つげ義春が追いかけた “リアル” なもの

 
 『芸術新潮』の2014年1月号は、つげ義春特集だった。
 
 
 
 つげ義春は、主に1960年代から70年代に活躍した漫画家。
 1937年4月生まれ。
 現在(2014年当時)76歳という計算になる。
 特集には近影が掲載されていたが、なんとも妖艶なおじいちゃんだ。
 若いときより、色っぽさが増して、どことなく年齢を超克したような風格がある。 

 つげ義春は80年代の後半からは、まったく作品を発表していない。 
 だから、「つげ・よしはる」という名前を聞いても、若い人の大半は知らないかもしれない。

 しかし、60年~70年代のカウンターカルチャーに身を浸した人間ならば、一度は『ガロ』という漫画雑誌を眺めたことはあるだろうし、そこで白土三平や水木しげると並んで人気のあったつげ義春の絵を見たことがあるはずである。

 人によって好き嫌いはあるだろうが、“つげ漫画” に強く惹かれた人間は、きっと、生涯その漫画の呪縛から解き放たれることはないのではなかろうか。

 かくいう私がそうだ。
 つげ義春は、今においても最も好きな漫画家の一人であり、漫画のみならず、絵画、映画、写真などの映像文化において自分の好みを識別するときの大きな指標となっている。


 
 「暗くて、さびしいもの中に美しさがある」

 そういう自分の嗜好は、つげ的な世界に親しむうちに醸成されていったものであるように思える。

 だから、“つげ的” な絵画が好き。
 “つげ的” な文学が好き。
 “つげ的” な旅が好き。
 
 
 
 地方に旅しても、「絶滅した昭和の風景」を好んで探し回ってしまうのは、はっきり言って、つげ義春の漫画に描かれる地方都市の風情に心惹かれているからだし、映画においても、二十歳のころにミケランジェロ・アントニオーニやイングマール・ベルイマンのような映像表現への嗜好が生まれたのは、その原点につげ義春の漫画があったからかもしれない。

 特に、脳天をかち割られるような衝撃を受けたのは、(ファンがみな認める)『ねじ式』 であったが、それ以外の『海辺の叙景』、紅い花』、『沼』 なども繰り返し読んだし、またその画風に憧れて、模写のようなものも試みた。
 さらに、社会人になってから読んだ『無能の人』などは、社会に適合できない人間の悲哀がまるで我がことのように感じられて、胸が痛くなった。

▼ 『ねじ式』 の一場面

▼ 『無能の人』 の一場面

 
 『芸術新潮』の特集では、つげ義春に対するロングインタビューが試みられている。
 それを読むと、彼が自分の漫画に対して、かなり明確な方法論を持っていたことが分かる。

 「自分の創作の基調はリアリズムだと思っています」
 と、彼はいう。

 『ねじ式』のような、まさに悪夢の中をさまようようなシュールなタッチの作品が、どうして “リアリズム” だといえるのだろうか。
 
 つげ義春に言わせると、「シュールレアリズム」こそ、リアリズムの極地であるというのだ。
 つまり、真にリアルなものに接したときというのは、接したものの “意味” が分からない状態になることだという。

▼ 『ねじ式』

 シュールレアリズムは、一見幻想的であり、夢のようなものであり、現実の枠組みを超えたものと理解されがちだが、それは逆で、シュールレアリズムのように感じられるものこそ、実は、人間がリアルなものに接したときに感じる 「世界」にほかならない。


 
 われわれが考えている 「現実」とは、実はリアルなものから目をふさいで、それを自分勝手な観念のフィルターを通して眺めたものに過ぎない。
 人間は、わけの分からないものに接したとき、自分がそれまでつちかってきた思考の枠組みに収めることによって、ようやく “理解” に至るようになる。

 「意味が分かった」というのは、そういう経験の積み重ねによって生まれてきた感覚だ。それは、未知なるものに接した不安を、今まで慣れ親しんできた思考回路に回収して安心することである。

 だが、そのとき、実はわれわれは目の前に現れてくる多くのものを見逃している。
 人間の意識は、「理解できるもの」しか見ていない。
 たとえば、今日一日の生活を振り返ってみればいい。
 いろいろなものを見たとしても、けっきょく実生活に関係のあったことしか思い浮かばないはずだ。
 その大半が記憶に残っていないということは、人間は 「理解できるもの」以外のものは、視野に入っても、脳が整理していないということにほかならない。
 
 もし、脳がすべてのものを律儀に秩序立てようとしたら、脳はどうなってしまうのか。
 たちまち混乱に陥って、脳はあっというまにパンクするだろう。
 しかし、脳がパンクするような経験こそが、実は人間が 「本当にリアルなもの」に接した状態を意味する。
 
 だから、こうも言える。
 「リアルなものとは、当たり前すぎて見逃してしまっていたものに直面すること」

 すなわち 「リアル」とは、意識の裂け目に、落雷のように飛び込んできた真実である。
 だから、「リアル」とは、「カオス(混沌)」の別名である。
 そして、リアルなものは、常に 「意味」 の彼方からやってくる。

 つげ義春は、そういう言葉ではしゃべっていないが、まさに「カオスこそが現実(リアル)である」ということを、インタビューの最初から最後まで一貫して主張している。

 彼が、後年「夢」をテーマにしたマンガを多く描いているのも、その考え方に依拠している。

 夢には、覚醒しているときには得られないほどの強烈なリアリティがある。
 われわれは、悪夢にはうなされたときは汗をかくし、性夢は男子に射精をうながす。

 しかし、目が覚めて反芻すると、夢にはまったくの脈絡がないことが分かる。
 記憶をたどって再現した夢の世界では、物事は関連性を失い、断片化し、空間は変容し、時間も消えている。
 それこそ、つげ義春は「本当の意味でのリアルだ」というのだ。
 
 どういうことなのだろう。
 それは、夢の中では人間の「自我」が消えているからだ。

 「自我」とは、自己と他者を区別する意識のことをいう。
 われわれは、常に「自己」を「他者」と切り離すことで、自分の存在を確認し、自己の安定性を保っている。

 しかし、夢のなかでは 「自我」は、一時(いっとき)も安定性を保つことはない。
 観察している対象が、いつのまにやら 「人」から「物」に変容したり、自分が主人公でありながら、いつのまにやら、その 「自分」を観察しているもう一人の自分がいたりする。
 
 実は、われわれが日々知覚している「現実」も、本来はそのように現れている。
 それを、そう感じないのは、知覚が一定の訓練を受けてコントロールされているからだ。
 
 しかし、そのコントロールは実に不安定だ。
 極限状況に陥ったときには簡単に錯乱するし、脳内分泌物の代謝の変調によって、幻視や幻聴を経験したりする。
 夢は、そのようなコントロールされない生 (リアル)な世界がどのようなものであるかを、手っ取り早く教えてくれる。

 夢には、過去がない。
 未来もない。
 夢の中では、永遠の「今」だけが、螺旋階段のようにグルグルと回っている。
 
 考えてみれば、われわれが 「現実」と呼んでいるものは、実は、「過去」の別名である。
 日常生活を振り返ってみれば分かることだが、現在進行形で進んでいるものは、その渦中においては全貌がつかめない。
 全貌がつかめたとしたら、それは結果が現れた状態。すなわち 「過去」になったときである。
 過去だからこそ、因果関係が明確になり、すべてクリアに整理される。

 しかし、本当にわれわれが直面する “現実” は、もっと不透明で、不条理で、不吉で、不安で、甘くて、切ない。
 目が覚めて、夢を思い出すときの甘酸っぱい思いは、そこに由来する。

 つげ義春の夢の漫画は、カフカの小説に酷似している。
 カフカは、『審判』、『城』、『変身』などの諸作品において、まるで夢の中をさまようような不条理な世界を提示し続けた。

 しかし、カフカもまた、夢を描いたのではなく、“リアルな現実” を書いたのだ。
 カフカは、ものすごく正確な描写によって、事物に精緻でクリアな輪郭を与える。
 ただ、そこに描き出されたリアリティに富んだ事物は、「意味」が剥奪されている。

 登場人物たちは、みな饒舌にしゃべるし、論理展開もまっとうである。
 だが、そこに登場する人々の会話には、われわれが了解できるような因果関係がまったくない。
 街はみな迷路のようだし、ひとつの建物はいつの間にか別の建物のつながっている。

 しかし、カフカの描く世界は幻想的ではない。
 あいまいなものは一つもなく、文章のどこをとっても、目に鮮やかに染みるようなリアリズムに貫かれている。
 だからこそ、そこには「夢」の雰囲気が濃厚に漂っている。

▼ 映画化されたカフカの 『審判』

 つげ義春は、漫画に夢の世界を描くようになってから、カフカを知ったという。
 
 「その後カフカを読むようになったら、やはり出来事の描写だけで意味がなく、同じ方法でやっていたんですね。でも、自分はカフカ流の漫画では食っていくことができないので、結局この虚構世界を超える意味でのリアリティから後退していきましたけれど … 」

 と、その後は再び私小説的な作風に戻っていったことを述懐しているが、つげ義春が、カフカを知らずに “カフカ的世界” に近づいていったというのは興味深い。
 たぶん、二人は同じ世界観を共有していたのだろう。
 すなわち、「意味のある」ものにしか価値を認めない人間社会の中で、この二人は、人間の心を揺さぶるような衝撃は、むしろ「意味のないもの」からやってくるということを知っていたのだ。

 つげは言う。
 「どんな芸術でも、最終的には意味を排除するのが目標だと思っています」

 「意味」が、言語から取り出されるものだとしたら、つげ義春が追求してきたのは、言語化できない領域である。
 
 後年の作品では、やたら絵の中に白っぽい空白が目立つようになる。
 彼はたぶん、「空白」という、言語も映像もないスペースに、自分にしか見えない動くものの気配を感じ、鳴り響いている音を聞き取っていたのだろう。

関連記事 「海辺の叙景(つげ義春の夏) 」 
 
参考記事 「俳句にみる日本の (空白の) 美学」
 
参考記事 「カフカ文学の不思議」
 
 

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つげ義春が追いかけた “リアル” なもの への20件のコメント

  1. スパンキー より:

    仕事の最中に、やたらと気になる或る風景が出てくる、
    数日前に会った女性がなんだか、頭にこびりついている。
    いや、カヌーを漕いでいる自分の姿が、風呂に入っている
    ときに浮かぶ。自分が日々繰り返していることと、相反する
    デイドリームを追いかけると、もう一人の自分の姿が浮かび上がる。
    こうして、実は自分が毎日やっているとが果たしていわゆる
    正しい毎日の生活なのか、本当はフラッシュのように表れるイメージが
    自分の本性なのか? 残された時間を意識する者にとって、
    それを見極めることは、いまの自分にとって重要な作業のように思います。
    そのとき、時間という観念は、たとえばダリの作品のように、
    時計がここかしこに垂れ下がっているし、去年病に伏していたときは、
    そこで起こるすべての妄想が現実であったように思いましたし…
    思えば、人のリアリティってなんなのか、そこを突き詰めてゆくと、
    我ながらかなりキツイ精神状態になるなと思いますし、
    やはりそこから引き返す自分がいます。どの辺りを切り取る作業を繰り返すかにより、
    だから皆リアリティが勝手につくられているように思います。
    だから、リアリティって都合です。意味ってほぼないように思います。
    つげさんって、そうした意味で、商業ベースから見事に道を変えざるを得なかったのだろうと…

    町田さん、面倒な文で、ゴメンね!

    • 町田 より:

      >スパンキーさん、ようこそ
      何かの本で読んだことがあるのですが、日常生活の中で、突然何の脈絡もなく思い浮かんでくる過去の一場面というのは、それが自分の精神形成史において、何かのターニングポイントになった記憶だというのですね。それまで意識したこともなかった新しい世界に触れたとか、それまで漠然と感じていた疑問が氷解したとか。

      そういうふうに考えると、人間の自己形成の過程とは、偶然つかんだ “現実” の断片の積み重ねであるともいえるかもしれません。たぶん個々人が感じる 「リアリティ」 というのは、そういうところから生まれてくるものなんでしょうね。
      だから、>> 「皆リアリティを勝手につくっている」 とおっしゃることは当たっているように思えます。

      おっしゃるように、「何がリアルなのか」 というのは、人によってさまざま。
      もちろん、自分にとっても、「リアルなもの」 というのは、日々変動しているように感じることがあります。
      面倒な返信で、ゴメンね !
       

  2. Take より:

    町田さんの文章も、そしてコメント書こうとこの欄に来て見たスパンキーさんも哲学的で…。
    コメント書くのは気恥ずかしいですが。

    大学入った時にそこで知り合った友人に夢野久作氏のドグラ・マグラを紹介されましたが、結局自分のキャパを超えた文学は理解できないものなんだという事が分かっただけで、後味の悪い不快感しか残りませんでした(作品が悪いのではなく理解度の問題です)。
    実は、つげさんの漫画もそれに近いものがあり、『何か』隠れているものを見つけることに没頭しがちです。
    少し例として挙げるのはおかしいですが、たとえば富士の樹海に皆で遊びに行った時に撮った写真を見た時に、その思い出ではなく、「心霊写真」として何か映っていないかを探してしまうような、本末転倒の見方に通じるものを感じてしまうのです。
    それは町田さんの仰る、つげ氏の絵の美しさとも関係するのかもしれません。哲学的な内容と関係があるのかもしれません。 いや待てよ、何かまだ隠されているものがある、それを探さなくては…的な見方をしてしまいます。物語の裏に隠された秘儀があるような気がして、という思いは、町田さんの言われるところの 
    >>「現実」 とは、実はリアルなものから目をふさいで、それを自分勝手な観念のフィルターを通して眺めたものに過ぎない。
     人間は、わけの分からないものに接したとき、自分がつちかってきた思考の枠組みの中に収めることによって、ようやく “理解” できるようになる。
    という安心感をどこかに求めて、そして見つからないでページをめくらざるを得ない恐怖なのかもしれません。
    故につげ氏の絵の空白が妙に気になるのです(笑)

    • 町田 より:

      >Take さん、ようこそ
      とっても、重要なご指摘を含まれたコメントであるかのように思います。
      ただ、「意味のないものこそがリアルだ」 と言われても、人間というものは、どこかで 「意味」 を求めてしまうものですよね。
      >> 「いや待てよ、何かまだ隠されているものある、それを探さなくては … 」 と考える方が当たり前だし、自然な感情であるようにも感じます。

      それが、ある意味で 「豊かさ」 なのではないでしょうか。
      たぶん、つげさんがおっしゃっている 「芸術は無意味であることをめざす」 というのも、作品に接した個々人に、「隠されたものを探す」 ということを促す意味で、「無意味」 を奨励しているような気もします。
      つまり、「答は作者が用意するものではなく、鑑賞者が用意するものである」 ということですね。

      「訳の分からないもの」 を提示するということは、そういった意味で、鑑賞者の想像力を刺激するということでもありますから、結局は、想像力こそが問題になっているような気もします。

      「空白」 というのは、その部分を鑑賞者個々人が埋めていくという意味で残されているのかもしれませんね。
       

  3. クボトモ より:

    町田さんこんばんは。とても興味深いお話でした。
    このお話で、絵を学んでいた時の事を思い出しました。
    石膏で出来た玉のデッサンをするときの話です。
    石膏デッサンは描き手によって仕上がりが全然違ってしまいます。
    ある絵は玉子に見える。ある絵は重量感のない小さな卓球玉に見える。
    生々しい柔らかさに仕上がった絵もある。
    石膏でできた玉は「石膏でできた玉」以上の意味は無いというのに、
    そのままの無機質さを表現できる人は少ない。
    視点、解釈、感情、何が作用しているのかは一概に言えませんが、
    僕らの意識はリアルを見られないのかも知れません。
    (シュールなコメントでごめんなさい)

    • 町田 より:

      >クボトモさん、ようこそ
      なるほど。
      石膏でできた玉のデッサン。
      面白い例を思いつかれましたね。とてもよく分かります。

      もちろん、デッサンする人の技量のようなものも大きいのでしょうけれど、やはり、その石膏の玉を眺めている人の受け取り方が、描かれたものにも投影されるのかもしれませんね。

      同じ中世から近世あたりのヨーロッパ絵画を見ても、たとえばアルプス以南のルネッサンス期の絵描きたちが描く人物像と、アルプス以北の画家の描く人間像は、同時代であっても違います。
      たぶん、そこには風土、文化、キリスト教の浸透度、古代ローマ文明の影響力など、様々なファクターが重なって、同じ 「人間」 を見ても、それぞれ違ったものに見えていたのかもしれませんね。
       

  4. 川原信之 より:

    興味深く、読ませていただきました。まったく、同感です。私の思っていたことを、みごとに代弁してくださいました。大好きな人、つげ義春というよりも、私の場合には、尊敬に値するお方として、表現者、つげ義春に敬意をはらいたい思いでいます。とてもよい雰囲気で枯れていらっしゃる、つげ義春さん、これからも健在であられることを強く願っています。

    • 町田 より:

      >川原信之さん、ようこそ
      つげ義春さんは、作品そのものが素晴らしいだけでなく、その生き方自体がとても<粋>ですよね。
      寡作であることも、「商業主義に身を売り渡すことが嫌い」というような、肩肘張ったものではなく、読者の望むべきレベルに達していないのではないか、という恥じらいをベースにしたものであるように感じます。

      76歳でもインタビューにはしっかり答えていらっしゃるので、作品を描く力は衰えていないと思うのですが、あえてそのような欲を人前に見せない。
      おっしゃるように、>>「とても良い雰囲気で枯れている」方だという気がしてなりません。
       

  5. より:

    81年生まれなので世代ではないですが、つげ義春の「無能の人」を読んだ時の衝撃は忘れません。

    リアリティと言うと安部公房の小説の世界も、非現実的なのに異常なリアルさを感じる文体だと思います。

    クボトモさんのコメントにあったデッサンと言えば(私も美術を学んでいました)、自分の背中を直接見た事がある人はほとんどいないのに、ヌードデッサンでモデルさんの背中を描くと、絵を描いている本人の背中に似るという話があります。

    個々の身体が生きているリアルというのは、一般的に「もっと現実を見ろ」とか言う時に使われる現実のように意識的に凝視したり目をそらしたり出来るほどなまやさしいものではなく、それこそつげ義春の描く世界のようにふとした裂け目から膨大な無意識の世界へ連れ去られてしまうような、もっとおそろしいものなのかもしれませんね。

    • 町田 より:

      >獏さん、ようこそ
      『無能の人』のインパクトはすごかったですね。確か竹中直人が映画化しているんじゃないでしょうか。そっちは観ていませんけれど。

      ヌードデッサンするときに描く背中が、描いた本人の背中に似てくるというお話はとても興味深く拝読しました。
      その理由はよく分かりませんが、何かあり得そうな話に思います。

      おっしゃるように、「真のリアル」に接するというのは、世界の裂け目を覗き込んだようなものなのでしょうね。「見る」というより、「引きずり込まれる」というか。
      それは、自分の足元をすくわれるような体験だから、人はその “訳の分からない世界” をなんとか頭の中で整理しようとする。
      世間一般で「現実を直視しろ」などというときに使われる「現実」というのは、この頭の中で整理された世界像を指しているように思われます。

      だから、本当の「現実」の姿を知るには、つげ義春や安倍公房がつくり出す作品世界が参考になるのではないでしょうか。
       

  6. os-sa-n より:

    つげ義春を2回もつげ吉春と打ち間違えてる。
    自分の原稿は読み返した方がいい。
    そうすれば冗漫な文章も半分位に縮められたかも。

    • 町田 より:

      >os-sa-n さん、ようこそ
      貴重なご指摘、ありがとうございました。
      打ち間違えとは、恥ずかしい限りです。
      修正いたしました。

  7. Get より:

    時にCPは、頑なにテクニカル・マシーンの本性を現します。
    実に単純な理由から。
    皆様、文章を書いて相手に送る時には、それぞれが読み返して間違いがないことを確認したうえで送信クリックしておられると思います。
    然し、ここがCPの Mocking なところで、勝手に変える機能が働きます。

    長年の友人間でのメールのやり取り。
    笹岡と名前を打ち込み、確認のうえで送信しますが、
    受け取り手には佐々岡と記されてしまうようです。
    長年の友達なのに、彼の名字を間違っているよと指摘されました。
    又、晶と入力すると 昌に表示選択されて送信されます。
    調べてみました。
    PCはスタンダードな漢字表示を勝手に選択する機能が備わっているそうです。
    このPCのスタンダード、お節介過ぎな事も間々あります。

    そんな訳で、興味津津で御ブログの誤記箇所探してみました。
    目の通し方が雑なのかもしれませんが、” つげ吉春” が見つかりません。

    os-sa-n さんの誤字表記だけに突っ込みを入れたコメントだけでなく、
    次はもっと何かインパクトを感じる様な内容のコメント期待しています。
    os-sa-n さんの冗漫でない文章、是非、是非一読したいものです。
    楽しみに待ってまーす!

    • 町田 より:

      >Get さん、ようこそ
      なるほど。CPを使ってメールなど送る場合は、送り手が打ち込んだ言葉通りに文字が反映されない場合もあるということなのでしょうか。パソコンリテラシーの弱い私にはそのへんのカラクリがよく分からないのですが、今後注意しておきます。

      ただし、今回の件。
      「つげ義春」が、「つげ吉春」になってしまったというのは、単純な入力ミスです。
      Get さんが上記の記事で、その誤記入を見つけられなかったのは、私の方が os-sa-n さんのご指摘をいただいて、修正したからです。

      文章が冗漫であるかどうかは、個々人の捉え方にもよるかもしれませんが、読者からお金をいただいて読んでもらう文章の場合は、やはり冗漫であることは許されないと思います。
      ただ個人運営の(無料の)ブログに関しては、「長すぎてつまらない」と思える読者はその場で読むのを止めることもできるので、ある程度、書き手のわがままが許されるのではないかとも感じます。ま、冗漫な文章が続くブログはあまり読者がつかないとは思いますけれど … 。

      繊細なお気遣い、ありがとうございます。
      感謝しています。
       

  8. 吉田健一 より:

    こんにちは。
    町田さんの、つげ義春についてを読んで、今年のノーベル文学賞を受賞されたイシグロさんのことを思いました。
    このひとのThe Unconsoled という作品は少し複雑な心理構造を持っているピアニスト(ほとんど狂気と言えそうな)が主人公なのですが、そのひとが訪れて歩き回る村が、つげさんの、題名は分からないのですが、ここに載っている日傘をさしているお母さんとその女の子供、そして、その後をつける自転車を押している青年の漫画の、どこか、どぶを渡る場面とか、あれ、また同じ場所に来てしまったという場面があったと思うのですが、それと似た場面がイシグロさんのこの作品にあって、もしかしたら、イシグロさんもつげさんの作品を読んだことがあるのではと思いました。
     5歳で長崎を離れイギリスに渡って帰化した人ですからイギリス人と言ってもよいのですが、家庭は日本語と英語の環境で、おじいさんが日本の雑誌とか漫画を送ってくれていたといいますので、もしかしたら、その中につげさんの本も入っていたのではないかと、つい考えてしまいました。

    • 町田 より:

      >吉田健一さん、ようこそ
      つげ義春氏とカズオ・イシグロ氏の作品との類似性の指摘、面白く拝読いたしました。
      残念ながら、私はまだイシグロ氏の作品を未読(これから読もうと思っているところですが)… なので、イシグロ氏がつげ義春作品に接していたかどうかということに関しては、確かな情報を持ち合わせていません。

      ただ、吉田さんもご指摘されているとおり、5歳まで長崎で暮らしてから渡英したというイシグロ氏の記憶が、同じ地域にずっと暮らしていた人の記憶とはずいぶん違ったものであることは推測できます。

      イシグロ氏にとって、異言語・異文化の地から眺める5歳未満の日本の記憶というのは、ある種の遮断を経験しているがゆえに、逆にいろいろな想像のフィルターに濾過されて、だいぶ変形しているといえるかもしれません。
      そういう状態の脳裏に浮かんでくる記憶というのは、とてつもなく甘美で、目が眩むほど鮮やかで、同時に、ほのかな暗さと正体のわからない不安に満ちた神秘の世界であると推測できます。

      だから、イシグロ氏がイメージする「5歳未満の日本」というのは、もうそのままつげ義春氏の描く “空白の向こうに何かがうごめく気配” を持った空間に近いのかもしれません。
      だから、多くの外国人読者がイシグロ氏の文章からイメージした空間が、そのまま「つげ義春的世界」だったという可能性もあるのでしょうね。

      もちろん、イシグロ氏のおじいさんが送った日本の雑誌や漫画のなかに、つげ義春の作品があったということも十分考えられます。
       

  9. 吉田健一 より:

    町田様、
    レスポンスありがとうございます。
    私もカフカの城を読んだことがありますが、不思議な感覚を覚えました。えっ、いったいここはどこ?という感じです。その位置的状況と主人公が置かれた状況を知りたくてどんどん読み進みたくなります。
    小説家とか漫画家とか、物語を語る人はその設定と話の進め方が上手です。
    えっ、何、どうしたの。どうして、どうして、という連続です。
    イシグロさんがカフカを読んでいるかどうかは分かりません。また、つげさんを読んでいるかも分かりません。でも、どうなってるのという好奇心を刺激し続けます。Never let me goでもそうです。この人たちは何ものだろう、と読み進めて行くうちにだんだん分かって来ます。それは読者を読みすすめるための手段かもしれません。最終的に読者が分かるのは、ああ、この人たちは一生懸命自分の人生を生きている、生きてきたのに、果たしてその意味はなんだったのだろうという悲しみなのかなと思います。私の勝手な解釈です。イシグロさんが、 Never let me goの映画のインタビューで俳優の人たちと語っていますが、限られた命をもった私たちはそれをどのように生きるかについてどんなに過酷な運命でも逃げることができない、というようなことを言っています。逃げることも可能だけれど、いずれにしろ人生は不老不死ではなくていずれ死ぬという諦念ということだと思います。一方で、その限られた人生が冒涜、蹂躙されるような状況があったら逃げるべきだという意見もあります。私はここで、ナチスの強制収容所を思い浮かべますが、それについての議論はありませんでした。
    イシグロさんの小説はある状況に陥った私たちがどのように生きるかということを問うているのだと思いますが、そこ諦念という概念があり、また自分ではどうしよもない時代と他の人たちの意図と思念があるという状況をこういう風に生きるしかなかったということを言いたいのではないかと思うのですが。。。
    よくは理解していなくて申し訳ありませんが、私の読んだ作品は、人生の哀感を描いているのではないかと思います。とにかくイシグロさんの小説には引き込まれてしまいます。

    • 町田 より:

      >吉田健一さん、ようこそ
      これから私も読もうとしているカズオ・イシグロさんの作品について、このたびの吉田さんの解説が非常によい手引きになりそうです。
      私はまだイシグロ作品は1作も読んでいないのですが、カフカの『城』について書かれた感想を拝読するだけで、吉田さんの文学鑑賞の力が伝わってきますので、きっと私にも素晴らしい感動を与えてくれそうな気がします。

      カフカの『城』という小説は、おっしゃるように、確かに不思議な感触を残した作品でした。
      あの作品は未完だといわれていますが、たぶん完成されたとしても、結局落ちがあったりするわけでもなく、たぶん未完の雰囲気を残したまま終わってしまうような気がします。逆に、現在の形のままで、途中でプツンと終わったとしても、そこで完成してしまうような作品なのでしょう。

      結局、この『城』という小説は、確かに難解なのですが、それはテーマが巧妙に隠されているから難解なわけでもなく、哲学的な寓意が忍ばせてあるから難解なわけでもなく、単に「意味」が欠けているという状態なんですね。
      人間は「意味」の不在には耐えられない動物なので、無理やりにでも「意味」をこじつけて、ようやく安心するというところがあります。

      しかし、安心してしまうということは、整理がついてしまったということで、その先に待っているのは「飽き」とか「退屈」です。
      でも、『城』は整理がつかない世界を描いているので、永遠に読者を魅了していくのだと思います。

      つげ義春さんの作品のなかで、このカフカ的な雰囲気にいちばん近いのは、やっぱり『ねじ式』なのでしょうね。「意味」というものから限りなく逸脱していくという手法に共通のものがあるような気がいたします。

      で、吉田さんが調べたところによると、「メメクラゲ」というのは、最初は「××クラゲ」だったというわけですね。つまりは誤植だった。
      しかし、つげ氏は「メメクラゲ」の方がこの作品に合っていると語ったとか。
      このエピソードなど、まさにつげ義春氏がこの作品において「意味」など最初から問題にしていなかったということを物語るものなのでしょうね。
       

  10. 吉田健一 より:

    イシグロさんで終始してしまいました。
    つげさんも、そういうゆめのような幻想的な世界に読者を引き込むのが上手だということです。
    いつのまにか不思議な世界に引き込まれてしまいます。
    「めめくらげ」ですが、あの「メメ」はもともと「ばつばつくらげ」『xxくらげ」つまり、なんとかクラゲというのが正しいのではないでしょうか。女医がいう「なんとか式を応用した」と同じように。

  11. 吉田健一 より:

    メメくらげについては、すでに決着がついているのですね。知りませんでした。

    有名な作中の「メメクラゲ」とはつげが「××クラゲ」と原稿に表記したものを権藤が勘違いして写植したもの。誤植の歴史に名を残している。だが、つげはこの誤植について、権藤に「メメクラゲのほうが作品に合っているような気がするね。」と語ったという。(ウィキペディア)

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