ランボルギーニ・ディアブロ

 
 「憧れのクルマ」 というのは、「欲しいクルマ」 であるとは限らない。
 誰かが 「あげるから乗ってごらん」 といってくれても、決して乗りたくないクルマというものもある。
 
 だけど、飾っておいて、眺めているだけならいい。
 あるいはその画像をYOU TUBEのようなものから拾って、走っている映像を追い続けているだけでいい。
 
 自分にとってそんなクルマが、ランボルギーニのディアブロだ。

 「乗りたくない」 というのを、私は褒め言葉として使っているつもりだ。
 「スーパーカー」 といわれるクルマ全般に対して言えることかもしれないが、想像を絶するハイパワー、微妙なアクセルコントロール、後方視界の悪さ、劣悪な居住性など、そういうクルマはすべてにおいて 「素人では扱いきれない」 という先入観があって、とても自分などが乗れるシロモノではないと思う一方、だからこそ “わくわく感” もある。
 
 そもそも、「憧れ」 って、そんなもんである。
 人間は、確実に手に入る領域のものに、憧れることはない。
 普通の方法では手の届かないものが 「憧れ」 の対象となる。
 そして時に、人間は 「手の届かないもの」 だからこそ、価値を認める。
 ランボルギーニ・ディアブロは、私のような “素人” を冷たく拒否するだろうと思えるから、好きなのだ。
 
 メンテナンスの専門家に言わせると、ディアブロは、
 「予想外に乗りやすいクルマ」
 であるともいう。
 
 しかし、そう語る人が、
 「走りは悪魔そのもの。V12気筒のレーシングエンジンをそのまま市販車化したその走りはまさにレーシングカー」
 などと解説し、さらに、
 「フェラーリのエンジンはどちらかというと大人の味わいがあるが、ランボルギーニは荒々しい不良の香りがする」
 などと言っているのをみると、やはり私などは、
 「こりゃ、試乗の機会があっても遠慮した方がいい」
 と尻込みしてしまう。
 
 そういうクルマは、眺めているだけでいい。
 眺めるだけなら、ディアブロというクルマは、(私にとっては) この世でいちばん美しいクルマだ。


 
 何が美しいのか。
 「機械のくせに、命がある」
 そういうたたずまいをしている。
 
 私が学生生活を終えようとした頃、「スーパーカーブーム」 (1974年~1978年) が到来した。そのときには、ランボルギーニのカウンタックが、スーパーカーの代表選手のように扱われていた。
 
▼ ランボルギーニ・カウンタックLP500

 
 確かに、マルチェロ・ガンディーニがデザインしたカウンタックは、その戦闘機のような鋭角的なウェッジシェイプによって、近未来から飛来してきた自動車のように思えた。
 しかし、それはやはり 「機械」 のイメージを抜け出すようなデザインではなかった。
 逆に、その大げさなフォルムが、子供の “おもちゃ” のように見えてしまったのである。
 
 だが、1990年に登場したディアブロは違った。
 生き物が漂わせる “妖気” が感じられた。
 明らかに、デザインの発想の原点に、生物モデルがあると直感した。
 
▼ ドアを跳ねあげた様子は、怪鳥が羽根を広げたかのようだ

 
 なぜディアブロに 「生き物」 の匂いを感じたのかよく分からないが、もしかしたら、1979年に封切られたリドリー・スコットの 『エイリアン』 を見てしまったからかもしれない。
 
 「生物モデル」 といっても、それは、私たちが見たこともない “地球に存在しない生物” である。それこそ、神なのか悪魔なのかも判別しない、人間の生命原則を超えた生き物のことである。
 ディアブロのフォルムを見たとき、真っ先に思い浮かんだのは、ハンス・ルドルフ・ギーガーがデザインした 「エイリアン」 の姿だった。
 
▼ ディアブロのどことなくヌメっとした質感とセクシーなボディラインからはエイリアンの息吹が漂ってくるかのようだ


 
▼ 配管の取り回しもエイリアンそのもの

 
▼ コックピットも、エイリアンの宇宙船の操縦席を彷彿とさせる


 
 ディアブロとは、「悪魔」 のことである。
 もちろん、ただの悪魔を意味するわけではなく、かつてそういう名で語り継がれた伝説の闘牛の名に由来する。
 ディアブロの後継機種といわれる 「ムルシエラゴ」 も、スペイン語の 「コウモリ」 を意味する言葉ながら、19世紀に実在した有名な闘牛の名前だといわれている。
 
 ランボルギーニが 「牛」 にこだわっているのは、シンボルマークそのものが牛であることからも分かる。
 一説によると、ランボルギーニの創始者であるフェルッチオ・ランボルギーニが牡牛座の生まれだったので、シンボルマークもそれにちなんだというのだが、もちろんライバル 「フェラーリ」 の “跳ね馬” に対抗したものであることは明らかだ。
 

 
 牛は、馬より鈍重な動物のように思われがちだが、ギリシャ神話では、しばしば神や怪物の化身として登場する。
 ミノス島に巣くうミノタウロスは、牛の頭を持った怪物であり、人間の女性を食する。
 
 また、ギリシャ神話の主神ゼウスは、美しい人間の女性に近づくときは美しい 「牛」 の姿を取る。そして、その美しさにうっとりした女性を誘惑し、性交を迫る。
 
 牛は、伝統的に生殖と豊穣を意味する動物であり、時に暴力的であり、破壊的である。
 性と暴力。
 ランボルギーニ・ディアブロが放つ “妖気” は、ギリシャ神話以来の伝統的なヨーロッパの背徳的感性から生まれて来るものかもしれない。
 ルネッサンス期に悪徳の限りを尽くし、それでも美しく滅びたボルジア家の家紋も 「赤い牡牛」 であった。
 
▼ 5.7リットル V12気筒 DOHC48バルブエンジンは492PSを叩き出し、時速325㎞をマークする

 
▼ ディアブロが特に美しく見えるのは、この角度。エモノを見定めて跳躍する前のしなやかな猛獣のようだ

 
 それにしても、このディアブロのぞくぞくするようなスタイルは、いったい何を意味するのか。
 
 これを 「アート」 だと言い切る人もいる。
 つまり、人間には使い切ることのできない性能を秘めたものは、もう “実用品” ではない。
 アートは、実用品としての価値が途絶えた地点から、別の価値を身にまとう。
 
 公道で使い切ることのできない492PS、時速325kmという能力は、すでに実用車としての意味を持たない。その存在自体が、人間の心を解放し、人間を無限の自由にいざなうものであるということに過ぎない。
 
 つまりそれは、もう神が遣わした乗り物なのである。
 時速300kmを超えるスピードに身を委ねることは、人間世界の感覚も思惟も超えた世界を知ることである。
 それは、神の支配域に入ることを意味する。
 
 そのような乗り物に、 「ディアブロ (悪魔) 」 という名をつけた発案者の “邪悪な冗談” に心惹かれる。
 

  
 
自動車文化論 「徳大寺有恒 『ダンディー・トーク』 」
 
自動車文化論 「欧州キャンピングカーの深い快楽」
 
自動車文化論 「 『速さ』 の形」
 
自動車文化論 「ブランドとは物語」
 
※ ディアブロの記事を書こうと思ったのは、このブログでも紹介したことのある音楽家のサミーさんが、アメリカのネットでディアブロの画像集を探してメールしてくれたからだ。改めてサミーさんに感謝。
サミーさんの記事は下記で (↓)
「伝説のソウル・シンガー サミー」 
 
 

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">