林真理子の直木賞作品を読む

 
 ついに、このblogの検索ワードで 「林真理子」 という言葉がトップに立った。
 彼女の 『野心のすすめ』 が刊行された後ぐらいから、それまでアクセス解析においては一度も登場しなかった林真理子さんの名前が一気に浮上。
 彼女が、この夏いくつかのテレビ番組に出て以降は、ずっと “不動の1位” をキープするようになった。

 しかし、これはちょっと困ったことでもあるのだ。
 なぜなら、そのblog記事というのは、けっこう林さんを厳しく批判した内容だったからだ。

 厳しい批判というのは、書いた方も後味の悪いもので、その後削除しようかと何度か迷ったこともある。
 しかし、「素人の小さなblogなので、さほど影響力もないだろう」 とそのまま放置しておいた。

 ところが、やはり検索件数が増えるにしたがって、閲覧された方からお叱りのコメントもいただくようになった。

 「 (週刊誌のエッセイぐらいしか読んだことがなく、小説も読んでいないのでは) 面白いか否かはわからないはず。安直に “小説家としてありなの ? ” と問うのは見識を疑う」
 という内容であった。

 そう指摘されて、まさに 「その通りだ」 と思った。
 自分のblog記事を読み返し、文面も非常に失礼なものであったことを感じたし、叙述の組立が軽率であったことも自覚した。
 やはり小説もしっかり読んだ上でなければ、その作家の “作家性” などは分からない。
 そう思って、彼女の小説にチャレンジすることにした。

 選んだ本は、『最終便に間に合えば』 (文春文庫) 。
 表題の短編と 『京都まで』 という短編を合わせて、86年に直木賞を受賞した時代の作品が並んでいる。

 で、感想は … というと、まず最初に読んだ表題作の 『最終便に間に合えば』 がメッチャ面白いのだ。
 
 そしてつくづく小説というものは、エッセイやら批評というその他の文学形式とはまったく異なる原理で成り立っている文学なんだな … ということを思い知らされた。

 私は、彼女のキャラクターが嫌いである。
 趣味趣向も合わない。
 センスが嫌い。思想も嫌い。
 意地が悪いところが嫌いだし、セコいところも嫌い。

 エッセイでは、そういう彼女の “地の部分 (?) ” が表に流れ出すことが多いのだが、しかし小説となると、それらの個人的属性が、まるで化学変化を起こしたように 「甘美な毒」 に変わる。
 
 小説を読むことの醍醐味は、けっきょく、その作家の毒性に触れることにある。
 フグは、わずかな毒が残っている方がうまいと、舌の肥えたグルメ連中はいうらしい。一流の調理人は、そのかすかに舌をしびれさせるほどの毒の盛り方がうまいのだと。     
 本当かどうか知らないが … 。 (ウソだと思っているけれど) 。

 でも、もしその話が本当だとしたら、小説でも同じことがいえる。
 手馴れた作家は、 “目の肥えた読者” のために、作中にかすかな毒を盛る。
 このさじ加減が、林真理子は実にうまい。

 だいたい意地の悪い人間は、文章がうまいものである。
 意地が悪いということは、出会った人間の弱点を的確に見抜くことでもある。
 そのような、肉食獣的な観察眼が、小説家の武器となる。

 要は、作家はハンターなのだ。
 他人に猫なで声で近づいていっても、どこかで、食らいつける相手の “喉元” はどこかということを観察している。
 誰をも平等に愛そうとする “お人好し” が小説家になった例を見たことがない。 (慈善事業家にはなれるかもしれないが … ) 。

 この 『最終便に間に合えば』 には、彼女の観察眼の鋭さが随所に発揮されている。
 小説のヒロイン美登里は、以前の恋人と7年ぶりの再会を果たす。
 二人は趣味のいい高級レストランで久しぶりの食事を楽しむ。
 しかし、彼女の脳裏に浮かんでくるのは、 “ジコチュー” で身勝手な男に振り回されていた時代の悲しい自分の記憶ばかり。
 
 その昔、男のアパートで情事を楽しんだ後に、男はこう言ったことがあった。
 「腹減ったなぁ、(近くにあるスナックの) ミントに行ってさぁ、おにぎりを作ってもらってきてくれよ」
 真冬の夜。
 男は、自分だけ暖房の効いた部屋でぬくぬくと寝そべりながら、ヒロイン美登里に頼む。
 いじめっ子に命令されるパシリのような扱いを受けた美登里の自尊心は傷つく。

 それでも彼女は、愛する男のために、彼が日頃入り浸っているスナックまでおにぎりを買いに行く。
 「そのお金は誰が払うんだろう ? 」
 と美登里は考える。
 金が惜しいわけではない。これまでずっと、食事から何からすべて美登里に金を出させようという男の気持ちが分からないからだ。

 スナックでは、事情を聞いたママが大仰な愛想笑いを浮かべ、「ていねいに手を洗い」 、おにぎりを結ぶ準備を始める。いかにも常連の顧客のことを親身に気づかうといった風情で …。
 美登里はそこにママの偽善を感じ、常連客とママの間に垂れこめる饐えた (すえた) 空気を嫌悪し、そんな場所に来た自分を惨めに思う。

 美登里は、ママの手を見つめる。
 「指輪がやけに目立つ骨ばった手だ。年齢は34~5だろうか。化粧がうまいのは認めるが、目のまわりに年齢相応のやつれが出ている」

 おにぎりの対価として、美登里は820円を請求される。
 「店の雰囲気につかり、酒に酔っていたらなんとも思わなかった (金額) だろうが、冷気のなかを歩いてきたばかりの美登里には、やはり不当に思える」。
 そして、美登里はつぶやく。
 「文化人っぽくしたって、やっぱり水商売の女じゃないか」。

 アパートに戻ると、男は礼を言うのももどかしげに、「三個の貧弱な形をしたおにぎり」 をほお張る。
 田舎育ちの美土里から見ると、いらだってくるほど形の悪い、しかも小さな握り飯だ。
 男は、美登里にお茶をすすめることさえせずに、自分だけ無邪気におにぎりを食い散らかしている。
 
 彼女は、とうとうこらえきれずに叫ぶ。
 「あたしの誕生日もうじきよ。プレゼント、何を買ってくれんの」
 男はきょとんと美登里の顔を見つめる。女がなぜそんなことを言い始めたのか、全く見当がつかないといった表情だ。

 林真理子さんの意地悪さが全開になっているようなくだりだ。
 ヒロインが 「意地悪を発揮している」 という意味ではない。

 俗物性が透けて見えるスナックのママ。
 女の気持ちに鈍感で身勝手な男。

 そんな人間たちを短い文章のなかで、ここまで生き生きと描き出せる、その “意地悪な” 観察眼に脱帽してしまうのだ。
 (先ほどから 「意地悪」 という言葉を連呼しているが、これは彼女の 『野心のすすめ』 において、自ら何度も書かれていることなので、そのまま使わせてもらっている。お許しくだされ林殿)

 同短編集に収録されている 『てるてる坊主』 にも、観察力の鋭さが発揮されている。
 育毛剤にお金をかけるようになった旦那さんを妻の視点から描いた話で、途中、その妻が独身時代に 「植毛クリニック」 に勤めていたときのエピソードが挿入される。
 世間に対してはカッコつけている “ハゲ男” たちは、植毛クリニックでは無防備にコンプレックスをさらけ出す。それを観察する従業員の女たちは陰で笑い合う。
 
 「それほどまでして女にモテたいか ? 」

 男たちの切ない欲望を、女たちは残酷にも面白がって、会話のネタとしてむさぼり尽くす。
 これなど、意地悪な観察力を持っていなければ書けないような、悲しみに満ちた 「笑い話」 なのである。
 
 ただ、『最終便に間に合えば』 とセットになって直木賞を獲得した 『京都まで』 にはあまり面白さを感じなかった。
 よくできた話ではあるのだ。
 現在形で進んでいく物語の部分と、過去を追憶するシーンが自然に重なり合い、構成の巧さも感じさせる。

 しかし、これが直木賞を受賞する作か ?
 ということになると、何かが足りない気がする。

 「リアル世界の恋愛を知らない少女が、妄想で書いた恋愛小説」
 …… なんとなく、そんな気配が漂う。

 内容は、マスコミで活躍するキャリアウーマンのヒロインが、仕事先で知り合った年下の青年に恋するという話。
 マスコミの第一線で戦う男たちに混じって、バリバリと仕事をこなすドライな主人公に、ふと少女時代に戻ったかのような初々しい恋心が芽生える。

 ポッと赤らむ頬。
 おずおずと、相手の手に自分の手を絡ませるときの緊張。
 古典的な青春小説を読むような描写が延々と続く。
 
 決して悪くはないんだけど、でも、どこか稚拙。
 「容姿スペックに恵まれない孤独な少女が、頭の中の空想を膨らませた世界だな」
 とすぐ分かってしまうのだ。

 もちろん、作者は、恋に酔うヒロインの気持ちをわざと誇張して描いている。
 恋の美酒に浸って、ひたすら無防備になっていく女のときめきも、愚かさもそこには描かれている。
 そして、そのような書き方が、ラストを鮮やかに見せるため伏線となることを計算して、作者は書いている。

 しかし、思うことを正直に述べると、林さんは、「去りゆく恋愛」 を書くのはうまいが、「迎える恋愛」 はそれほどうまくないような気がする。
 「去りゆく恋愛」 というのは、男に幻滅して、女が去っていくような恋のこと。
 男の化けの皮がはがれていく過程を、冷静に観察する女性心理の描写はうまい。 (たとえば、この作品集では 『最終便に間に合えば』 の系統) 。

 だが、ときめきの対象として男を幻想化するのは、それほどうまくない。
 『京都まで』 では、年下の男に魅了される女の気持ちを、わざと類型的に、わざと通俗的に書くことで伏線の効果を出そうとしているのは分かるのだが、でもやっぱりもたついている感じがする。

 主人公に深みがない分、ラストに仕組んだ “ひねり” も生きてこない。
 「あの魅力的な文章を書いていた “意地悪な女” はどこに消えた ? 」
 という感じなのだ。

 「作者に経験がないのかなぁ … ? 」 とも思う。
 もちろん恋愛経験はいっぱいあるだろうけれど、相手の男と刃物で刺し違えるような恐ろしい恋愛は知らないんだろうなぁ … と勝手に想像した。
 
 ま、そのへんを除けば、佳作が並んだ短篇集という気がした。
 だから、「林真理子って作家なの ? 」 という以前の記事の言葉は、ここでは撤回して、お詫びしたい。
 
 言い直す。
 「林真理子は (小説家という意味での立派な) 作家である」
 
 ただし、小説以外はどうなのか。
 最近ベストセラーとなった 『野心のすすめ』 などは、あまり胸に響いてくるものがなかった。そのことは、またの機会があったら述べてみたい。
  
 
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林真理子の直木賞作品を読む への2件のコメント

  1. スパンキー より:

    面白く拝読しました。

     ―言い直す。
     「林真理子は (小説家という意味での立派な) 作家である」―

    と言いつつ、町田さんの揺るぎないしぶとさに好感。
    私のブログメモにも、ギラギラしている林真理子というのがあります。
    笑っちゃいますね。

    が、どっちへ転んでも、結局彼女はスターの星をもっているようです。

    ところで、町田さんが、

    ―だいたい意地の悪い人間は、文章がうまいものである。―
    というのがありますが、これって気になる発言ですね。

    更に
    ―“お人好し” が小説家になった例を見たことがない。―
    とも書いている。

    そういうもんですかね?

    これこそ、町田さんの鋭い観察眼。

    一番意地が悪いのは、実は町田さんだったりして… 笑
     

    • 町田 より:

      >スパンキーさん、ようこそ
      ご明察のとおりですね。
      文章が上手いかどうかは別として、自分自身がそうとう意地悪な人間であることを自覚しています。

      そして、意地悪な人間は猫が好き。
      自分の家の中には犬がいるのですが、どうしてもときどき窓の外を走り抜けていく猫の方に興味が行ってしまいます。
      犬の 「お人好し加減」 を好もしいと思う反面、猫の意地悪さの方が可愛く思えたりするんですね。
      だから、このblog記事の前は “猫特集” ( 「猫の表情」 )。

      猫の顔って、どうしても意地悪顔じゃありませんか ?
      そこがたまらなく可愛いですね。
       

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