンキーだ !?
 
 このようなヤンキー気質が、特に世の中のメインストリームを形成し始めたのは、
 「2012年の暮れに第二次安倍政権が成立してから」
 と、斎藤氏は指摘する。
 対談パートに入ってから、氏は、中国文化に詳しい歴史学者の與那覇 潤(よなは・じゅん)氏との対談で、こういう。
 
 「(安倍さんは)さすがに 『瑞穂(みずほ)の国の資本主義』 という迷言を吐いただけあって、ヤンキー的としかいいようがない体質を持っている。
 思想的な一貫性はあまり重視せず、ロジックがなくてポエムだけがある。ヤンキー的な人々というのは、感性を肯定するために知性を批判する」

 ちなみに、「瑞穂の国の資本主義」というのは、安倍首相が2013年1月号の『文藝春秋』 に掲載した論文 (以下一部を孫引き) 。
 
 「日本という国は古来から、朝早く起きて、汗を流して田畑を耕し、水を分かち合いながら、秋になれば天皇家を中心に五穀豊穣を祈ってきた 『瑞穂の国』 であります。
 私は瑞穂の国には、瑞穂の国にふさわしい資本主義があるのだろうと思っています。自由な競争と開かれた経済を重視しつつ、しかし、ウォール街から世間を席巻した、強欲を原動力とするような資本主義ではなく、道義を重んじ、真の豊かさを知る、瑞穂の国にふさわしい市場形成の形があります。
 …… 安倍家のルーツがある長門市には棚田があります。日本海に面していて、水を張っているときは、ひとつひとつの棚田に月が映り、遠くの漁り火が映り、それは息をのむほど美しい。
 棚田は生産性も低く、経済合理性からすればナンセンスかもしれません。しかしこの美しい棚田があってこそ、私の故郷なのです。そして、その田園風景があってこそ、麗しい日本ではないかと思います」

 … というような詠嘆調の美文で綴られた論文で、斎藤氏は、その無邪気な率直さを認めながらも、“内容空疎の名調子” と喝破する。
 そこに散りばめられた言葉には、「自立自助」、「汗を流す」、「道義」、「美しさ」などという、およそ政治の言葉とは無縁なボキャブラリーが横溢し、ヤンキーの愛する「夢、愛、熱、信頼、真心、家族、仲間、覚悟、正直」などという言葉と親和性が高いことを指摘する。
 
 ヤンキーは、事あるごとに、
 「考えるな、感じろ」
 というが、それに対して、斎藤氏は一言。
 「考えない者には、感じることすらできない」
 
 
日本劣化論 

 安倍政権の本質を「反知性主義」と断じたもう1冊の本に、笠井潔&白井聡両氏の対談集『日本劣化論』(ちくま新書)がある。

 ここで笠井氏は、今の安倍政権が、アメリカの意向を汲むような政治路線を歩んでいながら、対中国戦略などにおいて、アメリカとの関係がぎくしゃくしてきた理由として、
 「 …… (安倍政権が対米関係に鈍感なのは)安倍個人の知性の問題もあるが、日本社会に深く根を張りつつある新たな反知性主義の問題でもある」
 と指摘。
 それを受けて、白井氏は、
 「こういう時期にああいう人間が首相になって、最高権力者になってしまったということは偶然ではなく、ある意味必然。社会全体に反知性主義が蔓延してきた結果である」
 と応じている。

 ここでもテーマは、「日本に広まりつつある “反知性主義” 」だ。
 では、笠井・白井両氏のいう「反知性主義」とは何か。

山の手エリート文化人への反発

 もともと、知性主義とか教養主義(あるいは啓蒙主義)というのは、日本古来のものではない。
 それは、明治以降、欧米から輸入されてきたものだ。
 カタカナ書きのヨーロッパの思想家や学者たちの書物が、時代の先端思想としてもてはやされ、教育レベルの高い山の手文化人の家庭に広まっていった。

 が、それは日本古来の伝統的な思想形態とは異質なものだった。
 (これは私の言葉だが)、ヨーロッパ系知性というのは、必ずしも共同体の絆を大切にするものとは限らない。時には、反社会的ですらもある。
 「大衆蔑視」という言葉を使うと語弊があるのかもしれないが、共同体とは切断された “自立した個人” を尊ぶ傾向があって、文学的、美学的に大衆から決別した価値観を志向することを重んじた。

 当然、このような “山の手文化気質” は、庶民といわれる層の反感を買う。
 日本には、ヨーロッパ的な教養とは別に、「勤勉に働き、他人から見て恥ずかしくないような常識を身につける」という生き方 … 笠井・白井両氏は、これを「二宮尊徳型人物」と定義する … そのような生きざまを体現する人物像こそが社会で評価されるものとなり、ヨーロッパ的教養人などは、鼻持ちならない人種として敬遠される傾向にあった、という。

 この “庶民的人物像” に対する世間的な評価の確立が、汗水垂らして経済復興を目指した戦後の高度成長を支え、それが80年代の 『プロジェクトX』 (NHK)まで続いた。
 だから、日本の “反知性主義” というのは、ある意味、戦後日本を支えた主流イデオロギーであったというのが、笠井・白井両氏の見立てだ。

 ところが、このような戦後経済を領導した “反知性主義” も、バブル崩壊以降の経済的失速で、急速に実体を失っていく。
 後に残るのは、「実体」ではなく、「気分」。
 「知的なもの」、「教養主義的なもの」を生理的に毛嫌いする “気分” だけが残り、それが日本中に蔓延していく。

 ここで、前掲した斎藤環氏の 『ヤンキー化する日本』 との接点が生まれる。
 『日本劣化論』 の中で、白井聡氏はいう。
 「反知性主義というのは、知性が不在だということではなく、知性への憎悪である」

 この言葉は、まさに斎藤環氏のいう、「ヤンキーの特徴は、熟慮を嫌う、理屈を嫌う」という言葉と呼応する。 
 
 
知性の崩壊は、日本の経済的成功がもたらした
 
 『日本劣化論』 のなかで、笠井氏は語る。
 「教養主義が失墜した最大の理由は、日本経済の大成功。1980年代の消費社会とポストモダンな近代批判が、それに追い打ちをかけた」

 たらふく食べられて、楽しく遊べる社会では、知性などは要らない。
 1980年代のバブル期においては、「知性・教養」はますますウザくて、イケていないものの代名詞となり、町の本屋から教養書は消えて、代わりに、いかに儲けるか、いかに楽しく遊べるかというハウツーものが大量に並べられていく。
 「知性」と「教養」は、バブル以前のステータスであったから、それを葬り去るには、「時代遅れ」のレッテルを貼るだけで十分だった。

 また、80年代のポストモダニズムでは、「知性」と「教養」は “近代の生んだもの” と定義づけられていたから、近代批判をメシの種としていた当時のインテリ層をも巻き込んだ。

 このようなバブル期から現代まで続く「反知性主義」の系譜を、笠井・白井両氏は、アメリカの実学主義的な学問の浸透とは無関係ではないという。
 白井氏は述べる。

 「90年代、様々な学問分野でドイツやフランスの学問からアメリカの学問に変わった。ここも一つの転換点となる。
 そもそもヨーロッパとアメリカでは、学問が前提とする人間観が違う。ある意味、アメリカは動物の国で、人間の人間性を認めないため、ヨーロッパ人が想定した人間の人間性を前提としない形で学問ができあがってきた。
…… 『人間の不在』 は、心理学などで特に典型的に見て取れる。また、経済学や政治学にかんしても同様で、計量分析的な手法が急速に幅を利かせるようになってきた。
 計量分析とは一人ひとりの内面を考えず、(人間を)“群れ” としてとらえるものである。そうした方法がまったく無意味だとは思わないが、それのみが学問であるという傾向が90年代以降強まった。
 このことが教養主義の崩壊とどこかで通底している。
 つまり、アメリカ的な学問はどんなに極めても教養ある人間にはなれないともいえる。それは、悪く言えば、飼い馴らされた群れを統御するための技術学であり、その技術のマイスター自身もそのような人間観に疑問を抱くことがない」

 言い得て妙だという気がする。
 笠井・白井両氏は、批評家・学者だから、学問についてのアメリカの影響を語っているが、ことは学問だけですまされない。
 ハリウッド映画などの映像文化、ファーストフードのような食文化に至るまで、私には「人間を群れとしてしか考えない」思想が蔓延してきているように思えて仕方がない。
 
 ヤンキーの愛する「仲間、絆、家族、夢、愛、熱、信頼、真心」などという言葉も、美しい響きを持ちながら、しょせんは “群れの思考” である。
 
 もちろん、それらの言葉が、現在、人々の折れそうな気持ちを立て直すことにつながることは認めるが、「愛」 も、「絆」も、「夢」も、言葉そのものよりも、それがどういう文脈の中で語られるかが問題なのだ。
 文脈を無視して、「愛」や「絆」という言葉だけが独り歩きしているのが、現状。
 それは、結果的には、「愛」や「絆」の意味を空洞化することにつながりかねない。

 私は、「時代遅れ、へそまがり、天邪鬼」と言われようとも、「愛」や「絆」の彼方に広がる荒野の知性を見つめる人間であり続けたい。
 
 
関連記事 「斎藤環 『世界が土曜の夜の夢なら』 (ヤンキーの美学)」

参考記事 「ヤンキーとドン・キホーテ」 

参考記事 「 『桐島、部活やめるってよ』 とスクールカースト」

参考記事 「朝ドラと安倍政権」

  
参考記事 「GOLD ☆ RUSH (キャロルと矢沢永吉)」

参考記事 「孤独を嫌う時代」
  
 

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反知性主義の時代 への9件のコメント

  1. 通りすがり より:

    早稲田大学出身の弁護士である橋下徹は、完全にインテリの部類でしょう。彼は豊富な知識を背景に、言葉を選ぶセンスが凡百のインテリ層より抜きん出ているから、議論を制してきた(彼の主張内容の成否はまた別として)。要はインテリ同士の論争に過ぎず、論敵は橋下の知性に敗北したに過ぎない。それを反知性(あるいはヤンキー)の象徴としてあげつらうのは、単なる嫉み、あるいは負け犬の遠吠えでしかないと思われます。彼に勝ちたければ、彼の論敵は彼よりも優れた修辞学を身につければよいだけの話ではありませんか。

    • 町田 より:

      >通りすがりさん、ようこそ
      通りすがりさんのご意見ももっともだと思います。
      要は、「インテリ」という言葉をどう捉えるかということですよね。その捉え方によって、橋下さんに対する評価もガラッと変わるのではないでしょうか。

      もし「インテリ」の条件を、(早大のような)「一流私大」を出ており、「弁護士」の資格を獲得し、「豊富な知識」を持ち、「優れたレトリック」を身につけること、だというのならば、橋下さんは押しも押されもしない「インテリ」です。
      「インテリ」という言葉にはそういう解釈を受け入れる余地がありますから、その条件のなかにおいて、橋下さんが立派なインテリであることは、通りすがりさんのおっしゃるとおりで、まったく問題がございません。そして、異論もありません。

      しかし、「インテリ」の条件はそれだけでしょうか。
      私は( … これは私だけの勝手な解釈かもしれませんが)、インテリの根幹にあるものは「知性」であり、それ以外の何物でもないと思っています。
      「知性」というのは、「社会的資格」や「知識」や、「レトリック(言葉を選ぶセンス)」だけでは測れないものではないですか?
      「知性」というのは、「知」を誇ることではなく、自分の “知” を恥じることですから。

      「知性」の向かうべきところは、議論において相手を敗北させることではなく、相手の議論の中から「何か創造的なアイデアはないものか?」と探し出し、最終的には、その議論の相手と共闘できる立場を見出すことでしょ?
      そうなると、相手をぐうの音も出ないほど叩きのめして平然といられる橋下さんには、私はどうしても「知性」を感じることができないのです。(むろん、頭の良さは認めますけど)

      また、 >>「橋下さんの論敵は、彼よりも優れた修辞学を身につければよいだけ」というご意見も、ちょっとどうなのかなぁ … としばらく考えました。
      修辞学 … レトリックというのは、言葉尻などをとらえて相手の意見を殺すことではなく、相手が言葉にしたくてもできないものを、うまく言葉としてまとめあげることに使うべきだと思っているのですが、いかかですか?

      橋下さんにヤンキー気質を見出したのは、私ではなく、『ヤンキー化する日本』を書かれた斎藤環さんです。私はただ面白いと思ったから紹介しただけなのですが、橋下さんを一般的な「ヤンキー」として分類するのは、私としても無理があるように思えます。
      もちろん、斎藤環さんもそのことは分かっており、彼もここでは、橋下さんの「コミュニケーション力」の高さに注目して、それが地頭の良いヤンキーの思考回路とそっくりであるということを言おうとしたのだと思います。

      決して、通りすがりさんのご意見に異を唱えたわけではありません。通りすがりさんのおっしゃることももっともだと思います。
      ただ、それに、私の個人的な感想を付け加えさせてもらったものだとしてお許しください。
       

  2. 市川勇 より:

    ヤンキー文化、アンチインテクチュアリズム、考えさせられるご意見でした。私はべトナ厶戦争の前期アメリカに留学しておりましたが、現地高校生が共通して持っているベースの圧倒的なパワーになすすべもなく、おいおいそれは違うんじゃないの、そんなに単純化しちゃっていいのかよと感じたのみでちょっと悔しい思いをしたことがあります。現在になぞらえると、吉本芸人のスラスラとした、ちょっとはわさびの効いた、結果としてはそれ以上の思考を必要とさせない仕切り、と通底している気がします。anti-intectuallism という言葉は当時聞きましたが、なるほどいいえて妙だな、とおもっただけでおしまいにしてしまいました。 
    最近富に言葉が軽くなっていますが、居るところにはちゃんと人が居るものだ、とこの投稿を読んで心を強くしました。モヤモヤしたまま記憶の底に押し込んでいた違和感を捉え直す機会をいただき感謝しています。

    • 町田 より:

      >市川 勇 さん、ようこそ
      この 2月22日に頂いたコメントは、うっかり見逃しておりました。
      本日はじめて気づいた次第です。
      返信しないまま放置してしまい、誠に申し訳なく思っております。お許しいただければ幸いです。

      アメリカ留学時における貴重な体験を織り交ぜたコメント、本当に勉強になりました。
      また、当ブログのつたない意見にも過分なご評価をいただき、恥ずかしい気分にも駆られつつも、素直に感謝いたします。

      このブログは、斎藤環氏の『ヤンキー化する日本』と、笠井潔&白井聡の共著なる『日本劣化論』をたまたま同時に読み、そこに共通した問題意識として「反知性主義」というテーマが浮上していたことを見つけ、それを抜書きしただけのものです。

      したがって、自分の意見としては、はなはだ未熟な部分がたくさん残っていると思いますが、市川勇さんの適切な補足をいただき、少しは原著のテーマに迫ることができたように感じます。

      誠にありがとうございました。
      また、返信が遅れたこと、お詫び申し上げます。
       

  3. 小村 より:

     現在の国民が平和に真剣に取り組んでいることに関心を持っております。然しなぜか近代史・現代史を良く学ばず、なぜ「日本は総て悪い」と考えているのでしょうか?現在は約100年前に戻った感が致します。力により国境の変更・内乱・覇権私議の台頭などです。多くの国が自国が強力な軍事力を持ちながら日本に憲法9条を求めております。それを我が国の識者が賛同し国内に発信しております。
     現在も軍事力無き外交は存在いたしません。いざと言う時には日本はアメリカの防衛に頼らざるを得ません。自民党も社民党も同じです。このことを良く知って欲しいです。普通の国ではないのです。ドイツやイタリアも同じ敗戦国ですが軍事力を持ち、いざと言う時はこれを行使しております。明治時代の我々の取ってきた政治、大正・昭和時代の歴史を良く学び、賢く毅然とした国として存在させて頂きたい。

  4. 小村寿太郎 より:

     皆さんのコメントをお待ちしております。

    • 町田 より:

      >小村さん(小村寿太郎さん)、ようこそ

      このつたないblog記事を、たくさんの読者に向かって開かれた議論の場として活用してくださるというお取り計らいに、まずは感謝いたします。
      そこで、お話のとっかかりとして、まずは私の感じていることを述べさせて頂こうと思います。

      小村さんのコメント拝読するに、憲法9条の是非についてご意見だと思われますが、私個人としては、現在の安倍政権が改憲に向けて動き出したことは、外交政策上、非常に選択肢を狭める方向に向かっていくように思えてなりません。

      というのは、9条の条文を維持していた方が、(言葉は汚いですが)日本はずるく立ち回ることができると感じるからです。
      すでに自衛隊は、旧帝国陸海軍なども及ばないほどの立派な戦力を維持した “軍隊” であり、その存在自体がすでに国防的な機能を十分に持っているように思います。

      中国・韓国・北朝鮮などもそのことは十分に把握しており、常に自衛隊の戦力やらその指揮系統の徹底具合を調査し、決して侮れない “軍隊” であると認識しています。

      数年前だったでしょうか。中国戦闘機が領空侵犯を犯したとき、日本の自衛隊機がスクランブルをかけた話がありましたが、そのときの中国機の目的は、日本の防衛意識とその実力を探る意味があったといわれています。
      中国機は自衛隊機の後方に回り込み、機銃掃射のできる位置を取りましたが、これは明らかな “戦闘意志” の表明を意味し、自衛隊機が先に反撃に出ても許される状態であったといいます。
      しかし、自衛隊機は中国機のパイロットを上回る練度と冷静な判断でそれを回避し、中国機の心胆を寒からしめたという話です。
      それによって、中国空軍は日本の自衛隊パイロットの実力と、その指揮コントロールの徹底ぶりとその緻密さを感じて、それを脅威に思っただろうという専門家の観測を聞いたことがあります。

      このように、すでに自衛隊はその強固な統率力や隊員の練度などにおいて、中国軍を寄せ付けない実力を備えているともいえましょう。
      だから、彼らにとって日本の軍事力は「自衛隊」であろうが、「国軍」であろうが関係なく、侮ることのできないプレゼンスを示しているといえるでしょう。

      さらに、同盟国であるアメリカ自体が、自衛隊の “国軍” 化を本当に歓迎しているのかどうか。
      彼らは、口では「日本の軍事力」によって、アメリカ軍の肩代わりをしてほしいという意見を匂わせますが、実際に自衛隊の国軍化が実行されると、アメリカの対中国外交も非常に難しくなってしまうので、本心ではそれを歓迎していないはずです。

      また、日本も、仮にアメリカからの軍事出動要請が出たときには、憲法9条を盾にとって拒否すれば、無用な戦争に国力を費やさなくてもすみます。
      アメリカも本当に欲しいのは、日本の “カネ” と、日本に基地を確保する言い訳でしょうから、日本が「憲法9条の縛りがあるから対外戦争に出られない」と主張すれば、アメリカもまた、それが日本内に基地を確保する言い訳になるので、彼らにとっても都合がいいはずです。

      そのように考えると、憲法9条を “ずるく” 使うことによって、日本はとてつもない戦力を維持したまま、それを無駄に消費することを避けることができると思うのです。

      確かに、“隣国” 中国の覇権主義は、日本にとって脅威のように感じれますが、その中国だって、日本の自衛隊と本気になって戦うとなれば、初戦(のみ)は日本の圧倒的な優位に終わり、仮に長引いても、そうとうの消耗戦になることを計算しているはずですから、対外的には強気な態度を貫きながらも、おいそれと日本に対して覇権主義を押し通すことはできないでしょう。だから、彼らの “攻勢” は外交によって封じ込めることは可能であり、またそういう外交を貫けることが、日本の誠のパワーであると感じます。

      だから、憲法9条を改憲するということは、そういう外交パワーを弱めてしまう “まずい選択” であるように思います。

      小村さんのお気持ちに添うような返信になったかどうか、はなはだ心もとないのですが、とりあえずの意見としてお汲み取りいただければ幸いです。
       

  5. 受験生 より:

    憲法9条に関して、確かにblog主さんの意見は的を射ているものと感じます。

    憲法というものは国家の根幹をなす法であり、それが極度に狭義なものになれば融通が利かない邪魔者になってしまいます。現在の憲法9条の曖昧さが功を奏しているというのは真理であります。

    • 町田 より:

      >受験生さん、ようこそ
      そうとう古いエントリーにもかかわらず、貴重なコメントをいただいたことに感謝申し上げます。
      また、記事内容の趣旨にご賛同いただき、ありがとうございます。
      歴代の自民党政権は、憲法9条の “あいまいさ” を巧みに利用して、アメリカとの関係なども外交手腕で乗り切ってきましたが、どうも安倍現政権はそういう “ずるさ” が欠けていますね。経済面での努力はある程度認めますが、外交面では、さらなる “したたかさ” が要求されるように感じます。
       

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