アクロス・ザ・ボーダーライン

 
▼ ライ・クーダー 「アクロス・ザ・ボーダーライン」

 「エキゾチシズム」 という言葉がある。
 「異国情緒」 と訳される。
 ある国の文化や風土を、別の国の人が眺めたときに感じる好奇心の混じった情感のことを指す。

 しかし、ここでいわれる “情緒” とは、いったい何を意味するのだろう。
 それは、もともとそこに住んでいる人たちには、当たり前すぎて感じられなくなっているもののことだ。
 
 外国人観光客が日本に訪れ、古い寺社仏閣や日本式庭園などを眺め、「WABI、SABI ! 」 だと喜んでも、多くの日本人には、寺社仏閣などにいちいち 「わび・さび」 などを感じてはいない。
 
 もしかしたら、彼らの感じる 「WABI、SABI」 というのは、彼らの文化的習慣や感受性のフィルターを通して勝手に捏造されたもので、日本人の築き上げてきた 「わび・さび」 などとは無縁のものかもしれない。

 どちらが本物か、などと問うことは意味がない。
 ただ、同じものを眺めながら、まったく異なるイメージを浮かべている人たちがいると考えることは、なかなか面白いことだと思う。

 アメリカのロックやポップスなどを聞いていると、そこにも 「エキゾチシズム」 の問題が顔を出しているのを感じることがある。

 実は、キャンピングカーの旅の途中で聞く音楽として、アメリカの 「カントリーミュージック」 を中心に編集した独自ソフトを作ったことがある。
 … といっても、自分はコテコテのカントリーミュージックというのが実は苦手で、 “カントリーテイストのROCK” になってしまったが、マーシャルタッカーバンドなどは、けっこう正統派カントリーの音に近いように思う。

マーシャルタッカーバンド 「Fire On The Mountain」

 こういう音も、時には楽しいと感じる。
 天気の良い朝、ドライブに出かけるときには、カントリー的な軽快なノリは、心を浮き立たせる効果がある。
 
 だけど、こういう感じの曲ばかり続くと、そのうち胃が持たれてくる感じがある。
 やはり、これは日本人とは、… というか、自分とは肌が合わない。
 やはり、カントリーの精神と、ロックの精神は何かが違うのだ。
 カントリーはアメリカのローカル音楽だが、ロックは商業的に世界に敷衍していった過程で、普遍性を獲得したのかもしれない。

 で、カントリー風の曲を並べたなかに、ザ・バンドの曲を入れてみた。
 不思議なことに、そこで流れが変わるのだ。
 ザ・バンドの曲は、アメリカのトラディッショナル音楽をベースにした、ワイルドでアーシーな味わいを持つ曲が多いから、正統派カントリーと並べても違和感がないだろうと思ってみたけれど、明らかに別物であることが分かった。
 こっちは、ROCKだ。
 どんなにアメリカ臭くても、そこを飛び越えて、異民族にも伝わるものがある。

ザ・バンド 「The Night They Ddrove Old Dixie Down」 (南北戦争当時の情景が歌われている)

 
 たぶん、ザ・バンドの音は、エキゾチシズムのフィルターを通して解釈されたアメリカ音楽なのだ。
 表層的には、アメリカ白人の好きそうなカントリー的な匂い取り入れながら、深層的には、もっともアメリカの土着的な精神に肉薄している。
 それは、メンバーの大半がアメリカ人ではなくカナダ人だということも関係あるのかもしれないが、初期の頃、同じようにアメリカを 「他者の視点」 で眺め続けたボブ・ディランのバックバンドとして働いたことも関係しているのかもしれない。

 私は、これをザ・バンドの 「エキゾチシズム」 と解釈している。
 つまり、アメリカ人には当たり前の音楽として聞いてしまうカントリーソングではなく、カントリーのもっと奥に潜む土着的なアメリア音楽に遡行する音楽 (もしかしたら、それはメイフラワー号に乗ってきた人々が歌い続けてきた賛美歌のようなものかもしれない) … そういう音楽への眼差しをザ・バンドの音から感じる。
 
 そこには、アメリカ人以上に、アメリカの土着的なものに対する愛と、同時に現在のアメリカ的なものへの懐疑も潜んでいる。
 彼らの音楽に漂う哀愁は、「愛」 と 「懐疑」 の相克から生まれとしか考えられない。

 実は、旅で聞く音楽には、カントリー系の流れが終わると、ラテン系に切り替えるようにした。

 その転換点に、どの曲を持ってくるか。
 それを、象徴的な意味も込めて、ライ・クーダーの 「Across The Borderline」 にした。
 
 
 
 ここで、メキシコとの国境を越える。
 そして、ライ・クーダーでもラテンテイストの強い 「Cancion Mixteca」 へと続く。

 ここでも同じことが起こっている。
 同じ曲なのに、本場のメキシコ人たちの奏でる音楽は、あっけらかんとした明るさとにぎやかさがある。
 それはどこか 「祭礼の音楽」 を思わせる。

 なのに、ライ・クーダーの奏でるラテンは、明るさの中に影がある。
 物憂い叙情がある。
 たとえば、「Cancion Mixteca」 という曲を、ライ・クーダーのものと、メキシコ人歌手のアントニオ・アギラールのものと聴き比べると、いちもく瞭然だ。

▼ メキシコでは俳優としても活躍した伝説的な歌手アントニオ・アギーラール

Antonio Aguilar 「Cancion Mixteca」

▼ ライ・クーダー

Ry Cooder 「Cancion Mixteca」 (映画 『パリ、テキサス』 でも使われた曲)

 アントニオ・アギラールの 「Cancion Mixteca」 のアレンジは、水や氷で割らない原酒のコクがあるように感じる。
 音の響きが芳醇なのだ。
 もちろんそれが “本場の音” なのだろうが、はじめて聞くと、やはり耳のなじみのない分、「こういう曲がずっと続くと胃にもたれそう」 という気分になってくる。
 
 それに対し、ライ・クーダーの方は、クラブソーダで割ったハイボールの雰囲気。
 適度に甘く、どこかもの悲しく、心地良いけだるさがある。
 一言でいうと耳ざわりがいい。
 この 「甘く、悲しい、けだるさ」 はどこから来るのか ?
 これこそ、ライ・クーダーのエキゾチシズムだと思うのだ。

 ライ・クーダーは教養人だから、メキシコの歴史がアメリカの領土的侵略と経済的収奪の歴史であることも知っている。
 だから、メキシコ本来の明るく陽気な音楽のなかに、どうしても民族的悲哀を見ざるを得ない。

 それでも、けなげに生きようとするメキシコの民衆。
 彼の甘いセンチな曲調に漂う哀愁には、メキシコ国民に向けられた愛と、アメリカとメキシコの歴史的軋轢がもたらしたペシミズムが潜んでいる。

 エキゾチシズムというのは、言ってしまえば 「Across The Borderline」 のこと。 
 つまり、「国境」 を越えるときに沸き起こる情感だ。
 向かう国への憧れを持ちつつ、その国をヨソ者の視点で眺めてしまうこと。 
 そのアンビバレンツな感覚こそ、どちらの国にも属さない不思議な光景を発見する基礎となる。
 そして、それが私たちの「旅」 を支えている。
 
Ry Cooder 「Across The Borderline」

 
 
参考記事 「Good Time Charlie」
    
参考記事 「国境の南 (ワイルドバンチの夢) 」
 
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