アルカディアの牧人たち

 
 近代絵画が成立する以前の西洋絵画は、すべて 「謎」 をはらんでいる。
 
 それは、その時代の鑑賞者が 「当たり前のこと」 として理解していた絵のテーマが、現代人のわれわれには 「知識」 として読み取れなくなっているからだ。
 身も蓋もなくいえば、われわれに欠けているのは、絵を理解する上での 「教養」 である。
 特に、ヨーロッパの古典絵画の場合は、ギリシャ神話とキリスト教の教義に対する基礎知識がないと、絵のメッセージを汲み取ることができない。

 近年、美術解説書のような書籍がやたら多いのも、古典絵画を理解する上での基礎知識を得ようとする人々が増えたからかもしれない。
 なかでも、中野京子氏が書いた 『怖い絵』 シリーズが評判になってからは、絵画を鑑賞する手引書のようなものが数多く刊行されるようになり、書店の美術書コーナーはかなり盛況になってきている。

 絵を、「光と色」 という純粋な視覚要素に還元した印象派以降の近代絵画においては、解説がなくても、われわれは感覚だけを頼りに楽しむことができる。
 しかし、ギリシャ神話や聖書などを題材とした近代以前の西洋絵画を理解するには、やはり基礎的なことを教えてくれる解説がないと、楽しめない。

 ところが … である。
 そのような古典的教養を持っていた時代の人ですら、「謎」 に出合って困惑していたような絵画もあるのだ。
 したがって、現代人がその 「絵」 の真意を探ることは並大抵のことではない。

 そんな絵のひとつに、ニコラ・プッサンが描いた 『アルカディアの牧人 (まきびと) たち 』 がある。

 「アルカディア」 とは、ヨーロッパ人が、ローマ時代から 「牧人たちの理想の楽園」 として夢見た地域の名前である。
 もちろん、その名を持つ土地は、ギリシャのペロボネソス半島に実在していた。
 ただ、実際のアルカディアは、どちらかというと地味の痩せた土地で、聖書で謳われるような、「乳と蜜にあふれかえる楽園」 というイメージからはほど遠い。

 しかし、ローマ時代の詩人ウェルギリウスが、この地を 「美しい桃源郷」 と歌ったことをきっかけに、「アルカディア」 という言葉自体が、ヨーロッパ古典文学では 「楽園」 の代名詞として使われるようになった。

 プッサンの 『アルカディアの牧人たち』 は、その楽園に住む4人の人物を描いた絵である。

 この絵には、確かに、優しそうな風を宿した緑の木々。遠くに浮かぶのどかな雲など、 “楽園” の匂いが立ち込めている。

 なのに、4人の人物が浮かべる表情は不安そうな影に覆われている。
 左側の3人の男は、身なりからして、この地で遊牧を営む牧人のようだ。
 では、右側の女性は誰か。
 その聡明そうな横顔から推測するに、この地で尊敬を集めている知的階級の貴族かもしれず、男たちの主人であるのかもしれない。

 4人の間には笑いがない。
 岩のようなモニュメントを囲んで、2人の男は、その 「岩」 の正体を見極めるように、壁面を指でなぞりながら見入っている。
 右の男はたまりかねて、そばにいる女性に何かを尋ねかけている。

 彼らは、何か深刻な問題に直面し、それをどう解決するか悩んでいるようだ。
 きっと、簡単には解決しえないようなテーマなのだろう。
 立ち尽くす女性は、その困難さを理解し、物思いにふけっているように見える。

 当時すでに、この絵の重要な “カギ“ となるモニュメントが、実は石棺であり、その底に誰かの遺体が安置されているという説明は流布していた。
 つまり、この4人は、墓の前にたたずんでいるのである。

 誰の墓なのか。
 それは、石棺を穿って中を改めてみても、もう定かではないだろう。
 まず、その前に、その中に遺体があるのか、ないのか。 
 彼らにとって、この永遠の幸せを約束されている楽園に、不幸の象徴たる 「人の死」 があるということ自体が不思議なのだから。

 墓の主 (あるじ) の名前でも刻まれていれば、まだその 「謎」 を解明する手がかりはつかめるかもしれない。
 だが、墓碑銘として残されているのは、
 「 Et in Arcadia ego (エト・イン・アルカディア・エゴ) 」
 という言葉だけ。
 訳すと、「われもまたアルカディアに在 (あ) りき」 。

 「われ」 とは誰だ ?
 おそらく、この4人を戸惑わせているのは、その 「われ」 の正体がつかめないからである。
 それは、この絵が描かれた当時から、すでに多くの議論を呼んだテーマだった。

 この 「われ」 に関して、古来より二つの解釈があるとされていた。
 というのは、「 Et in Arcadia ego 」 という言葉が、「われもまたアルカディアに在りき」 という過去形とも取れるし、「われもまたアルカディアに在る」 という現在形としても取れるからだという。

 過去形として考えれば、墓の主は、かつてこの地で暮らした先住の牧人であるという推測が成り立つ。
 それが、どのような牧人であったかは不明ながら、立派な石棺に葬られるくらいだから、そうとうな有力者か、あるいはこの楽園の秘密を知った者かもしれない。
 
 しかし、この 「 Et in Arcadia ego 」 という言葉を現在形として捉えれば、「私も、またここにいる」 という意味になる。

 では、いったい、 “今ここに” 誰がいるというのか ?

 墓の中に、生きているモノが存在し得ない以上、それは、寓意としての 「死」 そのものとしか言いようがない。
 そう考えれば、4人の人物に浮かぶ不安の影は、この “永遠の生” を約束された楽園にも、密かに 「死」 が潜んでいたことを発見したときの困惑から生じたものだといえそうだ。

 現代の通説は、後者の方に落ち着いているという。
 すなわち、これは、「死を忘れるべからず」 という中世以降のヨーロッパに広まった 「メメント・モリ」 の思想を表現した絵であるというのが、大方の見方である。

 だが、「死を忘れるべからず」 というメッセージが、なぜこの画家のモチーフとして浮かび上がってきたのか。また、当時の人々は、なぜそのメッセージに深い関心を寄せたのか。
 そこのところが、その時代から400年以上も経ってしまったわれわれ現代人にはピンとこない。

 もしかしたら、この時代のヨーロッパ人は、現代を生きるわれわれよりもはるかに、死の恐怖に怯えていたのかもしれない。

 作者ニコラ・プッサンが生きたのは17世紀。
 歴史区分では 「近世」 と呼ばれ、芸術領域では 「バロック」 といわれた時代である。
 すでにルネッサンスを経験したヨーロッパ人の意識は、中世的な神への依存から脱却しつつあった。
 神学的な世界観から解放され、「人間」 としての自由、「人間」 としての物質的な欲望をストレートに享受できる精神風土が生まれつつあったといえよう。

 それが、ちょうど絶対王政を確立しつつあった王権や新興ブルジョワジーの成長期と重なり、ヨーロッパ全体が “人間くさい“ 活力に満ちた時代を迎えていたのである。

 だが、「人間くさい時代を迎えた」 とはどういうことか ?
 それは、中世まで神に預けていた死の観念を、今度は自分たち 「人間」 が引き受けなければならない時代が来たということでもある。
 
 つまり、貨幣経済も浸透し、物質的な生活環境も整い始めた近世ヨーロッパ人たちは、その “豊かな暮らし” が、個人の死によってあっけなく消滅することも知ってしまったわけだ。
 
 だから、「楽園にも死は忍び寄ってくる」 という 『アルカディアの牧人たち』 のメッセージは、死のプレッシャーを意識し始めた近世人にとって、かなり切実なものであったろうと思われる。

 では、ニコラ・プッサンは、その切実なテーマを、どうして自分で引き受けなければならなかったのか。

 これに関しては、美術評論家の中山公男氏が 『西洋の誘惑』 という著書で鋭く説いている。
 中山氏によると、ニコラ・プッサンという画家は、奔放なタッチの絵が主流となり始めたバロックの時代に、それとは対照的な、静謐に包まれた古典主義的な絵画を目指した人であったという。

 古典主義とは、絵画における 「永遠なる美」 を志向する姿勢から生まれる。
 つまり、ギリシャ・ローマの時代から連綿と連なる宇宙秩序のような美の規範を追求するというのが古典主義の真髄だ。
 そして、その規範を守るためには、「永遠に変わらないもの」 が描かれなければならない。

 しかし、ニコラ・プッサンは、「永遠」 というテーマに真正面から向き合ったとき、人間には、それが手に入らないことも同時に知ってしまった。

 中山公男氏は書く。

 「彼 (ニコラ・プッサン) は、古典の永遠の生命に触れ、意志的、理性的な構築にすべてを賭けることによって、逆に死をかいま見てしまったのである。永遠への意志、自己完結へのひたすらな努力、それは、むしろ現実のむなしさについての認識を強調するものとなった。
 プッサンは、アルカディアを知ることによって、死の予測の中におちいらねばならなかったのである」

 そして、氏は、この絵に登場する人々の挙措や表情に漂うものが 「静かな畏怖」 だと指摘する。
  
 何に対する畏怖か ?
 
 それは、物質的にも精神的にも、手に入るものはすべて獲得しようとした近世人たちが、願っても叶わぬ 「世界」 があることを知ったときの畏怖だ。
 それは、中世までは神が保証してくれた 「永遠の命」 である。

 意識しても、しなくても、「死」 は刻々と近づいてくる。 
 そのことを忘れるな (メメント・モリ) 。

 『アルカディアの牧人たち』 とは、「神が保証した永遠の命」 を取り上げられた人々。すなわち、「死を個人で引き受けなければならなくなった」 人々の戸惑いと不安を描いた絵ともいえるだろう。

 つまり、この絵は、その古典絵画のタッチとはうらはらに、「神なき時代」 を生き始めた人々が抱える “近代的不安” を先取りする絵にもなっているのだ。  
 
 

 
 
参考記事 「西洋の誘惑」
 
参考記事 「クロード・ロラン」
 
参考記事 「フェルメールが生きた時代のオランダ」
 
 

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アルカディアの牧人たち への8件のコメント

  1. スパンキー より:

    昨日、息子の結婚式で、久しぶりに賛美歌を歌いました。

    もちろん教会です。私自身は、仏教徒のような気がしますが… 笑

    が、牧師さんの話を聞き、ゴスペルが流れると、なんだか

    神さまに見守られているような気になるから不思議です。

    この絵は当時、相当な問題作だったのでしょうかね?

    向こうの人にしてみれば、衝撃的でしょう。

    死を引き受けるとは、つまり神なき時代であり、

    人はどんどん神の子から遠ざかって、おとなの振る舞いをする。

    それがうぬぼれなのか罪なのかは別として、

    ひとつの辛い通過点のような気がします。

    その先に何が待っているのか?

    その応えはまだ見えませんが…

    • 町田 より:

      >スパンキーさん、ようこそ
      息子さんの結婚、おめでとうございます。
      素敵な息子さんなので、新しい家庭を持たれてからの一層のご活躍が期待できますね。将来が楽しみです。

      この 『アルカディアの牧人たち』 という絵は、古来よりその画題をめぐっていろいろと話題になっていた絵らしいのです。
      私も昔からよく観ていたのですが、その意味まで探ってみることはしませんでした。
      しかし、ちょっと気になって調べてみたら、なかなか面白い話題を提供してくれそうな絵に思えました。

      「生と死」 をテーマにした絵は昔からいっぱいありましたが、この絵には一筋縄ではいかないような哲学が潜んでいそうです。

      スパンキーさんがおっしゃるように、>> 「神なき世の先に何が待っているのか ? 」 。
      そんなことを考えさせてくれる絵ですね。
       

  2. 月兎 より:

    仰る事、全くそのとおりと納得。
    先ず最初のセンテンスでの後半。
    ”身も蓋もなくいえば” から ”絵のメッセージを汲み取ることができない” まで。
    私の事を引き合いに述べられていうのでは?と苦笑しながら拝読。
    スパンキー氏のように御自分の宗旨を通じての、身を持って得た滲み出る教養はゼロ。
    花見遊山で世界の名画をみるだけで、教養のバック・グランドが無いのです。

    この夏は二人旅でフランスへ。
    その日は連れがバイユーのタペストリーを見ることをとても楽しみにしていました。
    私は、私という百科事典にはそれが欠落していまして、教養のなさ丸出しです。
    連れは来年90歳になりますが、彼女は西洋史で学習した現物を観賞出来て大満足。
    葬式以外に教会に行くことのない彼女、でも米国人として教育を受け歴史学んでいます。
    宗教的にみた背景も十分理解のうちです。
    その日の夕食の話題はもちろん、バイユーのタペストリー。
    私は美術館で帰り際に買った解説短冊と彼女の講義で初めてその歴史を知りました。
    実に西洋美術、歴史に対して教養がないのです。
    此れが逆に、我等二人が日本の美術館で鳥獣戯画絵巻を見たとしましょう。
    これだと専門的に勉強した土壌がなくても、適当な解釈は出来るのです。
    この場合、外国人が鳥獣戯画をみて漫画的に(勿論最古の漫画ではありますが)
    楽しむ事はできても、生まれ育った文化的背景を交えての観賞は出来ないでしょう。
    など、いつもの様に自分を騙して納得させる生き方。

    まぁ、いいか、、、私には最近手に入れた座右のブログがあるから。
    西洋絵画は彼のブログ 町田の独り言 から学ぼう。

    • 町田 より:

      >月兎さん、ようこそ
      記事の前段 …… 「 “教養” というものがなければ絵のメッセージを汲み取ることができない」 という書き方は、少し生意気だったかもしれませんね。若干反省しています。

      ただ、別にエリートぶったことを言ったつもりではなく、ヨーロッパ古典絵画の場合は、「絵の中にお約束事がある」 ということを言いたかっただけなんですね。

      中世から近世にかけての絵画というのは、今のように芸術として鑑賞するものではなく、「神の恩寵」 やら 「人間の徳」 あるいは 「人間の未熟さ」 などを教えるための “教科書” として機能していたようなところもあります。

      だから、絵の中に、メッセージをはっきりと伝えるための小道具がいっぱい散りばめられるわけですね。
      たとえば、人物のそばに 「犬」 が描かれれば、それは 「忠義」 を象徴しているとか、ヴィーナスの像があれば 「愛」 を意味しているとか、蛇が登場すれば、それは 「人間を誘惑する悪しき知恵」 の象徴などというように、聖書やギリシャ神話などの題材からとった決まりごとがあるわけですね。

      しかし、そういうお約束事は、解説してくれる人がいなければ、なかなか日本人には理解できない部分であって、月兎さんがご自分のことを >> 「身を持って得たにじみ出る教養はゼロ」 などと謙遜される必要はまったくないように思います。

      そのへんは、まさに文化や伝統の違いということになるのでしょう。
      だから、おっしゃるように、「鳥獣戯画」 などは、仏教的世界観をなんとなく身に付けている日本人の場合は鑑賞するだけでその面白さが分かるということはありますね。

      コメントを通して、月兎さんの美術全般に対する強い好奇心や理解度の深さはストレートに伝わってきました。むしろこちらが勉強させてもらったように思います。

      末尾に、過分なお褒めの言葉をいただき、恐縮です。
      ありがとうございました。
       

  3. 月兎 より:

    あ!ヤバイです。
    ”花見遊山” 
    なんて造語してしまいました。
    何か胸につかえている気がしているのはなんだろうと、、。
    や!物凄い!!
    この種の失敗談、豊富にあるのですが、まさか御ブログで披露するとは。

    言い訳。
    何ヶ月も日本人とは話す機会がない日常です。

    苦し紛れに一句。

    いざ遊山 桜ほころぶ山裾へ などとひねって茶を濁し

    今穴を探しています!

    • 町田 より:

      >月兎さん、ようこそ
      >>「花見遊山」 …… こちらも気づきませんでした。「物味遊山」 ですよね。
      でも、“花見“ の方が気分的にしっくり来ませんか ? 気楽な感じが伝わってきて。そういう造語があってもいいように思います。

      “苦し紛れ” の一句、楽しいです。
      これは秀句ですね。
      山裾の花見の席で、「お茶を点てている」 という優雅さも伝わってきます (笑) 。
       

  4. 月兎 より:

    ウワー!
    これはチェーン・リアクション(連鎖反応)では?!
    勿論これは町田編集長の変換ミス!なんですが。
    でも、おぉー!なんて勝手な解釈をしまして。

    花見遊山(月兎) 物味遊山(cf editor. Machida)  物見遊山(広辞苑)

    ( しかし広辞苑は全面的に信じないほうが無難。実にミス解釈の多い辞書ではあります)

    今更ながら、このブログの面白さは尽きません。

    • 町田 より:

      >月兎さん、ようこそ
      いやぁ、まいったなぁ。物味遊山 … 変換ミスですか (汗)
      しかし、「チェーン・リアクション」 になったというのは面白いですね。

      で、広辞苑では 「物見遊山」 になっているわけですか ?
      確かめてないですけど、だとしたら、それも困ったことですね。

      まぁ、間違ったことを認めつつ、ここでは 「花見遊山」 がいちばん雰囲気をつかんでいる言葉になりましたね。
      “日本語の乱れ” を気にする人には由々しきことかもしれませんが、「花見遊山」 という造語があってもいいような気もしました。
       

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