きっと ここが帰る場所

 
 アメリカでは、始まって15分経ってもストーリーが見えてこない映画の場合は、観客が席を立ってしまうという。
 だから、アメリカ映画の大半は始まって15分以内に、誰が主人公で、誰がその仲間で、誰が悪役で、どういう陰謀が巻き起こって、何人ぐらい死んで … というような筋書きを観客に暗示しないとならないらしい。

 その法則でいくと、『きっと ここが帰る場所』(2011年 イタリア・フランス・アイルランド合作)は、アメリカでは、15分経った時点で、客の半数は席を立ってしまうような映画かもしれない。

 だって、どういうストーリーが展開していくのか、半分ぐらいが終わっても、なかなかつかめないのだ。
 WOWOWの「W座からの招待状」で観たのだけれども、解説者の一人である小山薫堂氏が、事前に「一回観ただけでは解らない映画だろうから、録画に撮って何回も観た方がいい」 というくらいなのだから。
  
 つまり、登場人物たちの会話、表情の変化、シチュエーションの展開があまりにも細切れに処理されているため、物語の背景を探ろうにも、その手がかりが得られない。
 だから、次々と登場する人たちの人間関係がつかめない。
 主人公と関わる主要人物たちが、最後までミステリアスな陰影を帯びる一方、酒場やカフェで隣り合わせた人間と交わす短い会話が、けっこう重要な意味を持っていたりする。

 全般的に漂うのは、人と人の間に漂う微妙な距離感だ。
 相手に対して素っ気ないのか、それとも優しいのか。
 その両方を感じさせるような淡い、(ある意味で心地良い)距離感。
 この映画全体に漂う「何か変 … 」という感じは、まさにそこから生まれている。

 その人間同士の不思議な距離感を “効果音” として表現しているのが、バックに流れるトーキング・ヘッズのデヴィッド・バーン (本人出演) などの80年代ロック。
 ロック本来の激情的パワーを “冷却ファン” で冷やし、抽象度の高いクールな音楽に昇華させたこの時代のロックが、妙に画面になじむ。

 そういった意味で、音楽と映像が優先するプロモーションビデオ的な映画だが、さすがに2回ぐらい観ると、ストーリーが呑み込めてきた。

 そうなると、決して難しい映画ではない。
 いわゆる “不条理映画” でもないし、監督のマスターベーションで終わるような “ゲージュツ映画” でもない。
 ストーリーは意外と単純で、ある意味、父に対する息子の思いを描いた映画であり、夫婦の映画であり、家庭の映画である。
 要するに、一風変わったホームドラマなのだ。

 ネタバレ的に、この映画を解説すると、これは大人に成りきれないロック青年が自分の境遇から抜け出て、大人の世界を知る過程を描いた映画といえる。
 別の言葉でいえば、「父」と「家族」を発見するストーリーとでもいおうか。

 主人公のシャイアンは、かつて「シャイアン&フェローズ」という人気ロックバンドのリーダーであり、かつコンセプトメーカーであった。
 主人公の言葉を借りると、「暗い若者たちのために暗い歌をつくって唄い」、それで「金を儲けていた」ということになる。


 
 そんな自分の過去を清算し、今は一切の音楽活動から手を引いているわけだが、しかし、髪型、メイク、ファッションにおいては、いまだに現役時代の習慣を捨て去っていない。
 「若作り」と自嘲的に語りながらも、朝起きると、相変わらず目元にアイメイクを施し、唇に口紅を塗り、そんなグロテスクな自分を鏡で見つめながら、陰鬱な日々を送っている。

 が、生活そのものは優雅だ。
 洒落た家具に満たされた豪邸に住み、水の張っていないプールで妻とボールゲームを楽しみ、株の売買で退屈をまぎらわしている。

 あまりにも優雅な退屈を味わってしまうと、それはうつ病と変わらないような精神状態を引き寄せることになる。
 主人公の心は躍動感を失っている。
 彼は、新しいものに対する感激を失うと同時に、過去の思い出に対しても冷淡になっている。

 思い出すほどの過去も持たない若者が、自分の過去に対して冷淡であることは理解できるが、主人公には、若者ならば抱くはずの「未来に対する希望と恐れ」もない。
 言ってしまえば、未来を失ってしまった “永遠の若者” なのだ。
 その無残さが、彼の厚塗りの「若作り」の顔から滲み出てくる。
 
 さらにいえば、ほとんど抑揚を欠いた彼の会話には、まずロジック(論理)がない。
 ただ、直感力だけは鋭い。
 さすがに、数々のヒット曲を作り出してきた人間らしく、外界から受けた刺激を詩のような言葉で飾る感性だけには恵まれている。
 が、それをロジックとして他者に伝える訓練が致命的に欠けている。
 つまりは、「歌」という形でしか自己を伝える術(すべ)を持たない人間、要するに、「社会の言葉」を持たない人間なのだ。
 
 そんな主人公のもとに、ある日、「父が危篤である」という連絡が入る。
 30年も会っていない父である。
 愛されたという記憶もない父に対して、彼の心はからっぽのままだ。 
 葬儀という社会的な儀礼に参加するためだけに、彼はダブリンの自宅を発ち、親戚・縁者のいるアメリカに渡る。

 そこで、はじめてユダヤ人である父が、生前ドイツのアウシュビッツで、ナチスのSS隊員から受けた恥辱をはらすために、その男を追跡していたという事実を知る。

 後半は、彼が父のリベンジを意図して、アメリカのどこかに身を隠しているかつてのSS隊員を探すロードムービーに変わる。

 主人公はナチスの逃亡者を探し出すことで、何を得ようとしたのか。
 ただの “成り行き” でしかないようにも見える。
 そもそも、彼の人生にはテーマも目的もない。
 ただ、ナチスの残党を探し出すことで、一種の “自分探し” を始められるかもしれないという淡い期待だけがあったのかもしれない。
 
 
 
 地平線まで見渡せるような乾いた大地。
 どこまでも続く、単調な一直線の道。
 頭上に浮かぶ真っ白な雲。
 
 人の気配が遠のいてくアメリカの原風景に触れながらピックアップトラックを運転していく主人公の心に、逆に、「人への関心」が芽生えていく。

 彼は、身を隠して暮らしている元SS隊員の妻を探し出し、その孫娘の親子と知り合い、はじめて人間が「家族」を持つということの不思議さや奇妙さに気づく。
 社会を拒絶していた “永遠のロック青年” が、ようやくロックの世界観から脱出していく様子が、そこに描かれている。
 
 だから、この映画は、「子供」が「大人」になっていくことをテーマにした映画でもあるのだ。

 伏線がある。
 それは、主人公が、自分を慕う “ロック少女” の母と話すシーンだ。
 ロック少女の母は、タバコを吸っている。
 その様子を眺めながら、主人公はその母に尋ねる。
 「自分は身体に悪いことは何でも経験してきた。しかし、タバコだけは吸わなかった。なぜだろう」

 その母親が返す。
 「子供だからよ。子供はタバコを嫌うものよ」

 喫煙の風習を「大人への証(あかし)」と位置づけるこの映画に対して、抗議をする人たちがたくさん出てきそうだ。
 しかし、タバコを吸うかどうかは、あまり重要ではない。
 主人公が、成熟した女からみれば、ただの「ガキ」にしか見えないということが重要なのだ。

 「大人になる」とは、どういうことか。
 父の最期を看取るためにアメリカに渡ろうとする主人公は、別れる前に、妻にこう尋ねる。

 「ひとつ聞いてもいいかな」
 「どうぞ」
 「なんで、我が家のキッチンに、わざわざ “キッチン” と(書いた電飾掲示板を)掲げたの ?  そんなこと、僕にだって分かるのに」
 妻はそれには答えず、ただ優しく主人公を抱擁する。

 このシーンも、映画を読み解くキーとなる。
 主人公には、「キッチン」というものが理解できていないということを、ここで語らせているのだ。

 主人公が理解しているのは、家の中におけるキッチンという「スペース」のことに過ぎず、キッチンの「意味」ではない。
 キッチンの意味は、「生活」があってこそ、はじめて理解できるものだ。
 妻が料理を作らないかぎり、冷凍物のピザを電子レンジで温めることしかしない主人公には、「キッチン」こそが家族を結びつけるものであるという、その “意味” がわかっていないのだ。

 子供には、キッチンの意味が理解できない。
 それは、母親が食事を提供してくれる “作業場” でしかない。
 アメリカに渡る前までの主人公が、「子供の時間を生きている人間」であるということが、ここでも明らかにされる。
 つまりは、主人公の家庭には、「夫婦」はいたが「家族」はいなかったのだ。

 ロックとは、永遠の青春を謳う音楽かもしれない。
 それは、成熟を拒否した音楽である。
 であるがゆえに、ロックとは、「自己」をテーマにする音楽ではあったかもしれないが、「家族」をテーマにすることのできなかった音楽である、ということなのかもしれない。

 どこかシュールな味わいがある画面が連続するが、印象としては爽やかな映画である。

 『きっと ここが帰る場所』

 主人公は、どこに帰ってきたというのか。

 彼は、爽やかに生きられる場所に帰ってきたのだ。
 映画は、ロック青年の象徴でもある「長髪」をさっぱりと切って帰ってきた主人公の笑顔で終わる。

 「青春は爽やかなものである」という通念がはびこる世の中に向かって、爽やかになるというのは、本当の大人になることだ、というメッセージが伝わってくる。

▼ 予告編

ロードムービー及び音楽映画の感想

シド & ナンシー (アレックス・コックス)

ストレンジャー・ザン・パラダイス (ジム・ジャームッシュ)

パリ、テキサス (ヴィム・ヴェンダース)

心のアメリカ旅行 映画 「バニシング・ポイント」 (リチャード・C・サラフィアン)
  
  

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きっと ここが帰る場所 への4件のコメント

  1. スパンキー より:

    ロックと家族って相容れない距離を感じますね。

    家族って、結局のところ他者の視点に気づくつてことだと思います。
    それが気遣いになったり、思いやりになったり…

    ガキってそれがないから面白いし、世界観がまるで違うでしょうし。

    ロックしていたい、けれどまわりがざわついていて、社会という枠にはめられて―という具合に
    みんな暮らしている。

    ロッカーがおとなになるって、どこで折り合いをつけるか、
    それって結構悩み深いテーマとは思いますが…

    この映画、観たくなりました!

    • 町田 より:

      スパンキーさん、ようこそ
      >>「家族って、結局のところ他者の視点に気づくこと」 というご指摘は至言であるかと思います。

      そのとおりですね。
      「夫婦」 までは 「個人」 と 「個人」 のぶつかり合いでしょうけれど、そこに子供が混じる、あるいは両親が同居しているなどとなってくると、それはもう 「社会」 ですよね。
      「他者」 というのは、「個人」 が 「社会」 と交わるところに立ち現れてくるように思います。

      ロックというのは、その 「社会」 が欠けた音楽であり、だからこそ、退屈で汚れた「社会」 への批判も、反発も、呪詛も可能になったのではないかと考えています。

      素敵なコメント、いつも本当にありがとうございます。
       

  2. わたなべたつお より:

    強引に映画繋がりで…結構、町田さん好みの世界観だと思うので、ご紹介。

    予告編(10分)しかありませんが、思いっきり引きこまれます。
    http://youtu.be/cJwvbiWF0yU
    自主製作、それも基本的に一人で!
    もうすぐ、第一章30分が完成するとか。。。でも全十章、何年かかるんだ?

    • 町田 より:

      >わたなべたつお さん、ようこそ
      アドレスをたどって、ご紹介いただいた自主制作映画の予告編、拝見しました。
      素晴らしいですね、これは !!
      本当によく作り込んでいると思います。
      全編通じて観たくなりました。

      押井守の 「イノセンス」 などにも似た映像世界で、確かに “好み” です。
      荒廃した未来社会を描いているようで、どことなくユーモラスな味わいがあるのも面白いですね。

      それにしても、よくこういう情報を探り当てましたね。
      いつもながら、わたなべさんのアンテナ感度に感服する次第です。
       

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