山口昌男さんの思い出

 
 文化人類学者の山口昌男さんの訃報に接したのは、3日ほど前である。
 亡くなられたのは3月10日とのことであったが、ここのところテレビも新聞もあまり観ていなかったので、それに気づかなかった。

 生前、二度ほどお会いしたことがある。
 トヨタ自動車のPR雑誌 『MOTOR AGE (モーターエイジ) 』 を編集していた頃の話だ。26~27年前といったところか。

▼ 1985年当時の山口さん (motorage)

 当時、若者の交通事故が依然として減らないことから、その雑誌の5月号で、「若者の交通安全」 という企画を組むことが決まった。
 編集会議で決まった特集タイトルは 『セルフ・コントロールの新しい科学と思想』 。

 まるで “交通安全○○センター” などといったお役所系出版物のような硬いタイトルで、今では自分でも恐ろしくて、とても付けられない。

 それが、クラウンやカローラに乗る一般ユーザー向けに配布されるPR誌の特集企画として、クライアントを交えた企画会議で通ってしまうのだから、なんともまだ生真面目な時代だったのだ。
 おそらく、トヨタ広報としても、その号だけは一般向けの啓蒙特集とは一味違った、「オピニオンリーダーに見せても恥ずかしくない」 内容にしたいと意気込んだのかもしれない。

 どんな内容を組むか。
 いちおうは交通社会学や交通工学といった専門家たちに取材して骨子をまとめる方針ではあったが、もっと経路の違った人の話も混ぜてみたかった。

 「セルフ・コントロール」 というくらいだから、自動車を運転するときの人間心理や自己管理能力を一般論にも普遍化できそうな人。
 アカデミックではあっても、発想がユニークな人。
 そこでひらめいたのが、文化人類学者の山口昌男さんだった。

 当時、私は山口さんの 『文化と両義性』 、『歴史・祝祭・神話』 などを読んでいたときだったから、彼なら、「自動車を運転する」 という行為の理性的な部分 (コスモス) と無秩序への傾斜 (カオス) との関係を、うまく解き明かしてくれそうな気がした。

 その頃、なんで山口さんの著作を読み始めていたかというと、あまり記憶が鮮明ではないのだが、たぶん山口さんが、当時の思想界の “ビッグネーム” といわれた吉本隆明氏に対し、かなり精緻で筋の通った批判を提出したという風聞を聞いたからだと思う。

 当時、吉本氏さんの本もときおり読んでいたが、その難解な言論に困惑していた私は、それをきっかけに、山口さんに興味を抱くようになった。
  
 読み始めてみると、これが無類に面白い。
 何よりも、解りやすいということに惹かれた。
 だから、「読書というものは楽しいもんだな」 と実感できた。

 そんな山口さんに直接に会って、仕事にかこつけて、いろいろな話を聴いてみたいと思った。
 まず、取材の成否を電話で打診し、アポが取れれば、企画書などを郵送するという手順を考えていたが、電話口に直接出られた山口さんは、
 「いいよ、企画の趣旨は会ったときに聞くから」
 と、あっさりとご都合のいい日を指定してくださった。

 大学の研究室を訪ねたのか、あるいはひょっとしてご自宅にうかがったのか。
 緊張していたせいもあって、その当時の記憶はあいまいなままだ。

 なにしろ、雑誌といっても、自動車メーカーのPR誌だ。そこに自分の顔を出すということは、ある意味、そのメーカーの宣伝に加担するということでもある。
 はたして、気持よく相手の話を引き出すことができるのか。
 お会いする前の10秒ぐらいは、心臓が胸板から飛び出しそうだった。

 しかし、杞憂だった。
 山口さんは、媒体に優劣を付けるような人ではなかった。
 
 テーマが 「交通安全」 であるというこちらの趣旨も十分に汲み取り、さらに一般読者をも楽しませるように、フェリーニの映画のなかで、イギリス人のロック歌手がスポーツカーを運転中に事故を起こしてしまうシーンを例に引き、自動車の運転がもたらす高揚感と、それが高じ過ぎたときの自己管理能力の喪失といったテーマを、得意の 「祝祭性」 、「トリックスター」 などの概念を散りばめながら、饒舌に語ってくれた。

 しかも、
 「スピードを楽しむということは、自動車のだいご味の一つとして無視できないが、それを公道で行うことは厳禁。それこそ、サーキットという日常性から解き放たれた “祝祭空間” でスピードを解放することこそが人間の文化」
 などと、媒体の趣旨にかなった常識的な見解もサービスしてくれた。

 談話を文章にまとめるのは楽しかった。
 できあがった原稿のチェックをしてもらうために電話を入れたところ、「直接原稿を持って会いに来てくれ」 という。
 原稿をその場で読みながら、文章の修正を相談したいとのことだった。

 こうして、再度お会いすることができた。
 背筋を正して緊張していた私を前に、山口さんはすらすらと原稿を読み、何も修正することなく、「これでOK ! 」 と力強く言ってくれた。

 少し、いやらしいかもしれないが、自慢たらしいことを語りたい。
 原稿をテーブルの上に置いた山口さんは、
 「いやぁ、まとめるのがうまいねぇ」
 と言ってくださったのだ。

 さらに、
 「さすがトヨタには優秀な人材がいるんだね」
 と付け加えた。
 そのとき、私をトヨタの正社員と間違えていらっしゃったことが分かったが、ほめられたことには代わりないので、うれしかった。
 
 30年近く前のことになるけれど、訃報に接して、そのときの思い出が鮮明によみがえる。
 とても心の温かい方であったと思う。
 たった一言二言だったけれど、山口さんにおほめいただいて、今の自分があるような気がする。
 
▼ 『MOTOR AGE』 1985年5月号に掲載された山口さんのインタビュー記事

 
 

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山口昌男さんの思い出 への2件のコメント

  1. スパンキー より:

    懐かしい誌面が見れました。
    私はこの方は存じ上げないのですが、
    町田さんの影の恩師でもある訳ですね?
    てっきり、徳大寺さんと思っていました。

    私の場合は、なんといっても椎名誠さんでしょうか。

    まあ、でも雑誌づくりには良い時代でした。

    トヨタも、ケチとか堅実とか言われますが、
    最近ではピンクのクラウンだったり、
    異端の意見も取り入れることも多々ある、
    考えれば不思議な企業ですね?

    どうです?

    • 町田 より:

      >スパンキーさん、ようこそ
      お互いに、「良い師」 を持つことができましたね。
      編集者の特権というのは、そういう 「師」 を迎え入れるチャンスを、自分自身で作り出せるところにあるのかもしれません。
      そういう意味で、あの雑誌を作らせてくれたトヨタさんには感謝です。

      時代も、面白い時代でした。
      あの雑誌に関わり始めた頃、日本の自動車産業は 「排ガス対策」 のプレッシャーをもろに被っていた時代で、青息吐息でした。スカG、ベレGなどという伝説のクルマが恐竜時代が終わる頃のように死滅していき、トヨタの2T-G、18R-Gなどというツインカムエンジンも、のきなみパワーダウンを余儀なくされて、なんだか暗い時代が始まったように感じました。
      しかし、日本の自動車は、その排ガス対策をクリアしたことによって、世界商品に生まれ変わったんですね。
      「ソアラ」 というクルマが出たとき、一夜にして風が変わったという気分でした。
      それから後は、日本の自動車が世界的ブランドに登りつめていくのを見守るだけでした。
      だから、自分は、日本の自動車産業が世界の頂点に登りつめる過程をつぶさに見ていた、いわば時代の “生き証人” のようなものだと思っています。
      そのことを思うと、「自分はラッキーだったな … 」 と感じます。
       

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