そして父になる

 
 タイトルどおりの映画だ。

 66回カンヌ国際映画祭コンペティションで、10分以上のスタンディングオベーションを受けたという是枝裕和監督の『そして父になる』(審査委員賞受賞)。
 つまりこれは、男というただの生物的存在が、「父」という “立場” に変化するまでのプロセスを描いた映画ともいえる。

 それは同時に、女が「母」になっていく物語であり、また幼い男や女が「子供」へと変身していくストーリーでもある。
 要は、人間の一つの小さな群れから、「家族」が生まれてくるドラマといえようか。

 そのきっかけには、何があったのか。
 それが、本作のテーマ。
 
 子供が生まれて、それを育てる。
 おむつを変え、お風呂に入れてやり、習い事をさせ、学校に行かせる。
 普通の家庭では、それが「家族の営みだ」などとことさら気張ることもなく、親も子も自然に「家族」という形を整えていく。
  
 しかし、自分の子供として育ててきた人間が、実は「他人の子だった」と知らされたとき、どんな家族でもいったんは、「家族」が崩壊したようなショックを味わうことになるだろう。

 「父」とは何か。
 「母」とは何か。
 「家族」とは何か。

 普通の家族が、意識することなく通過してしまう「根本的な問題」を、そういう目に遭った家族は、突然引き受けなければならない。
 この映画は、その根本的な問題、すなわち「家族とは何か」と問う哲学を、「哲学」などという堅苦しい概念をいっさい観客に押しつけることなく、おかしく、悲しく、そして感動的に伝えてくる。

 面白い映画だった。
 そして、凄い映画だな、とも思った。

 まず、役者たちがいい。
 「負ける」という経験を知らないまま出世街道を驀進してきたエリートサラリーマンの福山雅治が、息子が「自分の血を受けた子供」ではなかったことを知ったときの不条理にどう立ち向かうのか。

 「幸せな家庭」を築いてきたつもりの妻の尾野真千子が、他人の子だと分かってからも生まれてしまう愛情に、どう決着を着けるのか。
 
 そして、不意に両親が醸しだす微妙な感情の変化を、感受性の鋭い子供がどう受け止めるのか。
 子役も含め、それぞれの役者が、言葉にならない感情の推移を見事に演技で伝えてくる。

 子供を病院で取り替えられた相手方夫婦を演じるリリー・フランキーと真木よう子の演技も素晴らしい。
 お金持ちで教養のあるエリート家族の福山雅治一家とは好対照をなす無学な家族を演じる 2人だが、彼らの家族にはそれなりの育児方針があり、人間と人間の接し方というものがあるということを、その無教養で粗野な言葉と表情で訴えてくる。

 福山一家は、美しい都会の夜景を見渡せる高級マンションに住んでいる。
 リリー・フランキーの一家は、さびれた町のくすんだ電気屋を営んでいる。
 福山一家はレクサスに乗り、フランキー一家は軽自動車のバンに乗っている。

 福山一家では、子供にピアノを教え、高級デジカメさえプレゼントしようとする。
 しかし、自分の仕事にプライドを持ち、休日でさえも仕事のことしか頭にない父を持つ家庭には、どこか空虚な風が吹いている。

 フランキー一家では、子供たちに高級なおもちゃを買え与える余裕がない代わりに、父親は常に子供たちと遊び、親子ともども笑い転げて暮らしている。

 二つの異なる家族を描き分けながら、是枝監督は、どちらが優れているのか、どちらが幸せなのかということを、いっさい言わない。
 それを判断するのは観客である。

 しかし、その観客も、「ほんとうの幸せって何なんだ ? 」 という監督の投げかける問に、自然に誘い込まれていく。
 エリート一家には、やはり恵まれた家庭でなければ手に入れられない幸せがあり、ビンボー一家には、やはりそれなりの苦労もあることも、しっかり描き込まれているからだ。

 自分の子が、血を分けた子供ではないと知ったとき、目の前にいる子供はどんなものに見えてくるのか。
 ある意味で、これはスリリングな話である。

 子供が「別の何か」に見えてくる。
 それは、ハリウッドの娯楽大作によく出てくるサイボーグ人間とか、アンドロイドなどに接したときの驚愕に近い。
 
 ただ違うのは、サイボーグやアンドロイドが登場する話は人間に近い人工物と出遭う話だが、この映画では、逆に「人間」に出遭う。
 子供が、血を分けた自分の “分身” ではないと知ったとき、目の前に現れるのは、「子供」でもなく「自分の分身」でもなく、「人間」なのだ。

 普通の家族は、なかなか「人間」と出遭うきっかけがない。
 しかし、この映画の家族たちは、それまで考えたこともない、生身の、本当の「人間」と向かい合わなければならなくなる。

 「家族とは何か」という問は、「人間とは何か」という問でもある。
 そして、相手が「人間」ならば、どう接すればその相手と心を通じ合わせることができるのか、という問へとつながっていく。

 そこまでたどり着いたとき、この映画は、軽々とハリウッド大作のサイボーグマンやアンドロイド映画の面白さを超える。

 映画全般に漂う “空気感” がいい。
 高級マンションの窓から眺める大都会の夜景は、それなりに美しくも、どこか寂しげで、はかなげだ。
 地方都市のくすんだ電気屋のたたずまいには、「貧困」がにじみ出るようなわびしさが漂う。
 どちらの風景にも、人の心が通い合わなければ、温かい灯がともらない。
 だからこそ、人と人のつながりが恋しくなるし、貴重なものに感じられてくる。

 大好きな映画にひとつに、やはり是枝監督の『空気人形』があるが、この映画からも、寂しくて透明度の高い “空気感” と、その空気の中でこそ生まれてくる人のつながりの温かさが伝わってくる。

 「ネタバレ注意 !! 」は、この作品にはない。
 結末がないからだ。
 もちろん、ある種のハッピーエンドを匂わすようなエピソードは最後に添えられる。
 しかし、それを「結論」と感じるかどうかは、観客次第。
 むしろ、二つの家族の旅はこれから始まるという、余情というか、余韻のなかでエンドロールが現れる。
 
 
参考記事 「空気人形」
  
  

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