官能美の正体 (ロココの秘密)

  
 「官能的」 という言葉がある。

 「性的な欲望をそそるさま」
 「肉感的」
 「エロティックな様子」
 とも表現される。
 つまりは、アダルトムービー・アダルト小説などを指すときに使われる概念だ。

 しかし、「官能的」 という言葉には、単に 「猥褻 (わいせつ) 」 という表現には収まりきらない “プラスアルファ” がある。
 情緒的といおうか。
 典雅な響きがあり、芸術の香りもする。

 いったい 「官能的」 という言葉で表現される情緒とは、どういうものなのか。

 芸術の分野で、人々が 「官能的」 という概念に最初にたどり着いたのは、18世紀中頃、フランスに 「ロココ」 という宮廷文化が花開いてからではなかろうか。
 
 フランソワ・ブーシェという画家がいる。
 フランス王宮に出入りして、ルイ15世に使え、その愛人であったポンパドゥール夫人の庇護のもとに、数多くの宮廷風俗を描いた画家だ。
 優美、繊細、華麗な画風で知られ、当時の貴族階級の嗜好や、その生活ぶりを余すところなく伝えたとされる。

 そのブーシェを庇護したポンパドゥール夫人というのは、政治に関心のなかったルイ15世の寵愛を受けて宮廷文化を仕切った女性である。
 彼女は、宮廷内にサロンを設け、ヴォルテール、ディドロなどの当時の最高の知識階級を招き、哲学、芸術などの話題が飛び交う文化的な集まりを催した。
 この時代、そこから広がった文化・芸術運動が、後に 「ロココ」 といわれる様式として定着する。

 画家のブーシェを気に入っていたポンパドゥール夫人は、彼に自分の肖像画も描かせている。

 美貌と才気でルイ15世の寵愛を受けた夫人は、ブーシェにひとつの注文を出したという。
 「単に美しいだけでなく、気品と聡明さが伝わるように描くように」

 こうして描かれた彼女の肖像画は、後世の人々に 「ロココ文化を花開かせた女傑」 という伝説を残すことになる。
 ブーシェは、女性美を描くことでは天才的といわれた男だから、ポンパドゥール夫人のリクエストをこなすことなど、朝飯前だったといえるだろう。

 彼の絵では、特に裸婦が有名だ。
 若い女性の匂い立つような官能美を描かせれば、当時この画家に勝る男はいなかったに違いない。
 ギリシャ・ローマ神話では、男まさりに弓を取り、勇ましい狩りを好んだ女神ディアナも、ブーシェの手になると清純で可憐な乙女の姿に変わる。
 
▼ 「水浴のディアナ」

 きわどい絵である。
 ポルノと紙一重。
 健康な男性なら性的刺激を受けて、ふつふつと劣情を催すかもしれない。
 しかし、ディアナの目を見ると、この女性が、そう簡単に男の “慰めもの” なんかにはならないぞ、という意志を持っていることが伝わってくる。

 凛とした表情。
 女神の高貴さが、ポルノチックなエロスと同居している。

 男の性欲の対象となるエロスを漂わせながら、それをはねつける強さ。
 たぶん、「官能美」 というのは、この二つの相反するベクトルが拮抗したときに生まれてくる情緒なのだ。

 ルイ15世は、政治に関心の薄い国王の常として、ことのほか性愛を好み、あまたの愛人を持った。
 ポンパドゥール夫人は、そういう国王の “ファーストレディ” として、ライバルが登場して、自分の地位を脅かすことをことのほか警戒した。

 しかし、女好きの男が、新しい女に目を移すことは避けられない。
 彼女は一計を案ずる。
 「鹿の園」 という館を造り、そこに国王の気に入りそうな女たちを囲って日当を払い、国王が自由に遊べるような、一種のハーレムを設けたのだ。
 
 ただし、連れてきた女たちはいずれも平民の娘で、しかも期間を限定し、貴族階級のように宮廷に残らないような配慮を下したという。
 さらには、相手となる男性が 「国王」 であるということも娘たちには秘するという徹底ぶりである。 
 娘が国王との関係を利用して、宮廷内で存在感を高めることを警戒したからだろう。

 ポンパドゥール夫人は、美しくても野心のない従順な娘を国王の相手に選んだ。 
 そのような娘にだけ関心を向けるように、わざわざ画家のブーシェに絵まで描かせたというから、彼女もしたたかというか、用意周到というか。

 今日、そういう絵の一つとして、「金髪のオダリスク」 という作品が残されている。
 モデルは、ヌード画のマネキンとして働いていた平民のマリー = ルイーズ・オミュルフィだといわれている。
 
 
 
 これも、一種のポルノ画ともいえる。
 あどけない顔立ちの娘だが、尻の肉付きがよく、しかも男性を後ろから受け入れるように、無防備に股を開いている。
 ルイ15世は、一目でこの娘を気に入り、さっそく愛妾の一人に加えたといわれる。

 一見すると、この絵は、男性の性欲をそそるためのポルノ以外の何ものでもないように感じられるが、ただのポルノと違うところは、これはポンパドゥール夫人という 「女性の目」 を通して選ばれた裸婦像だということだ。
 つまりは、先の 「水浴のディアナ」 同様、男の性欲の対象になりながら、そこには男を意のままにコントロールしようとする “女の意志” が加わっている。

 これが 「官能美」 の正体である。

 単に男の劣情を催すポルノは、「官能」 ではなく、「猥褻 (わいせつ) 」 にすぎない。
 男が女にセクシーなものを感じるとき、そこには男性目線しかない。
 男性目線というのは、「物を見つめる目」 で女性を眺めることだ。

 男の性欲は、常にフェティッシュな形をとる。
 膨らんだ乳房、豊かな尻。
 そういう 「劣情を催す記号」 に、男は感応する。

 しかし、女性の性愛は、常に男との関係性に固執する。
 愛されていると感じるときの相手の言葉、まなざし、吐息。
 「物」 ではなく、自分と相手との関係が濃密になっていく手応えこそが、女性の性意識を高揚させる。

 「官能美」 というのは、この二つのベクトルがほどよいバランスで交差するときに生まれる。
 男の快楽を保証するだけでなく、そこには、女が自己投影できるようなナルシシズムも潜んでいるのだ。
 
 そういう微妙な性愛観を最初に実現させたのが、フランスのロココ時代。
 男性的な力動感を持つバロックの時代を経て、ロココの時代に入ると、とたんに優美で女性的な意匠が、芸術・工芸・建築のモチーフとして現れる。

 建築には、花や蔦のような植物的装飾が試みられ、インテリアにはパステルカラーが登場し、工芸品は優美で繊細なものになっていく。
 そして絵画には、女が 「愛される存在」 としての理想を投影する裸婦像が生まれる。

 たぶん、このとき宮廷文化の担い手として、ポンパドゥール夫人のような女性たちが、男中心の権力構造に食い込み始めたのだ。
 とはいっても、彼女たちには、政治に手を染めるほどの気持ちはない。
 あくまでも、宮廷文化を洗練させることだけに関心を持った。

 だから、この時代の会話、食事、芸術、工芸品などは繊細の極みに達する。
 そのような需要を満たす産業の興隆が、後の資本主義システムを準備したという学者さえいる。 

 だが、ロココの全盛期はわずか60年にすぎなかった。
 フランス革命の高まる足音が、享楽的なロココの空気を一掃した。

 革命には 「男」 も 「女」 もいない。
 男と女という性差を超えた 「人間」 が問われることになったからだ。
 「自由・平等・博愛」 というスローガンの前では、男と女の駆け引きなど出る幕はなかったのかもしれない。
 
 今、ロココのデザインを眺めると、その古色蒼然たる雰囲気になじめないものを感じないわけにはいかない。
 しかし、そこからにじみ出てきた 「官能美」 だけは、その後、絵画などのアートには欠かせないテーマになっていく。
  
 
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