ヴァロットンの絵の謎

 
 スイス生まれで、フランスで活躍した画家フェリックス・ヴァロットン。
 … という画家を知らなかった。
 2014年の9月6日、テレビ東京の 『美の巨人たち』 で紹介されるまで、その名を聞くことも、描いた絵を見ることもなかった。

▼ ヴァロットン 『ボール』

 しかし、番組で紹介されたいくつかの絵を観ているうちに、すぐさま虜(とりこ)になった。自分の “好きな絵” の系譜に入る絵だったのだ。

 どういう絵が好きなのか。
 自分の好みは一貫している。
 “不穏な絵” が好きなのだ。

 何やら、まがまがしい事件が起こりそうな絵。
 真相を知ると、不幸な運命に巻き込まれそうな絵。
 深い憂愁と、けだるいアンニュイに包まれた絵。
 そういう “祝福されない” 絵を自分のアンテナが拾ってしまう。

 絵の奥に、表面に描かれたものとは別の世界が口を開けているような雰囲気が漂うもの。
 「絵」というものは、概してみなそういうものだが、その中でも、ことさら「謎」を感じさせてくれるようなもの。

 画家でいえば、
 ジョルジョ・デ・キリコ。
 エドワード・ホッパー。

 そういう絵に触れると、神経回路がピピピッと動き、謎解きの衝動が脳内を駆け回る。
 
 ヴァロットンの絵は、そういう自分の嗜好を見透かしたかのように、ひっそりと寄り添ってきて、「迷宮に行ってみないか?」という呪文をささやいた。
 
 フェリックス・ヴァロットン。
 1865年に生まれ、1925年に60歳で亡くなったという。
 19世紀の世紀末気分の中で呼吸し、20世紀初期の爛熟した妖しげな文化に包まれたまま逝った人だ。
 あまり名前を知られていないのも当たり前。
 日本はおろか、地元のフランスでさえ、これまで無名に近い扱いを受けていた画家だという。

 しかし、その画風が現代社会の陰影をも映し出すという評価が与えられ、先ごろパリで開催された大回顧展では、なんと31万人の人々が会場に足を運んだといわれている。
 日本で、ようやくその個展が開かれたのが、今年の6月(6月14日~9月23日 三菱一号館美術館)。
 テレビなどでもいろいろな特集が組まれ、いちやく話題の画家になった。

▼ フェリックス・ヴァロットン

   
 テレビ東京の 『美の巨人たち』 では、そのヴァロットンの 『ボール』 という絵が「今日の一枚」として選ばれていた。

 夏の陽光が照り輝く豊かな芝生。
 麦わら帽子をかぶった少女が、夢中になって、転がる赤いボールを追いかけていく。
 

 少女の行く手には、緑の豊かな森が広がり、健康的な爽やかさが画面の手前を覆っている。
 少女の無邪気さ、天真爛漫さが、地面を蹴る足の躍動感から伝わってくる。

 ここだけ切り取ってみれば、明るい牧歌的な世界を描いた絵のように見える。
 しかし、画面後方にたたずむ二人の人物まで視線が届くと、突然別の空気が絵の中に流れ込んでくる。

 白い服と青い服を着た貴婦人たち。
 顔までははっきりと見えない。
 しかし、遠くにいるこの二人の人物が、少女の生きている世界とは違う住人であることははっきりと伝わってくる。

 二人の貴婦人は何者なのか?
 そして、少女とはどういう関係なのか?

 『美の巨人たち』 では、パリの街頭でこの絵をさまざまな人々に見せ、それを推理させていた。
 「どちらか片方は、この女の子のお母さんだわ」
 という声が多い。
 
 しかし、そうは言いつつも、
 「でも母親なら、普通もっと女の子のそばにいない? こんな距離があるなんて不自然。女の子のことが心配じゃないのかしら? きっと話に夢中になっていて、女の子のことを忘れているのね」
 という意見を添える人もいる。

 そう。
 この二人の貴婦人と少女の間には、「距離」があるのだ。
 単に物理的な距離というだけではない。
 芝生の途切れるところから、なにか別の世界が広がっているような “距離感” だ。
 それが、この絵に得体のしれない怖さをもたらしている。
 明るく牧歌的な風景が、この二人の貴婦人のかもし出す不穏な空気に染まり、にわかに暗さと冷たさを増していくように感じられる。
 
 自分はこの絵を見て、不吉な匂いを嗅いだ。
 遠景の二人の人物に見覚えがあったからだ。
 特に、右手の人物。
 全身を白い衣装で包んだ人間は、私にとって、この絵ではじめて見た人物ではなかった。
 別の画家が、これとそっくりのシルエットの人間を描いていた。
 アルノルド・ベックリンの 『死の島』 においてである。
 
 
  
 その記憶が自分の脳内に沈んでいて、ヴァロットンの 『ボール』 を見たとたん、『死の島』 の人物が深海から泳ぎだすように浮き上がってきた。
 だから、「遠景にたたずむ二人は、“死の島” からの使いなのだ」 と、自分には思えたのである。

 『美の巨人たち』 でも、やはりこの二人の人物が、少女のいる世界とは別の世界を暗示していることに触れる。
 番組に登場する美術研究家の一人は、「大人と子供の世界の分離」を指摘した。
 明るい芝生の世界は子供の世界。
 そして、その芝生を閉じ込めるように包んでいる緑の森が、二人の貴婦人たちが生きる大人の世界。 

 少女は、赤いボールを夢中になって追いかけている。
 そこには、大人の約束事にとらわれない自由な幼年期に対する憧れが描かれている。

 しかし、そのボールは、大人たちのいる森の方向に転がっている。
 懸命に少女が追いかけても、やがてボールは、大人の世界を暗示している深い森の中に吸い込まれていくだろう … と。
 だから、この絵は、至福の幼年期の終わりを … つまりは終末の予兆を描いているのだと。 
 
 そういわれると、確かに、少女の行く手をふさいでいる森の木は、無邪気な幼年期を呑み込む “津波” のように見えてくるし、少女の背後に迫る影は、少女の幼年期にとどめを刺そうとしている “狩猟者” のように見えてくる。

 こういう絵を描くフェリックス・ヴァロットンとは、どういう人物なのか。
 ネットから拾った情報によると、彼はスイスのローザンヌの中流家庭に生まれ、絵画を学ぶためにパリに移住し、芸術運動のナビ派に属して、若い画家たちとの交友を図ったという。
 
 そして、1989年にパリの大画商の娘で、3人の子供がいる未亡人ガブリエルと結婚。ブルジョワの仲間入りをして、生活は安定する。
 
 しかし、番組の解説によると、この結婚は必ずしもヴァロットンに幸せをもたらしたわけではなかったともいう。
 血を分けた実子ではない連れ子たちとの生活は、彼に精神的なプレッシャーを与え、家庭生活を息苦しいものにしていった。
 そんな気分が濃厚に描かれているとして紹介されたのが、下の1枚。
 『夕食 ランプの光』

 

 家族が集う楽しいはずの夕食だというのに、食卓の上にはやるせないほどの空虚な空気が流れている。
 特に正面にいるおかっぱ頭の少女は、瞳の奥に、黒々とした虚無を抱えている。

 ここでは妻の姿が見えない。
 それは、妻がこの空漠とした生活に助けをもたらすような人間ではないことを物語っている。
 だから、主人公のヴァロットンは、やり場のない目を伏せているだろうと思われる後ろ姿のシルエットとして描かれざるを得ないのだ。

 彼の妻は、どんな人物だったのだろう。
 たぶん彼は、その妻の心根に、ついに触れることはできなかったのではなかろか。
 … と思えるような作品が、下の1枚。
 『赤い服を着た後姿の女性のいる室内』

 後姿。
 “顔” が見えないのだ。
 文字通り、ヴァロットンには、妻の “素顔” … すなわち「正体」を見ることが叶わなかったのだ。
 いくつもの部屋にさえぎられた室内は、まるで迷路のようだ。
 それも、ヴァロットンが新しい家族たちの心が読めない不安さを表現しているように感じられる。

 この 『赤い服を着た後姿の女性のいる室内』 も、私にはかつて見たことのある1枚の絵を招きよせる。
 ハンマースホイの描いた 『背を向けた若い女性のいる室内』 (下)
 タイトルまで似ている。
 
 
 
 ハンマースホイもまた19世紀に生まれた画家。
 ある意味で、ヴァロットンと共通の精神世界を持っているように思える。
 彼もまた女性の後姿を描く。
 あたかも、相手の顔を正視することに恐れを抱いているかのように。

 そして、ハンマースホイの絵には、陽光の差し込む静謐な室内が描かれても、その光は、この世とは別のところから差し込む光のように感じられる。

▼ ハンマースホイ 『居間に差す陽光』

 
 ヴァロットンの女性観がどのようなものであるのか、私はよく知らない。
 しかし、下の絵( 『貞淑なシュザンヌ』 )に描かれた女性の目を見ていると、彼にとって女性は、油断のならない、危険な香りに満ちた存在であったのではなかろうか。
 ハゲおやじ二人に囲まれた “シュザンヌ” は、「貞淑」という言葉とはうらはらに、声をひそめて悪だくみでもしているように見える。

 この “女” にも、自分は前に会っている。
 ジョルジョ・ドゥ・ラ・トゥールの 『いかさま師』 (下)という絵の中でだ。

 中央の女は、周りの連中とグルになって、いかさまトランプで無邪気な若者から金銭をまきあげようとしている。
 その女の恐ろしい目と、ヴァロットンの描くシュザンヌの目は酷似しているように思える。

 ヴァロットンにとって、「女性」は男を惑わす妖婦だったのかもしれない。
 彼は油彩と同時にたくさんの版画も制作していたが、その版画にも女性のしたたかさを表現したようなものが目立つ。
 下の版画のタイトルは、『お金』 。

 絵は、まさにタイトルどおりの物語を匂わせる。
 お金をエサに、若い女性に言い寄る中年紳士。
 彼の背中がそのまま部屋の暗さと一体となっているのは、男が自分の欲望を闇の中に隠しながら、甘い言葉で女性に迫っているからだろう。

 女は、男の視線から逃れるように、外を見つめている。
 しかし、彼女もまた、自分の心を隠している。
 これは、女が男をじらしているのだ。
 その証拠に、その表情には、甘い媚が浮かんでいる。

 男と女の駆け引きを、白と黒の対比によって描く手腕はなかなかのものだ。
 ここにも、女を邪悪な存在として描き続けたビアズリーとも共通した世紀末美学が感じられる。

▼ オーブリー・ビアズリー 『サロメ』 

 ヴァロットンはまた、女の妖しげな官能美も巧みに描く。
 下の絵は、『エウロペの略奪』。

 ギリシャ神話に出てくる牡牛に化けたゼウスが、美しい人間の王女エウロペを誘惑して略奪するという話がテーマになっている。
 エウロペの美しい尻を見てほしい。
 このような肉感的な美尻を描いた画家は、ロココ時代の画家フランソワ・ブーシェ以外に見当たらない。

▼ ブーシェ 『金髪のオダリスク』

 
 豊饒なエロスと、邪悪な精神。
 ヴァロットンは、そこに女性の本質を見た。
 それは、いかにも19世紀的な女性観だが、ある意味で、男が理想としているものでもある。
 数々の男を転がして泣かしてきた邪悪な女が、自分だけに見せる甘い笑顔。
 現代では、それを「ツンデレ」という。

 もちろん、邪悪な女の甘い笑顔がいつまでも自分に向けられるとは限らない。
 しかし、裏切られるという “期待” がなければ、官能的な恋は生まれない。

▼ ヴァロットン 『怠惰』 … アンニュイも、また男にとってはエロスの源泉だ
 
   
 
参考記事 「ジョルジョ・デ・キリコの世界」

参考記事 「エドワード・ホッパーの “晩秋” 」

参考記事 「ベックリン 『死の島』 の真実」

参考記事 「ハンマースホイの 『扉』 」

参考記事 「怖い絵 (ラ・トゥール) 」

参考記事 「官能美の正体 (ロココの秘密) 」
  
 

カテゴリー: アート   パーマリンク

ヴァロットンの絵の謎 への6件のコメント

  1. keiko より:

    何回読んでも頭の中が目くるめく西洋絵画のカオスの中に溺れてしまって整理がつきません町田さんとはそも何もの?
    振り絞って書いています 絵画とはルノアールに始まってルノアールに帰していました
    今の今はダリとキリコが好きなんです読んでいて吃驚しました
    ギリシャ生まれのキリコが父親の死後イタリアに移り更にミュンヘンの美術学校に通うようになるのですがそこでまさにベックリンを発見しています
    そしてそのイタリアでニーチェとショウペンハウエルを知りドイツの歴史と哲学に触れました
    その頃ベックリンの(オデッセウスとカリュプソー)の中のマントの人物を自身の(神託の謎)という作品の中に不安気に神の答を待つ人物として描いています
    余談ですがベックリンの ペストという作品は今時のアフリカのエボラ出血熱など、、、忘れた頃の災害を彷彿します
    この時にはもうニーチェの影響でベックリン風の描写から離れていわゆる形而上絵画を具体化していったのです
    何もかもご存知の町田さんに申し上げるのではなくただただ私の机上に今乗っている
    画集がダリとキリコとベックリンなのですから恐れいっています
    先週あたりから静岡県でキリコ展がはじまったそうです なんとか行って見ようと思っています いずれにしてもキリコの特筆すべきは変わった絵なのに何一つ変わったものを描いているわけではなくイタリアでのありふれた建物や彫像を描きながら独特の孤独感や空気感や時間が止まった感を表しています
    それはきっと1点消失画像ではなく消失点を多数持つことによるのではと聞きましたなるほどです
    その辺はデルボーのまったく視線の合わない女たち、,,と共通している点かもしれませんそうしてそれは二人に限らず作家たちも苦しい人生の中で夢の時間を求めたのかもしれないなと、、、今 おもいました 限界です 涼しくなりましたお元気で

    • 町田 より:

      keiko さん、ようこそ
      いつも思うのですが、keikoさんのメールを拝読していると、かなり自分と共通した嗜好をお持ちのような人に感じられます。

      ベックリンの『オデュッセウスとカリプソ』 という絵は、私も好きな絵です。
      不思議な味わいがありますね。
      絵画なのに、デザイン的な映像処理が感じられるし、何よりも画面左側にたたずむ彫像のようなオデュッセウスの後姿が印象的です。
      この “彫像” は、ご指摘のように、そのままキリコの描く人気のない広場にたたずむ彫像に引き継がれていくように思えます。

      考えてみれば、彫像というのは凝固した人間であり、いわば人間の姿に、「永遠の時間」を注入したアートなわけですよね。
      私たちは彫像と向き合うとき、そこには作品のなかには表現されていない「時間」に感じ取ることになり、それが彫像の持つ超越性、異次元性、神秘性の秘密となっているような気がいたします。

      デルボーも彫像のような人物像をよく描いています。
      彼の作品に登場する人物たちが「生者」」でも「死者」でもないのは、やはり「時間」が凍結した感覚をはらんでいるからでしょう。

      なかでもキリコは、静止した時間を表現するために、かなり意図的に彫像を描きました。彫像には、喧騒がこだまする美術館で眺めたとしても、その周囲を沈黙でうずめつくす空気がみなぎっているように思えます。
       

  2. keiko より:

    台風19号が去って 台風一過を見ました  雲一つなく空あくまでも青く、、台風?なんのこと?、、、と言いたげな程のあっけらかんとした空でした 一瞬罪深く感じました
    秋の仕事ももう余裕無いところに来たのにこの20日が診察です もう知りません

    そんな中キリコを見ました  いつも勝手に自分の中で展覧会を開きながら行くので
    実際の展示を見ると当然落差があり我意を得たりがっかりしたりです
    今回思いがけずデッサンが多く やっぱりなと思うと同時にあまりうまいと感じないデッサンに親しみを感じました デッサンというよりはエスキースが多かったような、、
    (白馬の頭部)とかしつこくうまいルーベンスを消化したようなのは圧巻です
    古典の勉強を徹底していて 、、、ふとキリコはギリシャの占い者のようだなと感じました
    1911年始めてパリの地を踏んだキリコは詩人アポリネールと知り合い彼の庇護を受けるようになります
    今回は無かったけど以前から(アポリネールの肖像)と云うのが謎でした 画面に唐突に銃が描かれているのです 今回の記述の中に後年戦争に参加するアポリネールが受ける頭部の負傷を この絶対的な詩人の透視力が予感したんだろうとのことでした
    それにしてもダリにはガラが、、、キリコにはイザベッラが、、、

    後期の作品は どの作家にも多少感じるタッチの荒さや軽味を帯びた無邪気さがあらわれ ある意味新しいものを模索しはじめていたのでしょうか
    あらためてニーチェ哲学の詩的な力を得たひとだったんだと羨ましく感じました
    すごい詩人の言葉のイメージの喚起力は凄いですから、、、
    今日偶然読んだ中にカンデインスキーが『自分は芸術の中でしか時間空間を超越することが出来ない、、、』と言ったとありました うんそれはほんとうに、、、

    私の内なるイメージの表現、、そのためにがんばって生きているのですが,,,大変ですねえ
    町田さんも驚異的がんばり、、いつも励まされますありがとう

    • 町田 より:

      >keiko さん、ようこそ
      静岡のキリコ展に行かれるというお話を、コメント欄でお読みした記憶がありますが、行ってこられたのですね。

      おっしゃるように、キリコは、初期の頃と後期では画風が変わりますね。
      私は ( … 多くの人もそうかもしれませんが)、1910年代頃の『街の神秘と憂愁』 や、『占い師の報酬』 あたりの画風が好きです。70年代になってくると、モチーフは変わらないまでも、絵の中から “静けさ” が後退しているような気がします。

      しかし、晩年の絵には、>>「タッチの荒さ、軽身を帯びた無邪気さ」と同時に、別の狂気も現われるようになってきましたね。ヘタウマの気配も漂うようになって、どこか、つげ義春の“夢シリーズ” にも近いものを感じます。

      keikoさんがおっしゃる「白馬の頭部」というのは、1958年の作品のことでしょうか。
      あれは凄いですね。
      まさに、“ニーチェの馬” そのものに思えます。
      なるほど、ルーベンス …。
      確かに、そのような筆致も感じられます。

      キリコが、ニーチェ哲学の詩的なイメージを継承したというのは、どこかニーチェの永劫回帰と連動しているのかもしれません。
      永劫回帰というのは、キリスト教的な「最後の審判」に至るまでの直線的な時間概念と対立するものですから、言葉を変えれば、「時間の停止」にもなるわけで、初期の作品に流れる「静寂」も、その時間の停止がもたらすもののような気もします。

      カンディンスキーの >>「芸術の中で時間空間を超越する」という感覚も、それに近いものなのかな … と、ふと思いました。

      まだ診察が続くようですね。
      くれぐれもお身体を大切に。
      私もまた、22日に血栓症の診察に行きます。
       

  3. keiko より:

     今年もついに12月を迎えました あたたかい雨が降っています
    今日ついに医大で烽窩織炎の終息を言っていただきました、、というより手遅れになって重篤化した皮下組織の回復となったわけですが、、、懲りました
     11月に京都市美術館で展示をさせてもらったのですがその際抜け出して同館で企画されていたジャポニズム展の中でふと目に止まった絵葉書を買い求めたらヴァロットンの(にわか雨)でした
     三菱1号館での展示を知らなかった自分は町田さんのブログでこの、、時代に迎合しない画家を知ったのですが このにわか雨はロートレックかと思う程さりげなく屈託がなくお洒落でした
     黒い人影は自然の成せる技にただただ右往左往しているように見えます

     以前ブログで拝見した不気味な絵は(夕食ランプの光)、、、再婚した妻の家族と一緒に夕食のテーブルを囲んでいる画家自身の真っ黒な後ろ姿、、、大体こんなに黒一色の人物像は他に例がありません
     向かいの童女の見ひらかれた不信の目、、、左の息子のふてぶてしさ、、画家の身のおきどころの無さが伝わってきます
     ジャポニズム展の中に、、、と意外でしたが版画の中には成る程と思える(ユングフロウ)などの雲の処理が浮世絵そのもののようでした
     ピカソやセザンヌの活躍する時代にあえて神話や自分の世界に埋没していたことが、かえって彼独特の世界を私達にもたらしてくれたんだなと思うことは一つの啓示のようでもあります
     いずれにしてもどの絵も一つ一つが苦味のある勝れた近代短編小説を彷彿するように思います 猫がお好きですよね ポールギャリコの(猫語の教科書)は愉快ですよ

    • 町田 より:

      >keiko さん、ようこそ
      蜂窩織炎を完治されたとのこと、まずはおめでとうございます。
      大変でしたね、お疲れ様でございました。
      こちらが患っている血栓症はまだ完治せず、来週も検査と診断が続きます。
      ま、体調は平常通りになりましたので、それほど生活の不便は感じていないのですが、相変わらず、左足に弾性ストッキングを履くのがちょっと面倒です。

      「にわか雨」という版画は、突然の雨に右往左往している群衆の姿がユーモアのあるタッチで表現されていて、確かにKeikoさんのご指摘されたように、ヴァロットンの一連の作品のなかでは異色ですね。
      また、keiko さんが感じられたように、ヴァロットンの絵は、物語性を秘めているように思います。それも >>「苦みのあるすぐれた近代短編小説」というのは言い得て妙という気がします。
      ヴァロットンの生きた19世紀末から20世紀初頭というのは、確かに近代文学が生まれた時期で、市民社会の成熟を背景に台頭してきた近代的個人の内面のようなものにスポットライトを当てるという風潮が強くなってきた時代ですよね。
      それは、「個人」というものは、重層的な心理の積み重ねによって形成されるもので、その奥底には、本人ですら自覚できないような複雑な陰影が潜んでいるという自覚が広まっていた時期であったように思います。ヴァロットンの絵画は、まさにそのような世界を描いているように感じます。

      ポール・ギャリコの『猫語の教科書』は、確かに面白そうですね。いかにも猫好きな人間が興味を抱きそうなお話のように感じました。自分の家には犬がいますが、心情的には猫派なので、好奇心が働きました。
        

keiko への返信 コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">