「風」 の正体

 
  

 宮崎駿のアニメ映画 『風立ちぬ』 を観ていて、ふと 「風が立つ」 とはどういうことか ? と考えた。

 タイトル自体が、ポール・ヴァレリーの詩の 1行から取られていることは、映画の中でも語られているし、またそのタイトルが、主人公の堀越二郎と同時代を生きた小説家・堀辰雄の作品とダブらされていることもさんざん広報されている。

 でも、宮崎駿が 「風が立つ」 という言葉の中に込めたイメージがどんなものであったか。
 そのことについては、直接的には、どこからも語られてこない。

 ただ、映画の中では、一言だけこの言葉が出てくる。
 主人公の二郎が、零戦の試作品を目の前にして、頭のなかで組み立ててきたそれまでのアイデアが実際の形をとったとき、彼は、
 「風が立った」
 とつぶやくのだ。

 その場合の 「風」 とは、まだこの世に存在しない 「イデア (理念) 」 のようなものを指し、それが 「立つ」 とは、そのイデアが一つの “形” をとってこの世に現れた状態を指す。
 ひとまず、そう解釈することが可能だろう。

 もし、そうだとしたら、これは、「風の強さ」 こそがモノをつくるときの “強度” を保証するということを訴えた映画なのかもしれない、とも思うのだ。

 この映画は、堀越二郎の心中に巻き起こった風が、いつしか零戦という具体的な工業製品に集約していくプロセスを描いているわけだが、二郎の心にうごめき始めた風が、春の微風から竜巻のように大きくなり、それに伴い、設計する飛行機の精度が上がっていくという過程をたどる。

 それは、なにも飛行機の設計だけに限らない。アートや思想的営為においても同じことがいえるだろう。

 思えば、村上春樹のデビュー作は 『風の歌を聴け』 だった。
 彼は、自分の将来などを予想もしえない処女作にそのタイトルを使ったとき、小説家としての自分の 「風のゆくえ」 を見定めていたのかもしれない。

 古来より、「風」 は人間の精神活動を意味する比喩として使われてきた。
 創造的作業を進めるときに、突然あらわれる “神の啓示” のようなひらめきを英語で 「inspiration (インスピレーション) 」 というが、その語源は 「神様が人間に吹き込んだ息」 という意味から来ている。
 つまり、風は、人間の目がとらえることのできない 「神様の息」 なのだ。

 文学や、アートや、その他もろもろの人間の思想的営為は、すべて目に見えない 「風」 を可視化していく作業といえる。
 そして、その風が 「立った」 時が、作品がこの世に生み落とされた時なのである。

 そういった意味で、風は音楽にも近い。
 音楽もまた、風と同じように空気の波動に過ぎないが、その波動が一定の法則に従ってコントロールされることによって、人間の心の底に眠っている原始的な感性が刺激され、それまで見えなかった世界を感知させようとする。
 人は、音楽においても、見えないものを視ているのだ。

 この世には、風をテーマにした音楽が無数にある。
 その多くは、曲調や歌詞には表現されない歌の奥に隠れた “何ものか” を訴え続ける。
 だから、風の歌を聞くとき、われわれは、どこか知らない遠くの地に飛ばされるような心細さと、優しさと、温かさと、哀しさを知るのだ。

 
▼ キャット・スティーブンス 「風」 The Wind

▼ サンタナ 「風は歌う」 Song Of The Wind

▼ はっぴえんど 「風をあつめて」

▼ ボブ・ディラン 「風に吹かれて」 Blowin‘ In The Wind

▼ ヴェーグランド・クゥワルテット 「風が吹いていたら」 

 
  
参考記事 「春の夜風」
   
関連記事 「風立ちぬ」
 
参考記事 「風は歌う」
 
  

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「風」 の正体 への6件のコメント

  1. クボトモ より:

    「風」というものは、そのままでは動かない空気が「何か」によって
    流れを起こしたときの状態を言うのだと理解しています。

    僕が高校時代、理工学部航空学科に通う年の離れた友人から
    飛行機が飛翔する理論「流体力学」を教えてもらいました。
    もちろん、頭の悪い高校生が理解出来る範疇で、でしたが。

    比翼の断面図を見せられながら、空気の流れる速度によってあの重たい機体が
    飛翔するのを知ったのはとてつもない驚きでした。

    零戦は、堀越二郎という存在によって立った。
    音楽は、ミュージシャンによっていくつもの違う風を立てた。
    風をテーマにした音楽は、私たちそれぞれの受け止め方で
    それぞれの風を生み出しているのでしょう。

    なんて、
    町田さんの着目した「風」に触発され
    色々な「風」が僕の内面に立ったのは言うまでもありません。
    流石だなぁ町田さん。
    今後とも面白い「風が立つ」「何か」をよろしくお願いします!(笑)

    • 町田 より:

      >クボトモさん、ようこそ
      いやいやまた教えていただきました。
      >> 「 (飛行機の) 飛翼の断面図を見せられながら、空気の流れる速度によってあの重たい機体が飛翔する」 という流体力学の原理。

      ああ、なるほど !!
      堀越二郎は、「重力」 という地球上のどんな存在も逃れることのできない “呪縛力” から開放される唯一の存在として、飛行機を視ていたわけですね。
      すっごくイメージが広がる指摘をいただきました。

      あの映画が 『風立ちぬ』 というタイトルであったのは、重力という、この世に存在する物体をすべて覆い尽くす “宿命” のようなものを、「風」 の力で振り切るという意味であったのかもしれません。

      いつも刺激的なコメントをありがとうございます。
       

  2. スパンキー より:

    先日カラオケに行きまして、はしだのりひことシューベルツの「風」をうたいました。
    これ、いつもうたいます。
    私が中一のときにヒットしたのですが、多感な時期でしたので、とても印象に残っています。
    そこにはただ風が吹いているだけ…
    意味深でしたが、いまはその意味が少し分かったように思います。

    いまはまあ、風に吹かれて(五木寛之)生きているようなものですが…

    • 町田 より:

      >スパンキーさん、ようこそ
      YOU TUBE で、久しぶりに、はしだのりひことシューベルツの 「風」 を聞いてみました。
      いろいろ考えさせられましたね。

      実は、この曲は、このブログに紹介するいくつかの曲のなかで、一番最初に浮かんだ歌だったんですね。
      でも、それを省いたのは、自分の印象として、「どうしようもない甘ったれた歌詞だな」 という先入観があったからです。よくありがちな青年の 「喪失感」 を耳障りのいい言葉で飾っただけの歌 … そんなイメージがあったんですね。

      しかし、スパンキーさんが、>>「そこにはただ風が吹いているだけ…、意味深だが、いまはその意味が少しわかった」 と書かれているのを拝読し、自分ももういちど歌詞をたどってみました。すると、自分にもこの歌が発するメッセージが少し変わって聞こえてくるようになりました。

      結局、この歌では、
      「ふるさとを振り返る」
      「夢破れて振り返る」
      「恋をした切なさに耐えきれず振り返る」

      … というような、青春歌謡によくあるセンチな “挫折感” の部分に力点があるのではなく、
      「ただ風が吹いているだけ」
      という一言が重要だったということなんですね。

      ここで吹く “風” は、ある種の不条理を表している。
      つまり、人間が日常生活の中で感じる、「切なさ」、「さびしさ」、「哀しさ」 などを超越したところで、「当たり前のように風が吹いている」 という、人間世界の条理を超えて存在している “何か” を、 「風」 という言葉で表現しているような気がしてきました。

      だから、この歌の中に吹いている 「風」 は、人間が地球上に姿を現す前から吹いており、人間という種がこの地球から姿を消した後も、当たり前のように吹いているというイメージが広がってきました。

      そう思うと、ヤヤヤヤッ !!
      けっこう奥行きの深い世界が歌われているじゃないですか !!

      さすがスパンキーさんですね。
      「言葉」 を扱うお仕事をされている方らしい 「感覚のひらめき」 をコメントから感じることができました。
      何ごとも先入観にとらわれることなく、じっくり接してみないとダメですね。
       

  3. アレハンドロ より:

    今思えば、宮崎駿というアニメ作家は古くから「風」そのものにこだわっていたような気がします。「カリオストロの城」のエンディングで大量の花びららしきものが空を舞う情景や、「紅の豚」で表現された、主人公の愛機が日の光を受けて様々な色彩を放つ表現方法なんかは、作者のこだわりがなくては生まれてはこなかったのでしょう。

    ただ、どうしても気になることがあります。

    ジブリ作品全般に感じることなんですけれども、「男」の描き方が柔らか過ぎやしないかなって思います。「となりのトトロ」などの小さな子供がいる家族向けの作品、これから大人になろうとする女の子が主人公である「魔女の宅急便」などはともかくではありますが。「風たちぬ」の堀越二郎にしても、泥臭さがもっとキツめに表現されていたらどんな作品に化けていたのかなって思うんです。あくまで個人的な感想ではありますけど。
    怪しい商売のために大空を駆け巡るというダーティな設定の上に、豚の顔した主人公と、ある意味最もジブリらしくないシチュエーションを持った「紅の豚」(タイトルもやけにジブリらしくない)に最大の魅力を感じる人ってどれだけいらっしゃるのでしょう?私がジブリ作品の中で繰り返し何度も観た作品ではあります。宮崎駿氏は
    「豚が空飛んだら面白いでしょ?それだけでつくったんです」
    と記者会見でおっしゃってましたけど、一番彼らしさを感じる作品だと思います。

    • 町田 より:

      >アレハンドロ さん、ようこそ
      >> 「ジブリ作品全般に感じることだが、『男』 の描き方が柔らか過ぎやしないか」 というご指摘、ははぁ、なるほど … と思わず膝を打ちました。
      私はあまりジブリ作品の良き鑑賞者ではなく、見ている作品も限られてしまうのですが、「泥臭さがもっとキツめに表現されていれば、( 『風立ちぬ』 も) どんな作品に化けていたか … 」 というご指摘にはうなずけるところがありました。

      おっしゃるように、『紅の豚』 のような主人公と比べると、『風立ちぬ』 の堀越二郎は、線が細いというか、存在感が透明過ぎるというか、確かに “柔らか” な感じがしますね。

      ただ、この映画に限っていえば、堀越二郎と、もう一人の表に出てこない影の主役・堀辰雄の二人を重ね合わせようというアクロバティックな試みをしたため、主人公を抽象的な存在にせざるを得なかった … という気がしないでもないのです。

      方や緻密な頭脳を持つ航空機のエンジニア、方やフランス文学に傾倒していた病弱な文学者。
      両者の共通点というのは、「心の中に風の気配を感じる人」 ということで、それを統合するとなると、人格も “風のような透明感” を持つ人間に集約せざるを得なかったのではないか、とも思います。

      たぶん、『風立ちぬ』 においては、宮崎駿は、堀越二郎という “人間” を描こうとしたのではなくて、堀越二郎と堀辰雄の “精神” を描こうとしたのではないでしょうか。うまくいえないのですが、つまり、抽象的な 「思考の形」 を描こうとしたということでしょうかね。

      『紅の豚』 に関しては、アレハンドロさんの見方を面白く感じました。
      示唆的なコメント、ありがとうございます。
       

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