ヤンキーとドン・キホーテ

  
 私の知り合いが主宰しているblogに、「ドンキな人たち」 というタイトルで、ディスカウントショップのドン・キホーテと、そこに集まるヤンキーのお客たちを観察したレポートが載せられていた。

 これがめちゃめちゃに面白かった。
 まず、人間観察力の的確さに脱帽。
 “ドンキ” の駐車場に集まるクルマの観察から、そこから降りて店内に入る人々の雰囲気。
 そして、彼らが身に付けるファッションやアクセサリー、買いに来た商品、仲間 (家族) 同士の会話などが、まるでワイドショーの取材ものを見ているかのように、鮮やかに描写されていた。 

※ そのblogがこちら (↓)
http://blog.livedoor.jp/sigeru10161/archives/51929196.html

 「彼らヤンキーはなぜドンキを愛するのか ? 」
 
 blog記事には、直接そういう分析はないものの、ヤンキーとドンキーの相関関係をリアルに描き出すことで、あとは読者がそれを考えればいいようにお膳立てされている。

 私はヤンキーな人々やそのライフスタイルにすごく興味があるので、わりとその手の本があったら反射的に手に取ってしまう方だが、近年の本では、斎藤環氏の書いた 『世界が土曜の夜の夢なら』 がすごく面白かった。

 この本では、ヤンキー様御用達のグッズ類からファッション、彼らが熱狂的に支持するヒーローやアイドルなどを分析し、このヤンキー的文化が、これまでの日本人の生活信条とも微妙に絡んでいることを指摘する。
 そして、一見ヤンキーとは関係なさそうに思える相田みつをの詩や、『3年B組金八先生』 で武田鉄矢の演じた熱血教師の言動などに、その類似を見る。
 さらに、なんとヤンキーの元祖を坂本龍馬あたりに求めるという発想がものすごく刺激的だった。

 とにかく、近年ヤンキーを文化現象・社会風潮として研究しようという機運が盛り上がっているらしく、つい最近も、クリスチャン・ラッセンの絵が、なぜヤンキーにウケるのかという論考にもページを割いた本が出たらしい ( 『ラッセンとは何だったのか ? 』 ) 。
 こちらは書評でちらっと知った程度だが、評者の紹介を読むと、ヤンキーにとってラッセンの絵は、「あか抜けることを拒否し、悪目立ちすることを望むヤンキーの感性にぴったりと重なるアーバン (都会性) 」 なのだという。

 なるほど。
 カギは、 “あか抜けないアーバン” 。
 確かに、ラッセンの絵に描かれる夜の海を飛び跳ねるイルカたちは、自然を志向するというより、大都会の安っぽいネオンの下で本領を発揮する。
 つまり毒々しいのだ。

 このラッセンの絵に描かれる月の光や、それを反射する海面の白波は、新宿の歌舞伎町あたりに浮遊するネオンのチープなきらめきと同質である。
 つまり、ラッセンの絵は、どこかドン・キホーテ的なのだ。

 それを 「趣味が悪い」 と一言で退けることはできない。
 ヤンキーのような文化やラッセンのようなアートは、すでに我々の生活の足元にまでヒタヒタと浸水している。
 
 足音を忍ばせ、でもじわじわと世界を埋め尽くしていく 「ヤンキー、ドンキー、ラッセン」 。
 それが何を意味するのか。
 考えると、これはけっこう奥の深いテーマであるように思える。

 人間の感性などは、時代とともにどんどん変わる。
 新しい美意識は、すべてそれまで 「お上品だったもの」 を駆逐していく過程で生まれてきた。
 私は、“ヤン・ドン・セン” には、生涯なじめない人間だと思ってはいるが、世界は個人の思惑とは関係なく進んでいく。

 もしかしたら、25~26世紀の人々は、この21世紀を 「ヤンキー、ドンキー、ラッセンを生んだ時代」 として最大級の賛辞を送ったりしているかもしれない。
  
 
関連記事 「世界が土曜の夜の夢なら (ヤンキーの美学) 」

参考記事 「キャロルと矢沢永吉」
 
 

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ヤンキーとドン・キホーテ への10件のコメント

  1. kamado より:

    ご無沙汰しております。
    数年ぶりにコメントさしあげます。
    >私は、“ヤン・ドン・セン” には、生涯なじめない人間だと思ってはいるが、世界は個人の思惑とは関係なく進んでいく。
    まったく同感です。
    町田さんが以前書かれていた 『世界が土曜の夜の夢なら』 も、うんうんと頷きながら読ませていただきました。
    現在の出口の見えない、閉塞状況の社会を感じ取っているのか、その見かけとは違った家庭的で保守的で内向きの彼らを否定も批判もできませんが、ちょっと寂しく感じるのです。
    ただ、あまり趣味の良くないラッセンはかなり昔の、一時の流行だったと思っていたのですが、そうではないのですね。
    残念ながら、もう高齢者(私)にはついていけません。

    • 町田 より:

      >kamado さん、ようこそ
      お久しぶりです。
      コメントありがとうございます。
      『世界が土曜の夜の夢なら』 という本はなかなか面白い本でした。
      なぜ、「土曜の夜」 なんだろう ? と考えたこともあります。
      それは、昔、『サタデー・ナイト・フィーバー』 という映画があったように、世界には土曜だけが「週末」 となる勤労青年もたくさんいるということなんでしょうね。
      エリートサラリーマンたちにとっては土曜は休日。家で寝ている日。だから 「花の金曜日」 が週末となるわけですが、仕事をしているヤンキーたちにとっては、「週末は土曜日だけ」 ということもあるのかもしれません。

      クリスチャン・ラッセンは、この夏にも来日して、日本のファンたちと交流したようです。だから彼の人気もけっして衰えたわけではないようです。
      絵画としては、私自身の好みとは合いませんが、日常生活を彩るアクセサリー的アイテムとしては、こういうタッチを好む人がいることも理解しています。

      >> 「高齢者 (私) にはついていけません」
      私もまた同様です (笑)。
      これからは、ますます周りの動きから孤立していくような気持ちを味わう度合いが強まっていくのでしょうね。
      でも、そうやって人の歴史は動いてきたわけで、さびしいけれど、仕方がないことなんでしょうね。
       

  2. クボトモ より:

    “ヤン・ドン・セン”とても面白い考察でした。

    >>『新しい美意識は、すべてそれまで 「お上品だったもの」 を駆逐していく過程で生まれてきた。』

    ぼくもヤンキー文化と交わる機会が無い生活をしていますし、
    ドンキーにもラッセンにもあまり興味がありません。
    しかし、引用させて頂いたこの一文を拝読してこんなエピソードを思い出しました。
    幼少の頃、西洋のコース料理になじみが無かった僕らの世代は、
    ぎこちなくフォークの背にライスを載せて食べていました。
    それが西洋料理のマナーだと言われて。それを頑なに信じて。
    ところが時を経てそのマナーは崩されていきます。
    フォークを利き手に持ち替えてもよくなったり、
    進歩的なお店では箸を使っても許されたり。

    「お上品だったもの」は「心地よいもの」へと変わってゆきました。
    もしかするとヤンキー文化は気負いせず暮らせる心地よいものなのかも知れない。
    取り入れる人々が増えてゆくのかも知れない。それもアリなのかも。
    なんて、価値観を広げる機会を頂いた思いです(笑)

    • 町田 より:

      クボトモさん、ようこそ
      お書きになられた “フォークの背にライスを載せる” という話。
      確かに、一時私もそれがマナーだと思って、そのように振舞っていた時期がありました。
      考えてみると、あれはどこから生まれてきたマナーだったのか。
      実際に、レストランで食事をしている紳士然とした外人を見たとき、彼らが 「右手にナイフ、左手にフォーク」 というルールにとらわれず、右手で堂々とフォークを操っている姿を見て、「なぁーんだ、けっこう自由にやっているじゃないか」 と、半ばあきれ、半ば安心した記憶があります。

      おっしゃるように、ヤンキーファッションやヤンキーアクセサリーから漂うルーズな雰囲気というのは、「気負わず、心地よく生きる」 というメッセージから来るものかもしれませんね。
      その場合の “気負わず心地よく” というのは、常識人となることを強要する堅苦しい社会的規範からの解放という意味合いがあるのかもしれません。

      そうだとすれば、誰の心の中にもヤンキー的心情が眠っているといえなくもないですね。それをたまたまファッションと行動で表現したのが彼らというわけで。

      夭逝したナンシー関の言った言葉に、「日本の芸能界を支配する美意識の大部分はヤンキー的なものである」 というのがあるそうです。つまりは (テレビを通じて)日本人にいちばん馴染みがあるのは、ヤンキー的文化であるということらしいのですね。
      すでに、気づかないうちに、我々の内面はヤンキー化しているのかもしれません。
       

  3. guchi3 より:

    私も「ラッセン」1枚持っていますが、この絵が曲者で、どこに飾ってもしっくりこないんですよね。水墨画の掛け軸は日本間、ゴッホのひまわり(持っていませんが)応接室、といったように、溶け込む場所がないんですよね。でも反対の見方をすれば、どこに飾っても違和感があるということは、どこに飾っても許されてしまうということなんですよね。違和感を醸し出しつつ、その場所に存在できるということですかね?そういう感じって、「ヤンキー」と呼ばれる存在に共通するものじゃないでしょうか。あらゆる「コミュニティー」の中に存在し、(「ヤンキー先生」、「ヤンキー弁護士」など「ヤンキー何々」)違和感を醸し出しつつも、存在できるということは、「オタク」や「マニア」等が到達できない、何か違う精神性や存在感があるかもわかりませんね‼

    • 町田 より:

      >guchi3 さん、ようこそ
      「ラッセンの絵は、どこに飾っても違和感がある … ということは、どこに飾っても許されてしまう」
      というguchi3さんの表現のなかに、ラッセンの絵の本質が見えたように思いました。
      しかも、それを “ヤンキー的存在” と重ねあわせていくことで、くっきりと 「ヤンキー ⇔ ラッセン」 を結ぶ線が浮かんできましたね。

      おっしゃるように、あらゆるコミュニティーのなかに、必ず 「ヤンキーさん」 っていますよね。着てるものとか、髪型・メイクなどで分かることもありますけど、そういう外観的なものとは別に、考え方が “ヤンキー” って人、いますよね。
      「ガチ、マジ、気合、アゲアゲ」 といった精神文化圏の中に住んでいる人。

      彼らは一人になるとけっこう寂しがり屋だから、必ず 「アゲアゲ」 の仲間を求める。
      ラッセンの飛び跳ねるイルカは、アゲアゲの象徴なんでしょうかね。
       

  4. Take より:

    ご無沙汰しています。
    コメントのヴォリュームでは書ききれないほどいろいろと思うところが広がったので、リンク貼らせてもらいながら自分のBlogを書いてしまいました(笑)

    • 町田 より:

      Take さん、ようこそ

      お書きになられたblog記事、拝読しました。
      過分なご評価をいただいて、恥ずかしさの混じったうれしさもありますが、Take さん自身の考察にも触れることができて、こちらもまた勉強させていただきました。
      特に、ラッセンの絵を >> 「教義経典が整い過ぎた新興宗教の匂いがする」 という意見は卓見かな ! と思います。
      おっしゃるように、あの絵の “きれいさ” というのは、文化や歴史の浅い新興宗教がイメージする “きれいさ” なんですね。教義が先立ってしまって、人間に対する考察が追いついていない。そういう “きれいさ” だから、深みがない。
      Take さんの記事で、こちらも新しい感じ方をお教えいただきました。

      また、お書きになられたblog の後段の記事、
      「ヤンキー同士がざわざわと寄り集まっても、不思議の店内外でのトラブルがない」 というところに注目されているのも、いい着眼点のように思います。

      ものの本によると、「ヤンキーは、社会が強制する <道徳> には反発を感じて挑発的に振る舞うけれど、人の道を説く <倫理> には共感しあう」 そうです。
      『世界が土曜の夜の夢なら』 を書かれた斎藤環さんは、
      「彼らは粗暴で、一般市民に挑発的だが、震災などの支援が要請されたときに、真っ先に被災地に駆けつけ、いちばん肉体労働が要求されるところで汗水垂らするのはヤンキーだろう」
      とも書いています。

      ただ、そういう仲間意識、同胞意識が強い分、ヤンキー社会は縦社会になっており、それだけ集団としての拘束力が強いということにもなるのでしょうね。
      そのへんの考察も含めた河島英五の歌の話も面白く拝読しました。

      あと追伸ですが、Takeさんがご自分のblog で 「2020年オリンピック」 に触れられた記事で書かれていたことにも共感いたします。
      開催地が東京に決まったことに関して、うれしいといえば、うれしいのですが、どうも手放しで喜ぶ気がしない。
      そういう感情がこみ上げてくる背景のひとつには、Take さんが、「日本の子どもたちがイスタンブールでオリンピックを観られる可能性と、トルコの子どもが東京に来れる可能性を考えたら、譲ってあげるという細やかな優しを、少し前の日本人は持っていた」 とお書きになられた気分と似たようなものがあります。

      アジアとヨーロッパの境界を結ぶトルコが、オリンピックを機に世界の好感度、認知度をあげていくことは、中東の緊張感が高まっているこの時代に大切なことだと思います。だから「イスタンブール開催」 は、世界の安定を確保する意味合いもあるし、これまで親日的だったトルコ人たちの気持ちを、さらにつなぎとめておくことにもなるかと思うのですが、しかし、今の日本でそういうことを言っても少数派にならざるを得ないでしょうね。現に「東京誘致」 が決定したときから株価が急上昇。経済効果は3兆円といってメディアが浮かれているようですから、これはこれでよし ! パチパチ ! と拍手しておくしかないのかもしれません(笑)。
       

  5. 脇山 より:

    相田みつをと金八が同じコラムで語られても、あんまりびっくりしないかもしれないけれど、その下にラッセンという人の凄い絵が現れた時には吹き出してしまいました。 筆で「人間だもの」と書かれたホノボノと気持ち悪い字ずらがアタマに浮かび、ほんとヤンキーの人ってああいうの好きそう! はははは! で、iPadを指でスクロールしたらあの絵に目をいきなり射られてしまい。。。お腹がよじれました。

    ヤンキーの人って年取っても変わらないと思いませんか。 筋を通すとかケジメとか言うフレーズが好きで、ちょっと想像力に欠けていて、女性は意外とメルヘンな一面を持っていたりして。

    それで私、色々連想していて、凄い事に気づいてしまいました。 ラッセンさんの絵を見ていたら、カリフォルニアのメキシコ人が高速道路の近くの大通りみたいな所でこんな柄の毛布やバスタオルを売ってそうだな、と思ったんです。 で、考えてみると、メキシコ系アメリカ人って日本のヤンキーに趣向がとてもよく似てるんですよね。 この発見を誰に披露しようかと揉み手してる所です。

    • 町田 より:

      >脇山さん、ようこそ
      なるほど !! >> 「メキシコ系アメリカ人が、日本のヤンキー趣向と似ている」
      気づかなかったなぁ。
      でも、言われてみると、そんな気もしてきました。

      昔、メキシコシティーに行ったことがあるんですけど、アメリカ製西部劇やマカロニウエスタンに出てくるような風景を想像していたら、とんでもなく近代的で、やたら原色に溢れた街でしたね。
      街ゆく人も、強面だけど、陽気で情に熱く、今から思うとヤンキー系キャラの人が多かったかもしれないです。

      確かに、ヤンキー系の人は 「ケジメ」、「筋を通す」などという言葉が好きですねぇ。「フツーのサラリーマン共同体よりも、俺たちは仲間同士の仁義を大事にする」 という意気込みの反映なのでしょうか。
       

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