風立ちぬ

 
 1995年の5月のことだった。
 「日本の空を零戦が飛ぶ」
 というニュースを知った。
 電車の車内吊りの広告だったと思う。
 
 世界で唯一の栄21型エンジンを積んだオリジナルの零戦 (52型) 。
 それが、第二次大戦で活躍した米空軍機のP-51ムスタングとともに茨城県の竜ヶ崎飛行場で開かれる航空ショーに登場するという。

 私は息子と一緒に、キャンピングカーで前日の夜から竜ヶ崎飛行場に向かい、そのショーを見に行った。

 私も小さい頃は、第二次大戦頃の戦闘機のプラモデルなどを集めていた少年だったから、零戦に思い入れを持たない方ではない。
 でも、本当のことを言えば、ムスタング、メッサーシュミット、飛燕、スピットファイアーのような、水冷式エンジンを搭載する戦闘機の方がカッコいいと思っていた。ボディも細身で、スマートだったからだ。

 それに対し、頭デッカチの空冷の零戦は、飛行機の知識もない少年の自分には好きになれない飛行機だった。

 しかし、大空を舞う本物の零戦を見たとき、
 「なんと美しい飛行機なんだ !! 」
 とため息が出た。
 主翼、胴体、尾翼のバランス。
 絵画でいう “黄金比” という言葉を連想したくらい、これ以上のまとまりはないというほど、完璧な美しさだった。

 「美しい飛行機をつくりたい」
 宮崎駿アニメ 『風立ちぬ』 に登場する零戦の開発者・堀越二郎はそういう。

 対米戦争の準備が極秘裏に進むなか、海軍の要請する艦上戦闘機のスペックを実現する前に、設計者の二郎の頭のなかには、「美しい飛行機は、当然最高のスペックを満たす」 という信念があった … というのがアニメの作者である宮崎駿の思想のようである。

 それは堀越自身の思想であったかもしれず、そうだとしたら、堀越二郎という技術者は、一種のマッドサイエンティストであったかもしれない。
 つまり、 “人殺し” を目的とする武器をつくりながら、そこに美学を求めたわけだから。
 そのような矛盾した人間の心理を、観客にどう説明するのか。
 この映画は、宮崎駿のそういう “思考実験の場” であったかもしれないとも思う。

 夏休みの始まる頃に、封切られたこの話題の映画を、ようやく見ることができた。
 とうに “真夏” は過ぎたというのに、関東には青空が広がり、『風立ちぬ』 のポスターに描かれたような入道雲が浮かんでいた。

 その光景が、そのまま映画の中にスライドしていく。
 青空、雲、風。
 それが、この映画を彩る三要素だ。
 
 登場人物はみな漫画の持つまろやかな線で描かれるというのに、映画に登場する空と雲は、実写よりもリアルで、生々しい。
 月並みな表現だが、「眼の覚めるような ! 」 青と白の世界。
 それは、この映画の広報・宣伝でさんざん謳われる 「飛行機という美しい夢」 を育む舞台を見事にお膳立てしている。

 なのに、その青空から降りてくる空気は、どこかさびしい。
 実写よりも鮮やかな色で包まれた雲と空が、すでに 「再び見ることのできない光景」 を訴えてくる。

 何なんだ ? この空は …… 。
 見ていると不思議な気分になる。
 私はアニメの作画の知識も光学の知識もないから、その秘密がよく分からないのだが、『風立ちぬ』 に出てくる空は、美しいにもかかわらず、 “失われてしまった空” なのだ。

 いったい何が失われた、というのか。
 この映画は、観る人に 「自分の夢に忠実に、まっすぐ進め」 と訴えかける映画ではなかったのか ?
 
 たぶん、宮崎駿は、「夢」 など信じてはいなかったのではあるまいか。
 「飛行機は美しい夢である」
 というキャッチは、あくまでもプロモーション用の言葉で、本当のところは、「夢のはかなさ」 を謳った映画ではなかろうか。 

 が、こうも言える。
 「はかないから美しい」
 
 実際、この映画には、近代化の波に飲み込まれていく直前の “はかない美しさ“ に満ちた日本の光景がふんだんに登場する。
 明治時代と変わらぬような都市部の風景。
 工業社会などとは縁もゆかりもなさそうな、のどかな田園風景。


 
 最新鋭戦闘機が生まれたとしても、それを荷台に乗せて飛行場まで運ぶのは牛。
 風土そのものが “アジア的停滞” の中にまどろんでいるような時代に、軍事技術だけを突出させて欧米に迫ろうとする奇形的な国家戦略。

 そんな “危うさ” が、まもなく滅んでいくだろうと思わせるのどかな田園風景を、悲しい色に染め上げる。
 昭和の末を生き、平成の現在を生きている人間たちにとっては、その光景がまもなく消失することを知っているがゆえに、よけい切なく、美しく見える。
 
 滅んでいくのは、美しい日本の風景だけではない。人々の影にも 「死の匂い」 が漂う。
 最愛の妻・奈穂子が患う (当時としては) 不治の病結核。
 そして、終了間際に登場するおびただしい零戦の残骸。

 大地を埋め尽くす無数の零戦の死骸の幻を見ながら、主人公の二郎はつぶやく。
 「一機も生きて帰って来なかった」
 夢の末路を見てしまった人間のつぶやきである。

 面白いことに、この映画には、現実の零戦が空を飛ぶシーンは一度も出てこない。(飛行実験に成功したのは、零戦のプロトタイプともいえる九式単座戦闘機である) 。
 
 そして、最後の最後になって、ようやく我々が知っているあの零戦が編隊を組んで飛行する場面が登場する。
 でも、それは二郎の頭の中をかすめていく夢 … つまりは幻なのだ。
 戦争が終わり、現実の零戦がすべて残骸になった後、主人公の頭の中だけで飛ぶ零戦。

 そこに、この映画をつくろうとした宮崎駿のモチーフが集約されているのではなかろうか。

 実は 「平和な時代」 の空を、編隊を組んで飛ぶ零戦の姿を、日本人は誰ひとり見ていない。
 零戦は、戦場に飛び立つ姿を見守った整備士たちの追憶の中か、戦意高揚のために作られた戦時中の映画の中か、戦争をエンターティメント化した戦後の戦記映画の中でしか飛んだことがない。
 そもそも戦闘機である零戦が、平和な空の下を、編隊を組んで飛ぶことはあり得ない。

 宮崎駿は、そのあり得ない光景を最後の10秒間に凝縮させた。
 その意味をどう取るか。
 すべては、観客に手渡された “宿題” である。
  
  
関連記事 「 『風』 の正体」
 
参考記事 「ひこうき雲 (松任谷由実は荒井由実を超えたか ? )」
   
 

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風立ちぬ への4件のコメント

  1. クボトモ より:

    まだ観ておりません。
    しかしこうして、町田さんのブログや
    数々のブログのおかげで観たような気分になってます(笑)

    この映画の感想、あちこちのブログに書かれてますね。
    単純に好き・嫌い、声優の好き・嫌い。
    当時の倫理観、批判、異論反論。
    監督のメッセージ受け取れた、受け取れない。
    人それぞれ言及するポイントが違う様です。

    僕がこの映画のあらすじを知った時、真っ先に思い浮かべたのは
    フェルディナント・ポルシェ博士でした。
    第二次世界大戦は軍事技術が飛躍的発展をした戦争。
    ヒトラーは優秀なポルシェ博士を軍に招き、
    軍用車両や戦車を作らせました。

    ところでポルシェ博士はヒトラーを「総統」とは呼ばず
    「ヒトラーさん」と呼んでいたとか。
    彼は政治や戦争に興味が無かったとの記録があるようです。

    この戦争、どこの国でも優秀な技術者が軍に徴用されたと言います。
    二郎やポルシェ博士の様な技術者が世界各地にどれだけいたことか。
    そして彼らは、どんな気持ちで戦争に対峙していたのか。
    それを想像しながらこの映画を観たいと思います。

    • 町田 より:

      クボトモさん、ようこそ
      フェルディナント・ポルシェ博士の件、言われるまで気づきませんでしたが、まさに類似点がありますよね。

      第一次大戦以降の近代戦は、「技術力」 対 「技術力」 、「化学」 対 「化学」 の戦いでもあったわけですから、科学者や技術者は、どの国でも、協力的であろうが抵抗を感じながらであろうが、なんらかの形で戦争に加担しなければならなかったのでしょうね。
      彼らがどんな気持ちであったのか、それぞれ複雑な思いを持っていただろうことは想像に難くありません。

      ひとつ言えることは、技術が複雑になってきて、いろいろな分野の技術が横断的に交差する現代兵器の場合、個々の技術者は、自分の追求した技術が具体的な兵器として完成されたときのイメージをつかまえにくくなっているのではないかという気もします。

      そうなると、現代の技術者と第二次大戦の頃の技術者では、ずいぶん異なる気持ちを持っているのではないかという気もしないでもありません。
      堀越二郎やポルシェ博士の方が深刻だったようにも感じます。
       

      • クボトモ より:

        なるほど、確かにその通り。気づきませんでした。
        この半世紀で近代兵器は驚くべき進化をしています。
        おっしゃるように個々のパーツの開発者は
        詳細を知らされていない可能性もありますね。
        無人戦闘機や爆撃機は、まるでゲーム機の様に操縦すると言いますし。
        ますます戦争への関与に対する意識が希薄になります。

        かつての技術者の方が、厳しい事ですが、
        より命の重みを感じ取っていたのかも。

        ううむ…
        技術革新が明るい未来ばかりを作っているわけではないと考えると
        薄ら寒さを覚えます。

        • 町田 より:

          >クボトモさん、ようこそ

          太平洋戦争の前夜、大艦巨砲主義時代の帝国海軍は、まだ敵艦の位置を目視で計測していたらしいですね。「日本人はアメリカ人よりも目がいい」 ということが自慢だったとか。
          ドイツもアナログの計測器を使っていたし (ドイツの光学機器の精度の高さがそこでモノを言っていたとか … )、アメリカだけがいち早くレーダーを導入していたと聞きます。

          現代は、そんな時代と比べると隔世の感がありますね。
          近代兵器の驚異的な発達は、やはりエレクトロニクス技術がもたらしたもののように思います。
          クボトモさんがおっしゃるように、ロボット兵器や無人戦闘機というのは、そういう技術から生まれてきたものだろうし、そうなると、当然、敵を 「人間」 として感じなくなっていくのでしょうね。
          「戦争がゲーム化している」
          そういう時代になってきているように感じます。
           

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