村上春樹 「東京奇譚集」

 
 気が狂わんばかりに忙しいときは、通勤電車の中で読む本の傾向を変える必要がある。
 なまじっか、「ほぉー」 とか 「へぇー」 とか感心してしまうような本だと想像力も刺激されるので、ついついblogネタなど考えてしまう。
 
 今はそんな余裕もないので、電車に乗っているときだけ、適度に 「現実逃避」 ができて、かつ降りる駅に着いたら何のためらいもなく本を閉じられる程度の “軽い小説” などが理想的だ。

 意地悪な言い方をすれば、「毒にも薬にもならない小説」 。これが精神衛生上から言っても、今の自分にとっては好都合なのだ。

 では、どういう小説がいいのか。
 案外、このチョイスが難しい。
 正直にいって、最近の作家のものはあまり知らない。
 次から次への新人が現れるので、まず名前を覚えきれない。

 そこで、新聞・雑誌の書評欄のようなものを頼りにする。
 しかし、これは個人の好みに左右されるものが多いから、選評氏がいくら褒めちぎっても、まったく私の肌に合わないものもある。

 そんなわけで、「やっぱり、ここは安全牌 (ぱい) 」 と思い、久しぶりに村上春樹の短篇集を買ってみた。

   

 タイトルは、 『東京奇譚集』 。
 2000年代の中頃に書かれた作品が集められている。

 これが、いまの心境が求めているものにぴったりだった。
 食後にベランダに出てタバコを一服する程度の気分転換もできて、途中で本を閉じても 「もう少し読みたいな … 」 、などと未練がましい思いも残さない。
 
 どういう短編が集められているかというと、基本的には、ちょっぴりシュール感の漂う “都会生活者たちの孤独” みたいなテーマが多い。
 登場する主人公たちは、いちおう仕事や自分の伴侶を媒介に 「社会」 とつながっているけれど、彼 (彼女) の悩みは社会的なものではなく、あくまでも個人の心に沈潜する悩みだ。

 その前に読んでいた小説が 「社会に真っ向勝負 ! 」 の 『レディー・ジョーカー』 (高村薫) だったから、重量感において 「太陽」 と (月とよく比較される) 「スッポン」 ぐらいの差がある。
 一口に小説といっても、そこには “比較する必要もない” くらいかけ離れたものがある、ということがよく分かった。
 
 でも、こうして、村上春樹の短編を久しぶりに読んでみると、「やっぱりこの人はうまい書き手だなぁ … 」 と感心する。

 何がうまいのか。
 それは登場人物たちの 「距離のとり方」 だ。
 厚かましいほどに近づくこともなく、冷淡と思えるほど離れるのでもなく、お互いの会話が、スパークリングワインの泡のようにシュパーっと立ち上って、ふっと消えるところがいい。

 たぶん多くの人が感じる 「村上春樹の都会性」 というのは、この 「炭酸系飲み物のはかなさ」 にあるのだろう。

 炭酸の 「泡」 は、栓を開けたときは威勢よく弾け飛ぶが一瞬にして収まる。
 後には何も残らない。
 その 「泡の虚無感」 も、また悪くない ( “爽やかさ” の本質は、一瞬に消えゆくことの虚無感にある) 。

 けっきょく初期の村上文学に色濃く漂っていたのは、煎じつめていえば、「ひんやりした明るい虚無感」 だった。

 彼は、読者にいちばん伝えたいことは、あえて書かない。
 言葉として書かないかわりに、作品の中に 「空白」 を封じ込めることで、逆に 「あるべきもの」 の不在感を強調する。
 だから、彼の小説に漂うのは、とりとめもない 「空虚感」 なんだけど、そこには彼が最も伝えたかったものが隠されているので、何もないように見えても、光が素通りせずに、乱反射する。

 そのように書かせたのは、彼の若さであったろうし、それに感応できたのは自分の若さであった。

 昔、村上作品を読んだとき、私は、鮮やかなくらい時代の 「空気」 が変わったことを理解した。
 
 彼がデビュー作を世に出したのは1979年。
 本が書店に出回るようになったのは、80年代に入ってからである。

 日本の80年代は 今でこそ 「バブル狂騒」 に国民全員が呑み込まれた時代だと思われがちだが、その幕開けは、奇妙に静かで、ひんやりした空気に包まれていた。

 60年代から70年代に青春を送った私は、その80年代の空気感の正体がつかめなかったが、村上春樹に接して、一瞬のうちに、自分がこれからどういう時代の空気を吸うことになるのか理解した。

 私は、新しい 「都会のさびしさ」 を知ったのだ。
 それ以降、私が街の風景を眺める視点には、村上春樹の眼差しが投影されていたように思う。
  
 しかし、途中から、彼の文学の “さびしい空気感” のようなものが薄れていった。
 それは、いつぐらいからか。
 たぶん、自分の印象では 『ノルウェーの森』 あたりからだと思う。

 『ノルウェーの森』 で村上春樹は大ブレイクし、作家としての知名度を一気に高めることになったが、自分が読んだ限り、あまり面白くなかった。

 この小説は、主人公が自分の青春時代 ( … つまりビートルズの 『ノルウェーの森』 が流行っていた時代) を回顧するという体裁をとっている。
 たぶん、過去を眺める主人公を描くことで、村上春樹は、過去を精算しようとしたのだろう。
 「青春」、「恋愛」、「性」、「喪失」 などのテーマがはっきり浮かび上がった小説ではあったが、私が好きだった作風は、そこから姿を消した。

 そのあと、オウム真理教の被害者たちに対するインタビューをまとめた 『アンダーグラウンド』 も読んでみたが、どんなことが書かれていたのか、ほとんど記憶に残っていない。 

 そんなわけで、ノーベル賞候補作家となった頃からの村上春樹の小説はほとんど読んでいない。
 何かと話題となる 『1Q84』 にも関心がない。
 この12日に発売される長編小説 『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』 にもあまり触手が動かない。

 この間、エッセイはいくつか読んでいる。

 2000年代に入ってからの仕事としては、『若い読者のための短編小説案内』 が印象に残っている。
 これはいい本だった。
 彼が、 “一流の書き手” と言われる前に、一流の読者であったことが分かる。
 ただし、この本は、吉行淳之介、庄野潤三、丸谷才一などの残した小説を論じたもので、村上春樹自身の小説は収録されていない。
  
 村上春樹の小説を読んだのは久しぶりだったが、 『東京奇譚集』 という短編集は、確かに悪くなかった。
 ただ、収録された話のなかには、 “拙い (つたない) ” ものも混じるようになったように思う。
 それは若書きの 「拙さ」 ではなく、衰えからくるものであるような気がした。
 若い頃の語り口を保っていながら、あの “透明感” がない。
 微妙に 「キレ」 と 「コク」 がない。

 やはり、現代日本を代表する作家といわれる村上春樹のなかでも、何かが変わり始めている。
 もしかしたら、変わってきたのは、それを読んでいるこちらの方かもしれない。

 どちらが変化したにせよ、村上春樹的な感性で今の時代を切り取れるのは、あともう少しの間かな … と、ふと思った。
  
  
参考記事 「村上春樹の 『謎』 」

参考記事 「構造しかない村上春樹文学」
 
参考記事 「丸谷才一 『樹影譚』 (若い読者のための短編小説案内) 」
 

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村上春樹 「東京奇譚集」 への4件のコメント

  1. 磯部 より:

    ふわっとした時代が終わり、
    実存を肌で感じる国に暮らす私たち。
    本当にいろいろあって、
    感度の鋭い人から生きている実感というものを
    掬いとれる。
    私たちは、変わった。
    町田さんの言われるように、
    読み手が変わったのだと思います。

    書き手が、おいていかれる現実。

    これが、いまという時代を象徴しているように思います。

    • 町田 より:

      >磯部さん、ようこそ
      そうですか。
      「読み手」 が変わったということなんですか。
      おっしゃるとおりですね。

      村上春樹の最近作は、ほとんど読んでいないのですが、どのような小説であるのかは、いろいろな書評や評論などで、だいたいの骨格は想像できています。
      ただ、そのようなものに接しても、「読みたい」 気がが起こらないということが、もしかしたら、「書き手がおいていかれる現実」 ということの意味なのかもしれませんね。
      … 春樹さんには申し訳ないんですけど。
      磯部さんのおっしゃるように、「私たちが変わった」 んですね。
       

  2. Sora より:

    今月に文庫本化された1Q84を、先週末から読み始めたところでしたので、おもしろいタイミングです。まだ少ししか読んでいませんが、この小説も読者の興味を惹くように、冒頭からドラマ(物語)構造に仕立てられてますから、ああ、いつもの手だ・・と。どこか虚無感ただよう、ヒーローとヒロインも同じみたいだし・・。かまわないのですが。

    町田さんの、読み手が変わってきたかもしれないし、ハルキ的な感性で今の時代を切り取れるのは、あともう少しのあいだかも、という最後のご指摘、すごく当たっているかもしれません。

    先ほどの7:30PMのNHKクローズアップ現代では、フラッシュモブとかいう市中での突然の一体感を高めるパフォーマンス現象多発の意味を取り上げていました。再度、人々はなにかお互いに繋がりを求めたい、という心理が動き始めているのかもしれません。虚無感に惹かれ浸っていられるのは、ある意味、平和で物質的にも満たされた状況の時でしょう。いつ何時また津波震災が来るかもしれない、放射能汚染にまみれるかもしれない、ロケットをぶちこまれるかもしれない、といった不安定な状況では、各個人が距離を保って虚無感を味わうというハルキワールドは時代にそぐわなくなってきているかもしれません。

    ないしは、町田さんも私も、団塊のシッポ世代として歳をとってきていますから、この世代はおそらく出家してでも、自分の人生に意味を求めようとしてくる世代ではありませんか。ハルキワールドでは、耐えきれない。この死ぬ間際に向かって意味を求めてくる団塊心理(笑)は微妙に社会全体の風潮にも今後影響すると、思うのですが。

    私は村上春樹氏が、小説を1984年などというPCもスマホもなかった時代設定下で若者を描くのではなく、今の時代で、できたら等身大の同年輩を、どう描ききれるかに興味が出てきました。同時代を描き切った時に、ノーベル賞だ。

    • 町田 より:

      Sora さん、ようこそ
      『1Q89』 を読み終えられたら、ぜひまたご感想をお聞かせください。

      この小説に関しては、若い評論家たちも取り上げて、いろいろと論じているようです。評論そのものは読んではいませんが、「現代社会の構造変化が語られている」 という話でした。
      ただ、「リトルピープル」 が何を意味し、新興宗教の教祖が何を目指しているかというような話には、あまり食指が働きませんでした。

      おっしゃるように、震災や放射能汚染などという現実世界の方が、はるかに 「物語」 を超えるような時代を迎えると、「象徴」 とか 「寓意」 などという形の文学形式では追いつかないように感じています。

      本当は、もっとゆっくりお話ししたいのですが、今ちょっと仕事の合間の休息時にメールチェックしたもので、(申し訳ないんですけど) 今回はこれぐらいしか書けません。時間ができたら、このテーマの続きでも。
       

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