霧笛が俺を呼んでいる

 
 古い邦画を見るのが好きだ。
 昭和30年代ぐらいのやつ。
 BSなどで放映していると、必ずそこにチャンネルを合わせるか、録画などしておいて時間があるときに観ることが多い。
 
 古い邦画の何がいいかというと、映画の背景となる街並みが面白いからだ。
 日本であって、日本ではない。
 
 昭和30年代というと、もちろん自分はまだ小学生ぐらいだったので、その頃眺めてきた風景を記憶にとどめていたっておかしくはない。
 しかし、ほとんど記憶に残っていない。
 街も、成長していく子供と同じで、少しずつ変化していくものというのは、案外記憶に残らないものなのだ。
 10年とか20年とかいうスパンで比較したときに、はじめてその変貌ぶりに驚きを隠せなくなる。
 
 古い邦画を観ていると、だから、「懐かしさ」よりも「驚き」の方が大きい。
 一種の “歴史トリップ” だ。
 「あれって今の国道 1号線 ? あんなにのんびりした道だったの ? まるで東南アジアの郊外の道みたいだ ! 」
 … などと驚くのが楽しい。
 なにしろ、『3丁目の夕日』などと違って、撮影時には実在したホンモノの風景なのだ。それを眺めることは、タイムマシンに乗って過去に旅するようなものだ。
 
 で、つい先だって、BSで 『霧笛が俺を呼んでいる』 という映画を見た。
 1960年 (昭和35年) に公開された作品で、映画が、庶民に「夢」と「憧れ」を与えることのできた時代の匂いがした。
 

 
 今の “目” で見ると、なんだかとても変。
 「不自然」という言葉がぴったり。
 ヒーローも、悪人も、ヒロインも、刑事も、こんな人間いるわけねぇだろ ! … 的な突っ込みどころ満載というか、ある意味、典型的なステレオタイプな人ばかりなのだ。
 でも、その不自然さが、かつては「現実とは別世界」として認知されていた映画の世界ならではの輝きと表裏一体であったことも分かる。
 
 だって、『霧笛が俺を呼んでいる』なんて、タイトルだけで笑っちゃう。
 ギャグとしても、もう通用しない。
 だけど、そういう表現が、あの時代では、映画という “異空間” のバリアの内側に観客を引きずり込む「呪文」であったともいえるのだ。
 
▼ この映画が封切られた翌年に21歳の若さで亡くなる赤木圭一郎

 
 で、この映画。
 BSシネマで途中から観たのだけれど、時間が経つにつれてどんどん引き込まれていった。
 洒落た映画なのだ。
 監督、脚本家、キャメラマン、俳優たちが一体となって、欧米のフィルムノワールのような雰囲気を作ろうと必死になっている様子が伝わってくる。
 
 だって、ネタとなっているのは、キャロル・リード監督の名作『第三の男』そのものなのである。
 船乗りの主人公(赤木圭一郎)が、横浜の港に着いて、昔つきあっていた親友(葉山良二)を訪ねる。
 しかし、親友は、「数日前に自殺した」という。
 そんなはずが … と、いぶかる主人公は、やがてその “殺人” が偽装工作で、実は友人こそ、麻薬取引を指揮する大物の元締めだということを知る。
 その死んだはずの友人に、彼をずっと愛し続ける美人の恋人(芦川いづみ)が絡んできたりとか、まぁ、基本形は『第三の男』。
 
 そのような『第三の男』に表れる終戦直後のウィーンの退廃的な匂いに、港横浜のエキゾチックなスパイスを絡ませたような作品が、この『霧笛が俺を呼んでいる』なのである。
 
▼ ここに描かれる横浜は、『ブルーライト・ヨコハマ』 (いしだあゆみ) や 『ビューティフル・ヨコハマ』 (平山三紀) が歌うカタカナの “ヨコハマ” 以前の、洒落ているけど、暗く寂しい横浜

 
 映画には、なんと、伝説のホテルとなった『BUND HOTEL』の情景がふんだんに出てくる。
 部屋はセットだという人もいるが、それでも、戦時中はドイツ軍専用のホテルとなり、敗戦後は、アメリカ軍の従軍記者の宿舎となったといわれるこのホテルの異国情緒はたっぷり表現される。
 そして、そこには、五木ひろしが歌った『よこはまたそがれ』のような港町のホテルの無国籍的な淋しさがにじむ。
 
 『35ノット』という名前で出てくる酒場の店内の情景やイルミネーションも、いかにも怪しい外国人や犯罪者などが寄ってきそうな “港町のバー” という雰囲気。
 
 そういう情景をふんだんに見せるときに使われる音楽は、みなジャズ。
 それも、『死刑台のエレベーター』のマイルス・ディビスとか、『拳銃の報酬』のMJQの演奏などを彷彿とさせるクールな曲調。
 ミルト・ジャクソンでも弾いていそうなバイブの音色が、港町の暗闇に塗り込められた犯罪の苦い味と、誘惑の甘い香りを伝えてくる。
 
 交通量の少ない国道 1号線を、東京方向に向かってさっそうと走る白いオースチンヒーレー。
 周りを走っているのは、オート3輪に、ボンネット型トラック。初代クラウンのタクシー。
 それは、当時の最新のモータリゼーションを表現する映像なのだ。
 しかし、大都会につながる洒落た道路の彼方には、まだ貧しいアジアの新興国であることを表現する淋しい原っぱが続いている。
 
 豊かさと貧しさ。
 オシャレ感と野暮ったさ。
 その両極の間を揺れ動いているような映画だ。
 洗練された都会の匂いを漂わせる一方で、背伸びした外国崇拝が、妙に悲しく感じられたりもする。
 しかし、… だからこそと言おうか、この映画を作っている人たちが、必死に「オシャレなものを作ろう」と意気込んでいる様子が伝わってくる。
 
 波止場、霧、たたずむ女、別れ。
 ラストシーンには、この時代の歌謡曲の定番となった情景がふんだんに盛り込まれる。
 そして、最後には、赤木圭一郎の歌う日本語の主題歌が。
 
 せっかくのフィルムノワールを感じさせる洋画っぽい雰囲気が、最後にドメスティックな演歌の匂いに絡め取られて、見ていると、ズルッと椅子からずり落ちそうになる。
 でも、それも一種のご愛嬌。
 たぶん、こういう終わり方が、当時はカッコ良かったのだろう、という推測は成り立つ。
 
▼ 『霧笛が俺を呼んでいる』 ラストシーン (from YOU TUBE)
http://youtu.be/w2sb7NsrHP8
 
 最近のことだが、こういう歌謡曲とジャズが入り乱れるような “昭和っぽい” 意匠に、妙に「都会性」を感じるようになった。
 もちろん現代都市のたたずまいの方が、ヴィジュアル的には、この時代のものよりもはるかに “都会っぽい” 。
 でも、お洒落じゃない。
 
 お洒落ってのは、案外、野暮なものの “隣り” に、ひっそりとたたずんでいるものである。
 どうしようもない田舎っぽいものに囲まれた中で、ガラスの破片のようにピカリと光る都会性。
 それがお洒落なんだ。
 
 「洗練」とはほど遠かった昭和30年代くらいの “洋物崇拝” 嗜好には、そういうお洒落な思想が隠されている。
 それが、いま自分には見えるようになった。
 
 
参考記事 「 『第三の男』 に描かれたウィーン」
 
参考記事 「拳銃の報酬」
 
参考記事 「にあんちゃん」
 
 

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