映画 「ニーチェの馬」

 
 もういい加減に観るのをやめよう … と思いつつ、最後まで画面に釘付けになってしまう不思議な映画。

 『ニーチェの馬』 (タル・ベーラ監督 ハンガリー映画 2011年公開)

 CGの力を借りて奇想天外な映像を作り出し、かつ観客のテンションを巧妙な計算でコントロールするハリウッド製のエンターティメントを一方の極とすれば、この映画はその対極に位置する。

 画面はモノクロ。
 登場人物は極端に少ない。
 ほとんど会話はない。
 場面はほぼ二つ (風吹く荒野と粗末な家の室内) 。
 事件らしい事件は起こらない。
 ほとんど静止画に近いほど、いつまで経っても変化のないロングテイク (長回し) による画面構成。

 たぶん、30分が勝負だ。
 もし、テレビ放映でこの映画を観たならば、始まってから30分ほどでチャンネルを変えてしまう人が大半のような気がする。
 しかし、その30分に耐えた人は、おそらくその人が歩んできた人生のなかで、かつて一度も体験したことのないような不思議な 「時間」 を手に入れることができるだろう。

 「時間」

 そうなのだ。この映画の “主役” は時間だ。
 1分1秒が飴のように伸びきって、いつ果てるとも分からない永劫の時間。
 時計の針の動きで、現在の時刻を読み取る 「現代人の時間」 とは無縁の、太古の人々が感じていたような、 “永遠” が忍び寄ってくる 「あの世の時間」 。
 この映画の不思議な 「時間」 に脳髄が侵食されると、たぶんドラッグに酩酊するようなトリップを経験することになる。

 『ニーチェの馬』 というタイトルに出てくる “ニーチェ” は、19世紀を代表するドイツ人哲学者フリードリヒ・ニーチェのこと。
 哲学領域における前人未到の境地を切り開きながら、晩年は発狂してその大半を精神病院で過ごしたという人だ。

 彼の発狂は、イタリアのトリノの広場で、御者に激しく鞭打たれる馬を見たときに起こったという。
 事の真偽は分からないが、その後、「鞭打たれる馬」 は、ニーチェ伝説には欠くことのできないエピソードとして語り継がれることになる。

 この映画は、「そのときの馬が、その後どうなったかは誰も知らない」 というナレーションとともに始まる。
 
 
 
 冒頭のシーンが、粗末な荷車を引く老いさらばえた馬の姿から始まるので、その馬こそ、「ニーチェを発狂に追い込んだ馬」 であるようにも思えるが、観ているうちに、ニーチェとは直接的な関係がない映画であることが分かってくる。

 ただ、なんとなく、狂気を宿したニーチェの眺める精神風景が、そのまま画面になったという気がしないでもない。

 そこは、土埃が舞い上がり、立っていることもできないほど強烈な風が吹き荒れる荒涼たる大地である。
 その大地を、馬に引かせた荷車を操る老人が、仕事 ( ← 何の仕事か分からない) を終えて家に戻ってくる。
 出迎えるのは、粗末な衣裳に身を包んだ娘一人。

 石造りの簡素な一軒家。
 粗末な椅子とテーブル、暖炉以外の家具はほとんど見当たらない。
 親子の間にはほとんど会話がない。
 交わし合う笑顔もない。
 食べるものは、茹でたじゃがいもだけ。
 それを親子が一つずつ木の皿に載せ、手で皮を向き、塩だけをふりかけて、黙々と食べる。
 
 
 
 そんな親子の日常生活が6日間描かれる。
 毎日、ほとんど変化がない。

 カメラは相変わらず、その変化のない親子の生活をロングテイクで舐め回していく。
 時に、ほとんど 「絵画か ? 」 と思えるくらい、画面の動きが止まる。

 娘は、朝になると、少し離れた井戸まで水を汲みに行き、その間老人は、枯葉の舞い散る外の風景を窓ガラス越しにじっと眺める。
 
 
 
 外は相変わらずの嵐。
 風がときに、自然の旋律を奏でる。
 遠くで、人が歌っているような音が交じる。
 しかし、親子にとっては、風はあくまでも 「風」 にすぎない。
 ランプの油を節約するためにか、日が暮れると、親子はそれぞれのベッドに分かれて眠る。

 何も起こらないのだけれど、「世界」 が徐々に崩壊していくような気配が、静かに濃さを増していく。 
 飼っている馬がだんだん衰え、もう荷車を引くこともできなくなってくる。
 仕事に行くことができなくなった親子は、乏しくなったじゃがいもを茹で、皮を手でむいて、無言で食べる。

 そのうち彼らの生命線ともいえる、井戸が枯渇する。
 水がなければ、そこは、月の世界のような、生きるものの気配が途絶えた乾燥した大地となる。

 親子は仕方なく、身の回りの道具を荷車に積み、馬を連れて脱出を試みる。
 … が、丘の上まで登った親子は、なぜか家に戻ってくる。
 彼らが、丘の上でどのような光景を眺めてしまったかは、観客には分からない。
 もしかしたら、丘の先には、家の窓から眺めた風景よりもさらに荒涼とした世界が広がっていたのかもしれない。

 ランプの油も切れかかってきたのか、やがて家の灯りも途絶える。
 水がないので、じゃがいもを茹でることもできなくなる。
 
 親子は、生のじゃがいもをかじるのだが、その前に、食欲ですらもうなくなりかけている。
 かじりかけのじゃがいも、そっと皿に戻す老人。
 最初から、もう手をつけようともしない娘。
 
 その二人の姿を、まるで絵画の中に閉じ込めたように凍結させたまま6日目が終わる。
 映画に、7日目は訪れない。

 7日目というのは、ユダヤ・キリスト教の教典では、天地創造を終えた神が休息をとった日とされる。
 いわば、神の偉業を祝福する日。

 それが訪れないというのは、何を意味しているのか。
 映画は、最後の最後になって、神の存在をずっと問い詰めていたニーチェの思想とリンクする。

 親子は 「死」 を待っているのだろうか ?
 そうではないだろう。
 たぶんこの先は、もう一度冒頭のシーンに戻り、きっと同じことが繰り返されるのだ。
 永遠に。
 
 

カテゴリー: 映画&本   パーマリンク

映画 「ニーチェの馬」 への10件のコメント

  1. solocaravan より:

    いわゆる不条理劇でしょうか。この手のものは、何がなんだかよく分からなくはありますが、なぜか惹かれるものがあります。ちょっと見たくなりました。

    ニーチェもよく分かりませんが、7日目が訪れずにふたたび冒頭に戻り永遠に繰り返されていくのだとしたら、この映画は永劫回帰とかいう彼の思想をなぞらえているようにも思えます。永遠に繰り返される生の虚妄を力強く肯定する意思をもつ超人。

    この映画に付き合うことはニーチェの称えた超人の境地に到達することなのでしょうか。そして、それができる町田さんは超人?

    • 町田 より:

      >solocaravan さん、ようこそ
      「超人」 などとは、とんでもございません(笑)。
      こちらは 「凡人」 もいいとこで。

      この映画、30分ほど見ただけで、きっと途中から眠くなるだろうな … と覚悟していたのですが、思いのほか、最後まで飽きずに観ることができました。
      それは、映画が伝える一つひとつの情報が、だんだん何かの 「意味」 を持っているように思えてくるからなんですね。

      たとえば、じゃがいもだけしか食べない親子にとって、「じゃがいも」 とは何なのか。
      最初は、ただ 「彼らは貧乏だから、じゃがいも以外のものを食べるお金がないんだろうな」 ぐらいに思っていたのですが、繰り返し 「じゃがいも」 ばかり食べるシーンを続けられると、次第に 「人間にとって “食べる” ってことは何なんだろう ? 」 とか、そんな形而上学的 (?) な問に行き着いてしまうんですね。

      あるいは、飼っている馬が、途中からエサも水も取らなくなる。
      単純に考えれば、馬の死期が近づいているとも取れるのですが、逆に思えば、馬が “ハンスト” して親子に何かを伝えようとしているとも取れる。
      説明がないだけに、いろんなことが考えられる映画です。

      とにかく、あの “かったるい” 映像を見続けていると、次第に、「ここは本当に地球なの ? 」 … っていう気さえしてきます。
      引越しをするつもりで出て行った親子が、丘の上まで登って、また戻ってくるわけですけど、「あの丘の向こうは地球ではなかったんではなかろうか ? 」 なんてことすら想像してしまうんですね。
      あるいは、丘の向こうには、もう 「景色」 すらなく、暗黒が口を開けていただけだったとか。

      誰かが、「これはSFだ」 とか言っていましたけれど、その気持も分かるほど、ある意味でシュールな映画です。

      で、この 「丘から戻ってくるシーン」 ですが、これも誰かが指摘していたんですけれど、「彼らは家に戻ってきたのではなくて、新しい “世界” にたどり着いたのだ」 というわけですね。

      そういわれると、そう見えなくもない。
      というのは、丘にまで続く道は一本道ではなくて、らせん階段みたいにくねくねと曲がりくねっていて、同じ所をぐるぐると循環しているようにも見える。
      つまり、ニーチェのいう 「永劫回帰」 を示唆しているというわけですね。

      >> 「再び冒頭のシーンに戻って、また同じことを繰り返す」 というのは、solocaravan さんがいみじくもご指摘されたとおり、ニーチェのいう 「永劫回帰」 という言葉にヒントを得て思いついたものです。

      でも、実際に観ていると、そんな気分になります。
      生のじゃがいもを途中までかじって、そっとそれを皿に置く。
      それは、親子が静かに 「死」 を受け入れたことを暗示しているようでもあり、逆に、それが永遠に繰り返されることに耐える覚悟を決めたことを暗示しているようにも思えます。

      とにかく不思議な映画でした。
      情報が極端に少ない映画なので、逆に想像力がどんどん刺激されていく、という感じを受けました。
       

  2. keiko より:

    友人と川のそばで見かけた馬頭観音の話をしたころにニーチェの馬を見ました
    いつまでも頭に入らない、、、ニーチェという名前だけで出かけたと思います
    始まってすぐこれは骨だぞと気がつきましたが 数えるほどの観客の前を通る勇気がなく見つづけることに、、、 よかった 稀有な作品でした
    風の音に混じって神経を苛つかせるほどに鳴りつづく重底奏音のヴィオラの響き、、
    寒々と繰り返される疲弊し切った父娘の日常、、、教育も文化も夢も満足も,,そこには何もない、、、見ている私は時々暗闇の中で同じく息をつめている観客の存在にほっとしつつ 今あるがままのこの世界に安堵の祈りを捧げました
    これが結局タルベーラ監督のメッセージではないのかと深く自身に問いかけるものがありました 所在なく暮らしている人や荒れる若者たちが全て我慢して見て 何かを感じるべきと思ったほどです

    姿をあまり見せなくなった馬を見たくて眼を凝らしていましたが 日に日に衰弱して行くのが分かりました 町田さんが馬からメッセージを発しているのじゃなかったかと仰るのは 少し救われるものがあります

    私は311生まれで大地震には強烈なショックを受けました
    今 ひょんなことでこの映画の説明を友人にしたのをきっかけに 父娘が丘の向こうに何を見たのか、、、が頭から離れなくなっています
    それは多分 今以上の絶望の光景だったとしか思えません

    宗教を美術文化としてしか理解出来ない私には町田さんの解説はほんとうに次に何を考えるべきかと教えていただいた気がして この映画にであってちょうど1年と云うことにも気がつきお目にとまらなくてもいい  感謝です  お元気で

    • 町田 より:

      >keiko さん、ようこそ
      返信が遅くなり、たいへん失礼いたしました。
      稚拙なレビューに対するありがたいご感想をいただき、非常に恐縮です。
       
      いただいたコメントにもありますように、>> 「父娘が丘の向こうに何を見たのか」 というところが非常に重要な映画です。観客はその向こうにあったものを想像で補うしかない。たぶん監督の脳裏にも、はっきりしたイメージというものはなかったのではないでしょうか。
      だからこそ、私たちはこの “映画の向こうに広がる世界” を与えられたことになります。
      そして、そこではじめて監督との 「共同作業」 が生まれるわけですね。
      つまり、観客一人一人がこの映画を自分で終わらさなければならないという作業が生まれるように思います。

      たいへん貴重なコメントでした。
      ほんとうにありがとうございました。
       

  3. keiko より:

    昨日は半年点検で代車にリーフが出たのに運転席を見たらビビって友人に迎えに来てもらったのは折角のチャンスを残念なことをしました
     思いがけずご返事が届いていて吃驚しました 知人に漱石や藤沢に精通している製本作家がいらっしゃるのですが そのかたとお話したとき、、福島に教え子とその子供が居るんですよ、、、丘の向こうにその親子は何を見るだろうか、、頭からその言葉が離れないとあらためてのメールがありました
    どんなに思ったとしても リアルな事態があるということに眼を伏せる思いでした

    さて本当に博覧強記の町田さんを知ったことは有りがたいことでした 折にふれ ぽつぽつ読ませていただいていますが 今日は冷たいバラード、、、 あのわけわからない 不条理そのものの青春の1ページ プライドもコンプレックスも 高揚感も切迫感も、、、映画そのものですね 以前ランダムに入れてくれた友人のCDの中で聞くたび、、切なさに遠くの山に眼をやった曲の名前を知りました 東名を4年間毎週走る生活でしたから、、
    10CC I’m not in love そうだったんだ 歌詞を探し出して験命に訳してみました
    まっ直中では揺れているだけで 終わってからしかわからないものなのでしょう 今本当に沁みじみとあの未熟でういういしい時間を苦く愛おしく思い出しています
    ついでにA-HA のTake on meの動画を久しぶりに甘酸っぱく見ました
    音楽を目指す全ての男子学生(?)が知っておくべき曲として(1950年以降2000年まで) この二つが並んでいました

    やっぱりこの世はすてきです  今日も有り難うございました
    雛祭りなのに夜まで気づかず あまり早く飾るのも考えものです お元気で

    • 町田 より:

       >keiko さん、ようこそ
      情感の滲み出るような、味わい深いコメントをいただき、ありがとうございます。

      >> 「丘の向こうに何を見るのだろうか」 というのは、人間の想像力の原点であるように思います。それは必ずしも美しいとは限らない。悲惨と後悔が待っているだけかもしれない。
      でも、人間の想像力は、その “丘の向こう” を思い描かざるを得ない宿命を負っているように思います。

      10CCの 「I’m Not In Love」 は、切ない歌ですね。
      「僕は恋なんかしていない」 と、必死に自分の高ぶる感情を抑えこむ青年の歌のようです。たぶん、恋をすることの先に待っている結末の悲惨さを避けようとする心情が生んだ歌なのでしょう。
      恋する前に、すでに失恋を予見する。
      それも 「想像力」 。
      “丘の向こう” を思い描かざるをえない人間の切なさが歌われているように思います。

       A-HAの 「Take On Me」 は、空をどこまでも突き抜けていくような開放感のある歌ですね。
       でも、それは哀しみが空に向かって上昇していくうちに、いつのまにか 「哀しみ」 ですら鮮やかな空色になっていくという感じの曲ですね。
       
       私は、60年代後半~70年代初期のROCKになじんだ人間で、その時代の音の熱苦しさに愛着を感じているのですが、70年代の中期から80年代にかけてのUKのクールな音も好きです。
       10CCやポリス、スタイルカウンシルなどはいまだに聞いています。
       80年代に入って、ずいぶん音が変わったと思いました。
       音の変化というのは、時代の変化であり、人の変化でもあるようです。
       『冷たいバラード』 という記事は、そのことが書きたくて、ちょっと作り話をこさえてみました。
       

  4. keiko より:

    今日は一日曇り、、知らないうちに咲いていた福寿草ぼけ沈丁花クロッカス、,,のことが心配になるほどの冷たさでした お元気ですか
    私の知らなかったUKとは、、、ふっとひっかかって調べはじめたらはまってしまって今日はゴミを出すのを忘れてしまいました
     
    TAKE THATを思い出してどんなに懐かしかったことでしょう
    、、と言っても曲名を思い出せるのはA milllion love songsだけですが、、、
    ボーカルのキャリーバーロウの顔が 好きか嫌いかわからないままになんだか波立つ マーロンブランドに似てると思っていたことまでも、、、
    長いこと恵まれぬ子供たちへの慈善コンサートをしていたような気がしますが
    それも我が国の24時間などと比べて垢抜けてると思っていました
    それから  POLICE,,,ロクサーヌ 高校教師
    ステイングの忘れられぬあの金属的な声は勿論一番ですがやはりトリオでいてほしかった ジャケットのおでこ隠さない方がいいのにといつも下の紙に髪を足していました
    、、、でやっぱりUKってなんのことかわかりません
    町田さん を知って本当に自分が何も系統だって知ってることが何もないことに気がつきました ずっとつづけて来ていることも 感性的なところで終わっているなあと
    、、、軽薄なメールですみませんが楽しかったです
    やはり今日もありがとうございました お気遣いなく願います

    • 町田 より:

      >Keiko さん、ようこそ
      一ヶ月以上も前にいただいたコメントに、今ごろ返信など書いたところでお気づきにならないだろうと、と思いつつ…。

      自分のblogすら開くことのなかったこの一ヶ月とは、はて、なんだったのだろう? 今考えていたところです。
      モノだけは必死に書いていました。blogに発表するつもりはないものですけど。

      80年代のUKのROCKといっても、実は、私のほうがkeikoさん以上に知らないように思います。
      体系だって聴いていたわけでもないし、漠然とポリス、シャーデー、スタイルカウンシル、ティアーズフォー・フィアーズなどの音がいいなぁ…と思っていただけです。
      この時代、アメリカではディスコ音楽の全盛期で、UK以外に聞く音楽がなかったという感じもします。

      やっぱりあの国の音楽は違いますね。
      ヨーロッパやアメリカの音楽は、文化や歴史は違うけれど、どこか大陸の響きがありますね。
      しかし、イギリスの音楽だけは、アメリカ音楽のルーツのはずなのに大陸の感じがしません。似ているけれど、違う。

      今年になって、フェアポート・コンベンションのようなイギリスのトラディッショナルフォークソングをYOU TUBE から拾って聞くようになりました。1960年代後半から活躍していた人たちだというのに、その時代はその存在にすら気づきませんでした。
      でも、面白い音でした。
      アメリカのフォークソングと似ているけれど、物憂い寂寥感があって、アメリカのようなさんさんと陽が降り注ぐ感じがせずに、曇り空の音なんですね。
      幼いころに接した外国の童話の 「ほのぼの感と、寂しさと、怖さ」 が混じった感覚を思い出しました。
       

  5. keiko より:

    一日中 目から入る情報を一瞬に判断し選んで行動をしている人間とは、、考えたら 蝶の死骸や砂糖菓子のおこぼれに遭遇した場合の蟻とおんなじか、、、と 思うことがありますが音楽も含めての音も一瞬にして異なる世界に連れ出してくれる力を 持っていますね 五感とはよくいったものです
    昔 遠藤周作が憧れのヘミングウエイに会いたくて定宿のホテルに泊まりエレベーターに乗ったら当のヘミングウエイが乗り合わせてきて、、、 部屋に誘われて感激した話しをしていました
    この数年こんなことを含めて 共時性というか同時性ということに思いが至っていますいずれにしても生きてるっていいなと思う力にしたいものです
    ひとは振り返らずに生きて行くしかしかたがないのですから、、、

    脳内美人は何にも当てはまりますね 私もいっぱいいます
    そいう意味で云えば ダ、ビンチ 元雅  ダリ  ジョルジュドン、、、いてくれてよかった

    昨日の新聞に人生に4駆を、、とアウトドアの広告が出ていました 町田さんの
    驚異的に幅広い知識はなんなんでしょう 少しずつ迫れたら嬉しいです お元気で

    • 町田 より:

      >keiko さん、ようこそ。

      詩人のポール・ヴァレリーの詩に、
      「湖に浮かべたボートを漕ぐように、人は後ろ向きに未来へ入っていく … 」
      と、うたったものがあるそうです。(原典を読んだことはないですが)

      おっしゃるように、>>「ひとは振り返らずに生きていくしかない」 のは確かですが、かといって、未来を見ることはできない。
      そのもどかしさが、>> 「砂糖菓子のおこぼれに遭遇した蟻のように」 目から入る一瞬の情景にすがらざるをえない人間の感性をつくるのでしょうね。

      音楽や絵画など、すべての芸術は 「一瞬」 を 「永遠」 に凍結させる要素がありますが、それはすべて 「人間には未来を見ることが出来ない」 というもどかしさの産物のような気もします。

      >> 「人生に 4駆動を」 … ですか !!
      にくいコピーですね。
      今度、どこかで借用することにしましょう。
       

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">