『桐島、部活やめるってよ』 とスクールカースト

 
 最近 「スクールカースト」 という言葉をよく耳にする。
 
 カーストとは、インドで古代から現代に至るまで連綿と続く身分制度のことだが、どうやらそのような 「人間を一方的に差別する」 風習が、日本の中学・高校あたりに広がっているらしい。
 
 それを解説した研究書 (鈴木翔・著 『教室内カースト』 ) のようなものも既に刊行されていて、そこでは、
 「特別な理由もないのに、特定のグループが教室を牛耳り、一方では発言すら許されないグループが存在する」
 という今の中学・高校の学内状況が説明されている。
 そして、それを 「いじめ」 を生む土壌として問題視する声もあとを絶たない。

 しかし、このような “学内カースト制” を、一概に 「悪いことだ」 と断罪してしまうと、今の中高生の生きている世界を見誤ることになるのかもしれない。
 直木賞を取った朝井リョウの 『桐島、部活やめるってよ』 (集英社文庫) を読んでいて、そう思った。

 『桐島、部活やめるってよ』 は、バレーボール部のキャプテンを辞めた桐島という男の子の周辺にいる生徒たちが繰り広げる数週間の日常を描いた学園小説である。
 そこには、スクールカーストが生まれる瞬間の生々しい記述がある。

 小説の中で、「沢島亜矢」 と付けられた少女が、その友達の 「志乃 (しの) 」 とともに、教室の隅で騒いでいる男子グループの一人の男の子を眺めている。
 その男子は、「骨ばっているけれど細くて長い指で、いつも茶色くくねるくしゃくしゃパーマをかき回している」。
 
 彼の名前は 「竜汰」 。
 その竜汰を眺めている沢島亜矢は、次のように思うのだ。

 「なんでみんな同じように着ている学ランなのに、目立つ男子ってこんなにもかっこよく着るんだろう。
 後ろ姿の学ランから少しだけ出た白いシャツが、なんで、あんなにかっこいいんだろう」

 そう思いながら竜汰を眺めている沢島亜矢に、友人の志乃が近づいてきて、こう語る。
 「やっぱ、竜汰、菊池、友弘のあのグループが一番かっこいいよね」

 そう話しかける志乃は、 “かっこいい男子達” を遠くに眺めながら、自分の唇にリップクリープを塗り始める。
 うっすらとピンク色の潤いを帯びた志乃の唇を見つめた亜矢は、こう思うのだ。

 「ピンクが似合う女の子って、きっと、勝っている。すでに何かに。
 なんで高校のクラスって、こんなにもわかりやすく人間が階層化されるんだろう。男子のトップグループ、女子のトップグループ、あとはそれ以外。ぱっと見て、一瞬でわかってしまう。
 だって、そういう子達って、なんだか制服の着方から持ち物から、字の形やら歩き方やら喋り方やら、全部違う気がする」

 もうお分かりだと思うけれど、(作者の朝井リョウの記述が正しいのなら) 、 「スクールカースト」 というのは、 “ブサイクな人間” を卑しめるために生まれてきたのではない。
 むしろ、眩しいばかりの 「かっこよさ」 を持つ人間たちへのオマージュから生まれてくるのだ。

 その 「かっこよさ」 の基準に合わない生徒は、すでに 「人間」 ではない。
 「ブサイク」 と認定されるならまだしも、言葉で表現すると、「それ以外」
 つまり、教室の机や黒板、グランドのバスケットゴールのように、常に視界には入ってくるけれど、人間ではなく、ただの 「モノ」 なのだ。

 「かっこいい」 とされる基準は時代によっても、地域によっても少しずつ異なるのだろうけれど、今の時代の 「かっこよさ」 を概括して表現すれば、男子では、
 「運動能力が高くて人間関係もそつなくこなし、サッカーがうまくて、見た目がチャラい」 男の子である … と誰かが言っていた。

 インドのカーストは、人間の後天的な能力とは関係なく、生まれた家の出自で決められてしまう。
 それに対し、日本のスクールカーストは、対人スキルを磨いたり、見た目のチャラさを演出したりという後天的な要素と、美貌とか高い運動能力などという先天的な要素が微妙に混じっているから、よけい複雑である。
 
 外貌が先天的に恵まれているだけでもダメで、努力してスキルアップしただけでもダメ。
 ハキハキ元気はダサくて、かったるそ~というのが条件の一つだが、切り返しのうまさのような反射神経の鋭さと自頭の良さは必要となる。
 
 逆にいえば、その込み入った “差異体系” を、瞬時に、しかも直感的に感じ取る日本の高校生の感受性というものは、なかなか鋭いものがあるように思う。

 ところで、クラスで “下層カースト” になってしまった生徒たちは、どう感じているのだろう。
 
 映画部にいる前田涼也という男の子が登場する。

 映画部。
 こういう部そのものが、すでに下層カーストを意味する。

 下層カーストの前田涼也は思うのだ。

 「生徒がランク付けされるとき、大きく二つに分けられる。
 目立つ人と、目立たない人。
 運動部と文化部」

 文化部のなかでも、映画部は不気味にオタクっぽい。
 涼也は、講堂で校長の口から 「映画部」 という名前が出されるだけで、なんとなく空気が変わるのを感じる。
 「映画部ってなに ? 」
 「そんなんあったん ? 」
 というざわめきが空気の波動となって、涼也の耳に届くような気がしてくる。

 涼也は、一人で、こうつぶやく。

 「同じ学生服なのに、僕らが着るとこうも情けない感じになってしまうんだろう。
 目立つ人は、同じ制服を着てもかっこよく着られるし、髪の毛だって凝っていいし、染めてもいいし、大きな声で笑っていいし、騒いでもいい。
 でも、目立たない人は、(そのようなことをしては)全部だめ」
 
 もちろん涼也は、自分がその “目立たない人間” の方にいることを十分に自覚している。
 そういう人間に残された道は、ひたすら周囲のことに気づかないように振舞うことだけだ。
 気づくということは、自分の位置を確かめることになる。
 確かめたとたん、自分が下層カーストの住民であるという屈辱に耐えなければならなくなる。
 
 たぶん、この “差別” 対して、差別された人間がなにがしかの反応を示したときに、いじめが発生するのだろう。
 
 このような 「かっこいい」 上層と、「かっこ悪い」 下層は、いつ、どうやって分化するのだろうか ?
 それらを区別するそれぞれの定義というようなものは、実はない。
 しかし、入学してきたときから、誰にでも、即座に、厳然として分かるものだという。
 上層同士はお互いにすぐに結束し、下層同士は自然に肩を寄せ合う。
 その両方が接点を持つことはなく、ほとんど口を聞き合うこともないまま学園生活を終える。
 
 それにしても、鮮やかな小説である。
 まず、タイトルがすごい。
 
 『桐島、部活やめるってよ』

 この読点も入れた11文字だけで、読者は、読まない前からその小説のおよそのシチュエーションを推測することができる。

 「部活」 という言葉からは、舞台が中学か高校であることがうかがえる。
 「やめるってよ」 という言葉から、仲間たちが感じた戸惑いや驚きが伝わる。
 特に、末尾の 「 … よ」 という言葉からは、桐島のことをウワサする少年たちの、ちょっと投げやりな、「学園生活なんてうんざり … 」 という思いまで届けてくるようだ。

 構成も巧みだ。
 タイトルに出てくる 「桐島」 という男の子が、なかなか登場しないので、それが一種のミステリーのような効果を生む。

 物語は、彼の周りにいる男子学生や女子学生が、それぞれの章の主人公となることで成立している。
 しかし、肝心の桐島は、最後までこの小説に登場することはない。
 「桐島」 は、あくまでも、章ごとに区切られた物語を束にして綴る “ホチキス” のようなものなのだ。

 それがゆえに、桐島がなぜバレーボール部を辞めることになったのか、という謎は永遠に解かれることはない。
 それが、この小説に不思議な奥行き (余韻) を与えている。

 文章表現も鮮やか。

 (登場人物の一人が夕焼けを見て)
 「たそがれ ! 」
 と叫ぶ詩織の声が、ひらがなのまま聞こえてくる。たぶん漢字もちゃんと思い浮かんでいないのだろう

 動きを止めた私の前で、詩織は片目だけで四ミリくらい笑った

 私はポーンと (ピアノ) の鍵盤を叩いてみる。高いラの音が、音楽室の中で迷子になった

 取り立てて新味があるようにも思えないレトリックながら、こういう表現が意表を突いた場所に出てくると、それなりにハッとする。

 この作者の文体には、空気中を漂うホコリの粒子が、とつぜんキラキラ輝き出すような不思議な感覚がある。
 使われている言葉が、光の乱反射を受けて、思いもかけない場所を照らし出す。
 「スクールカースト」 というテーマを扱いながら、したり顔の評論家が “社会問題” として語りたがるときのような陰湿さが微塵もないのは、この宙を舞うホコリですら黄金色の輝きに変える鮮やかな文体のせいもある。 

 それに、 “寸止め” の抑制力がほどよく効いていて、気持ちがいい。
 つまり、「感動」 なら 「感動」 、「泣き」 なら 「泣き」 のパターンに入るぎりぎりのところで筆を止めている。

 最近の若い人たちのつくる物語は、ベタな 「感動」 と ベタな「泣き」 だけに力点を置いて書かれているような気がするのだが、この小説では、「感動」 も 「泣き」 も、その一歩手前にまでしか描き込まれない。
 「宮部実果」 という女の子を描いた章だけ、少し趣きを異にするが、それ以外の章は、「泣き」 と 「感動」 の代わりに、「ほろ苦さ」 がにじむ。
 その 「苦さ」 が、この青春小説を、大人の読み物に変えている。

 最後の最後になって、劇的な転換が訪れる。
 「菊池宏樹」 という男の子を主人公にした章。

 菊池宏樹は、カーストの上位にいる人間である。
 運動神経も抜群。容姿にも恵まれ、学ランをかっこよく着こなす様々なノウハウも身に付けている。
 頭も良いので、さほど勉強しなくても東京の一流私大ぐらいはどこでも受かる自信を持っている。

 だが、心の中に巣食っているメランコリーを、どうしても払拭することができない。
 現在は、カーストの上位にいる自分に満足しているが、その先に広がる未来の自分の姿を何も思い浮かべることができないのだ。

 「未来はどこまでも広がっている。
 違う、出発点から動いていないからそう見えるだけだ」

 彼の頭の中では、いつもその言葉がリフレーンとなってこだましている。
 だから 「沙奈」 という、とびっきり美人の “彼女” がいても、それに溺れきることができない。

 宏樹は思う。
 「俺の彼女はかわいい。確かにかわいい。
 だけどたぶん、それだけだ」

 沙奈は、宏樹と同じく、女子カーストのトップにいる。
 そして、自分たちが特権階級でいることに満足し、下層カーストの人間をあざ笑うことに喜びを感じている。

 「映画部の男の子たちって、ちょーキモいよね。そういうのが体育でサッカーやっているって、それだけでヤベーよね」
 と無邪気にケラケラと笑う。
 
 宏樹はそんな沙奈のことをかわいそうに思う。
 そして、心の中で、
 「沙奈はきっと、これからずっとそういう価値観で生きていくんだろう。ダサいかダサくないかでとりあえず人をふるいにかけて、ランク付けして、目立ったモン勝ちで、そういうふうにしか考えられないんだろう」
 とつぶやく。

 そして、少し間をおいて、
 「だけどお前だってそうだろうが」
 と自嘲する。 

 物語は、宏樹が、沙奈のバカにしていた映画部の男の子たちと接することで、思わぬ方向に舵を切る。

 下校時に、宏樹は見てしまうのだ。
 今まで、視界に入って来なかった下層カーストの映画部の男の子が、自分たちの好きな映画を語っているときの輝いている表情を。

 宏樹は、映画部の男子が校庭に落としたカメラのレンズキャップを拾って、彼らの後を追いかける。

 映画部の男子 2人は、真剣な面持ちで、バドミントン部の練習風景を撮っている。
 宏樹は、その姿を見て、はじめて言いようのない緊張をおぼえる。
 自分たちの熱中するものを持っている “ダサい男子” たちが、突然神々しく見えてしまうのだ。
 うろたえた宏樹は、「これたぶん、落としとるよ」 とぶっきらぼうに言って、その場を立ち去る。
 
 一方、自分たちとは別世界に住む人間から不意に声を賭けられた映画部の男子 ( 「前田涼也」 という章の主人公) は、緊張して、礼をいう言葉すら見つからない。
 だが、彼もまた、接することも許されるとは思わなかった上位カーストの男子に声かけられて、不覚にも感動してしまうのだ。

 「スクールカースト」 って何なんだ ?

 いじめの問題などと結びつけて、それを悲惨な社会問題として取り上げようとするマスコミの報道などとはまったく違う角度で、この作者はその問題を静かに捉えている。
 
 

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『桐島、部活やめるってよ』 とスクールカースト への2件のコメント

  1. s-_-s より:

    お久しぶりです。
    スクールカーストって言い得て妙ですよね。
    子供達が学校と言う社会に入れられて、それとなく話が合う、雰囲気が合うグループでまとまり始め、各グループ間に上下の位置づけがなされて行く。
    その様子をカーストと言う誰もが知っている言葉で表現されたのです。

    「ああ、あのクラスの身分制度みたいのものはスクールカーストだったのか!」

    始めて聞いた時は、そのしっくり感に軽い感動さえ覚えました。

    Jリーグが開幕し、男子の間でサッカー人気が沸騰した頃小学校の教室にいたので、
    サッカー部員の皆様方の颯爽っぷりに多くの民は平伏したものです。

    スクールカーストの問題はまさにこのカーストである事一点にあります。
    彼らは気が合う人同士で集まっているだけなのです。
    なのに何故、そこに貴賎の別が発生するのか。

    思うにそれは、大人がこの社会が、子供達にもたらした価値感が原因なのです。

    我々の社会では、アイドルが好きな人間よりサッカーを好む人間の方が尊いのです。
    サッカー部員とアイドルオタクが道で会えばオタクは草むらに入って跪く、
    これは日常よく見かける光景です。

    アスリートとオタク、本来異世界で平和に暮らしていた諸部族が、
    「みんな仲良し!みんな友達!」と言う一見神聖な、しかし実は極めて暴力的な
    教義の元に学校に閉じ込められ、そこに日本人が1400年の長きにわたり
    支配されてきた「和を以て貴しとなせ」と言う呪縛が加わり
    かくして教室は壺毒の壺と化したのであります。

    組織、集団を崇拝することを強制するのを止め
    皆仲良しと言う大人社会でも凡そ実現不能の幻想から目覚めれば、
    スクールカーストは緩やかなスクールグループに生まれ変われることでしょう。

    また、いじめはあくまで治安の問題で
    傷害事件や恐喝事件が学校内で発生しただけで「いじめ」や「体罰」など
    奇怪なオブラートに包まれた言葉に置きかわり、警察や司法が職責を果たしていないだけなのです。

    • 町田 より:

      >s-_-s さん、ようこそ
      確かに 「スクールカースト」 とは言い得て妙ですね。
      もうずいぶん昔の話になりますが、今から思えば、私たちの中・高生時代にも、そんな空気がすでに漂っていました。
      明確な 「いじめ」 には至らないものの、勉強ができても、立ち居振る舞いにおいてちょっとドン臭い生徒をあざ笑うような風潮が確かにあったように記憶しています。
      J リーグ発足以降、サッカーのうまい子がヒーローになれるような風潮ができあがって、「颯爽とした」 一群と、そこから外れてしまった一群の解離がさらに加速したのでしょうね。
      そして、そこに 「貴賤の別」 のような空気が漂い始めたのは、>> 「大人社会の縮図が反映している」 というs-_-s さんの解析は見事であるように思います。

      「スクールカースト」 というのは、s-_-s さんがおっしゃるように、>>「さまざまな個性と能力をもった子供たちを、組織・集団の原理を優先させて一元的な価値観で統一しようとする大人たちに対する子供たちからの “見えない” 反乱である」 という指摘は、この問題の専門家からもすでに言及されているようです。
      そう考えると、これは、生徒たちの問題というよりも、広く人間の個人と組織のあり方を問う大きな問題でもあるような気もしてきます。

      『桐島、部活やめるってよ』 という小説は、高校生たちの学園ドラマでありながら、“人間一般” までをも射程に入れた奥行のある作品なのかもしれません。
       

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