AKB48好きのオヤジたちの白熱論争

 
 テーマパークでは 「東京ディズニーランド」 が他を押さえつけて圧勝したのと同じように、いま日本のアイドルカルチャーの世界では、「AKB48」 以外のものが目に入らなくなってしまうほど、このアイドルグループだけが突出して、その人気や話題を独占している。
 もちろんビジネスモデルとしても、現在もっとも成功した事例として、企業人たちからも熱い視線を送られている。
 
 こうなると、AKB48が 「日本の何を変えてしまったのか」、また 「カルチャーやビジネスの領域で、その可能性はどこまで広がっていくのか」 などという議論を大まじめに語ろうとする人たちも現れるようになる。
 『AKB48白熱論争』 (幻冬舎新書) という本は、まさにそのような機運をタイミングよくとらえた書籍のひとつかもしれない。

 この “論争” に参加した人たちは、以下のとおり。

 小林よしのり   1953年生まれ 59歳 漫画家 (下写真 左上)
 中森明夫    1960年生まれ 52歳 ライター・エディター (下写真 右上)
 宇野常寛    1978年生まれ 33歳 評論家 (下写真 左下)
 濱野智史    1980年生まれ 32歳 社会学者・批評家 (下写真 右下)

 この人たちの特徴は、みな例外なく、自ら 「AKBにハマった!」 と豪語するところにある。
 それもハンパじゃなく、実際に握手会や総選挙などに足を運び、自分のお気に入りの子を “推す” ために、大量のCDを買い込んだりしているという。
 
 “論争“ に参加した小林よしのりは語る。
 「わしはCDを10枚買ってしまった時点で、異常な世界に踏み込んでしまったという感覚があったよ (笑) 。普通なら、CDを 2枚買ったら無駄なことをしていると思うわけだから」
 
 濱野智史の弁。
 「僕も、CDを58枚買ったときは、ついに戻れない世界に足を踏み入れたなと思った」

 そうなのだ。
 この本は、 “AKB信者” になったオヤジたちが、その熱き信仰心に突き動かされて、布教活動の “イバラの道 (?) ” を歩み始めたときの告白集であるのだ。
 
 そうなると、AKBに対して冷静な距離を保っていた私のような人間にも、にわかに好奇心が湧く。
 特に、「大東亜戦争」 賛美論のようなものを書いている人という印象が強かった小林よしのりが、あらまぁ、どうしてAKBファンになってしまったの ? という興味もあって、ちょっとこの本、買ってしまった。
 
面白いけど、危うい本だ
 
 一読した印象。
 う~む … 。
 面白かったけど、でも危うい本だなぁ。
 
 何が危ういのか。
 まず、読者対象が誰なのか。
 そこがはっきりしない。
 
 たぶん、この本には二つの目的があって、ひとつは、「AKBについて何も知らずに、先入観だけで批判しているような人々」 に対して、「AKBの偉大さ知りなさい」 と訴えかけること。
 もうひとつは、「熱烈なAKBファン」 に向けて、「君たち、AKBを語るときはその言葉をもっと鍛えなさい」 と呼びかけること、… だと思うのだが、はたしてそれが、両方の層にすんなりと受け入れられるように仕上がったのかどうか。
 
 その判定について、どちらの立場にもいない私は、ビミョー … というか、危ういという印象を持った。
 
 というのは、まず、「AKBを知らない大人たち」 として想定されているターゲット層が、一様に “インテリ層” にフォーカスされていること。
 そういうインテリ層には、「資本主義」 、「世界宗教」 、「プロテスタンティズムの倫理」 などというターミノロジーで構成しておけば喰らいつくいてくるだろうという計算があったようだけど、挙げられた例証に対する発言人の理解が浅いから、まずターゲット読者層を納得 (もしくは反発) させるほどのレベルに至っていない。
 
 そして、もうひとつ。
 そんな旧カルチャーの文脈で語られるAKBに、今の若者たちが興味を示すかどうか。
 その二つの観点から、「危うい本だなぁ」 という印象を持った。
 
宇野さん、頭がいいのは分かるけど …
 
 話をコムズカシイ方向に持って行こうとする人は、主に宇野常寛である。
 彼は、まず、「AKBは、資本主義や商業主義を正攻法で追求した結果として生まれたものだから素晴らしい」 と発言し、そのことを 「批判する」 人々を次のように糾弾する。
 
 「資本主義の論理をどんどん追求したほうが、多様で民主的で、表現としても豊かなものがたくさん出てくるのに、純文学や美術の世界では 『アニメやアイドルやポップミュージックみたいな大衆に媚びる文化はダメだ』 という恐ろしく頭の悪い発言がいまだに山ほどある。『資本主義の論理に逆らって書かれたものだけが本物だ』 みたいなことをいう人々がいるという話ですよ。
 彼らは、『大衆の欲望に媚びるだけの文化には想像力がないし、現状批判能力もない』 と言う。
 しかし、彼らは、消費社会のことがまったくわかっていない。自動車だって食品だって、すでに存在する欲望に迎合するだけではなく、徹底的に利潤を追求することで、今まで誰も見たこともなかった新しいモノを生み出してきたわけ。媚びるどころか、むしろ大衆に新しい欲望や快感を教えてやらなければ負けていくのが消費社会というゲーム。
 そうやって、お金儲けを追求することで新しい価値が自動的に生まれていくのが、資本主義という自己進化システムに他ならない。教条的な左翼の人たちは、消費社会を矮小化してとらえている」
 
 ま、宇野氏の気負いも分からなくはないけれど、これは完全に間違っている。
 まず、ここで宇野がいっているような、「大衆迎合主義的な文化は想像力がない」 などと口にする “文化人” なんて、地方の教育委員会のおじさんレベルにはいるのかもしれないが、少なくとも原稿料で生活しているもの書きには、もうほとんどいない。だって、そんなんじゃ食えないもん。(いたとしたら、ネットでうそぶくアマチュア旧文化人ぐらいだろう)
 
 彼は、架空の仮想敵を捏造して自分の主張を正当化しようとしているけれど、もし本気でそう思っているのなら、あまりにも認識が貧しすぎる。
 
 だいたいこの人は、功名心が強すぎるように思う。
 自分が東浩紀に代わる “若手” 言論人として早く名を売りたいという焦りがあるのかもしれないが、AKBはそのためのダシとして使われている感じで、本人が強調すればするほど、皮肉なことに、「マジにハマっている」 というのが嘘っぽく聞こえてくるから不思議。
 そこには、「AKBを知ったから自分の世界観が変わった」 という謙虚さなどまったくなくて、自分の主張を展開するのにAKBが使えそうだから利用してやれ、という印象がどうしても漂ってしまうのだ。
 
 それに、宇野が主張する、
 「資本主義がそれまでの個別な閉域に散らばっていたローカルな欲望の体系を破壊し、グローバルな領域で “新しい” 欲望や快感を創造した」
 などという話は、80年代に、浅田彰たちによってさんざん言い尽くされたこと。
 ただ浅田彰はそれをアイロニカルに語ったが、宇野はそこからアイロニーを排除しただけの話。
 それならば、まだ 「資本主義文明が人間を動物化させる」 とニヒルに言い切った東浩紀のほうに説得力を感じる。
 
 基本的に宇野の言っていることは、結果的に自分が否定している80年代のニューアカ路線の劣化コピーになっているだけという気がする。
 浅田彰は、まだやがて来るべきグローバル資本主義がもたらす空漠たる情景を、それでも美しく語るレトリックを持っていたが、宇野にはそのレトリックすら欠けている。
 
濱野さん、ちょっと 「上から目線」 じゃない ?
 
 宇野と同じぐらいの年齢 (30代前半) の濱野智史にも、宇野と同じ体質が臭う。
 彼は、こういう。
 
 「 (AKBをつくった) 秋元康さんほど、今の時代に世界平和を実現するのに近い人間はいないと思っている。
 なぜかというと、今の世界は冷戦も終わって、イデオロギー闘争もなくなった。そういう世の中で何がいちばん危険なのかと考えると、セックスできずにモヤモヤしている非モテ男性のルサンチマンみたいなものが、もっとも暴力につながりやすい。
 でも、AKBのような方式で世界中にアイドルを展開させていけば、そのルサンチマンが解消される。
 世界平和を実現するには、この “恋愛弱者” をいかに物理的に減らすかしか道はないと思う。現実的に、セックスできない奴は世の中にたくさんいて、そいつらに救済を与えているのがAKB」
 
 「恋愛弱者」 だって。
 なんだろう、この上から目線。
 
 こういうのを 「余計なお世話」 というのだろうな。
 AKBファンをすべて 「非モテ系の恋愛弱者」 と規定してしまう一方的な決め付けに対し、こう言われた若者たちは、はたしてどう感じるのだろう。
 
 コミケなどで二次創作によるエロ漫画などを描き始めている若い男の子たちや、映画 『DON’T STOP!』 などに共感して、世界放浪への夢を育もうとしている若者たちは 「大人がつくったシステムによる救済」 など求めていないような気がする。
 
 しかし、宇野や濱野は、AKBこそ “ルサンチマンを抱えた弱者” を救済する 「新しい世界宗教だ」 というのだ。
 濱野はさらにいう。
 
 「日本は (AKBのような) アイドル的な国家を目指すべきだ。そしてJKT (AKBのインドネシア版) のように、こういうシステムを外国に輸出することに意義がある。
 AKBみたいな劇場を他の国へ作っていけば、資本主義社会/自由恋愛社会では負け組になってしまうモテない若い男子がどんどん救済されていく。
 AKBの仕組みは、劇場でAKBが見られたり握手できたりするだけのシンプルなもので、資本主義と結託して恋愛弱者のオタクから搾取しているだけのビジネスに見えるが、その裏側では確実に負け組の救済になっている。文字通りの生きる意味を与えているということで、キリスト教やイスラム教みたいな新しい 『世界宗教』 になり得るのではないか」
 
 これは、どうなんだろうか。
 確かに 「世界宗教」 が、貨幣経済の浸透渡に応じてその規模を拡大していったという経緯から考えれば、濱野のいっていることは、理屈としては通るけれど、私としては、ただ 「理屈をもてあそんでいる」 としか思えない。
 
 彼の考察で致命的なことは、「死」 が欠如しているということだ。
 すべての宗教は、「死」 と対峙している。
 仏教には 「生老病死」 という根本テーマがあって、そこからすべての思想が生まれてくる。
 AKBは、その 「死」 の観念を排除することで成り立っている。
 それは、「宗教」 とはいえない。
 
 誰もが、AKBに一生酔っていられるならいい。
 しかし、そうはならない。
 人間は、「飽きる」 動物だからだ。
 AKBに飽きたとき、自分の手元に何も残っていなかった、という空漠たる思いに襲われた人間は、どうなるか。
 そのときに、「死」 というテーマを抱えた思想でなければ、それに応えきることはできない。
 
 「負け組の救済」 なんて、関係ねぇんだよ。
 問題は、負け組が、どうしたら勝ち組と拮抗できる 「自分」 を手に入れられるかということだ。
 荒野に立ち尽くしている若者に対し、「その荒野を突き進んだ果てに見えてくる光景」 を示さなければならないんだ。
 資本主義が 「パラダイス」 であるとしたら、それは 「荒野」 を突き抜けた果てに現れてくるものなんだ。
 
 私は、宇野や濱野から、別に 「資本主義」 や 「消費社会」 や 「世界宗教」 なんか学びたいとは思わない。
 この連中の言っていることは、そういう古典的な教養のさわりだけを使って 「オレたち思想的な知識があるだろう ? 」 というドヤ顔のひけらかしにすぎない。
 

 
 濱野は、この前のAKBの総選挙で、一位になった大島優子の発言の途中で登場した前田敦子のことをこう表現する。
 
 「 (そのとき前田敦子はAKBを) やめているのに、やめていない。まさに記号論がかつて言っていた 『ゼロ記号』 じゃないけど、不在のセンター (中心) になってしまった」
 
 そんな表現で、マジにAKBに救いを求めているオタクが満足すると思っているのだろうか。
 “ゼロ記号” だって。
 悪しき思想ゲームの残滓だよ。
 頭のいいマセたガキの言葉遊びだ。
 第一古いよな。恥ずかしくないのかな。
 記号論における 「ゼロ記号」 というのは、確かに、魅力的な言葉だったけれど、その概念を、記号論の文脈を離れて新しい読者に伝えるのがもの書きってもんだろ ?
 
 宇野もつまらないことを言う。
 
 「 (マックス・ウェーバーの 『プロテスタンディズムの倫理と資本主義の精神』 が指摘したような西洋の一神教的な資本主義の展開ではなくて) 今は、アジアにおける資本主義受容という事態が起きた結果、次のステージとして多神教的な世界観と資本主義の結託が始まった。
 僕はそれがAKBじゃないかと思う。21世紀以降は、多神教原理の資本主義のほうが勝つ可能性がある」
 
 こういうような発言を聞いていると、宇野と濱野は、自分たちの理屈を述べたいがために、AKBをダシに使っているという印象しか受けない。本人たちは全否定するだろうけれど、結果的にそうなっている。
 
小林よしのりのマジさと、中森明夫の誠実さ
 
 結局、みんな “マジにAKBにハマっている” と言いつつ、本当に 「マジでハマっている」 のは、私が読むかぎり小林よしのり一人。
 中森明夫は、「ハマっている」 というより、自分のライフワークであるアイドル史の中でAKBを正当に評価し、その功績を讃えようというプロとしての仕事を誠実にやっている感じだ。
 
 たぶん討議に参加していた小林と中森は、宇野と濱野という幼い言論人のトークに内心うんざりとしていたことだろう。
 でも、小林と中森は大人だから、きっと表面的にはにこやかに対応していたと思うが、その二人が、幼い宇野と濱野の議論に付き合うことに徒労感を抱いていたことは空気で伝わってくる。言葉にはなっていなくても、それが “行間” から読める。
 
 小林よしのりの “マジさ” だけには、敬意を評してもいい。
 「AKBを発見して世界が変わった」 という感動を真剣に伝えようとしているのは、この人だけだと思った。
 
 そしてもう一人。
 今回の収穫は、中森明夫というサブカル&アイドル評論家をよく知ることができたことだ。
 
読むに値するのは、中森明夫の発言
 
 中森の鋭い分析には 「まいった ! 」 とうならざるを得なかった。
 何度も舌を巻いたし、「使える言葉だ ! 」 と思って、おもわずそのフレーズを蛍光ペンでなぞったりした。
 というか、「いい分析だな」 と感心して、夢中になってペンで塗りつぶしていたら、気づくと、そのほとんどが中森明夫の発言だったのだ。
 
 この人には、プロのもの書きとしての自覚が備わっていることを感じた。
 もちろん彼もまた、熱烈なAKBファンとしての立ち位置でものを語っている。
 しかし、そこには30年以上にわたって、日本のアイドル史を眺め続けていたクールな分析力があったし、目の前に繰り広げられている “AKB現象” を自分の目を通して見つめ、自分の言葉で語ろうとする誠実さがあった。
 
 中森明夫の言っていることで白眉だったのは、AKBの総選挙を 「公開処刑」 と喝破したこと。
 彼はいう。
 
 「ふだんは 『みんなで頑張ります』 と言っているAKBのメンバーが、(総選挙のときは) 個人として、日本全国の視聴者の前に晒される。
 そこで、具体的に何が良くて何が悪いのかはわからないまま、はっきりと順序をつけられる。僕はそれを見ていて、公開処刑みたいな印象を受けた。
 (中略)
 総選挙は、(AKBのメンバーを木嶋佳苗裁判のように) 彼女たちを国民の前に晒して、状況証拠みたいな曖昧な基準で点数をつける。
 これはもう処刑だよね。
 でも、それが残酷でありながら美しい。見る者の心を激しく動かすわけ。
 なぜ僕らがこれに感動するかというと、そこに何か戦後の日本人が失ったものがあるからかもしれない。戦争はない方がいいけれど、戦争でしかあり得ない実存の問題もあったはずで、それを完全に否定したのが戦後の平和 … 」
 
 あ、話が面白い方向に行くな、と期待すると、宇野常寛が茶々を入れる。
 
 「本来はその失われた部分を文学とかが担うのだけれど、それが日本でうまく発展できなかったので (※ ← んなことはない) 、代わりに大衆文化が担ってきたはず。日本の場合は大衆の欲望の中からこういう戦争に匹敵するような人間の 『ガチ』 を引き出すようなものが登場してきた」
 
 なんで、宇野はこんな一人よがりの無責任な意見を、せっかくの中森の話を遮ってまで差し挟むのか。
 要するに、目立ちたいんだろうな、彼。
 NHKの討論番組 『ニッポンのジレンマ』 のときも、みんなの話が面白くなりそうになると、宇野がしゃしゃり出て、自分の得意の (つまり長く話せる) テーマに引き寄せようとしていたけれど、結局一人だけ浮いていた。
 
 話は逸れたけど、で、中森明夫は宇野の茶々に屈せず、次のようなスリリングな展開に話をもっていく。
 
 「僕は、もしかしたらAKBは 『反戦後日本』 、もしくは 『反時代的』 な存在ではないかと思った。
 そこでいう時代とは、古市憲寿 (ふるいちのりとし) が言う 『絶望の国の幸福な若者たち』 に代表される現状だ。
 誰もが本当の力量を試されることもなく、そこそこうまくやれるのが今の時代。ところがAKBはそんな時代の方向性とは逆に、すべてを晒して勝ち負けを判定される。
 そういう圧倒的な “反時代性” があるからこそ、これだけ熱狂的に支持されるわけ。
 では、なぜ彼女たちは裁判にかけられ、国民の前で公開処刑されるのか。
 これはある意味、罰を受けているということだ。
 何についての罪を問われているかといえば、それは 『夢』 を持つことに対する罰だと思う。
 今の世の中では、夢を持つことが許されないわけ。
 大人は 『夢を持て』 と言うけれど、いざ若者が夢を語りだすと 『現実を見ろ』 と言う。
 実際、今はみんな公務員や終身雇用の会社で働きたいと思うほど、夢なんか持てない状況に追い込まれている。
 ところがAKBの子たちは、明らかに現在の日本の許容度を超えた夢を持っている。それに対する罰である」
 
 こう言い切ったときに、中森は、宇野や濱野の薄っぺらな教養主義を軽々と乗り越えている。
 一見、時代を動かす原動力となっているように見えるAKB現象に、逆に 「反時代性」 を読み取る眼力こそ、ジャーナリストの目だと思う。
 
キーは 「ハングリー精神」
 
 さらに、中森はAKBを、なでしこジャパンに代表される 「チーム女子力」 というキータームを使って位置づける。
 
 「今の時代にAKBが力を持つのは、スポーツが盛り上がっていることと通底するものがある。とくにサッカーのなでしこジャパン。
 なでしことAKBは震災後の日本を代表するチーム女子力。
 今の日本は没落したとはいえ、誰もが飢えて困るところまでは行っていない。若い人たちも就職先がないので将来への不安はあるだろうけれど、デフレでお金はあまりかからないし、当面は親に依存していれば何とかなる。そういう中途半端な状況の中で、 自分の 『本気』 を思い切り出す場面が失われている。
 しかしスポーツは、明確なルールがあって、勝ち負けもはっきりしている。そういう場所で (なでしこは) 戦い、ワールドカップで優勝したので、選手一人ひとりがキャラ立ちして、みんな輝いて見え始めてくる。
 AKBもアイドルとして可愛くもないなんて言われていた女の子たちが、過酷なルールの下で本気を出して頑張っている。
 その姿の美しさにファンは心を打たれる。今の時代にあそこまで 『本気』 を見せてくれる存在は少ないから」
 
 こういう方向でAKBを語っていく中森に対して、素直に反応できるのは小林よしのりだけである。
 以下は小林の反応。
 
 「AKBには勝負の厳しさがあるし、ハングリー精神もある。ほとんど 『巨人の星』 の時代ぐらいに回帰している感じ。
 ちょっと前までは、そこまでやるとダサいと言われてしまって、パロディーでしか成立しなかった。
 でも、そのハングリーな根性物語が、今は逆にリアルなんだよ。格差がどんどん開いた結果、そういう時代になっちゃった」
 
 これだけで、AKBの人気の秘密が十分に伝わる。
 「資本主義論」 も 「消費社会論」 も 「マックス・ウェーバー」 も要らないんだよ。
 そういう文脈でAKBを語ることは、現代社会を 「観念的」 に見てしまうことにつながる。
 ジャーナリストというのは、観念のベールに包まれて見過ごされてしまった “現実” を、職人的な嗅覚で取り出す人間のこと。
 そこのところで、小林よしのりと中森明夫には、他の二人とは違う年季の入り方の差を感じた。
 今度は、中森と小林の二人だけの “AKB対談” を読みたい。

 
関連記事 「AKB48の 『音楽』 とは何か ?」
 
参考記事 「動物化するポストモダンの現代人」

参考記事 「エロ漫画の現在」

参考記事 「夢に向かって走れ ! DON’T STOP」

参考記事 「都市と消費とショッピングモール」
 
 

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AKB48好きのオヤジたちの白熱論争 への4件のコメント

  1. HIROMITI より:

    この問題は、ショッピングモールの問題とも通底しているはずです。
    先日のあなたの記事にちょっと物足りなさを感じたのは、ショッピングモールの文化とキャンピングカーの文化とどこが似ていてどこが違うかということの視点がなかったことです。
    思考することはつまるところアナロジーでしょう。わかった、といってデジタルに解決することじゃなく、アナロジーとしてどんどんつながってわからなくなってゆくことです。
    ともあれここは、キャンピングカーのページでしょう?
    ショッピングモールを肯定できるなら、AKBも賛美できる、たぶん。
    そしてそれらとキャンピングカーの文化とどう比較できるか。それらの現象は、キャンピングカー文化の行く末や本質を考える上で、何らかの示唆を与えてくれているか、あるいは反面教師なのか。

    僕が今、ずっと「旅」について考えていることはご存知のはずです。そしてそれは「キャンプ」の問題でもあるのです。
    キャンプとは何か?
    西洋はその言葉の本場だから、その意味は広く使われていて、野球選手が練習のために集まってくることも国際会議のことも「キャンプ」といったりします。
    人が同じテーマを持って集まってくることを「キャンプ」という。
    人間は「キャンプ」をする生き物です。だから、旅をする
    キャンプファイヤーを囲んでみんなで語り合ったり歌ったりすることは、みんなで命を見つめ命がなだめられる体験です。そういうことを人類は、ネアンデルタールの時代からやってきた。
    人間は命をなだめないといけない事情を抱えている。だから人は旅をし、キャンプをする。

    僕は古いタイプのインテリです。つまり、田舎町の「教育委員会」のオヤジと同じタイプの化石のようなインテリです。社会的な立場は大いに違うけど。
    だから、資本主義の行く末なんかどうでもいいし、「世界宗教であればいい」という説もくだらないと思っています。
    世界宗教であればいい、なんて、もう古い。
    世界宗教が没落しはじめている時代なのですよ。そのことをあなたたちは感じませんか?世界宗教が人間の普遍性でもなんでもないことを人々が気付きはじめている、と。
    僕がむかし「柄谷行人のいう世界宗教なんてチャンチャラおかしい」といったら、あなたはむっとした顔をされました。80年代のころのことです。
    僕は、そのころからあなたたちにさげすまれる「化石のようなインテリ」でした。

    宗教のテーマが「死」であるという考えも、もう古い。「ブッダの言葉」を読めば、釈迦は「死」のことなどなんにも語っていない。ひたすら「生きてあることやこの世に生まれてきてしまったことのいたたまれなさをどうなだめるか」という問題を語っているだけですか。
    後世の人間が宗教を「死」の問題にしてしまって、宗教は没落してきた。宗教は「死」がテーマだなんて、たんなる「近代の迷妄」なのですよ。
    古代人にとって死はとても悲しいことだったが、それはそれですでに解決していたのです。
    仏教もキリスト教も、世界宗教になることによって「普遍性」を失っていったのです。そういうところを柄谷行人もあなたも、何もわかっていない。

    宗教はそうやって「自分」を救うためのものではなく、「他者」と「生きてあることのいたたまれなさ」を共有してそのいたたまれなさをなだめ合うための機能だったのです。そういう「キャンプ」だったのです。キャンプファイアを囲むように。

    というわけで、中森明夫がAKB現象を「反・戦後社会」のムーブメントだというのも、それでいいのかよ、と思いますよ。
    彼女らは「許されない夢」を抱いている、だなんて、「どこが?」と言いたいですよ。
    夢なんか捨てて「いまここで輝くことができればそれでいい」と思っているから、ああいう「公開処刑」に耐えられるんじゃないですか。それほどに現在の若者にとっていまここに生きてあることがせつなくていたたまれないのですよ。
    そういうことを、中森明夫も小林よしのりもあなたも、なんにもわかっていない。「化石のインテリ」としては、それがやり切れないです。
    彼女らが「巨人の星」の「ハングリー精神」を持っているだなんて、だったらそれは高度成長の「戦後精神」そのものじゃないですか。そうやってあなたたちは過去の青春を懐かしみ自己正当化しているだけじゃないですか。

    何が、「夢」か。
    ルート66だろうとアメリカの砂漠だろうと、そんなものはただの物見遊山=観光の旅なのですよ。
    そういう近代に確立された「物見遊山=観光」の旅の価値観が崩れてきて、「車中泊」などという現象も起きてきた。
    それはつまり「キャンプ」とはなんだろうということです。「旅」とはなんだろう、という問題です。そいうことを、キャンピングカー業界のオピニオンリーダーであるあなたに考えていただきたくて、あえて書いてみました。

    • 町田 より:

      >HIROMITI さん、ようこそ
       「ショッピングモール」 の件にしろ、この 「AKB本」 の件にしろ、HIROMITIさんの思索およびブログ運営活動などに拙稿がなんらかのヒントを与えることができていたのだとしたら、光栄の至りです。

       コメント拝読しました。
       一読し、「なんじゃい、こりゃ ? ケンカを売る気かい ? 」 などと早とちりしましたが、再読し、HIROMITIさんがきわめて真摯な疑問・批評をぶつけてきているのがよく分かりましたので、こちらもかなう限り誠意を持ってお答えすることにいたしましょう。

       まず、>> 「ショッピングモールなどの文化とキャンピングカー文化のどこが違うのか」 というお尋ねの件。

       「人間がキャンプをする行為」 に対する考察は、既にいろいろな媒体を通して発表しています。それは必ずしも町田という個人名を掲げたものではありませんが、編集者として、私の考え方に近い方にインタビューをしたり、講演の中からそういうものを抜粋したりして記事にまとめています。
       そのうちのいくつかは、このブログにても記事化したことがあります。
       特に、私の場合は主に 「子供とキャンプ」 というテーマに絞られる場合が多かったのですが、そこには、HIROMITIさんのおっしゃる 「命を見つめ、命をなだめられる体験」 であるというご意見と通底するものがあるように感じています。お読みいただければご理解いただけるかと思いますが、いずれも “ショッピングモール” のような空間では得られない体験として例証に挙げているつもりです。
       ご参考までに、以下の記事をご覧いただければ幸いです。

      「焚き火で育つ感性」
      http://campingcar.shumilog.com/?s=%E7%84%9A%E3%81%8D%E7%81%AB%E3%81%A7%E8%82%B2%E3%81%A4%E6%84%9F%E6%80%A7

      「自然が子を育てる」
      http://campingcar.shumilog.com/2010/04/06/%e8%87%aa%e7%84%b6%e3%81%8c%e5%ad%90%e3%82%92%e8%82%b2%e3%81%a6%e3%82%8b/

      「キャンピングカー旅行が子供の感性を伸ばす」
      http://campingcar.shumilog.com/2011/04/29/%e3%82%ad%e3%83%a3%e3%83%b3%e3%83%94%e3%83%b3%e3%82%b0%e3%82%ab%e3%83%bc%e6%97%85%e8%a1%8c%e3%81%af%e5%ad%90%e4%be%9b%e3%81%ae%e6%84%9f%e6%80%a7%e3%82%92%e4%bc%b8%e3%81%b0%e3%81%99/

      >> 「世界宗教であればいい、なんて、くだらないし、もう古い。柄谷行人もあたなも何もわかっていない」

       これにお答えする前に、まず柄谷行人の言っていたことと、私の考えているものは違います。
       柄谷は 「世界宗教」 という言葉を価値概念として取り上げたことは一度もありません。彼は、その著者のなかで、キリスト教もイスラム教も 「世界宗教」 になっていく過程で、「その教義の思想的な先鋭さを失っていった」 ということを最初から言い続けています。彼のいう 「世界宗教」 とは、教団がグローバル化していく過程を説明する言葉にすぎず、それは 「普遍性」 の獲得ではなく、むしろ 「統一化・共通化」 の獲得であると言っています。
       私は、それとは違い、「世界宗教」 は、分断された近代的な 《個》 が、他者とぬくもりを共有できるものとして必要なものと考えています。なぜ 「世界宗教」 かというと、資本のグローバルな運動と拮抗できる力がそこにあるからです。では 「AKBとは違うのか ? 」 というと、AKBには 「死」 が想定されていない。そこが違います。(これは後で触れます)

      >> 「宗教のテーマが 『死』 であるという考え方も、もう古い。それは 『近代の迷妄』 である。後世の人間が 『死』 の問題にしてしまったから、宗教は没落した」

       「死」 を問題にしない宗教などありえません。それは宗教という言葉にとらわれることなく、「思想」 だろうが 「哲学」 だろうが、およそこの世にあり得る人間の  “精神活動” において、すべて同じことがいえます。

      >> 「死よりも、生きていることのいたたまれなさのほうが切実」
      というのは、おっしゃるとおりですが、それこそ 「死」 と対峙したからこそ生まれてくる感慨でしょ ?
       「生きていることのいたたまれなさ」 って何でしょう。
       そこには人間の “有限である” という自覚がどうしても立ちはだかっている。
       それは、自分が 「死ぬ」 ということ以上に、最愛の人間が死んだいったり、さらには戦争や震災などで亡くなっていってしまう人たちへの哀悼の気持ちもすべて含みます。
       つまり 「生きていることのいたたまれなさ」 というのは、そういうことでしょ。
       だからこそ、「生」 そのものが問題になるわけです。

      >> 「死がテーマというのは近代の迷妄」 というのは、「死の恐怖を、はじめて近代人は身にしみて感じるようになった」 ということにすぎません。それは近代的な 《個》 の誕生と密接に結びついています。つまり 《個》 を獲得した近代人は、そこではじめて、自分が周りのものから “分断されている” という意識をもったということでしょう。死はその分断の究極的な形態です。それは宗教の問題と密接に結びついているかもしれませんが、「没落」 とも 「迷妄」 とも無縁な話です。
       

      >> 「中森明夫は、AKB現象を 『反・戦後社会』 のムーブメントだなんて言っていているけど、それでいいのか ? AKBたちが 『巨人の星』 や 『ハングリー精神』 を持っているだなんて、行動成長の戦後精神そのものじゃないか。中森明夫も小林よしのりも、あなたも何もわかっていない」
       
       ここはすごく大事なところでしょうね。
       まず、小林よしのりも中森明夫も (そして私もですけど)、AKBのハングリー精神が、戦後の高度成長の精神と地続きになっているとはまったく言っていないし、中森明夫などは、高度成長神話のノスタルジーとはまったく切れたところから思考をスタートさせています。過去の青春を懐かしみ … などといっていたら、中森のクールさは説明がつかない。
       そうではなく、彼らは 「頑張ることの現代的意味」 を捉えているわけです。引用文からもお分かりになると思いますが、現代は、大人も若者も “頑張らなくてもいいんだ” という時代の風潮にさらされて、(それこそ、HIROMITIさんのおっしゃるように) 「今ここで輝ければいいんだ」 という実感を得にくくなっている。それをAKBが体現していると指摘しているだけの話です。
       その場合、「頑張る」 という意味が、高度成長の時代の 「頑張る」 とはもう異なっているということは、(私の引用では伝わりにくかったのかもしれませんが)、深くお読みになればお分かりになるでしょ ? 
       高度成長期の 「頑張る」 は、自己の成長であったり、栄達するための試練の克服であったりと、いずれにせよ、成長神話の文脈を離れることがなかったわけですが、中森や小林の言っている 「頑張る」 は、それこそ、HIROMITIさんのおっしゃる 「今ここで輝く」 という目的を持ったものですよ。
       中森は、そのことを 「戦争でしかあり得ない実存」 と言った。
       戦争体験を持った文学者の戦後文学を読むと、みなそこに 「実存」 の問題が横たわっています。それを否定したのが 「戦後文化」 。
       そう読んでいけば、中森たちのいう 「ハングリー精神」 の意味も少しはご理解いただけるのではないでしょうか。

      >> 「何が 『夢』 か。ルート66だろうが、アメリカの砂漠だろうが、そんなものは 『物見遊山=観光』の旅で、そういう価値観が崩れてきた」

       これは映画 『DON’T STOP』 などの紹介記事への絡みとして生まれた意見であろうと思いますが、「旅」 が物見遊山であるか、それともHIROMITIさんのおっしゃる “キャンプ” であるかなどというのは、場所だとか旅行形態の問題ではないでしょう。それこそ、それに臨む人間の意識の問題ですよね。
       そして人間の意識は旅の途中でもどんどん変容します。「物見遊山」 という言葉をなにか侮蔑的な意味で使っていらっしゃるようですが、最初は物見遊山から始まった旅が、何かの発見に繋がることも十分にあるでしょう。
       
       以上、HIROMITIさんの問題意識を満足させるような答になっているという自信はありませんが、HIROMITIさんの真摯な問いかけに対し、こちらも精一杯お答えしたつもりです。
        

  2. HIROMITI より:

    柄谷行人だろうと、かんたんにいえば、世界宗教になることによって教団が堕落してきた、といっているだけじゃないですか。もともと普遍的だから世界宗教になっていった、といっているじゃないですか。
    世界宗教になること自体を否定していないじゃないですか。
    そういうあの人の口癖であると同時にあなたたちの合意でもある「世界性=普遍性」ということが疑問だ、といっただけです。

    普遍性とは、もしかしたらとてもドメスティックなものではないのか、ということです。まあ、このことの説明は省いておきます。
    とにかくこの国のキャンピングカーの文化がほんとに文化として確立されてゆくためには、それなりにドメスティックな要素を持たないといけないでしょう。普遍性としてのドメスティックな要素とは何か、という問題です。

    死の問題など存在しない、というのがもともとの宗教の起源だったのです。
    この生がいたたまれないということは、この生が有限であることや死者を追悼するということとはなんの関係もないことですよ。あなたたちにとって、この生はそんなすばらしいのですか。このすばらしさを手放さないといけないからいたたまれないのですか。
    そういうことじゃないのですよ。
    この生なんてクソだ、自分なんかクソだ、と思っている人間はいくらでもいますよ。そういう「クソだ」という思いをなだめ和解してゆく機能として宗教が生まれてきたのです。
    原始人はみんな「この生なんかクソだ」と思っていた。そこから人間の文化や文明が生まれてきた。
    「この生なんかクソだ」と思うから、世界や他者にときめいてゆく。

    「誠実にお答えします」だなんて、あなたは自分が誠実な人間のつもりでいるのですか。どのツラ下げてそんなことが言えるのか。
    そして僕は、真摯に問うたのでもなんでもなく、ムカついたからコメントしたまでです。
    あなたの過去のキャンプについての記事なんか全部読んでいますよ。僕は毎日のようにこのページを読んでいる。あなたなんかめったにしか僕のブログを見ないでしょう。忙しい有名人だから。
    あなたの思考がどのように展開して流れているのかということは、ひとまずむかし一緒に遊んだ仲の仁義として、ずっと追いかけてきましたよ。一緒にこの国におけるキャンピングカーとは何かということを往復書簡で語り合った仲として。
    あなたのどこが誠実なのですか。
    ぞっとするほど冷たいですよ。
    あなたが誠実なら、僕のページに、僕の書くことに対する感想なり問題提起をコメントし返してきますよ。それが、浮世の仁義というものです。そのつもりがないのなら、迷惑だ、といえばいい。
    僕があなたに思考を刺激されていると推測しても、あなた自身は教えてやるだけで何も刺激されていないから仁義などないというわけですか。ご立派だこと。それが、あなたの誠実ですか。

    あなたは、僕がなぜそのように考えるのかということを考えましたか。それが、あなたの愛ですか。誠実ですか。
    あなたのその返信は僕が提出した問題を考えるというよりも、自分をとりつくろっているだけじゃないですか。それが、誠実な態度なのですか。
    そうやって自分は誠実な人間だとうぬぼれていることは用心した方がいい。
    誰だって、誠実になんか生きられませんよ。誠実でもないくせに誠実ぶって生きようとする制度性=処世術があるだけです。
    自分で自分のことを誠実だなんていっちゃだめですよ。そして、誠実でないことを否定しちゃだめですよ。
    あなたは、自分なんかクソだと思っているふりをしながら、じつは自分を正当化することばかり考えている。なんにも本気で自分なんかクソだとは思っていない。しかしオリジナルな思考は、そこからしかはじめられない。
    僕だってそこのところは中途半端ですよ。でも、「この世のもっとも弱いもの」は、本気でそこから考えはじめている。そういうことを思ったら、誠実な人間のふりなんかできない。誠実であることなんか、ただの制度性=処世術です。

    人間は、この生なんかクソだ、自分なんかクソだ、というところから生きはじめる。そこでこそ世界は輝いている。
    それは、死を思うこととは関係ない。死を思うことなんか、制度性とともに肥大化してきたのです。「死を思え」というその言葉自体が、ステレオタイプな近代の制度性なのです。
    あなただって、死は近代になって切実なものになってきたといっているじゃないですか。宗教の本質が死を思うことにあるのなら、その起源の原始人はもっと切実にもっと死を怖がっていたことになる。

    まあ、「反・戦後社会」ということは僕だってずっと考え続けているから言いたいことはたくさんあるけど、長くなるからこれでやめておきます。
    あなたにもしも愛と誠実があるのなら、僕のブログにも、たまには「それは違うんじゃないか」というコメントを入れてみてください。
    いや、期待なんかしていません。ひとまず、これで最後です。

    • 町田 より:

      >HIROMITI さん、ようこそ
       「愛」 と 「誠実」 は同じものではありません。愛を求めるのだとしたら、HIROMITIさんにだって愛が必要。だけど、HIROMITIさんからの 「愛」 を感じることができないから、こちらも 「愛」 を返すことはできない。もし、あなたに愛があるのなら、まず、こういうコメントの書き方をしないでしょ ?

       ただし、「ムカついたからその鬱憤を晴らす」 ためのコメントであっても誠実に答えることはできます。相手のコメントに 「愛」 を感じることができなくても、誠実には答えられる。
       だから、そうしただけ。
       HIROMITIさんがどう思われようと、誠実には答えているつもり。

       ただ、いみじくもご指摘されたとおり、愛はありません。
       だって、それはそうでしょ ? 人を 「馬鹿よばわり」 するようなコメントを入れてくる方に、愛を感じられますか ? 聖人君子ならば、それでも愛をもって対応できるのかもしれませんが、残念ながら、私はまだそれほどまでの人間に至っておりません。
       
       そもそも、HIROMITIさんは、ご自分がどのようなコメントを書かれているのか、お分かりになりますか ?
       まず、頭ごなしに相手を否定する。
       続けて 「あなたは何もわかっていない」 と罵倒する。
       さらに、ご自分のご説に相手が賛同の意を表明するまで、容赦なく同じ主張を繰り返す。
       そして、それに異を唱えると、今度は 「自分を正当化することばかり考えている」 とか、「自分を取りつくろっているだけ」 と非難する。
       
       それでは、議論にもならないじゃないですか。
       まるで相手に服従を強いているようなものですね。

       「夢」 の問題を語ろうとしても、頭ごなしに、「何が夢か」 と吐き捨てられてしまえば、そこで傷ついてしまうのが普通の人間でしょ ?

       ご自分は 「ムカついたからコメントしたまで」 と言い放っておいて、「愛」 だけを望むというわけですか。
       ムシがよすぎるというものではないでしょうか。

       ま、そういってしまえば身も蓋もないので、少しはHIROMITIさんの抗議に即したお答えをいたしましょう。

      >> 「あなたは、僕がなぜそのように考えるのかということを考えましたか。それが、あなたの愛ですか。誠実ですか」
       
       「 “なぜそのように考えるか” を考えろ」 と言われても、そもそもHIROMITIさんの問題設定自体が、私の感じていることと噛み合わない。
       「原始人はみんな 『この生なんかクソだ』 と思っていた。そこから人間の文化や文明が生まれてきた」
       … などと言われても、一方的な思い込みにすぎないと思えるから、共感を抱けない。「原始人はみな死を恐れていた、などというのは近代の迷妄だ」 と言い切るなら、「原始人がみな “この生なんかクソだ” と思っていた」 というのも、同じように迷妄かもしれない。

       原始人の精神風景など、「謎」 としてとっておけばいいじゃないですか。それを 「こうだ!」 と断定的に言い切ってしまうとき、必ず何かが抜け落ちる。
       そもそも、「謎」 に畏怖を抱くという感受性が、HIROMITIさんには致命的に欠けているように思われます。
       人間の文化や文明を生み出したのは、「謎」 を説明する体系を整えたからではなく、「謎」 が秘める衝迫をずっと新鮮なままに保持しようとした結果であると考えています。

       HIROMITIさんは何でも断定的に言い切ろうとするが、それこそ近代の 「独我論」 だろうな。
       第一、HIROMITIさんが、このコメントで言おうとしていることは、すべて観念論。
       「この世のもっとも弱いものは、本気でそこから考え始める」などとおっしゃるが、「この世のもっとも弱いもの」 とは誰のことか。HIROMITIさんが、実際にそういう人と会って、話して、そこから何を感じたのかということが伝わってこない。
       
       そういう具体性がHIROMITIさんの文章から匂ってこない。きわめて抽象的。言っていることがすべてバーチャル。リアルの付き合いがないのではないかとすら思う。だから、「この世のもっとも弱いもの」 というのは、たぶんご自分のことを仮託されているんだろうな、と思うしかない。
       
       人間の 「強さ」 とか 「弱さ」 というものは、一人の人間の中に “まだら模様” のように存在するものではないんですか ?
       世間からは 「社会的な弱者」 と思われている人だって、強靭な強さを持っていることもある。
       サクセスストーリーの主人公だって、惨めな弱さを抱えている場合がある。
       それが人間存在の 「不思議」 です。
       なぜ、そういう 「不思議さ」 に思いを馳せることがないのか、そっちの方が、私には不思議ですけどね。
       

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