世界が土曜の夜の夢なら (ヤンキーの美学)

 
 本来の意味は、「アメリカ東部に住む白人」 。
 それをちょっと侮蔑的に表現するときに使われる 「ヤンキー」 という言葉が、いま日本では語義を離れた特別な意味で使われている。
 
 ファッションでいえば、ジャージにゴールドのネックレス、セカンドバッグ。
 髪型は、茶髪、金髪、ときに散切り、オールバック、リーゼント。
 男は眉を剃りあげたり、女は赤い口紅をべったり。
 
 小物類なら、サンリオ、ミキハウス、ディズニラーランドブランド。
 たむろする場所は、パチンコ屋、地方の道路沿いのコンビニ、ショッピングモール。
 
 クルマの趣味は、羽根つきセダン、デコトラ、デコチャリ。
 ダッシュボードを飾るものはムートン、ぬいぐるみ。
 
 好きな歌手・タレントは、矢沢永吉、浜崎あゆみ、工藤静香、EXILE、氣志團、湘南の風、亀田3兄弟、宇梶剛士、哀川翔。
 
 そんな言葉を並べてみると、ふわっと浮き上がってくる一連の人々。
 その人たちを漠然と総称するときに使われる 「ヤンキー」 。
 
 かつて言われた 「不良」 「チンピラ」 ともまた違い、一見、怖そうだけど奇妙な愛嬌があって、ある意味で世知に長け、ちゃっかり屋。別の意味で情に厚く、無邪気で、純真。
 
 「ヤンキー」 とは無縁の生活を送っている人たちにとって、これほど好奇心を刺激する人種もないのかもしれない。
 
 彼らは、いつ、どのように生まれ、何を考え、いまの日本社会でどういう位置を占めるのか。
 そんな人々の生態やその精神風景をレポートした好著に、精神分析学者の斎藤環 (さいとう・たまき) が書いた 『世界が土曜の夜の夢なら ヤンキーと精神分析』 がある。
 すでに、いろいろなメディアの書評欄に採り上げられ、巷でも話題になっている本なので好奇心も刺激され、さっそく手にとってみた。
 
▼ 『世界が土曜の夜の夢なら』 (角川書店)

 
 う~ん ! 面白い。
 学者の書いた本なので、後半一気に難しくなるところがある。
 しかし、「何をもってヤンキーとなすか」 という分析には、この人ならではの独自の視点があって、時間が余ったときの退屈しのぎにはもってこいの本だった。
 
 系譜学的にいうと、ヤンキー文化の発祥は、どうやら60年代後半から70年代半ばぐらいかけて、米軍キャンプのある横須賀あたりで遊んでいた日本人の若者の独特のファッションやクルマの趣味などがルーツとなるらしい (諸説あるとか) 。
 
 やがて、70年代に隆盛を誇った暴走族の特攻服などのファッションと融合し、 “社会に背を向ける” 若者のビジュアルイメージを形成していく。
 80年代前半ともなれば、特攻服、ドカジャンなどのほかに、チャイナ、甚平、アロハなどというレパートリーも増え、「ほどよいダサさとカッコ悪さ」 を競うことが遊びとなっていく。
 
▼ ヤンキー漫画の古典 『ビー・バップ・ハイスクール』 (1983年~)

 
 このあたりの風俗的な説明には先行研究も多いらしく、斎藤環も、しばしばそれらを引用する。
 その風俗分析をまとめてみると、
 ① バッドセンス (ダサさ、カッコ悪さを競う価値転倒)
 ② キッチュさ (陳腐だが目立つことで、どぎつい存在感を漂わす)
 ③ ドメスティック (アメリカ風を装った国粋趣味)
 などに集約されるという。
 
 しかし、このあたりのビジュアルイメージを網羅することが、この書の本意ではない。
 それよりも、ヤンキー的文化・ヤンキー的美学というものが、「いまの日本の何をあぶり出しているのか ? 」 が、ここでは問われている。
 
 結論を先に言ってしまえば、そもそも 「日本の文化形成」 そのものがヤンキー的なものであったこと。そして、それは天皇制の構造にも行き着くこと。さらには、一見マッチョで強面 (こわもて) 志向のヤンキー文化が、意外と 「女性的なもの」 であること、などが述べられていく。
 
 ま、そこまで行ってしまうと、やはり “学術書” だな … という匂いが強くなっていくのだが、本書で面白かったのは、「ヤンキー」 のメンタリティーというものにズバッと踏み込み、それが今テレビ文化を覆い、人々の日常的な価値観のなかにジワッと浸透し、さらに大阪市長の橋下徹人気を支える国民性にまで及んでいることを指摘する箇所だ。
 
 順を追って、少し紹介しよう。
 まず、ヤンキー的なメンタリティーとは何か。
 
▼ 横浜銀蝿

 
 著者は、まず音楽の分野で、80年代初頭に活躍した 「横浜銀蝿」 を例にとる。
 誇張されたリーゼントヘア。吊り目のサングラス。革ジャンとドカン。
 ステージに立つ彼らの姿は、いわゆる古典的な “不良ファッション” 。
 横浜銀蝿のビジュアルは、まさに不良たちが一般人を恫喝するときのスタイルだった。
 
 なのに、そこには 「怖さ」 よりも、不思議な 「おかしさ」 が漂う。
 つまり、それは最初から 「不良」 のパロディ、もしくはフェイク (ニセもの) に過ぎなかったのだ。
 そもそも、彼らの最大のヒット曲 『ツッパリ High School Rock’n Roll』 は、よく聞くとコミックソングであり、メンバーには不良体験がなく、全員が大卒もしくは大学中退であった。
 
 だが、それが “本物の不良” たちの熱い支持を受ける。
 斎藤環はそこに注目する。
 
 「現在のヤンキー文化の特色である 『シャレ』 と 『マジ』 の境目が曖昧になった不思議な現象は、このときにはっきりと確立されたのではないか」
 
 つまり、「オリジナル」 があってこそ 「パロディ」 が生まれるという今までの伝統文化の構造がこのとき崩れ、「パロディであるからマジになれる」 という、何とも奇妙なメンタリティーがヤンキーの間に生まれてきたというのである。
 
 それは、「表層」 と 「深層」 という、精神分析学の古典的な枠組みからも逸脱していく。
 ヤンキーは、バイクやクルマというアメリカ的なアイテムを好み、リーゼントやオールバックというアメリカ風ヘアスタイルを取り入れ、チャイナやアロハという無国籍的な衣装で身を包む。
 しかし、それはあくまでも 「表層」 。
 
 「表層はめまぐるしく変転していくが、彼らの深いところにある心情は、むしろ古典的ともいえる伝統回帰の傾向を見せる」
 と著者はいう。
 
 彼らは、アメリカ的アイテムであるバイクを日章旗で飾り、「銀蝿」 、 「氣志團」 、「虎舞龍」 などの難しい漢字を好み、集団生活では縦社会を重んじ、自治体活動や祭りの主要な担い手となり、家族愛を強調する。
 表層的には、外来文化を貪欲に取り込みながら、それを自在に換骨奪胎し、いつのまにやらドメスティックな日本回帰を見せる。
 
 著者はそれを見て、そもそも日本文化そのものが “ヤンキー的” ではなかったか、と推察する。
 
 「日本文化は、きわめてハードで保守的な 『深層』 と、きわめて流動的で変化しやすい 『表層』 の二重構造を持っている。
 日本人はあらゆる外来文化をまず表層で受けとめ、その影響を吸収しながら表層は次々と変化していく。
 結果的に、あまりに受容的かつ柔軟な 『表層』 は、外来文化から 『深層』 を守るためのバリアーとして機能する。
 こうして 『表層』 が変われば変わるほど、『深層』 は変わらないという形で日本文化は維持されていく」
 
 そのような日本文化の特色をよく表すのが、日本語の表記。
 
 「われわれはあらゆる外国語を、いったん外来語 = カタカナ語に変換して取り込んでしまう。
 その結果、外来語はいつまで経っても外来語の位置にとどまるため、外来語の影響によって日本語そのものが変容してしまうことは起こりにくくなる。…… 日本文化そのものに自己保身的な二重構造があるのだ」
 
 さらに、ヤンキーの 「バッドセンス」 と 「キッチュな好み」 が、歌舞伎における隈取りや衣装と通底していたり、日光東照宮のキッチュな過剰さとも近似していることも著者は指摘するのだが、ま、そのへんはときどき耳にする話で、特に目新しさは感じなかった。
 
 こういう日本文化の始原を考察する学術的な分析は、それはそれで面白いのだけど、やはり刺激的なのは、「ヤンキー文化が今の日本に何をもたらしつつあるのか」 ということを解き明かしていくくだり。
 
 それを、SMAPの木村拓哉、ヤンキー先生 (義家弘介) 、「金八先生」 の武田鉄矢などといったテレビにおける露出度が高い人々が持っている “ヤンキー性” を摘出することで、著者は 「ヤンキー文化」 の本質を明らかにしていく。
 
 たとえば、木村拓哉に対する評価は、次のような感じだ。
 
 「キムタクはヤンキー文化の最も洗練されたスタイルの体現者である。彼の不動の人気の理由もそこにある。僕はキムタクに、ヤンキー美学の理想形をみる」
 
 木村拓哉は、特にヤンキーファッションを好んでいるというわけでもなく、その立ち居振る舞いにヤンキーっぽさを感じさせることも少ないのだが、著者にいわせると、「ヤンキー美学の理想形」 であるそうな。
 いったいそれは、どこに視点を合わせたときに出てくる評価なのだろう。
 

 
 ずばり、言動だという。
 著者は、キムタク語録をまず引用する。
 
 ・ 「後に何も残らないぐらいの燃焼。仕事は “最高の遊び” と思っていたい」
 ・ 「あがいている自分が好き。無理だと思っていることにチャレンジしているときが、やけに楽しいのよ」
 ・ 「まわりが見たらダサいことでも、本人に使命感や責任感があったら、それはカッコイイんだよ」
 ・ 「魅力的でいるために必要なこと。ちゃんと笑う。心底笑うときがあって、心底悩んでいるときがあって、心底楽しめるってことじゃないかな ? 」
 ・ 「生きていればさ、いろいろあるよ。特別に寒い日だったり、特別に暑い日であったり、特別に波がいい日だったり、特別に機嫌がいい日であったり …… その時々で、『イエーイ ! 』 っていう感動があれば、それでいい」
 
 このキムタク語録を引用した後、著者は次のようにいう。
 
 「語録をみて、僕がまず連想したのは、『相田みつを』 ではないか、ということだった。
 まず、徹底して 『ベタ』 であること。いずれの言葉も背景に高い知性を感じさせつつ、アイロニカルな感性をみじんも感じさせない。意外なほど現実志向、実利志向が強く、今日からでも活かせそうな効能がある。内容は真摯かつ実用的だが、そのぶん自己啓発的な印象もある」
 
 「相田みつを」 という名前が出てきたので、ちょっと紹介するが、1942年に生まれ、1991年に亡くなった詩人のことである。
 
 「どのような道を、どのように歩くとも、いのちいっぱいに生きてれば、いいぞ」
 「つまづいたって、いいじゃないか。人間だもの」
 「夢はでっかく根はふかく」
 などという “人生の応援歌” を書き続けた人だという。
 
 斎藤環によると、この 「ベタな詩」 が、意外とヤンキー青年たちから愛されており、ヤンキー出身のラーメン店経営者などの店では、この詩人の書いた書画のようなものが、よく壁に貼られているという。
 ちなみに、ヤンキー出身の浜崎あゆみが最も愛好する詩人がこの相田みつをであり、それは彼女の作詞からも伝わってくるとか。
 
 こういうメンタリティーから推測するに、「ヤンキーは決して反社会的ではない」 (その意味からも 「尾崎豊」 の存在はヤンキー的ではない) と著者はいう。
 
 斎藤環が、ヤンキー精神をもっとも具現化したドラマとして取り上げたのが、1970年代から2011年まで32年間続いた 『3年B組金八先生』 だ。
 これも、相田みつを的な、イノセンスな愛や信頼を称揚したドラマだったという。
 

▲ 『3年B組 金八先生』
 
 この番組の始まった1970年代後半は、日本の思春期が大きく変わり始めた時期で、いじめ、中学生の妊娠、虐待、薬物中毒、ひきこもり、性同一性障害などといった問題がどの学園でも蔓延した。
 現実の学園を管理する先生たちは、そこで、何をどう矯正していけばいいのか途方にくれる。
 しかし、武田鉄矢演じるドラマの金八先生は、生徒が問題を起こすと、授業すらほっぽり出すような勢いで、そのつど体当たりで “解決” する。
 
 ただ、それは下手をすると 「反知性主義」 に陥る。
 現実は錯綜していて、解決方法はひとつだけではない。
 計画性のない “解決” は、事後のことを考えれば、逆効果になることもあり得る。
 
 しかし 「金八先生」 のドラマでは、無鉄砲な行動主義をむしろ是として、情緒的な解決方法のみを無垢に称揚する。
 このドラマが強調する 「原点」 、「直球」 、「愛」 、「信頼」 という概念こそ、斎藤環にいわせると 「ヤンキー的精神文化」 だという。
 
 「ヤンキー美学においては、ことさらに理論や検討を軽視すること。あるいは軽視というパフォーマンスをこれ見よがしにしてみせることが価値となる」
 
 そういった意味で、ヤンキー文化は、このようなドラマを通じて視聴者の日常的な価値観に影響を及ぼしていると、著者は語るのである。
 
 そのくだりを読んだ時、実際に私もドラマの 『ROOKIES』 を観たとき、泣いてしまったことを思い出す。
 どうしようもない不良たちしか入部していない高校の野球部が、“熱血先生” の指導のもとに甲子園を目指すという話。
 “不良” という 「負の烙印」 を押された少年たちが、「仲間との絆」 、「信頼」、「愛」 という言葉の意味を獲得し、ひとつの目標を目指して団結するというのは、「人間の基本的ドラマ」 であるかのように思った。
 当時、「ヤンキー」 という概念まで意識することなく観ていたが、よく考えれば、すでに私の中に 「ヤンキー的感動」 が根を下ろしていたということになる。
 
▼ ヤンキー文化はペットの概念も変えた (?)

 
 そのようなヤンキー美学を地で生きた歴史上の人物として、なんと斎藤は 「坂本龍馬」 の名を挙げる。
 
 「日本における坂本龍馬人気というのは、要するに “キャラ人気” なのではないか」
と、著者はまず疑問を呈する。
 
 「僕には、この偉人のキャラクターとしてのたたずまいが 『ヤンキー的』 に見えてしまう。その人生が、すぐれてパフォーマティブなものに見えるからだ。
 彼の人気は、『何をなしたか』 ではなく、『どう生きたか』 という 『生きざま』 のほうに、圧倒的に重心が置かれている。
 (中略)
 ひとつはっきり言えることは、『内面性』 はキャラを立てる上で邪魔になる、ということだ。
 これは内面性や内省性が、キャラの同一性を複雑かつ不安定なものにするからだ。むしろ内面性や内省性が希薄であるほうが、『キャラ立ち』 がはっきりしてくる」
 
 要するに、個人が 「キャラ立ち」 することに、ヤンキーの行動哲学はすべて集約される。
 長くなるが、その先も引用しよう。
 
 「ヤンキー文化では、まず内面よりも行動が重視される。当事者たちが何を考えているかはどうでもいい。彼らが何をなしたかが問題なのだ。
 もう一つは、欲望の形がはっきりしていること。わかりやすい価値観と最大公約数的な欲望が大事。屈折した欲望は、時としてキャラを萎縮させてしまう。
 三つ目は、結果よりも過程が重要であること。
 (ヤンキー的な) キャラ評価は、『成し遂げたこと』 では決まらない。『今まさに何をなしつつあるか』 だけが重要である。
 キャラの行動特性は、現在進行形でしか表現されない。キムタク語録には、 “現在形” しか存在しない」
 
 斎藤環がこう書くとき、そこには、すでに 「リーゼント」 も、「ゴールドのネックレス」 も、「デコトラ」 もない。
 そこでは、純粋に 「ヤンキー的メンタリティー」 のみが語られている。
 
 しかし、だからこそ、それが “非ヤンキーの人たち” をも知らず知らずのうちに感化してしまうヤンキー文化の生命力の強さを証明することになるという。
 
 キムタクにおいても、金八先生においても、そして坂本龍馬においても、共通していえることは、「とにかく自分の好きなことを、熱さと気合で、やれるだけやってみろ」 という行動主義がその全面に押し出されていることだ。
 そこでは、全体の状況を冷静に判断し、緻密な予測と計算に基いて行動するような姿勢は、一貫して軽蔑される。彼らの言葉を借りるなら、「判断よりも決断が大事」 というわけだ。
 
 それは、ヤンキー成功人としてカリスマ人気を誇る矢沢永吉の、「 1 のリスクしかないことはしない。10のリスクがあることをする。達成すれば10の成果がある」
 とか、
 「ドアの向こうに夢があるなら、ドアがあくまで叩き続けるんだ」
 などというサクセス哲学にも通底するものがある。
 

 
 矢沢よりはるかに若い 「湘南之風」 あたりにも、同様の哲学がある。
 彼らがいう 「待つな。つかみに行け ! 」
 「やっぱり自分を信じねぇーと。できるできないは、後からついてくる」
 「ファイティングポーズ取ってろ ! 常に臨戦態勢だ」
 などというアジテーションにも、ヤンキーの魂が宿っている。
 
 表面的には、徹底的にアグレッシブ。マッチョで体当たり的な行動主義に走りながら、一方でヤンキーの男たちは、女物のサンダルを履きたがり、クルマをシャギーやムートンで飾り、女たちはディズニー、サンリオなどの可愛いキャラクターグッズを好む。
 ヤンキーの男と女は、そこで共通する感性を交換しあう。
 概して、彼らは性愛関係に積極的であり、早熟で早婚傾向がある ( … ここがオタク系とは違う) 。そして、ひとたび家庭を持つと、配偶者や子供をしっかり守る家族主義を貫く。

 また、彼らの描く 「夢」 が、意外とつつましやかであることも、特徴のひとつ。
 ヤンキーのカリスマたちは、ひたすら 「夢を持て」 と煽るが、実際のヤンキーたちが想定する夢は、分相応をわきまえて、「ロレックスの時計」 だったり、「高級ミニバン」 だったりする。
 
 著者である斎藤は、こう言う。
 「 (ヤンキーにおいては、) きわめて個人的なものであるはずの夢が、同時にきわめて世俗的な欲望に基づいている。
 彼らが 『夢の大切さ』 を語れば語るほど、それが社会における集合的な欲望を形成する共同幻想を強化する傾向を強める」
 
 著者によると、ヤンキー文化には次のような “影の部分” が見え隠れするらしい。
 
 「ヤンキー文化が一般にファンシーだったり、コミカルだったりする最大の理由は、ヤンキー文化のダークサイドを否認・隠蔽するためである。
 それは日本において最も広く共有されたカルチャーではあるが、同時に 『負け犬のための子守歌』 でもある。
 社会の最底辺層の人々にも享受できる 『文化』 であるがゆえに、必然的に反知性主義とバッドテイストをはらむ。そこには、ドロップアウトの悲惨さについてはあえて触れない “優しさ” がある」
 
 そう語る著者は、ヤンキーと自分との距離を、いったいどのように取っているのだろうか。
 
 彼は、この本の最終章で、次のようなことを語る。
 
 「本書で僕は、必ずしもヤンキー文化に優しい視点をとってこなかった。おそらく近代的な視点で誠実に論じるなら、ヤンキー文化のすべてを肯定することは不可能だろう。
 そこには規範も、本質的な価値観も、系統的な教義もない。ポエムはあっても文学性はなく、自立主義はあるが個人主義はなく、おまけにバッドセンスで反知性主義ですらある」
 
 そう言いながら、続けてこうも書く。
 
 「しかし、ひとたび視点を変えれば、『生存戦略』 としてこれほど強力な文化もほかにない。なにしろ彼らは、正統な価値観や根拠なしに、自ら気合を入れ、テンションをアゲてことに当たることができる。
 断言するが、たとえ日本中が廃墟になったとしても、真っ先に立ち上がって瓦礫を片付け始めるのは彼らだ。率先して子供や老人を助けようとするのも彼らだろう。
 震災以降、被災地での彼らの活躍ぶりはしばしば耳にする機会があった。状況を立て直し、生存し、繁殖し続けることに特化したリアリズムという点においても、ヤンキー文化の強みは突出している」
 
 結論は、こうだ。

 「わが国においては、思春期に芽生えかけた反社会性のほとんどは、ヤンキー文化に吸収される。不良が徒党を組むさいに求心力を持つのは、『ガチで気合の入った』 、『ハンパなく筋を通す』 、『喧嘩上手』 といった価値規範なのだ。
 こうした美学は、フェイク (ニセもの) の伝統主義 = ナショナリズムに帰着する。つまり、青少年の反社会性は、芽生えた瞬間にヤンキー文化に回収され、一定の様式化を経て、絆と、仲間と、伝統を大切にする保守として成熟してゆく。
 (だから) ヤンキー文化の動員力は、被災地でも大いに活用された。地元の被災者のところにやってきた “素性の分からない若者” たちは、それでもヤンキー的な 『気合』 でことに当たり、単調な肉体労働にも耐えた。
 おそらく被災地では、こうした若者たちが歯を食いしばって復興を支えたに違いない」
 
 う~む … 。
 いろいろなことを考えさせられる。
 要するに、「ヤンキー文化」 というのは、多層的・多面的であり、決してひとつのパターンに収められるものではない、ということだ。
 
 実際に、著者の斎藤環自身が、「ヤンキー文化には本質も、定義も、深層もない」 といいつつも、この本自体が、その本質、定義、深層に迫ろうとしている。
 彼自身が、パラドキシカルなことをやっているわけだ。
 
 要するにヤンキー文化の、その得体のしれない “ヌエ的要素” こそ、まさに今の日本の文化状況そのものを象徴しているのかもしれない。
 
 この本が、現在のヤンキー文化のすべてを語りきっているとは思えないが、少なくとも、今後 “ヤンキー研究” をする人にとっては、間違いなく、頂上に到達するまでの重要な岩場に打ち込まれたハーケンとなったはずである。
   
 
関連記事 「反知性主義の時代 (斎藤環 ヤンキー化する日本)」
 
参考記事 「関係する女、所有する男」
 
 

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世界が土曜の夜の夢なら (ヤンキーの美学) への2件のコメント

  1. 西条 より:

    コメントさせてもらいます。

    元ヤンです。
    だいたい当たっていますね?

    所ジョージというタレントも、ヤンキー気質。
    館ひろしとかもです。

    しかし、私の時代にヤンキーという呼び名がなかったので、
    ただの不良とかチンピラとか呼ばれていました。

    よくよく考えると、ヤンキーと不良って少し違うんですよ。

    なんというか、筋金入りの不良はヤクザにもならず、
    保守でもないし、家庭をつくろうなんて考えもしないです。

    そして内面に抱えるものも、大きいかな。

    いま風のヤンキーは、まあ適当に社会適応しているようにみえますね。

    どちらにせよ、根底に幼年時代の傷が残っているのが共通項と思います。

    本当はみな良い兄ちゃん。気さくな奴多いんですよ。

    これも、この国の風土が生んだのかなと思います。

    • 町田 より:

      >西条さん、ようこそ
      “元ヤン” の方からコメントをいただくなど思ってもいなかったので、とてもうれしく思います。
      私自身がヤンキー的な環境から遠いところで生きてきましたので、本の紹介とはいえ、このような記事を書いてしまうことにためらいもあったし、また内容が妥当性を得ているのかどうかも自信がありませんでした。
      でも、「だいたい当たっていますね」 というご評価をいただき、多少ホッとしております。

      >> 「筋金入りの不良はヤクザにもならず、保守でもないし、家庭をつくろうなんて考えもしないです」 というご指摘は、非常に勉強になりました。
      なるほど。よく考えると、確かに、そのような気もします。

      >> 「内面に抱えるものも、大きいかな」 という感慨に、心を動かされました。
      そのお言葉で、なんだかこの世界の深さを思い知ったような気もします。

      適切なコメントをいただき、感謝いたします。
       

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