「黒田官兵衛」 どうよ ?

  
 この 1月から始まったNHKの大河ドラマ 『軍師 黒田官兵衛』 。
  
 う~む ……。
 違和感があるなぁ。

 というのも、主役官兵衛を演じる岡田君の顔立ち。
 はっきりいって、あれは戦国の日本人社会では、 “毛唐 (けとう) ” だよ。
 つまり、21世紀の人間の顔。
 ちょんまげが似合わねぇこと、この上なし。
 タイムマシンで、戦国の世が正常に機能しているかどうか確かめに来た “未来人” の顔だな。
 
 
 
 鼻筋がスッと通っていて、端正な美男子だけど、元亀・天正の顔じゃねぇし、土の上を砂ホコリを立てて、草履で歩いている顔じゃねぇ。
 どう見たって、高層ビルに時限爆弾を仕掛けたテロ組織を相手に、革靴で相手のワキ腹を蹴り上げる男の顔だ。
  
 どうもNHKは、 “大河” となると、「外しちゃいけねぇ」 っていうプレッシャーがかかるのか、老若男女をまんべんなく取り込む万人受けするキャスティングに傾きがちだけど、そこで欠けていくのはリアリティ。

 昔の武将の肖像画を見れば分かるけれど、形の整った美青年なんて戦場ではコケにされるだけだから、みなヒゲを蓄えたり、もみあげを伸ばしたりして、精一杯コワモテを装っていたわけでね。
 それが戦国武将のリアリティというもの。

 だから、主役の取り巻きにイケメンを並べればいいってもんじゃない。
 黒田家の若い家臣の母里太兵衛が速水もこみち。
 母里武兵衛が永井大。
 これは現代のモテモテ若者グループだ。
 『桐島、部活やめるってよ』 のスクールカースト上位集団だな。

 さらに、竹中半兵衛が、谷原章介。
 信長が江口洋介。
 戦国時代の日本男子がこんなイケメンばかりだったら、その後の日本男子は、みな海外でモテモテだったわい。

 こういう武将の美男化傾向は、どうも KOEI (光栄) の 『信長の野望 烈風伝』 あたりから始まっているような気がする。
 『信長の野望』 シリーズは、昔寝食を忘れて熱中したパソコンゲームだが、途中から顔グラフィックのドット数が上がり、精緻になるにしたがってイケメン揃いになって、リアリティを失った。

 「戦国群雄伝」 、「覇王伝」 、「武将風雲録」 、「天翔記」 あたりまでは、森蘭丸のような史上有名な美少年を除けば、どれも戦国武将にふさわしい獰猛な面構えで、実際に戦国時代に舞い降りたかのような臨場感を味わうことができた。

 それが 「将星録」 、「烈風伝」 あたりから武将たちがみな美男子になり、主役級から端武者に至るまで眉目秀麗になって、まるで宝塚歌劇でも見ているような感じになった。
 こうなると、つまらん。 

 わしゃ、武将の顔グラの “宝塚化” によって、ようやく 『信長の野望』 依存症から脱することができた。

 で、テレビの 『黒田官兵衛』 もドラマの筋立てが、なんとなく宝塚っぽい。
 舞台装置も絢爛豪華。
 人々の演技も華やかで、にぎにぎしい。
 悪い奴は、メイキャップからして悪役顔で、官兵衛を取り囲む家族や武士たちは、主人思いで、誠実で、熱血漢。
 
 人柄の優しい主人公の官兵衛は、罪のない農民が戦争に巻き込まれて死んでいく様子を眺めながら、それを悲しみ、「平和な世にしなければ !! 」 と、平和憲法下に生きた現代人のように、決意を新たにする。
 
 若さと、愛と、大志に満ちた青春ドラマ。 
 盛り上がったシーンでは、みんな両手を広げて、ミュージカルよろしく朗々と歌いだしそうだ。

 でも、そんな大河にも飽きたな。
 そろそろNHKも、大河ドラマの作り方を変えたほうがいいのではないか。
 2年前の 『平清盛』 もそうだったけれど、登場人物を、近代人の目を通して描きすぎる。
 「愛」 とか 「平和」 とか 「平等」 とか、明治以降に外国から入ってきた西洋思想で、源平期や戦国期の人間を捉えたらダメじゃないの ?

 もちろん時代劇も、もう近代的な人間像によって描かなければ、理解できない人たちが増えているというのは事実。
 だけど、戦国期の日本というのは、モラルよりも、栄達や立身出世という我欲が沸騰して、ある種の弱肉強食状態の世でもあったわけでね。
 「愛」 と 「平和」  の代わりに、「我欲」 と 「出し抜き」 の世界だったんだ。
 「平等」 なんてもってのほかで、強烈な差別社会だった。
 下克上というのは、上の者を引きずり下ろすための思想で、平等社会を実現しようとしたものではない。

 戦国武将にしてみれば、だまし討でも敵対する国の領主をヤッちゃった方が勝ち。
 百姓だって、黙々と田畑を耕して、隠忍自重の日々を過ごしていたわけではなく、戦いが起きれば、こっそり戦場に近づいて、殺されかけたサムライの鎧やカブトを剥ぎとって、荒稼ぎしていたわけでね。

 他人の幸福よりも自分の利益。
 そうしないと喰っていけない世の中だから、みんな自己中心的になっていたたいへんな競争社会だったのよ。
 だからあの時代、日本は、とんでもない活力に満ちた空気がみなぎり、戦争ばっかりしていたくせに各地の農業生産高は急激に上がるし、あっという間に “鉄砲大国” になるし。
 アジアでも、有数な急成長国家になったんだね。
 言ってみれば、今の中国のようなもの。

 粗雑で、卑猥で、下品で、いけすかない野郎たちがゴロゴロしていたのが戦国社会。
 そうだからこそ、「義」 を重んじる上杉謙信のような大名が、特異なキャラクターとして尊重されると考えた方がいい。

 黒田官兵衛だって、ギラギラした野望を秘めた油断ならない男であったはずだ。
 腹の底に、 “黒い心” をそっと隠した凄みのある人間であったに違いない。
 彼は、ルネッサンス期のイタリアに生まれていたら、マキャベリと並び称されたかもしれない。 

 だからこそ、秀吉は 「利用できる」 と踏んだのであり、その鋭利な刃が、次に自分に向かってこないかと恐れたわけだ。

 黒田官兵衛を描くなら、そういう恐ろしさを引き出してこそ、面白い。
 「坂本龍馬」 みたいな明るく、前向きで、けたはずれにスケールのでかい人間を主人公としなければならない大河ドラマには、そもそも黒田官兵衛は向かない。
 才子ではあったが、結局、天下取りの表舞台に一度も立ったことがない男なのだから。

 だからこそ、そういう人間を主人公にしたときの、別の面白さも生まれてくるというもの。
 秀吉という “作品” を、丹念に作り出していくアーチストとしての黒田官兵衛。

 自分は表舞台に立たず、自分の作品である 「秀吉」 の完成度を眺めては、密かにほくそ笑む男。
 官兵衛にしてみれば、何万という大軍を指揮できるように成長していく秀吉は、自分に成り代わって怪物性を獲得していく 「自作の戦闘ロボット」 だったかもしれない。

 天下人の 「頭脳」 となって、密かに天下を操る。
 それが官兵衛の凄み。 

 岡田君に、その “凄み” が出るだろうか。
 彼の端正な顔立ちを見ていると、無理そうな気がする。
  
 

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

「黒田官兵衛」 どうよ ? への6件のコメント

  1. 刀猫 より:

    先日、永遠の0観てきました、特別ファンでもないけど岡田君カッコ良かったですよ。
    的外れな話でごめんなさい(笑)

    • 町田 より:

      >刀猫さん、ようこそ
      いえいえ、的外れなんかではありませんよ (笑) 。
      確かに、岡田君はカッコいいですから。

      この日曜日、『黒田官兵衛』 を見ていて、初回に見たときほどの違和感を感じませんでした。たぶん 「主人公の外見がどうであるか」 みたいな話は、ストーリーが面白かったり、役者に演技力が備わっていたりすれば、自然に解消してくような問題かもしれません。
      今回見たら、けっこう面白かった。
      今後に期待です。
       

  2. 橋本 仁 より:

    はじめまして。

    ブログの内容が濃く膨大な量であるため読みきれませんが、大変示唆深く多岐にわたる内容に感服脱帽の極みでございます。

    流行りものなので「黒田勘兵衛」どうよ?」は避けておりましたが、今さらですが黒田勘兵衛の感想に同感致しました。
    私が思い出しましたのは、伊達政宗に出てくる秀吉(勝新太郎)で、およそ名だたる猿顔とは縁遠いいでたちであるにもかかわらず、その圧力たるや急に手にした権力の末、狂態に片足を突っ込んだ太閤秀吉に間違いないだろうと思わせるに十分な緊張感に、観ていた当時(レンタルDVDで)の手に汗握るような感覚を思い出しました。

    勝新太郎のいでたちはむしろ武田信玄にこそ相応しそうでありますが、山岡荘八の徳川家康の表紙に描かれた絵にはまさにその勝新太郎とまごうことなき(と思う)人物が家康として描きだされております。

    いずれにしろ秀吉のヴィジュアルイメージには程遠く、おそらく当時は猿ではないではないかとミスキャストが偲ばれたのではないでしょうか。

    否、あとから偶然TVにて渡部謙さんの述懐を視聴したところ、そこにはまさに役者 勝新太郎の「急に手にした権力の末、狂態に片足を突っ込んだ太閤秀吉」への特別な配慮と緊張感がスパイスのように散りばめられていたのだと知り、自身の脳内に響き渡る感覚が府に落ちたということがありました。

    まったく世代ではないため勝新太郎さんがどのような方であったのかは断片的な伝説のようにしか知り得ませんが、座頭市から任侠ものまでなんだかやたらに炭坑夫のような男臭い圧力にグッとくるのは、確かなことであります。

    草食系とか一神教的に”Kawaii”でまとめあげてしまったり、多様性を欠いたわけのわからぬものばかりが流行るここ20年くらいでしょうか。
    一人の若者として生命の源に基づく本質への危惧を抱き続けております。

    保守と換金主義の狂信にまみれていない、まともな諸先輩方から身になるものを受けとりたいと願っていたところ、良いブログ(ブログという言葉には嫌悪感を感じてしまうのですが、なんと言ったらいいものか分かりません)に出会うことができました。
    これからも楽しく読ませて頂きます。

    追伸

    松岡正剛氏は好きですか?
    幅の広さと縦横無尽ジェットなターボ力に、町田さんはまるで松岡正剛氏のようだと私は感じました。
    そして先ほど拝見致しました猫のお話。
    知り合いの猫おばさん云く、猫は人間の生まれかわりなんだそう。
    ある日、子供の笑い声が聞こえてパッと見たら飼い猫だったそうです。
    信じるか信じないは個人の価値観ですが、余談でした。

    敬具

    • 町田 より:

      >橋本 仁 さん、ようこそ
      こちらこそ、はじめまして。
      当blogに関しまして、過分なご評価をいただき、恐縮しております。
      また、松岡正剛氏と同列に論じられるなど、身に余る光栄です。
      しかし、稀代の読書家であり、かつ的確な批評眼を備えらていらっしゃる松岡氏などの足元にも及ばない者です。
      お言葉だけ、ありがたく頂戴いたします。

      秀吉役をやっていた勝新太郎への言及がありましたが、まさに橋本さんのおっしゃるとおりだと痛感いたしました。
      今あれだけの迫力のある人間を演じきれる役者は存在しないように思います。

      BSで、彼の代表作のひとつ『座頭市』シリーズをずっと流していたときがありましたが、まさに >> 「炭坑夫のような男臭い迫力」 において、その後「座頭市」を演じた北野武や香取慎吾などが足元にも及ばないほどの鬼気迫る演技でした。

      たけしや慎吾が、ただ “目をつぶっている” だけの演技であったのに比べ、勝新はまさに視覚障害者の不自由さと、それがゆえに鍛え上げられた聴覚、嗅覚の鋭さで状況を判断する男の怖さを余すところなく伝えていましたね。

      黒澤明は、『影武者』の信玄(とその影武者)の主役を勝新にすることで進めていましたが、役作りの見解の違いからケンカがあったらしく、途中で主役が仲代達也に代わりました。
      しかし、(仲代はいい役者ですが)、やはりビジュアル的にもメンタリティーにおいても、 “信玄” を演じきれなかったように思います。
      もし、あれが当初の予定通り勝新の主役で進んでいたなら、ものすごい映画になっていたのではないかという気がします。残念です。

      橋本さんの作品群も拝見いたしました。
      素晴らしいオブジェを制作されているのですね。驚きました。
      画像もきれいに撮られていると思いました。
      しかも、「MEMORY CODE 記憶の暗号」 、タイトルがいい。

      人間が、「自分は自分である」と認識できる…アイデンティティというのでしょうか…、その認識のベースとなっているのは、結局その人間に蓄積された「記憶」に過ぎないわけですが、実は記憶ほどあいまいなものはないわけで、そう思うと、人間存在そのものが 「あいまいなもの」 ということになるわけですね。

      だから、暗号化された記憶を読み解けば読み解くほど、実は 真実から遠のいていく、という気がしないでもありません。

      いや、作品とは無縁の世迷言でした。
      失礼いたしました。

      また気の向いたときにお立ち寄りください。
       

      • 橋本 仁 より:

        HPをご拝見くださりありがとうございます。
        写真・動画はプロのアーティストに撮って頂いております。
        フランス在住の澄毅(スミ タケシ)というフォトグラファーアーティストで、作品はアニエスベー本人やモエ・エ・シャンドンのデザイナーが所有しています。
        浪人時代からの盟友なのです。

        タイトルに気がついてくださり嬉しいかぎりです。
        タイトルには私の生き方、コンセプトが凝縮されています。
        先人の言葉に想いを託せればと思います。

        実現してしまった瞬間を、完全な一存在として、その個別性とともに保持することは不可能である。ひとつの完全な思い出をつくるためには、夥しい瞬間の記憶が必要である。

        バシュラール

        私は私自身の証人である

        サン・テグジュペリ「人間の土地」

        私は私自身の記録である

        寺山修二「遊撃とその誇り」

        現在、今月26日まで(会期延長予定)表参道の美容室 Overland 内 Overland Gallery にて

        「人と文化が交わる場所 Overland × アーティスト 橋本 仁 コラボレーション企画 Vol.2」として、

        橋本 仁 展「あしとりんご ― 在るべき未来への原点回帰 ― / “Who”の肖像」

        を開催しております。
        お時間がありましたら、是非ともご高覧ください。

        また、5月19日 19時 ~
        同美容室内にて入退出自由の公開座談会を催します。
        こちらは恐縮ですが自慢の日本酒4合瓶以上か1000円の参加費(ビールは用意してあります)を頂くことになっておりますが、もしご都合が合うようでしたら是非ともいらしてください。
        僕が一番の若手ですが、かつてのコーヒーハウスのような言論空間にしたいと思います。
        紫煙の代わりにアルコールとなりますが。

        インターネットを利用した言論空間の次段階として大事なことは、趣を同じくし顔が隠された上での身体を離れた文字表現ではなく、足腰を駆使する地平線上での”関係”というやり取りであると考えます。

        是非とも直接お話させて頂きたいと存じます。

        橋本 仁

        • 町田 より:

          >橋本 仁さん、ようこそ
          本日の公開座談会、せっかくの告知をいただきながら、熊本で開かれたキャンピングカーショーに行っておりましたので、その間、自分のblogを開くこともなく、気づくのが遅くなって大変失礼いたしました。

          おっしゃるように、>> 「インターネットを利用した言論空間の次段階としての足腰を駆使する地平線上におけるやりとり」 というのは大切なことかもしれません。
          現在、ガイドブックの追い込み中で時間が取れませんが、いずれお目にかかれる日が来ると思いますので、楽しみにしております。
           

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