55歳からのハローライフ

  
 人間にとって、「55歳」というのはどういう年齢なのだろう。
 今の日本人の平均寿命が約83歳。
 55歳というのは、そのちょうど3分の2ぐらいに当たる歳ではあるけれど、サラリーマンの多くが60歳から65歳くらいで定年を迎えることを考えると、いわば仕事人生 “最後のステージ” に立っているという年齢なのだ。  
 つまり、長年にわたり、仕事を通じて馴染んだ生活環境が、そのあたりを境にガラッと変わらざるを得ない局面にぶち当たる歳である。

 村上龍の書いた中編小説集 『55歳からのハローライフ』 (幻冬舎文庫) 。
 知人に面白いといわれて、読んだ。
 読み終えてから知ったことだが、NHKでもドラマ化された作品であった。
 ドラマは見ていないが、きっとそれなりの反響があったのではなかろうか。小説集として、なかなか読み応えのある作品が並んでいたから。

 5編の作品が収録されている。
 主人公には、男も女もいる。
 その誰もが、53歳から63歳ぐらい。
 「リタイア」と呼ばれる人生を送り始めている。
 退職金や年金を手に入れ、仕事からも解放され、悠々自適なセカンドライフを楽しむ。
 … 普通、そういうイメージで見られる年回りである。

▼ NHKドラマの 『55歳からのハローライフ』 に出演したキャストたち

 しかし、5編の作品に登場する人物たちは、けっしてハッピーではない。
 むしろ、その年になってはじめて直面する「社会」、「世間」、「夫婦」の現実に触れて、戸惑い、混乱し、懊悩する。

 「こんなはずじゃなかった」
 主人公たちは、「55歳」 という年齢が、“悩み多き青春時代” などとは比べものにならないほど過酷なものであることを知るのだ。
 青春時代の懊悩は、まだ「やり直しが利く」という未来への可能性を担保にして、乗り越えることができる。
 しかし、「やり直し」が利かない55歳ともなると、歩んできた道が間違っていたと分かっても、後戻りができない。

 これを読んだシニアの読者は、みな何を感じただろうか。
 「俺は、こんな人生でなくて良かったな」
 と思える人は、幸せである。
 … か、もしくは鈍感である。
 たぶん、主人公と同年代の読者は、程度の差こそあれ、誰もが身に沁みるようなさびしさ、あるいは恐ろしさを感じたのではあるまいか。

 『キャンピングカー』 というタイトルの付いた作品がある。
 主人公は、会社の早期退職に応じる形で、定年を迎える。
 早期退職に応じた一つの理由は、会社の営業方針が変わったからだ。
 主人公がそれまで実践してきた営業活動は、“足で稼ぐ営業” 。
 得意先を訪ね、“誠意と熱意” を武器に商品を売り込み、接待を重ねて契約に漕ぎつけるというやり方である。

 しかし、業績の悪化にともない、株主である主力銀行が送り込んできた経営陣は、「提案型の営業」という方針を掲げ、データを駆使した理詰めの説得を推奨し、接待費も大幅に削られる。
 それに適応できなかった主人公は、窓際に追いやられる。
 だが、早期退職に応じた理由は、それだけではない。
 中型のキャンピングカーを買って、妻と日本全国を旅するという夢があったからだ。

 主人公は、美しい山や海や湖を眺めながら、大自然の中を夫婦で旅する楽しみをキャンピングカー購入に見出す。
 だが、その計画は妻には内緒にしている。
 購入した後に、妻をびっくりさせようと思ったのである。

 家族で退職祝いのパーティーを開いた席上、主人公は、妻、息子、娘の顔を眺めながら、キャンピングカーを購入して、妻と全国を回る計画が進んでいることを打ち明ける。

 が、関心を示したのは息子のみで、娘も、妻もうかぬ顔をしている。
 妻はおずおずと言う。
 「確かに、退職金も年金もあるし、キャンピングカーを買う資金がないわけではない。しかし、子供2人の結婚資金もプールしておかなければならないし、私には絵画教室と、絵の仲間とのスケッチ旅行や美術館めぐりもある。その付き合いが大事だから、日本一周などに回す時間が取れない」
 主人公は、妻の言葉に不意打ちを食らい、大切に思っていた夢を打ち砕かれたような気持になる。

 よくある話のように思う。
 自分のように、キャンピングカー業界の周辺で生きている者にとっては辛いストーリー展開だが、実際にこのようなケースを耳にする機会は多い。

 しかし、主人公はひとつの大きな間違いを犯している。
 「妻に秘密にしておいて、キャンピングカーを買ってからびっくりさせようと思っていた」
 これは、普通あり得ない。
 10万円ぐらいのバックをプレゼントして、妻をびっくりさせよう … というのなら分かる。
 しかし、この小説に出てくるキャンピングカーは、1千万円だという。
 普通のサラリーマン家庭で、妻との相談なくして、このような高額商品を買おうという主人公の現実感覚の乏しさが、まず破綻の前触れとなっている。
 金銭感覚の乏しさというよりも、自分の夢を優先することに気を取られ、妻が何を求めているのかということへの気づかいが、まずここでは欠けている。

  実際にキャンピングカーで、夫婦の2人旅を楽しんでいる人たちというのは、奥さんがまず楽しんでいる。
 旦那のシナリオがいいからだ。
 キャンピングカーを購入したいという動機を、まず奥さんに説明し、いろいろな説得工作を重ねて、その気にさせ、いろいろなキャンピングカーショーを夫婦で見て回り、車種選定も奥さんの意向を尊重する。
 キャンピングカーライフというのは、そのくらいの気配りのできる旦那でないと、実現しないようなものなのだ。

 だから、この中編小説のタイトルは「キャンピングカー」ではあるが、小説のテーマはキャンピングカーであるとはいえない。
 むしろ、それまで独善的な生き方が通用していた主人公が、60歳前で迎えた定年退職を境に、自分に欠けていたものを自覚するという “苦い悟り” がテーマであって、キャンピングカーはそういう小説の展開を助けるための小道具にすぎない。

 高度成長期を経験したサラリーマンには、「家庭」がなかった。
 あっても、それは仕事をするためのエネルギーの補給場所であって、「妻」は旦那の企業活動を支える “給仕” でしかなかった。
 だから、この物語は、会社を辞めた人間がはじめて直面した見知らぬ「家庭」と、見たこともない「妻」と遭遇する話でもあるのだ。

 さらに、主人公を支えてきた会社そのものが変わろうとしていた。
 バブル崩壊後、“失われた20年” という経済活動の収縮期を迎えた日本において、安定したサラリーマン生活を享受できるような人間は皆無となった。
 それまで、従業員に安定した収入と地位を保証した日本の有力会社の多くが倒産の憂き目に遭うか、吸収合併の嵐に巻き込まれた。

 それは、サラリーマンの生き方そのものを変えたといっていい。
 つまり、会社の看板だけで生きてきた人間たちが、そのご威光の基となっていた看板を外されてしまったのである。

 「会社を離れた自分には、何ができるのか?」
 サラリーマンの多くが、自分の本当の実力というものを試されるような時代になっていたのだ。

 キャンピングカーの購入に水を差された主人公は、「金があればいいんだろう ?」 とばかりに、再就職を試みる。
 だが、58歳の元営業職の人間が、再就職を探すことがどれだけ大変なことか、その段階で主人公はまだ気づいていない。

 主人公は、かつて懇意にしていた取引先の経営者に電話を入れる。
 相手は、酒の席で「ぜひうちの社に来て、営業部隊を指揮してください」などとお世辞をたらたらと述べていた男だ。

 「唐突な話で悪いんだけどさ、おれ、再就職を考えているんだ。社長のところで面倒みてもらえないかな」
 主人公は、自分がベテランの営業として厚遇され、もしかしたら個室ぐらい与えられるかもしれない、などと期待している。

▼ NHKドラマで主人公を演じたリリー・フランキー

 しかし、それを聞いた相手の声のトーンが、とたんに変わる。
 「あのう … 」という言いにくそうな声とともに、「これって、マジなお話ですよね?」 と一呼吸おいてから、「うちは現在仕事がどんどん減りつつある状況で、この数年新卒の採用もない。できれば人員整理をしたい状況なんです」
 と、そっけなく言い放つ。

 あせった主人公は、かつての取引先に次々と電話を入れる。
 しかし、みな同じ反応。
 主人公が大手企業の看板を背負っていたときは、みな平身低頭でおべんちゃらを言っていた経営者たちは、主人公が一介の就職浪人だと知るや否や、手のひらを返したように冷淡な反応しか示さない。
 現役時代はさんざん酒席に呼んで、可愛がっていた担当者ですら、「こういったことは電話とかでなく、まず履歴書をお送りいただくのが筋ではないですかね」などと言う始末。 

 ようやく自分の置かれた状況が見えてきた主人公は、かつての同僚である親友に自分の不遇を打ち明ける。
 「それはお前が、上から目線だったからだよ」
 と言われ、返す言葉さえ失ってしまう。

 主人公は、かつては「営業とは断られたときから始まるものだ。必要なのは熱意と誠意だ」と、部下を叱咤激励してきた。
 だが、実際に再就職を断られ続けた主人公には、自分のかつて言っていた持論すら信じられなくなる。 

 仕事の能力とは何なのか?
 人間の価値とは何なのか?
 ようやく主人公は、その根本のところに埋もれていた 「問」 に直面するのだ。

 怖い小説だと思った。
 読んでいて、鳥肌が立った。
 主人公はサラリーマンだが、別にこれはサラリーマンに限った話ではない。
 自由業だろうが、企業経営者だろうが、同じことだ。

 変転めまぐるしい時代の流れのなかでは、自分がいちばん得意だと思っていたものから真っ先に色あせていく。
 ある人間に備わった力というものは、時代の流れに沿っているときでしか「力」にならない。

 しかし、人間は、その「力」が自分の能力から来たものであり、しかも永遠不滅のものであると錯覚してしまう。
 『55歳のハローライフ』 という小説集は、そのように錯覚してしまった人たちが、何かのきっかけで “現実” に気づくという話を集めたものなのだ。
 そして、それが “55歳” という、人生の仕上げのときに訪れるから、やっかいであり、悲劇なのだ。

 だが、どの小説も、結末には奇妙に明るい展望が用意されている。
 それは、ほろ苦さをともなった諦念から生まれるものなのだが、そこには目を開いて現実を受け入れた者だけが得られる新境地が開けている。

 『キャンピングカー』 では、会社に復帰する希望を打ち砕かれた主人公が、学生時代に打ち込んでいた柔道を、近所の子供たちに教えるという町内会の要請を受け入れるところで終わる。

 自分の生活圏の「外に打って出る」。
 それは、かつての主人公にとって、会社というシステムに入り直すことでしかなかった。
 しかし、限られた狭いコミュニティーの中で、子供たちに受け身の練習などをさせて、時間をつぶす。
 「そんなことでもいいのだろうか … 」
 と、主人公はつぶやく。
 あきらめ、ため息、苦笑。
 しかし、柔道着を着て、子供たちに柔道を教えている自分の姿を想像することは、「悪い気分ではない」と、主人公は悟るのだ。

 これまで、会社組織のなかでぬくぬくと生きるサラリーマンたちを嫌悪に近い侮蔑のまなざしで眺めていた村上龍にしては、またずいぶん変わった小説を書いたものだと思った。
 しかし、作品集に収録された著者の「あとがき」を読むと、こんなことが書かれている。
 「五つの物語の主人公たちに、(わたしは)これまでにないシンパシーを覚えたのは確かで、わたしは彼らに寄り添いながら、書いていった。わたしと主人公たちはほぼ同年代であり、立場は違っても、似たような問題を抱えていたからだ」

 安定した生活を保障されたいたサラリーマンたちが定年退職を機に直面した アイデンティティ・クライシスと、もともと不安定な立場に立たされた自由業の物書きが持つ現状認識には、どこか共通したものがあるのかもしれない。

 
参考記事 「村上龍氏を取材」
  
 

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55歳からのハローライフ への2件のコメント

  1. 木挽町 より:

    的確で見事です。それまで勘違いして生きてきた人が直面する現実。他人事は思えません。定年を迎えて年俸は半分以下。それでも肩書だけにすがりついて「海外勤務」や「名誉職」を続ける方々も多いです(私は絶対に拒否しますが)。行く場所も家庭もない同僚が多いです。

    • 町田 より:

      >木挽町さん、ようこそ
      なるほど。それが「サラリーマンの現実」ということなんですね。
      私の周りには、そういう人はいないのですが、よく大手会社で役員まで勤め上げた人の中には、「定年後も会社の肩書を振り回して、周囲に煙たがられている人が多い」という話は聞きます。
      要は、会社の力でこなしていた仕事を、「自分の力でこなしていた」と勘違いするということなんでしょうね。
      私には縁遠い話だと思っていましたが、しかし、自分だって、いつ時代に取り残されるか分からないと思うと、やはり不安を感じないわけにはいきません。
       

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