夢に向かって走れ !   DON’T STOP

 
 長い間、「夢」 という言葉の持つ “いかがわしさ” に、すごく違和感を抱いていた。
 
 「夢さえあれば、人生は辛くない」
 とか、
 「夢の実現に向けて、がんばろう!」
 などという掛け声の虚しさ。そらぞらしさ。脳天気さ。安直さ。
 
 「夢」 さえ標語に掲げておけば、それが若者相手の商売に結びつくと言わんばかりの大人のしたり顔みたいなものに、辟易としていた。
 
 若者はよく言う。
 「大人は、夢を持てという。しかし、オレたちが夢を語り始めると、今度はもっと現実を見ろという。大人の言うことは矛盾している」
 
 いや、矛盾などしていない。
 大人は、最初から若者の 「夢」 などに期待していないのだ。
 期待しているようにうそぶくのは、「夢」 という言葉がビジネスチャンスにつながると計算しているときだけである。
 
 そういうものを、嫌というほど見てきたように思う。
 
 「アメリカン・ドリーム」 という言葉だって、いつのまにかその本来の意味を見失い、いまや人生の成功者が、後進たちにサクセスストーリーを自慢するための言葉に堕している。
 
 日本においても 「夢」 は、高度成長期からバブルの時代にかけての “成長神話” をうながすための素材のように扱われてきたように思う。
 
 しかし、もしかしたら 「夢」 という言葉の意味が変わったのかもしれない。
 
 そんなことを、この前開かれた映画 『DON’T STOP』 前夜祭の会場をさまよう間に、ふと感じた。
 

 
 映画のテーマそのものが、「夢の実現」 だった。
 
 アメリカ大陸の広大な原野を、ハーレーを駆って走ってみたい。
 そう夢見ていた男CAP氏が、事故に遭い、車椅子生活を余儀なくされる。
 彼は、夢が頓挫したことを憂い、時に自暴自棄に陥り、部屋にこもってバーボンとマルボロとアメリカン・ロックに酔いしれることで、鬱積してくるウサを晴らす。
 
 その姿を見かねて、作家の高橋歩氏が、「だったら (夢をあきらめず) アメリカに行くべ!」 と、自閉的な生活に陥っていたCAP氏の “殻” を打ち破る。
 
 こうしてスタートしたCAP氏の家族や高橋氏の仲間を伴ったルート66の旅。
 その姿を、小橋賢児監督が初の映画作品としてまとめ上げる。
 俳優としての名声や評価を得ながらも、そこに安住してしまう自分に疑問を抱き、次なるステップを模索していた小橋監督の飢餓感のようなものが、CAP氏のやるせない渇望と交錯し、「夢」 に向かって離陸する滑走路が切り開かれる。
 
▼ 左から高橋歩氏、CAP氏、小橋賢児監督

 
 そして、映画のテーマである 「夢を持とう」 という出演者たちの呼びかけに、前夜祭に結集してきた若者たちが素直に感激する。
 
 最初は、ベタ過ぎるな …、と、その 「夢」 の大安売りに、気恥ずかしい思いすら持った。
 しかし、そのうち、ここで語られる 「夢」 というのは、もしかしたら、自分が感じていた 「夢」 とは違うのかもしれない、という気がしてきた。
 
▼ 前夜祭のトークライブ

 
 トークライブで、高橋歩氏が語る。
 
 「大人は、夢の動機を語りたがる。
 それは何を目的とした夢なのか ?
 そこで何を実現したいのか ?
 しかし、そのような動機で語られる夢なんて意味がない。
 夢は “動機” から解放されることによって、夢であり続ける」
 
 その言葉を聞いたとき、なぜ高橋歩氏が、若者のカリスマでいつづけられるのかという理由が分かったような気がした。
 
 そうなのだ。
 高橋氏がいうように、「夢」 は、現実的な利益を得るための目標のようなものではない。
 それは、「根拠のないジャンプ」 だ。
 
 多くの人は、着地点を見定めようとするから、怖くて跳べなくなる。
 そして、跳べない言い訳をいろいろ探し出し、自分の殻に自閉することを、「平穏無事」、「慎重」、「思慮深い」 などという言葉に置き換える。
 
 前夜祭に集まってきた若者たちは、たぶん、高橋歩氏や小橋賢児氏、さらにCAP氏らから、 “跳ぶ勇気” をもらいに来たのだ。
 「Don’t Stop ! 」 と言ってもらいたいために。
 
 実際、ここに集まってきた若者たちは、みな “Don’t Stop 予備軍” のように思えた。
 
 会場に、横山拓という青年がいた。
 軽トラックの荷台に木造の店舗を載せ、コーヒーの一杯売りをしていた若者である。
 24歳になったばかり。
  

 
 イベントが始まる前、この青年からマンデリンを一杯買った。
 自家焙煎した豆を、ミルで挽き、一杯ずつ丁寧に落とす。
 一杯のコーヒーが出てくるまでに、それなりの時間がかかる。
 でも、そのもどかしさが、逆に、開場前のあわただしい空気を優雅さで満たす。
 洒落ているな … と思った。
 

 
 話を聞くと、世界を自由に歩き回っている高橋歩氏のファンであるという。
 だからなのか、軽トラの看板に掲げられた文字は、
 「旅商人 拓 世界一周中」 。
 
 コーヒーを売りながら世界一周をしている、と語るのだが、海外未経験、パスポートなし、という。
 つまり、彼もまた、夢に向けて “離陸中” というわけだ。
 
 
 
 履歴を聞くと、中学生から髪を金髪に染め、高校では暴走族を結成するなど、やんちゃを繰り返しながら、時にバイトで月35万を稼ぎ、高校を出てからは借金してダイニングの経営に乗り出し … など、いろいろな人生経験を積んできた人のようだ。
 
 そして、現在は 2万円で買ったという軽トラを自分で改造し、移動カフェの運営に。
 この軽トラの “コーヒーショップ” は、閉店後はキャンピングカーに変身。そこに寝泊まりしながら、そのときの気分で、あちらの町、こちらの町へと放浪して、コーヒーを売り歩いているという。
 昨年の3・11大震災以降は、義援金を携えて被災地に行き、被災者にコーヒーを配って回ったとも。
 
 コーヒー販売はすべてゲリラ。
 営業許可を取ることもせず、いきなり駅前にオープン。
 当然、警察やヤクザに目をつけられることも多い。 

 しかし、ほとんど無視。
 時にはケンカも辞さない。
 そして、頃を見計らって、素早く遁走。
 
 そんなことを、悪びれることなく語る。
 ある意味、法の規制や闇のルールから、限りなく自由に生きている若者と思えた。
 
 「夢は、お金を貯めて、コーヒーを売りながら世界を一周」
 
 彼の夢が本当に叶うのかどうか、私には分からない。
 しかし、ここにも、海外に雄飛して今の自分をつかんだ高橋歩氏や小橋賢児氏の予備軍がいる、と思った。
 
 「夢」 という言葉は、若者が使ってこそ美しい。
 私は、ジジイだから、「夢」 という言葉は意地でも使わない。
 私が使ってしまえば、それは手垢のついた、今まで大人たちが語っていた 「夢」 と同じものになってしまう。
 だけど、常に、それに代わる言葉を探している。
  
 
関連記事 「映画 『DON‘T STOP』 前夜祭」
 
 

カテゴリー: コラム&エッセイ, 映画&本   パーマリンク

夢に向かって走れ !   DON’T STOP への4件のコメント

  1. べあ より:

    エエ話です 浸みますね
    私も、それに変わる言葉を探します。^^

    • 町田 より:

      べあ さん、ようこそ
      滲みますか。うれしいです。
      >> 「それに代わる言葉」 … なかなか探すのが大変ですけどね。

  2. solocaravan より:

    この映画で語られるような夢がある一方で、カルト教団に入信する信者の動機も夢であるかもしれないし、壮絶な内ゲバに退行していったかつての学生運動家の想いも、もとをただせば世直しをしようという高潔な夢であったのだと思います。

    一歩間違うと地獄の沙汰に直行。夢ということばはそういう緊張感もはらんでいると思うのです。反対に、矛盾、思慮深さ、慎重といったことばも裏から見ると意外にも緊張感がみなぎってはいないでしょうか。

    夢か現実か、という二者択一が間違いなのであって、夢のない現実は価値がないし、現実を無視した夢は意味がない・・・人前で夢について語れと言われたら、せいぜいそのくらいのことしか思いつかなそうです。

    • 町田 より:

      >solocaravan さん、ようこそ
      >> 「夢のない現実は価値がないし、現実を無視した夢には意味がない」 という言葉は、非常に “夢と現実” の関係を適切に表現した良い言葉だと思いました。
      確かに、「夢」 をどのように飛翔させようが、最終的には 「現実」 という “重力圏” から脱出することは不可能でしょうね。
      そして、>> 「一歩間違うと地獄の沙汰に直行」 という “危ない” 側面も、「夢」 には付いて回るというご意見もよく分かります。
      また、それとは逆に 「思慮深さ」 「慎重」 という言葉にも緊張感が潜むというご指摘にも … なるほど、その通りだな、と納得いたしました。

      ただ、 「夢」 というものがはらむ、その “危ない部分“ も含めて、それが個人になんらかのモチベーションを与える原動力になるということは、考えてみると不思議なことですね。
      「カルト教団」 や 「内ゲバを起こした学生運動家」 の “夢の負の部分” についても言及されていらっしゃいましたが、「夢」 というものは、本来が 「狂気」 を秘めているものなのかもしれません。

      そして、そのような 「狂気」 が起爆剤となって、それまで動かなかった人間の歴史が動いてきたという経緯もあったように思います。

      100年以上前の明治維新だって、現在は英邁な若者たちが起こした開明的な運動であったように見方が固定されてきましたが、当時は、暴力沙汰や裏切り、騙し合い、テロ行為が横行した暗黒の政治・思想闘争であったという側面があります。

      凄まじい話だな … と思って今でも記憶に残っているのは、司馬遼太郎さんの書かれた幕末ものの中にあったエピソードなんですけど、ある学者に決起をうながしに行った攘夷派の若者が、「そんなに本気で日本の将来を憂いているなら、この場で腹を切る覚悟はあるのか」 と学者に問われ、「それならば!」 と言って、その場で腹を切って死んでしまった若者がいたらしいんですね。
      それを読んで、「恐ろしい話だな」 と身震いしたような記憶があります。

      しかし、「世直し」 という “夢” は、いつの時代でも、そのようなある種の 「狂気」 をはらんでいるようです。
      生き残った若者は、後に明治政府の高官まで昇りつめましたけれど、その背後には、無駄死にをしてしまった無名の若者がいっぱいいたんでしょうね。

      話が逸れてしまったようで申し訳ありませんが、「夢はそのようにあるべきだ」 などというつもりは毛頭ないのですけれど、「夢」 が人間存在の不思議さを解くカギになることは確かでしょうね。そして私はそこに好奇心を抱きます。

      まぁ、まとまりのつかない話になってしまって恐縮です。
      でも、そんなことまでつらつら考えてしまうような示唆的なコメントであったことは確かです。ありがとうございました。
       

コメントをどうぞ

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">