エンターティメント小説と純文学

 
高村薫 『レディ・ジョーカー』 を読んで
  
 「人間を観察する」 ということは、どういうことなのだろう ?

 それは、観察者がそれまで持っていた 「常識」 とか 「偏見」、「先入観」 などを洗い落とすことである。
 つまり、人は、誰かを “観察” するとき、常に観察する自分自身をも観察することを強いられる。
 
 「あ、こいつ意外にモロい人間だな」
 「見かけと違って、思慮深そうなヤツだ」
 … など、人を視て、ある種の印象を脳裏に焼き付けるとき、観察者は、必ず自分自身の中で変化していく自分そのものを凝視しなければならない。

 高村薫の書いた 『レディ・ジョーカー』 は、人を観察する宿命を背負った男たちの物語である。
 
 刑事
 新聞記者
 検察官
 そして、何百という社員たちの行状を常に把握せざるを得ない大企業のトップに座る経営陣。

 この小説に登場する男たちのすべては、人を観察し、そして観察する自分自身の心の変化をも観察する。
 この小説の全編に漂う 「息苦しさ」、「緊迫感」、そして 「哀切感」 。
 それはすべて、「人を視る」 という行為を習い性にしている人間たちの、「他者への視線」 と 「自分自身へ視線」 が交差するときの火花から生まれる。
 
 小説の中で、田丸善三という男が登場する。
 田丸は、右翼組織の長であり、また総会屋のドンとして政界とも裏で通じ、大企業にゆすりをかけて巨額のブラックマネーを懐に入れる闇世界の実力者だ。
 その田丸という男が申し出てきた会談を、小説の主要人物の一人である “日之出ビール” の城山社長は受けなければならなくなる。
 
 城山は、田丸を次のように観察する。

 「 (田丸の風体といえば) “スーツを着た70代の男” 以上の何ものでもなかったが、同席した 1時間ほどの間、城山はある種、背筋が薄ら寒くなるような不快な感じに襲われ続けた」

 それは、「右翼の真骨頂はいつでも相手と刺し違える気構えにある」 からだ ( … と作者は書き添える) 。
 城山の感じた薄ら寒さとは、「命の惜しくない人間が、命の惜しい人間に対して物を言うときの、理屈以前の決定的な暴力を前にして」 感じられるようなものだったのだ。

 しかし、城山は田丸善三を前にして、さらに思う。
 「そこには、最終的に蛇がカエルを射すくめるような残忍さのほかに何もなく、結局は征服欲を含めた歪んだ人間性なのだ」
 と、一つの発見をする。
 城山は、そう 「観察する自分」 を観察し、田丸善三に抱いていた “怖さ” の正体を見極める。

 小説には、新聞記者もたくさん登場する。
 新聞記者の1人、根来は、この物語の主人公である合田 (ごうだ) 刑事と出会う。
 根来と合田が会うのは、そのときが2回目である。
 ともに、共通の知人を介してのプライベートな交流であった。

 「根来の記憶にあった合田の顔は、今とはかなり違っていた。丁寧な物腰も、別人のような落ち着きであった。
 以前にもまして固い殻を被ってしまった顔だろうか。いや、少し大きくなった器の中に己を完全に包み込んで、外には何も漏らさなくなったということだろう、などと根来は詮索し、男が社会で生きてゆくについては、たしかにこういう身の処し方もあるなと思った」

 そして、土手の草むらに座りながら、合田を観察していた根来は、一つの発見をする。

 「根来がふと気づくと、合田の目はいつの間にか自分のスニーカーに這い上がってきた体長15センチほどのトカゲの上に留まっており、一瞬陰影が消えて透明なガラス玉になったその目の先で、トカゲは尻尾をつまみ上げられるやいなや、ひょいと放り投げられ、草むらに消えた。
 それだけのことだったが、トカゲを見ていた男の目に現れた何かの濃密な凝集を見たとき、根来の額に浮かんだのはただ一つ、《刑事》 という言葉だった」

 全編このような調子。
 
 “観察者” たちは、人を観察することによって何かを発見し、会得し、自分自身の 「常識」 に修正を加えていく。

 だが、このように、絶えず人から何かを “発見” していくという行為は、観察者の 「人間観」 を、より強固に、より確かなものにしていくのだろうか ?
 「 否 (いな) 」 である。
 不断に 「人間観」 を修正せざるを得ないという行為は、逆に 「人間」 というものの奥に潜む、底知れぬ <闇> を凝視することになり、それは、ますます観察者たちに 「人間の不確かさ」 を見せつけることにつながる。

 私は、この小説に、まぎれもない “純文学” を感じた。
 サスペンス小説の体裁を取りながら、これは 「人間存在」 を問う純文学なのだろうな、と思った。

 サスペンス、ミステリー、SFなどを含めたエンターティメント小説と、純文学の違いは何か。
 すでに、そのような古典的な分類分けが、現代小説を読み解くカギにはならないことも重々承知のうえで、あえて書けば、
 ① 観察者たちが得た 「人間観」 を、ひとつの類型として確立し、「人間ってこういうものですよ。解った ? 」 と教えてくれるのがエンターティメント。
 ② 「人間ってよく考えると、何だかわからない」 という漠たる不安感の中に読者を置き去りにしてしまうのが、純文学。

 両者の違いは、「宿題があるか・ないか」 にある。

 エンターティメントには、「宿題」 がない。
 つまり、読者はその小説を読み終えた段階で、「人間」 というものをひとつ学び、利口になり、さっぱりした気分のまま本を閉じることができる。
 しかし、純文学は 「宿題」 を残す。
 本を読み終えた後、「人間って何だろう ? 」 という問を抱えることになる。

 そして、この小説は、そのような 「人間の不確かさ・頼りなさ」 を情景描写に仮託して描くのがうまい。
 レディ・ジョーカーなる誘拐犯たちが、身代金を略取するために、現金を乗せたクルマを誘導していくときの町の描写。
 現金搬送車が、東京の隅田川の新大橋を渡るときのシーンだ。

 「橋を越えたとたん、江東区の風景になる。木賃アパート、古ぼけたビル、町家と見分けのつかない旅館、小さな鉄工所、倉庫、店舗などの混在が、東西南北に走るいくつかの産業道路で何重にも断ち切られている。
 (夜ともなれば) 時間が止まったようなさびれた灰色の町家が並び、深夜は沿道のわずかなコンビニエンスストアの明かりとファミリーレストランの明かりと自販機の照明のほかは、ほとんど墨を流したようになる」

 1995年当時の新大橋近辺が描かれているわけだが、基本的に、今でも繁華街を除く東京の片隅には、いくらでも残っていそうな風景。
 東京といえども、派手なイルミネーションが届かないエリアには、相変わらずこのような 「静けさ」 と 「暗さ」 がぽっかりと口をあけている場所がいっぱいある。

 それは、大企業の潤いとは無縁の生活を送る負け犬たち (レディ・ジョーカー) が、「やつらに一泡吹かせてやりたい」 という歪んだ夢を胚胎する空間であり、犯行後はなりを潜めて、じっとうずくまる場所でもある。

 WOWOWのテレビドラマが進む前に、上・中・下の原作をすべて読んだ。
 そして、レディ・ジョーカーたちの、邪悪な快楽に酔う陶酔と、それを追う刑事や新聞記者たちの 「正義」 に心酔する使命感とでは、はたしてどちらの快楽の度合いが深いのか考えた。
 
 あるいは、本当の 「勝利の果実」 を手にしたのは、どちらか。
 また、より深い 「虚無の淵辺」 をさまようことになったのは、どっちか。
 最後に 「平安」 を手にしたのは、どっちか。

 答は描かれていない。
 だからこそ、また一つ、「宿題」 を抱えさせられた。
 
 
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エンターティメント小説と純文学 への2件のコメント

  1. 磯部 より:

    以前、高村薫さんがテレビに出ていまして、
    震災後、何も書けない旨の話をしていまして、
    作品群を思うと、ただのミステリーでないことは、
    容易ですが、
    町田さんの言われるように、
    この人の姿勢は人をじっと観察しているということ。

    まさに、それが純文学のまなざしなのでしょうね。

    • 町田 より:

      磯部さん、ようこそ
      「人を観察する」 ことは、なんだか哀しいことだな、と思うときがあります。

      「観察する」 ということは “傍観者” になること。
      つまりは、相手との距離を取ること。

      距離を取らなければ、文学にはならない。
      しかし、距離を取っているだけでは、相手を救えない。
      高村薫さんという作家は、そのことのジレンマを見つめた人かもしれませんね。
       

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