百億の昼と千億の夜

 
 我々が把握できる「空間」と「時間」は、はたしてどのくらいの規模までなのだろうか。
 目に見える範囲なら、我々は経験上、それがどのくらいの広さなのか、そしてその「空間」に、任意の目標地点を設定したとき、そこに至るまでのおよその「時間」というものを把握することができる。

 範囲が広がって、他府県、あるいは他国ぐらいまでなら、地理的な学習を身につけた範囲で、その「広さ」をイメージすることは可能だろう。
 
 さらに、地球を超えて月に至るぐらいならば、すでに月面に人類が降り立った経験をもとにして、漠然とした「距離」やそこに至るまでの「時間」を計算することができる。 
 
 だが、そこから先の「空間」と「時間」を、我々はイメージすることができない。

 たとえば、火星までの距離は、6,000万kmともいわれているが、そう教えられたとしても、数字からその「距離」を何かに置き換えてイメージすることはもう不可能だ。

 ましてや、「オリオン座にまでの距離は地球から500光年~1500光年離れている」などと言われても、もうそれが「遠い」のか「近い」のかという感覚すら生まれてこない。

 「我々には把握できない世界がある」と知ったときに、人はどんな感慨を持つのだろう。
 パスカルは、
 「無限の空間の永遠の沈黙が、私に怖れを抱かせる」
 と言った。

 誰もが幼年期に、「夜空の星の彼方には、無限の空間が広がっている」と大人に教えられ、身の凍るような畏れ(おそれ)を抱いたことがあるのではなかろうか。
 
 たぶん、人間が抱く “心細さ” の原点には、常にそのときの気分が横たわっている。
 そして、それは必然的に、
 「我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか」(ポール・ゴーギャン)
 という問を引き寄せる。

 もちろん、答などはない。
 
 どうあがいたところで、答の出ない問には、いつしか人は無頓着になる。
 たいていの大人は、やがて現実生活の忙しさにかまけて、「無限の空間の永遠の沈黙」を忘れてしまう。
 忘れるというより、その畏れの感覚を失ってしまうのかもしれない。

 私もそうだった。
 しかし、二十歳の頃だったか、光瀬龍のSF小説『百億の昼と千億の夜』を読んだときに、その「畏れ」の感覚が強烈によみがえった。


 
 ここで光瀬龍の同小説をテーマにしようと思ったきっかけは、若手批評家の宇野常寛が、週刊誌の編集部から「人生最後の読書」というテーマを与えられて、この小説を挙げていたからだ。
 
 宇野常寛は、現在36歳。
 高校生のときに同小説を読んで、「ただただその言葉の美しさと、物語の壮大さに圧倒された」という。

 若者文化の代弁者を気取り、インターネットとサブカルチャーの領域でイマドキの気分を器用に描き出す宇野常寛という批評家を私は毛嫌いしていたが、彼の光瀬龍に対するオマージュを読んで、気が変わった。
 親近感が湧いたといってよい。

 それほど、私もまた『百億の昼と千億の夜』という小説には思い入れがあるのだ。 
 この小説が誕生したのは、1973年である。
 後の1977年になって、萩尾望都が漫画化し、そちらの方でむしろ有名になったといっていい。

 私は漫画の方は未読だが、ある意味で、漫画という表現手段の方が、この奇想天外な話を適切に伝えきれたのではないかと推測する。

 なにしろ荒唐無稽な話なのだ。
 ここに登場するのは、ギリシャの哲学者プラトン。釈迦国の王子シッタータ(釈迦)、そしてナザレのイエス(キリスト)、興福寺の阿修羅像で知られる阿修羅王。    
 それに、仏教説話に登場する帝釈天、弥勒(みろく)などといった神や菩薩のたぐいで、それらの人物(?)たちが、宇宙規模で迫りくる破局を前に、謎を解き明かし、お互いに戦いに明け暮れるという話なのだ。
 
 テーマは、この世の滅亡である。
 この地球に生物 … 特に人間が誕生したときから、実は、それは何者かによって破滅に至るプログラムが仕組まれていたというのが、この小説の骨子。

 何者
 それは人類が「神」という名で呼んでいたものだが、実はその「神」ですらも、その「何者」かの意志を実現するために存在していたに過ぎない。
 宇宙を守るために、その生成原理を突き止め、かつ滅亡を企画した「何者か」に対する戦いを挑むことが、主人公たちの使命だ。

 主人公たちの中心となるのは、阿修羅王である。
 説話では、阿修羅は天界から追われた悪鬼神とされるが、小説では中性的な魅力をたたえた美少女の姿で登場する。
 光瀬龍が、興福寺の阿修羅像を見てイメージ形成していった体験が、そこには凝縮している。

 阿修羅は、この世の破滅を企図する “何者か” に対して壮大な戦いを挑むのだが、この世の破滅が、どういう形でやってくるのかは分からない。
 作者も、それがどのような破滅なのか、具体的なことはいっさい描かない。
 ただ、銀河系とアンドロメダ銀河の衝突といったスケールの大きい破滅であることだけは示唆される。
 そして、それは阿修羅の奮闘にもかかわらず、すでに避けようのないものであることも暗示される。

 概説だけ聞くと、低学年向けのファンタジーのような印象を受ける。
 だが、読み進んでいくうちに、低学年の子供には歯が立たないような複雑な陰影をはらんだ小説であることが分かってくる。
 ここには、(1970年代当時の)最新の宇宙科学が解き明かした物理的な見地があるかと思えば、仏教・バラモン教を軸とした東洋哲学、新約・旧約聖書などの最低限の予備知識がないと理解ができないような世界が広がっている。

 途中、何度も書から目を離し、茫漠と広がる夜空を見上げたくなる。
 きらめく星の光が、何億光年の彼方から届いてきた星の最後を伝える滅亡の光のように思えてくるし、星と星の間に広がる宇宙の闇が、ブラックホールのような虚無を胚胎しているように思えてくる。

 この小説には、冒頭で書いた「無限の空間と永遠の沈黙」を、脳ではなく肌で感じるような恐ろしさがある。
 そして、それがポエムのような美しい言葉で描かれるから、なおのこと恐ろしい。
 その「恐ろしさ」の核には、茫漠たる寂寥感 (せきりょうかん) が潜んでいる。
 宇宙の正体は分からないが、「宇宙は寂しいものだ」ということだけは、確実に伝わってくる。

 この寂寥感は、のちに諸星大二郎の『孔子暗黒伝』や『暗黒神話』、押井守の『イノセンス』に引き継がれていく。
 リドリー・スコットの映画『プロメテウス』も、このテーマを焼き直している。
 
 
参考記事 「諸星大二郎の漫画」

参考記事 「イノセンス」

参考記事 「答のない問 (ポール・ゴーギャン)」
  
参考記事 「プロメテウス」
   
 

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百億の昼と千億の夜 への2件のコメント

  1. keiko より:

    今日最後の診察かと期待して大学病院に行きましたが やっと皮膚がはりましたね内部はまだ空洞がありますということで 戦いてしまいました 聞けばそんなに深い組織まで壊れていたのだそうです 秋の頑張りシーズンを前にしていささか覚悟を強いられています
    百億の昼と千億の夜、、、なんと気の遠くなるような表題でしょうだからこそ題名で萩尾望都の漫画を20年も前に手に入れていたのですが あまりの壮大さに途中で挫折していました
    父は西洋近代哲学者で一生を終わりましたが 私が出来上がった作品のタイトルを考えているとよく うーんやっぱりこれもパトス、カタルシスだなと云ってにこにこしていました
    そんな意味でも主人公がプラトンとはとうなずいたものでした
    プラトンは結局は師ソクラテスの評論で終わっている感もありますが 全編を通じて
    普段人間が見ている生成変化するものは本質のない幻に過ぎないと云う背後に 永遠不変のイデアと云う理想的な実在の世界があると著書の中で云っています
    意外で深遠に感じたのは 町田さんの指摘にあるように『シ』と惑星開発委員会が文明の発展 知的生命のあまりの進歩を疎んじてこれを取り除こうと考えそこで神を用いた設定には驚きました
    これを機にもう一度挑戦、、、夜はそろそろ長くなりそうですから、、、

    印象として 病後なのにお仕事驀進の感があります どうぞお気をつけ下さいませ

    • 町田 より:

      keiko さん、ようこそ
      メール拝読。
      思った以上に大変な症状に苦しんでおられるようで、こちらも心が痛みます。
      夏の終わり頃は、体力を消耗する方々も多く、療養にはあまりいい季節とはいえないのかもしれません。
      どうか、ご自愛ください。

      『百億の昼と千億の夜』 は、やはり萩尾望都の漫画の方が有名なのでしょうね。確かに美しい絵づらであるように思います。
      私は漫画になる前に読んでいましたので、阿修羅王の顔は、やはり興福寺の阿修羅像のイメージで固まってしまいました。
      漫画の方を先に読んでいたら、また違った読後感が生まれていたかもしれません。

      お父様が近代哲学者。
      よき指導者が “隣人” としておられたわけですね。
      近代哲学も、やはりソクラテス、プラトンから始まるのでしょうか。
      西洋哲学の伝統の深さに驚愕する思いです。

      昔、プラトンがなぜ「アトランティス大陸」の伝聞を後世に残したのか、ということを研究した著作に触れたことがあります。
      「アトランティス大陸」が存在したのか、しなかったのか、それは昔から研究者たちが情熱をかけて追及したテーマで、文献学や地質学、海洋考古学などのあらゆる知見を応用した研究がいくつもあったようです。

      しかしながら、どのような考察を深めていっても、アトランティス大陸が存在したという証拠はついに見つからなかったとか。

      そうなると、なぜプラトンはこの伝聞にこだわったのかという問題が生まれてきます。
      たぶん、プラトンはkeikoさんがお書きになったように、「永遠不変のイデア」という概念を尊重するあまりに、自分の理想とする社会を “アトランティス” という架空文明を描くことによって、人々を啓蒙しようとしたのではないか、…という解釈ができるのではないでしょうか。

      しかし、光瀬龍はこの小説を書くにあたって、あえてプラトンの真意をもう一度 “闇” の中に還元し、そこに物語的な想像力を注入しようとしたわけですね。その光瀬龍の構想力の雄大さが、まず面白いと思います。

      地球上にはびこり始めた人間という知的生命をうとましく思う 「シ」 という存在について、私も考えました。
      「シ」は、人間を作った神の上位概念として「師」にも通じ、この世にはじめて時間をもたらしたという意味で「始」でもあり、想像力の源であるという意味で「詩」であり、同時に「死」であるわけですね。
      さらにいえば、人に沈黙を強いるときの「シー !! 」 という言葉にも通じます(笑)。
      人間たちよ黙れ、ということでしょうか。

      たぶん光瀬龍は、「シ」という言葉に、このような多様な意味合いを持たせたのだと思います。
      奥行きのある小説のような気がします。
       

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