やさしさをまとった殲滅の時代

 
 「今の世の中は、なんか変だ」
 という感慨を抱く人は、どういう人だろう。

 「世の中が変だ」 というのは、「変じゃない世の中」 を知らないと生まれてこない感想だから、そういう思いを抱く人は 「変じゃない基準」 を自分の中に持っていることになる。

 たいていの場合、自分の若いころに感じた 「世の中」 が基準となっている。
 だから、世の中が変に思えてきたら、それは年をとってきた証拠。
 人生区分でいうと、後期オジサン (老人手前) になったといって間違いがない。

 堀井憲一郎さんは、55歳。
 その堀井さんが出した 『やさしさをまとった殲滅の時代』 (講談社現代新書 2013年10月20日発行) という本は、全編 「今の世の中はなんか変だ」 というトーンに貫かれていて、読んでいると、堀井さんもついに “後期オジサン” になったか … という感慨が湧かなくもない。

 私は、週刊文春の 『ホリイのずんずん調査』 の頃からの堀井さんのファンで、『いつだって大変な時代』 、『いますぐ書け ! の文章術』 などは面白く読んだ。
 辛口のユーモアをたたえた歯切れのよい文体。
 シニカルだが、説得力のある視点。
 エッセイとして読むには理想的な文章を書く人だと思った。

 しかし、この 『やさしさをまとった殲滅の時代』 は、なんとなく全体の印象がどろんとしている。
 まずタイトル自体が、どろんとしている。
 何を言いたいのか、よく分からない。

 彼の著書名は、『いつだって大変な時代』 とか、『いますぐ書け ! の文章術』 、『ディズニーから勝手に学んだ51の教訓』 みたいに、まず歯切れがいいし、意外性も十分。
 それでいて、おぼろげながら内容を推測させるようなところがあって、文庫本・新書本のタイトルとしては成功例の見本のような書名が多いのだが、この 『やさしさをまとった殲滅の時代』 だけは、パッと見たときにテーマが伝わって来なかった。

 たぶん 「殲滅」 という語句だけが他の言葉から浮いてしまい、水族館の小魚を食い尽くして一匹で泳いでいるサメみたいに見えるからだろう。
 
 で、 “殲滅” とはどういうことなのか ?
 最後まで読んでみたが、それの正体がよく分からなかった。
 
 ただ、なんとなく、その言葉に盛り込もうとしたニュアンスのようなものは伝わってきた。
 この本の大事なところをちょっと意訳してみると、次のようになる。

 「90年代の後半から、(われわれの世の中は) 何かが変わってきて、2000年代になると明確に変わった。かつて目に見える形で存在した “暴力” が見えなくなってきたのである。
 しかし、暴力がなくなったわけではない。それは形を変えて地下に潜っただけで、むしろ “やさしさをまとった殲滅” となって世の中を覆い始めている」

 言葉は多少違うけれど、この本は、そういうことを訴えようとした本なのだ。
 そのことを堀井さんは、次のように補足する。

 「20世紀に入る前から (世界の人々は) 戦争ばかり繰り返していて、男性市民はすべて暴力装置である軍隊に招集され、暴力訓練を受けた。
 そして (日本では) 戦争がなくなって (平和が叫ばれるようになって) も、軍隊的な訓練がいろんな分野で残っていた。
 例えば、運動部の練習で水を飲ませないというのは軍隊の訓練であったが、(それによって) 何人かが死んでも集団自体の能力が高まれば、集団の存続にとって有効だという考え方であった」

 そういう気分が、まだ60年代までは残っていて、60年代の学生運動などは、若者の暴力性が結実した世界であった、と堀井さんは言う。

 しかし、70年代に入り、そういう目に見える暴力性が次第に姿を消し始めた。

 運動部の暴力的訓練もどんどん影を潜めていき、現代では、それが発覚すると社会問題になるようになった。
 喫煙スペースも、街の美化や副流煙による他人の健康の侵害などを理由に、街からどんどん姿を消した。
 性的なものは、だいたい暴力性を秘めるものだが、そういうものを直接的に売りにするエリアやショップも街から排除されていく。
 「言葉の暴力」 ということで、差別用語もテレビからすっかり姿を消す。

 なぜ、そうなってきたのか ?
 それは、「ママン (母) の支配する時代になったからだ」 と、著者はいう。

 「すべてが機械化され、大きな動力が生まれ、列車が時速300kmで走り、高速道路が国の端々まで延ばされ、すべての川に橋が架かり、電話ひとつで大きな荷物をどこまでも運んでくれ、クリックすればあらゆる商品を家まで届けてくれる、しかも一般人は軍事に関わらなくてもいい社会では、男は要らないのである

 男が要らない社会とは、「父」 が存在しない社会である。
 ということは、ママンがすべてを仕切る社会になったわけであり、そのママンから見て、怖くて、汚くて、男の身勝手さを連想させる “暴力” がことごとく排除されるようになったのは当たり前の話なのだ。

 だから、街の景観はみなクリアでソフィストケイトされたものとなり、若い男の子は、ママンの言いつけをよく守る従順で優しい青年になる。彼らは女の子に対してもプラトニックな純愛を好み、非婚率も高まり、世は少子化していく。

 著者は、そのことを批判しているわけではない。
 むしろ、それこそ、戦後ずっと日本人が目指してきたものであり、われわれが見ているのは、「理想の平和」 が実現した光景だというわけだ。

 ただ、そのことによって、目に見えない暴力が世の中を覆うようになった。
 … と、著者は言いたいようである。

 暴力そのものがなくなったわけではない。
 暴力はグロテスクな形を取らず、地下に潜り、よりソフィストケイトされた形で (著者流にいわせると “やさしさをまとって” ) 、地下水脈のように流れ始めたわけだ。
 
 目に見えない暴力とは、どういうことか ?

 ひとつの例として、堀井さんはインターネット上において、悪意ある言葉で特定の個人、特定の団体などを残酷に罵倒する傾向を挙げる。
 
 「言葉」 だけではない。
 最近は、悪意ある画像も流出する。
 殺人事件の被害者・加害者などの画像や、コンビニに冷蔵庫に体を突っ込んだというおふざけ事件の映像なども、暴く人たちの悪意と、見たがる人たちの好奇心によって、あっという間に増幅していく。
 それは、明らかな暴力にほかならないが、ネットでは匿名性が保証されるため、誰もがそのことを “暴力の形を変えた姿” だとは気づかない。

 しかし、堀井さんが本当に言いたいことは、さらにその先にある。
 ネットの暴力もしかりだが、それ以上に 「人が人に対して、どんどん無関心になっていく」 ことこそ、今の社会における本当の暴力だと、彼は言いたいのだ。

 「隣の人が何をやっていようが、自分には関係ない」
 というのが、この2000年代に入ってから日本人に見られるようになった顕著な傾向なのだという。

 個人の趣味においても、しかり。
 社会的領域においても、しかり。
 誰も、自分のこと以外には無関心。

 彼はいう。

 「 (現代の文化は) おそろしく細分化され、気の遠くなるような細かい分野に区切られてしまった。(本でもファッションでも) すごく狭くところでそこそこの知識を持っていれば大丈夫で、すぐ隣にある似たようなものついては、(誰もが) まったく知らないという世界ができあがっている。
 自分の興味のある分野にだけ精通していれば、隣接しているエリアの趣味についてはまったく無頓着であっていい。
 そもそも隣接しているのがどういうエリアなのかさえ知らない、興味もない。その方が便利であり、無駄がなく、効率がいい。いつの間にか、そういう世の中ができあがってきたのだ」

 そのことを、堀井さんは 「美しい孤立」 という。
 除け者にされたり、仲間はずれにされたときの孤立とは異なり、自分自身で豊かで充足した孤独を楽しんでいる状態、というような意味なのだろう。

 そういう美しい孤立に慣れてしまえば、「見知らぬ人と連帯していくのは、ただ面倒に思えてくる。自分で選んだものだけが自分にとっての全世界である。選ばなかった世界は、存在しないことと同じである」 。

 … と彼が書くとき、そこには、「暴力」 という言葉からイメージされる人に強制したり、人を服従させたりするようなニュアンスがなくなっている。表面上は、誰もがクールで、優しい。

 しかし、自分の認めないものの存在を許さないわけだから、それこそ 「やさしさをまとった殲滅」 そのものである。
 どうやら著者が言いたいことは、そのへんにあるようだ。

 では、 “美しい孤立” は、なぜ生まれてきたのか ?

 堀井さんは、スマートファンを買って使った経験から次のような結論を導き出す (以下は原文をかなり意訳) 。

 「スマートフォンは、外に持ち歩けるコンピューター端末である。スマホでは、使った各個人のデータが向こう側 (アプリの提供者) に蓄積されるために、その個人が何に興味を持って、何にお金を払うかというデータが逐一集計される。
 もちろん従来のパソコンでも同じ。
 ネットを通じて商品購入すると、次からはネットを開くと同時に、『あなたが欲しいものはこれです』 といわんばかりに、新商品の案内がモニター上にアップされる。
 そこでは、『自分が何者であるか ? 』 という問が浮かびようがない。
 なぜなら、自分が何者であるかは、すべて “消費するモノ” が規定してくれるからだ。 『貴方は赤いスニーカーが似合うチャーミングな人です』 というふうに。
 こうして、人々は 『自分は何者か ? という問』 を持つこともなく、『何々という商品を欲しがっている私』 という自己規定で満足するようになっていく」

 「そして、それは心地のよい孤立である」
 と、著者は繰り返す。

 その意味は、たぶん、今までの 「孤立」 は、人間と人間の関係を考えることを強いたが、物を欲しがっているだけなら、他者との間に生じる煩わしい問題に悩まなくてもいい、ということなのだろう。

 最終章近く、彼はこんなことを書く。

 「2011年に入ると、経済・社会のシステムはより整い、洗練された。小さい商店は押しつぶされ、すべて中央でコントロールできるチェーン店ばかりになっていく。その方が、人々の欲望をストレートに管理できるからである。
 人間の欲望はすでに予測されていて、僕たちはもう、導かれるままに消費すればいいのである。
 思えば、2000年からの10年は、いろんなものを放り出してきた10年であった。
 辞書を捨て、地図を捨て、自分の家に新聞を配達してもらうことをやめた。みんなインターネットで代用している。
 小さい本屋がなくなり、街のレコード店もなくなった。ぼんやりした八百屋や、のんびりした豆腐屋もなくなっていく。それは、僕たち自身が選んできた道である」

 このなんとも詠嘆のこもった社会観察 !!
 ちょっと前の堀井さんなら、こんなふうな文章は書かなかったような気がする。
 
 「孤独死などを例にとって、現代人が孤立していることを嘆くのはおかしい。むしろ家族の束縛から逃れることこそ戦後の日本人が求めていたものではなかったか ? 」
 … という『いつだって大変な時代』 (2011年) で見せた威勢のいい啖呵 (たんか) はここでは影を潜めて、同じような論調でも、夕暮れの庭を眺める老人のような寂しさが文章に漂っている。

 堀井さんも、ついに 「後期オジサン」 群に入っていったんだな、という印象はそういうところからも感じられた。
 
 つまり、論旨にはすごく納得できるものが多いのだが、文章にいつも歯切れがないのだ。
 「断定していいのか、それとも判断留保にした方がいいのか …… 」
 そういう迷いが行間から漂ってくる。

 結論の出し方も、今までの堀井さんとは少し違う。
 要は、この 「美しい孤立」 の時代に、人の “ぬくもり” を確かめ合う方法があるとすれば、それは 「少しぐらいは、人に迷惑ぐらいかけたらどうだろう」 というもの。

 「われわれは、生きているかぎり人のお世話になる。だから、お互いに迷惑をかけ合い、互いに面倒がらずに世話をし合っていく。僕たちはそうやって生きていくしかないのだ」
 という感じで、この本は終わる。

 「人に迷惑ぐらいかけたらどうだ ? 」 という言葉は、もしかしたらジーンと心に染みる言葉であるのかもしれない。

 一見、凡庸な結論。
 しかし、考えようによっては、「失われた古代人の英知発見 !! 」 みたいにインパクトを持つかもしれない結論。

 はて、どっちに転ぶのかな ?
 と、腕組みして、読者の反応を予想する堀井さんの姿が想像できそうな気がする。

 でも、その無力感が、この本に、一片の詩を読むような叙情性を付加しているようにも思える。
 
 
参考記事 「堀井さんの 『いますぐ書け ! 』 」

参考記事 「いつだって大変な時代」

参考記事 「人に読んでもらえる文章」
 
  

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