ラノベのなかの現代日本

 
 「ラノベ」 という言葉が、小説ジャンルの 「ライトノベル」 を縮めたものであることを知っている人は、はたして、このblogを読んでくださる読者のなかで、どれだけいらっしゃるだろう。

 たぶん、中高生なら分かるだろうが中高年なら、「ラノベ」 というのははじめて耳にする言葉ではなかろうか。
 かくいう私も知らなかった。
 波戸岡景太氏の 『ラノベのなかの現代日本』 (講談社現代新書) という本を読むまでは。

 「ラノベ」 の意味を、著者・波戸岡氏の言葉を借りて、あらためて紹介する。

 「ラノベという文芸ジャンルの正式名称はライトノベル。従来の文芸作品全般を “ヘビー” なものと考え、質量ともに “ライト” であることを追求した小説群のことを指す。
 読者層は主に中高生とされる。しかし、『涼宮 (すずみや) ハルヒの憂鬱』 (2003年) のような記念碑的作品が発表された後は、平成生まれの世代は、そのほとんどが、何らかの形でラノベの影響下に育ってきたといえる」 ( 「まえがき」 より)

 要は、「現代の若者向けに書かれた小説」 ということのようであるが、…… ふと疑問がわく。
 まず、昨今、若者の活字離れが進んでいるという風評がはびこる中で、このラノベは、マーケット的に成功しているのだろうか。
 次に、ラノベの愛読者を構成している層は、一口に 「若者」 とくくられても、活字から遠ざかってしまった若者たちと 「同じ心情」 を共有しているのだろうか。

 ま、そんなことにも興味が湧いたので、手にとった1冊ではあった。
 
 読み進めてみると、これはある意味での “世代論” であることが分かった。
 つまり、著者は、戦後を象徴するの三つの世代の最後に 「ラノベ世代」 を置き、それによって、1960年代から現代に至るまでの “日本の若者文化史” を語ろうとしているようである。

 では、その三つの世代とは何か。
 ① ポップ世代
 ② オタク世代
 ③ ラノベ世代

 この三つの世代とは、およそ次のような年代に分けることが可能で、それぞれの世代の象徴する作家・文化人によってイメージ付けられる。

 ① ポップ世代、1950年~59年生まれ (小説家・村上龍)
 ② オタク世代 1960年~69年生まれ (アーティスト・村上隆)
 ③ ラノベ世代 1970年~79年生まれ (批評家・東浩紀 ほかラノベ作家たち)

 年代は、あくまでもアバウトなものに過ぎず、イメージされる文化人というのも、たまたま著者が、その言説を多く引用したりしている人を、私が任意に抜き出したものに過ぎない。
 それでも、世代を比較するときの “軸” は読み取れるのではなかろうか。

 まず、村上龍は、その青春期にアメリカのポップ文化の洗礼を受けて、それを自己の作品に生かし続けてきた作家。

 村上隆 (むらかみ・たかし) はポップ文化が爛熟し、やがて退廃していく様子を眺めながら、90年代のポップアートを展開した人。

 東浩紀は、ポップ以降の若者文化として登場した “オタク” を、「アメリカ流のPOP文化が国産化されたもの」 として捉えた批評家。
 そして、バブルの洪水が、80年代の日本に残っていたポップなるものを完全に洗い流していく様子を眺めていた人々が、ラノベ世代の作家たちということになる。

 どれも、その軸となるのは 「ポップ」 である。
 つまり、ポップ → オタク → ラノベと移りゆく過程というのは、日本の若者文化が 「ポップから遠ざかりゆく過程」 でもあったのだ。

 では、ポップとは何か。
 語義は、「大衆的」 、「通俗的」 を意味する英語の 「ポピュラー」 から来ている。
 その 「ポピュラー」 を縮めたのが、「ポップ」 。
 しかし、「ポップ」 という言葉が成立したとき、それは 「ポピュラー」 の単なる短縮形ではすでになかった。
 それは、「大衆的」 かつ 「通俗的」 であることによって、ひとつの態度、主張、思想を内包した用語となった。   

 著者の波戸岡景太氏は、1950年代生まれの作家・村上龍が、はじめてポップに出会ったシーンを次のように紹介する。

 「ポップアート全盛期の1960年代半ば、小学校高学年であった村上龍は、アンディー・ウォーホルと並ぶポップアーティストであるロイ・リキテンシュタインのアートから受けた印象をこう綴っている。
 『 (はじめてリキテンシュタインの絵を見たとき) ポップアートは私の心を打つわけでも揺すぶるわけでもなく、また内部に染み入ってくるわけでもなかった。
 ただ、表面に貼り付いたのである。
 スタンプのように、貼り付いたのだ』 」
 (村上龍 『ポップアートのある部屋』 ) 。

▼ ロイ・リキテンシュタイン 『ヘアリボンの少女』

 この 「スタンプのように、ただ表面に貼り付いた」 という村上龍の表現に、ポップアートの本質が浮かび上がってくる。
 徹底して表層的。
 つまりは、ポップ以前の文化が持っていた 「深さ」 とか、「奥行き」 とか、「哲学性」 とか、そういう内面的な価値をきれいさっぱり洗い流したものが 「ポップ」 だったのだ。

 そのことを、村上龍は 「スタンプのように」 と言った。
 つまり、スタンプのように、押せば押すほど、同じものが増殖されていく文化。
 それこそ、アメリカ型資本主義が大量生産方式によって、それまでの人類が経験したことのない量の均一製品が、世界中にバラまかれ始めた時代の文化であった。

▼ アンディー・ウォーホル 『マリリン・モンロー』、『キャンベルの缶詰』

 すなわち、「ポップ」 とは、アメリカがほんとうにアメリカらしい文化をつくったことを意味する、「新しいアメリカ文化」 の総称といっていい。
 アートでいえば、それはリキテンシュタインやアンディー・ウォーホルのような 「大量生産品の複製」 であることを強調する絵になるだろうし、音楽でいえばROCK。衣装でいえば、数々のサイケデリックファッションとなり、ライフスタイルでは、 “ラブ&ピースにマリファナ” という流れをつくっていく。

▼ サイケファッションで身を飾るジミ・ヘンドリックス

 ポップは、1960年代から70年代にかけて、世界の若者文化の中軸に根を張っていく。
 日本では、それが赤塚不二夫や谷岡ヤスジのナンセンス漫画の興隆をうながし、橋本治の東大駒場祭のポスターなどを媒介として任侠映画などともリンクし、 “全共闘文化” という形をとって、反近代・反知性の旗印として浸透していく。
 そして、それがゆえに日本のポップは、近代主義を掲げた日本という国家に対する反体制・反権力のシンボルになり得たのだ。

▼ 橋本治のつくった駒場祭ポスター 「とめてくれるなおっかさん、背中の銀杏が泣いている。男東大どこへ行く」

 
 上のポスターなどは、トラディッショナルな日本的意匠に包まれているようでいながら、その手法は、まぎれもなくアメリカン・ポップアートだ。
 こうして実現された “ジャパニーズ・ポップ” は、日本文化の伝統とも切り離され、ますます根拠の希薄な、無国籍的で、無意味な形象として、コマーシャリズムの中に溶けこんでいく。

 1980年代というのは、そのポップがより大衆的に浸透し、拡散していった時代。
 もはや、そこでは 「反体制・反権力」 などという意味すら消え、それ自体がカウンターカルチャーとしての役割を解かれ、メインカルチャーとなった時代であった。
 それは、アメリカ文化のポップ的軽さを目指したジャパニーズ・ポップが、アメリカ以上に 「アメリカ化された日本文化」 を創りだしてしまったことを意味する。
 
 世界に経済的進出を果たした “強い日本” のもとで開花したジャパニーズ・ポップは、「アメリカより強い日本」 に酔いしれる日本人の幻想を樹液のように吸い、ドメスティック (国産的) なポップアイコンを量産し始める。
 それが、『宇宙戦艦ヤマト』 や 『機動戦士ガンダム』 などに始まり、将来 『エヴァンゲリオン』 へとつながっていく、オタク系ファンタジーの世界だ。
 
 その流れはパソコンの普及、テレビゲームの浸透などとも呼応し、音楽ではJ・POPの興隆ともリンクする。
 「本」 という古典的文化資産の価値が低下し、代わりに、テレビ、アニメ、コミックなどのメディアが 「本」 に取って代わったのも、この時代。
 街の風景も一変して、純喫茶とか銭湯などといった昭和的な施設が姿を消し、代わりにチェーン店のカフェやファーストフード店が姿を現し、コンビニ、ファミレス、ラブホテルが都市景観の主要素としてクローズアップされてくる。

 大都会には、ノスタルジックなアメリカ的意匠を身にまとったファミレスが次々に登場。フェイク (まがい物) のアメリカが、都会の夕暮れを無国籍的な色合いに染めていくようになった。

▼ 80年代に東京の環八周辺に現れたアーリーアメリカン風ファミレスのひとつ 「プレストンウッド」

 だが、このように爛熟した文化を花開かせた日本のポップは、90年代に入ってからのバブル経済の崩壊によって、あっけなく息の根を止められる。
 「国自体が沈没していく」 という空気が日本列島を包み始めると、ポップ文化そのものが、軽佻浮薄な 「時代のアダバナ」 のように思われたのも無理のないことだったかもしれない。

 ポップ世代の代表選手を務めていた村上龍は、波戸岡氏の叙述によれば、「 (バブルが崩壊した今となっては) 若者たちに必要なものは、いかに楽しんで生きるかではなく、どうやって生きるかという現実的な問だ」 と述べ、危機感と喪失感を吐露したということになっている。 

 しかし、その村上龍より10歳下に生まれたアーティストの村上隆は、(これまた波戸岡氏によれば) 、「 (バブル的狂乱が収まり) 、ようやくほっとした」 と語ったという。
 村上隆 (1962年生まれ) の世代にとっては、バブルの狂騒は最初から自分たちとは無縁のものであり、むしろバブル的ポップこそが、退屈でやるせない “日常” そのものであったということなのかもしれない。

 以上のことを、著者の波戸岡景太氏の文章でもう一度追跡してみる。

 「オタク文化に染まりつつも、そのライフスタイルを冷ややかな目で見る90年代のポップアーティスト・村上隆にしてみれば、村上龍のいう 『どうやって生きるか』 という問は、すでに問題ではない。
 ジャパニーズ・ポップの狂乱を遠い蜃気楼のように眺めていた村上隆の世代は、それが霧散したあとの現代日本にも、彼らなりの 『楽しみ』 を見つけようとする。
 彼らは、そこそこの喜びだけでも十分に生きていけることを知っているし、毎日どんちゃん騒ぎをする必要もないことも悟っていた。
 かつて米軍基地周辺に村上龍が見出した “アメリカ” は、村上隆にとっては、単なる 『アメリカ型資本主義』 という、ノスタルジアのかけらもない安易な経済事象にすぎなかった」

 冷ややかで醒めた認識を持つ “ポストポップ” 世代の感慨が、ここでは述べられている。 

 その村上隆より、さらに10歳若い批評家の東浩紀 (1971年生まれ) は、この “ポストポップ” の時代に主導権を握ったオタク文化を、こう解釈する。

 「オタク系文化の起源は、戦後、50年代から70年代にかけてアメリカから輸入されたサブカルチャーを、いかに “国産化” するかという換骨奪胎の歴史だったのである。
 だから、オタク文化というのは、ファミレスやコンビニやラブホテルを通してしか日本の都市風景をイメージできない “アメリカ的材料で作られた疑似日本” でしかない。
 (オタク文化は) 戦後のアメリカに対する圧倒的な劣位を反転させ、その劣位こそが優位だと言い募る欲望に支えられ、ラジオや自動車やカメラの小型化への情熱と同じく、高度経済成長の国家的な欲望を反映している」
( 『動物化するポストモダン』 2001年)

 村上隆そして東浩紀は、表現や視点こそ違え、ともに 「ポップ」 から 「オタク」 への移行の間にも厳然と存在した “アメリカの影” を見る。

 では、「ポップ世代」 (60~70年代) 、「オタク世代」 (80年代) に続く 「ラノベ世代」 (90年~2000年代) とはどういう世代なのか。
 それが、この 『ラノベのなかの現代日本』 という波戸岡景太氏の著作のテーマだ。

 波戸岡氏は、
 「ラノベという現代日本の若者文化は、すでにポップとは遠く離れた地点に立っている」
 という。
 それは、アメリカ型資本主義経済の恩恵というものが、まったく無力化された場所であり、いつまでもポップであることをやめない “現代日本” に辟易 (へきえき) した若者たちによって見出された新しい地平なのだという。

 それは、20世紀に世界の帝王として君臨した 「アメリカの神話」 が崩れた世界でもある。
 波戸岡氏は、アメリカ神話崩壊の遠因を、2001年の9月11日の起きた同時多発テロに見る。
 アメリカの繁栄の象徴であった世界貿易センタービルが、飛行機乗っ取りによる自爆テロによって砂の城のように崩れ落ちたとき、アメリカの威信も崩落した。


 
 時の大統領ブッシュは、「悪に対する正義の戦い」 を主張し、その報復としてイラク戦争に突入していったが、それはイスラム諸国の反発を招いただけに終わり、逆にイスラム過激派に 「聖戦」 の口実を与えることになってしまった。
 
 「アメリカの正義」 と 「イスラムの聖戦」 。
 その二つが並立したとき、アメリカ型の勧善懲悪のイデオロギーも相対化されたのだ。

 ラノベの作家たちは、この日増しに存在感を失っていくアメリカの姿を目に焼き付けながら、作品を書き始める。
 アメリカという光源があったからこそ輝いていた 「ポップ」 に対し、彼らが何の意味も見出せなくなったのは当然のことかもしれない。

 波戸岡氏にいわせると、ラノベ世代の若者たちは、同世代同士の 「連帯」 を無邪気に信じられた 「ポップ世代」 とは無縁であるばかりか、限られた趣味領域でコミュニケーションを取り合う 「オタク世代」 とも距離を置いているという。

 『ラノベのなかの現代日本』 という本の帯には、「かつてはオタク、いまはフツー」 という言葉が記されている。
 これは、かつて 「オタク」 と称された人々が、その量的・質的拡大によって、すでに 「オタク」 ではなくなり、オタク的気質そのものが今や 「フツー」 の若者のメンタリティーとして定着してしまったという現状認識を述べている言葉だ。

 しかし、それは逆にいえば、「趣味の世界」 に埋没して社会との交わりを断つ 「オタク的世界観」 が無効になったことも意味している。

 オタクは、現実社会を拒否して 「アニメ的・特撮的・漫画的物語」 の隘路に入り込むことで自己の充足を得ようとしたが、ラノベ世代は、そのような自己充足がいつまでも続くという “甘い夢” を持たない。
 時が来れば、つまりは学園生活が終われば、否応なく社会に出て行かざるを得ないことを自覚しているし、そのための準備も怠りない。

 だが、彼らは、その 「社会」 に何かを期待しているわけではない。
 「社会」 を変えようとしたポップ世代や、「社会」 から背を向けたオタク世代の末路を見てしまったラノベ世代は、表面的には、ポップ以前の律儀で従順なサラリーマン生活を厭わないが、その内面は虚無的といえるほどクール。
 そして、そのクールな仮面を顔に貼りつつ、オタクよりもさらに奥の深い閉鎖的な自己の内面を維持しようとする。

 実際にラノベの主人公たちは、一見オタクたちの愛する 「アニメ的・特撮的・漫画的物語」 に耽溺しているようでいて、お互いの趣味には絶対に干渉しあうことがない。
 彼らは、基本的に孤独であり、独りぼっちだ。
 だから、彼らは 「ぼっち」 という総称で呼ばれることがある。
 
 「ぼっち」 たちは、何を見つめて生きているのだろうか。
 
 この本には、それが書かれているような、書かれていないような … 。
 実は、そのいちばん肝心なことが、私にはよく分からない。
 その理由のひとつは、まず私自身が、「ラノベ」 という文芸をよく知らないこと。
 正直にいうと、この本に引用されるラノベの文章に、体感的になじめないうちに終わってしまったというところがある。

 著者は、たくさんのラノベを引用しながら、そこから抽出されるラノベ的心情やラノベ的世界観を解説するが、私には、それぞれ微妙な差異を持ったラノベ作品群を統一した見解で統合するのは無理なような気がしてならない。

 だから、「ラノベ世代」 がどういう世代であるかという、いちばん大事なテーマについては判断留保。

 だた、分かったことは、この 「現代日本」 においては、ポップという文化概念の耐用期限が切れたということ。
 そのことだけは、しっかり把握できたつもりだ。
 
 
参考記事 「ヘアリボンの少女」

参考記事 「TOKIO」

参考記事 「動物化するポストモダンの現代人 (東浩紀の著作に触れて) 」
 
 

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ラノベのなかの現代日本 への2件のコメント

  1. クボトモ より:

    町田さんこんばんは。
    今回もまたとても深いテーマですね。興味深く拝読しました。
    町田さんが以前、ポップアートの巨匠、リキテンシュタインのことを
    書かれていたのを思い出します。
    時代の流れで抽象画を描いていた彼は抽象画ブームのなかでは無名のまま。
    それを見ていた彼の子供が「お父さんは画家なのになんで絵が下手なの?」と。
    「ホントは上手いんだぞ」とアメコミの模写をして子供に見せる。
    子供は大喜び。それが彼の、あのポップな画風を確立したきっかけとなった。

    難解な抽象画からポップアートの時代へ。
    難解な文学から村上龍の登場へ。
    分かりにくいものを分かりやすく変えようと動く時代。
    どこか似ているように感じます。

    ポップ世代を「起」とすればオタク世代は「承」、
    それとは距離を置いたのがラノベ世代と言うならこれは「転」。
    どのように転じたのかが解らない現在を経て、
    次にはどんな「結」が来るのでしょうか。
    文化はそんな単純なこじつけでは語れ無いとは思いますが(笑)

    • 町田 より:

      >クボトモさん、ようこそ
      素晴らしいコメントですね。
      >>「ポップ世代が 『起』、 オタク世代が 『承』 、ラノベ世代が 『転』 …」
      あ、なるほど ! と思いました。
      こういう着想は、自分にはなかったですね。
      言われてみて、すんなり整理がつきました。

      この波戸岡さんの著作は、「ラノベ」 についての考察はいまいち伝えきれていませんでしたが、「ポップが終わった」 という視点を提示し得ただけでも秀作と感じます。

      それは、私のような “ポップ世代” にとっては、とても新鮮な証言でありました。
      なぜなら、ようやく、かつて自分たちを魅了した 「ポップ」 なるものの正体を探る契機がつかめたからです。
      「ポップの耐用期限が切れた」 ということは、それを客観視できる立場に立てるということでしょうから。
      だから、私はこの本を 「ラノベ」 の本ではなく、「ポップ」 の解説書として読みました。そのため、前半の 「ポップ分析」 は、波戸岡さんの著書とはちょっと離れたものになっています。

      問題は、クボトモさんも注目された 『結』 の部分ですね。
      それは、この本からはたどれそうもない気がします。
      別の考察が必要だと思います。
      そういうことに気づかせてくれただけでも、いい本でした。
       

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