エロ漫画の現在

 
 最近の漫画、コミック、アニメというものに関して、実にうとい。
 これでも若い頃は “漫画家志望” だったのだから、自分でも呆れる。
 
 だから、ネットで、最近のエロ漫画に関するサイトを偶然開いて、わぁっと跳び上がるほど驚いた。
 「ひでぇな、これ、まともに見られたもんじゃねぇや!」
 とのけ反りながら、食い入るように、次から次へといろいろな作者の描いた画像に見入った。


 
 プロの作家のものもあるんだろうけれど、同人誌に発表しているようなアマチュアの作品も混じっているようだ。
 
 それにしても、みんな絵が上手くなったなぁ。
 プロを目指しているのかな。
 漫画なんかで食っていくの大変なのに、よくもまぁみんなこんな細かいところまで、時間をかけて熱心に描くもんだ。
 やっぱ、 “エロだからなのかなぁ” 。
 …とか、けっこう感心した。
 
 カミングアウトするけれど、自分も高校生時代から学生時代にかけて、大学ノートを使って鉛筆でエロ漫画を描いていたことがある。
 大人の雑誌に載っているようなやつを見ても今ひとつ面白くなかったので、ま、自分で読みたいものを、自分で描いていたということなんだけどね。

▼ いちおうヤバくないところだけ、ちょいと … 。ワルの高校生グループに美人の先生がやられちゃうとかいう、よくありげなやつ。いちおうしっかりコマ取りして、ストーリーも丁寧に作り上げた

 
 そういう漫画は、仲間内で評判になった。
 当時、今みたいにエロ画像が野放しになっていなかったので、無修正のものなど闇のルートを通さないかぎり手に入らない。
 だから、みんなが見たいところは、けっこう丁寧に描き込んだ。
 
 そんなわけで、「今晩一晩だけ貸してくんない?」 とかいう友人も多かったけれど、なんか “汚されそうな” 気がして、教室でこっそり回し読みしてもらうだけで、家には持って帰らせなかった。
 
 そんなこともあったりで、実はエロ漫画に対しては、ちょっと “好意的” なんである。
 
 しかし、それにしても、最近のエロ漫画は、ずいぶん様変わりしたもんだ。
 まず、出てくる女の子の顔が違う。
 “萌え系” というのだろうか、まず目が圧倒的に大きい。顔の半分くらいの面積を占める。
 

 
 それと、例外なく巨乳。
 ヒップもでかい。
 どの少女も、昔のハリウッド女優のピンナップ写真みたいな、「セックスのアイコン」とでもいうべき肉体を惜しげもなく披露する。
 

 
 その “肉のかたまり” みたいな体軀の上に、幼稚園児みたいなロリコン顔が乗っているのだから、異様といえば異様。
 もうこれは、実際の女性像とは縁のない、萌えるためだけの “記号” としかいいようがない。
 

 
 はて、このような少女像を、いったいどういう人たちが “消費” しているのだろうか。
 
 すぐに思いつくことは、「リヤ充」 の世界に背を向けたオタク系の若者たち。
 安易な想像だけど、実在する女の子に働きかける自信を失っている男の子たちの様子が浮かんでくる。
 
 あまりにも早いうちから大人になっていく現代の女の子たちに対し、ナイーブな男の子たちは恐れをなしている。
 うっかり働きかければ傷つくことが、働きかける前に分かってしまう。
 だから、傷つきやすい男の子たちは、現実の女の子を断念して、エロ漫画の 「夢の世界」 へ逃避せざるを得ない。
 
 彼らが好む 「萌え系ロリコン顔の少女たち」 というのは、相手が 「女」 として成熟する前の、かろうじて自分たちが主導権に握れる異性の象徴だということが分かる。
 

 
 だから、テーマも極端なまでに、「男が有無をいわさず女を服従させる」 という設定が多くなる。
 実際の妹と関係してしまう兄。
 メガネをかけたおとなしそうな女の子を誘惑する青年。(メガネは、まだ勉学以外の世界を知らないウブな少女の象徴なのだ) 。
 
 服従の象徴であるメイドの格好をさせて、さらに縄でしばったりするSMものも多い。
 相手が嫌がるようなアナルセックスも頻繁に出てくる。
 普通の女性からすれば、えげつない暴力と恐怖に満ちたいまわしい世界に見えるだろう。
 
 しかし、そこには、「現実のセックス」 に対する悲しいあきらめのようなものが常に漂っている。
 
 実際、クライマックスシーンになっても、そこで描かれるセックスは現実のセックスとはおよそかけ離れたものばかりだ。
 汗やら、絶叫やら、× × やら、それこそ人間の身体から飛び散るものが一気に爆発する 「花火大会」 のような感じなのだ。
 それは、「セックス」 ではなく、まさに 「祝祭」 である。
 
 画像をアップすれば一目瞭然だが、(ま、さすがにためらいがあるからやんないけど)、つまり、そこで描かれているのは、「人間が興奮する状態」 を表現した抽象画のようなものといえよう。
 
 男性の性器も女性の性器も、まるで古代人の残した歴史的モニュメントのように、雄大に、豪壮に描かれるけれど、それはすでに実際の性器とは別物である。
 リアルに描こうとすればするほど、それはますます非現実化した、まるで祝祭に使う 「祭礼道具」 のようなものになっていく。
 
 だから、よく見ると、これらの漫画は、毒々しいほど露骨に見えながら、意外とピュアなのだ。
 メイドのかっこうをさせた、あどけない女の子を “陵辱する“ ような、一見、女性蔑視をあからさまに表現したようなテーマが大半を占めるが、不思議と、大人の男たちを喜ばせるような “淫靡 (いんび) ” さがない。
 むしろ、そこには、現実のセックスに対する嫌悪すら漂ってくる。
 
 もし、そのようなエロ漫画を消費するのがナイーブな男の子たちだとしたら、彼らは、もう女の子を見放している、ともいえる。
 
 男の子たちよ、どこへ行こうとしているのか。
 
 彼らに向かって、
 「実際の女性に働きかける気力を失って現実逃避をしているだけだ」
 と、言葉でいうのは簡単だ。
 また、
 「そのような漫画は、反社会的な小児愛を助長させるだけだ」
 と非難することも簡単だ。
 
 だけど、私は、そのような 「妄想」 を突き詰めていった彼らが、その先に、どんな世界を眺めるのか、そこに好奇心を持っている。
 
 妄想をバカにしてはいけない。
 現在、古典美術として神聖視されているような絵画・彫刻のたぐいだって、元をたどれば、その起源は妄想にある。(ベスビオス火山の噴火で埋もれたポンペイの遺跡に残された壁画なんて、その大半はエロ画像だぜぇ~!)
 
 だから、ロリコン・エロ漫画だって、その 「妄想」 を突き詰めていけば、いつの間にかとんでもない 「文化」 になっていないとは限らない。
 道徳好きの教育オバサンなどが出しゃばるべきではないのだ。
 
 漫画を鑑賞しているだけのロリコンオタクは、現実社会において、けっして幼児性愛に陥ってイージーに性犯罪を起こすような人間にはならない。(一部の例外はあるだろうが、基本的に、あれはドラマの中だけに出てくる “犯人” だ) 。
 また、彼らがいつまでも、異性に対して能動的になれない腰抜け男子にとどまっていることもないだろう。


 
 今は 「女の子の時代」 になっちゃったけれど、彼らが 「リヤ充」 の世界に戻ってくることがあれば、そのときはもう、現実の女を軽い言葉でコマすことに生き甲斐を感じる 「チャラ男」 ではないだろう。
 なんだか、今までの男女観を突き抜けた新しい感性を身につけた男の子たちになって戻ってくるような気もするのだ。
 
 やつらの性感覚が、もうわれわれ世代の性感覚とはとんでもなく異なるものになっていることだけは確認できたのだから。
 
 
参考記事 「童貞文化が時代を動かす」

参考記事 「AKB48はなぜ集団なのか」

参考記事 「エロ画像の時代的変化」
 
 

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エロ漫画の現在 への21件のコメント

  1. タイムジャンクション より:

    やはり、春画の時代からエロ画は時代の流れで今の萌えロリにまで変わったんですね。。♂世の男の性欲が進化したのか退化したのか!?!?!?ですね。
    TJ世代のエロ中年だとやはりエロ漫画はちょっと肉付きの良い絵で若妻とか熟女物なんかが、シチュエーションの中で妄想できて下半身にうったえてくれるのがエロ漫画ですかね!?

    • 町田 より:

      >タイムジャンクションさん、ようこそ
      >> 「男の性欲が進化したのか、退化したのか ???」
      本当に、そのへんはなんともいえませんね。

      萌え系エロ漫画が隆盛を極めている一方で、16歳から19歳の若者の36.1%が、「セックスをすることに関心がない、嫌悪している」 と答えたというデータ (2010年) があるそうです。現実的なセックスを感じさせないエロ画像の中のロリコン少女に “萌える” という現象は、もしかしたら、そういう傾向の反映なのかもしれない、と思うこともあります。

      TJさんのおっしゃるように、やっぱりわれわれ世代だと、「熟女もの」 なんでしょうかね。
      これも “エロ文化” の研究家が言っていたことなんですけど、「DVDなどの企画モノで熟女ものが突出してきたのは、ここ10年から20年ぐらいのこと」 … らしいんですね。
      それまでは、そういう企画は “ゲテモノ” 扱いで、一部のマニアを対象としたものだったらしいです。
      どういうことかというと、現在50代から60代ぐらいの男性が若い頃好んでいた “エロ的女性像” が、そのまま時代とともにシフトしてきただけなんだとか。

      要するに、われわれの世代には、個々人の好みの差は微妙にあっても、大きな意味で共通した “エロ感覚” みたいなものがあって、そういうのを持っている女性を求めていくと、若い子の中にはそれを見つけられなくて、必然的に “熟女” にたどり着いてしまうんだとか。

      それだけ、やはり時代とともに、“エロ感覚” は変わっていくということなんでしょうね。
       

  2. Sora より:

    町田さんが、ここまでエロ漫画に昔からコミットされているとは、知りませんでした(笑)。

    エロ漫画問題のおもしろさは、「私たちの認識の仕方は、私たちの見たいように、つまり潜在的欲求のメガネ、を通じてのみ把握する傾向がある」ということの実例、認識論に連なる点だと思います。

    リアルの人生においては、人間愛を、性愛を確認したい欲求をもつ人は、実はそのような視点から、常に実人生を眺めているということですし、ノンリアルの人生劇(via物語、演劇、小説、映画、アニメ)を追体験、味わおうとする場合では、見方にあらかじめバイアスがかかっているだけでなくて、私たちは、そのノンリアルの虚構劇を、自分たちの好みに合うように、欲求を120%充足するようリアル人生をデフォルメしてでも創作することがある、ということです。

    その結果リアルとノンリアルのかい離がとてつもなく大きくなることもあるという町田さんの指摘に連なります。

    更に興味深いのは、そのデフォルメの仕方が、その時代の人々の潜在欲求に合致し受け入れられる場合には、虚構劇を味わう際の一般様式として確立する。

    (町田さんが挙げてられた歌舞伎の大げさな演技は、それが人間の概念だったというより、音響、照明設備が無い当時としては必要だったというのが私の解釈)

    そしてその様式が確立すると、今度は、奇妙なことに、その表現様式がどんなに実人生とかけ離れていようが、我々はオートマティックに反応してしまう。今回のテーマのごとく性的な表現であれば、性的に欲情してしまうということです。

    町田さんが末尾の記事で指摘されたように、浮世絵春画も同じこと。この春画の均一化は1点豪華主義(笑)。普段は決して見られない秘部、そこだけを極端に拡大して描いて、当時の最大潜在的欲求に応えようとしたものと理解できます。

    近代に入って映画が発明されれば、ブルーフィルム(だっけ?)という様式で、ほぼリアルの実写で欲情に応えた時代もありました。

    町田さんが、郷愁を覚えられる(笑)上村とか、つげのエロい漫画は、実写だけでなくストーリー展開のリアルさがプラスされて、より淫靡と感じる世界が実現したのでは(ないでしょうか)。

    ということで、これまでの性的欲求の虚構を用いての充足の仕方は、できる限り現実のセックスに近いものを再現する、ということでした。
    しかし、エロアニメの登場、エロ漫画の解禁によって、現在ではエロい場面を120%デフォルメしてでも、提供することができることから新しい時代を迎えることになりました。

    その流れの中で、現在のエロ漫画については、どう理解できるか。

    その前に、性的欲望とは何か、について考えてみたいと思います。①本能に起因する面と②文化的に生成された2面があるでしょう。

    ①人間の本能は壊れているとはいえ、残滓があるはずです。動物では、発情期にメスと判別しただけでオスは発情する。したがって人間も、外見的、内面的性差を感じるときオトコは性的に欲情する、これが本能的性的欲情としましょう。

    ②文化面からの発情、これが人間的でおもしろい。たとえば、あなたが自宅の脱衣場に女性の下着を見つけたとしましょう。それが妻のだと了解している間は、あなたは無反応。単なる布きれに過ぎません(笑)。しかし、それが風に吹かれて隣家の奥様のものが迷い込んだものと知ったとたん、布きれは、一変。あなたを大きく惹きつけるものとなるでしょう。なぜ、同じ布きれが認識の仕方を変えるだけで意味付けが一変するのでしょうか。それは、妻以外の女性との性的交渉を想起するからです。なぜその想起に欲情するのでしょうか。たぶん、社会的タブーを破る欲望と結びついているからでしょう。これは、文化的に生成された性欲の例だと思います。人間は、この文化的に欲望する部分が大きい。

    ロリコン顔、とかメイドというのが共通というのは、町田さんご指摘のとおり、草食系男性にとっては、同年女性に比べて、服従させやすいと感じ、欲情しやすいからでしょう。これは②。

    巨乳の類は、若い男性が同年女性に外面的にも内面的にも性差、女性らしさを感じられなくなっているからでしょう。我々の時代は女性というkeyワードだけで欲情できた。しかし現代は男の子みたいな女性のサッカー、レスリングの選手が許容される時代です。草食系男の子がスムーズに欲情するためには、デフォルメされた巨乳が必要ということでしょう。これは①。

    大噴出描写は満足・充足感の希求の表れ・確認でしょうし、豪壮な性器描写は小さな自我を覆い隠さんとする欲求の表れでしょう。これはどちらも②。

    さらに、町田さんに倣った私の観察によれば(笑)、相手のロリコン顔女性は、当初当然嫌がるわけですが、結局最終的には自分もそれに没頭する筋立てになっている。この和姦風エンディングは調子がいいというより、結局、お相手の女性ともコトを荒立てたくない、草食系男子の心理を表象しているのではないでしょうか。これは②。

    まとめてみれば、彼等の性的欲望の充足様式は、①本能的な部分はどんどん縮小し、②文化的に生成された性的欲求の比率が高くなっている。彼らこそ、文化的に欲情する典型的世代、ということになるでしょう。それは、萌え系、草食系男子は極めて文化構造的な産物だけに、彼等の欲求充足の仕方自体が文化的な琴線に触れるものになるということです。

    その結果、デフォルメされた欲情対象の在り様と、リアルの女性の在り様のかい離は拡大
    してしまった、という理解になると思います。

    映画も演劇も小説も、このエロアニメ、エロ漫画の自由なデフォルメには表現手段としては太刀打ちできない。
    広い意味でのエロスは虚構の世界では重要な自己表出的要素だった。エロスの在り様が変容していけば、既存の表現手段は衰退していかないのかという疑問も出てきます。

    または、草食系男子文化は、男女の支配・服従の伝統的な性的欲情充足パターンから、男女対等の新しい性的欲情充足パターンへ変化していくまでの、一時的あだ花か、それとも彼らが男女対等パターンの旗手になるのでしょうか。

    私は彼等の文化的役割には従来からネガティブです。あだ花だと思うし、一時的にしろ、いきなりヒロインの巨乳が乱舞したりする恋愛小説が隆盛にならないことを願う者です(笑)。

    町田さん、すみません。長々と書いているうちに、町田さんの言説と私の解釈が混然一体となってしまって(苦笑)、ご本人にとっては、既知のことでいらつく結果になったかもです。

    私は、自分の理解が進んだと思って自己満足していますが、もしコメントがありましたらお願いします。

    • 町田 より:

      >Sora さん、ようこそ
      冒頭から面白い指摘があり、今回もSoraさんのコメントを堪能させていただきました。
      >> 「私たちの認識は、私たちの見たいものだけを見ることによって、成り立っている」 というのは、まさにおっしゃるとおりですね。
      その場合の 「見たいもの」 というのが、実は種々の文化的制約によって規定されてしまう、… というのが、Sora さんの基本的なスタンスであると理解しました。

      「欲情」 の形は、たぶんにその時代の文化の影響を受けます。
      Sora さんにご指摘を受けて気づいたのですが、私が 「上村やつげ義春」 のエロ画像に欲情を感じるのは、>> 「ストーリー展開のリアルさがプラスされたからではないか」 というのは、その通りだと思いました。
      私たちの世代は、エロ映画、エロ漫画とともに、「エロ小説」 というものからも刺激を受けていました。だから漫画も、小説が持っているストーリー性の影響を無視できなかったんですね。漫画家も、やはり文学の影響下にあった時代だったんでしょうね。
      それに、漫画には吹き出しがありますから、どうしても文学との接点が維持されています。上村やつげの絵には、やはり文学性があったということなんでしょうね。

      とにかく、今回のコメントも面白く拝読しました。
      特に、性的欲望を ① と ② に分けて、詳細に定義していく議論の進め方は、読み応えがありましたし、とても参考になりました。

      それにしても、一般の人なら一笑に付すような、こんなたわいないテーマを真剣に議論されようとしているSoraさんの奇妙な (?) 熱意に感動いたします。なんだか同類に接したような (ご迷惑でなければ) 親近感を感じております。

      コメントで展開された論旨に対し、ほとんど異論がございません。
      私もまた、そのとおりだと思います。
      特に、若い男の子たちが 「和姦風エンディング」 を好む気持ちの裏に隠れた心理面を言い当てるところなどは、私も書こうと思って書ききれないところでした。Soraさんの考察に助けられた思いです。

      彼らが、一時的な “あだ花” で終わるのか、それとも、そこから何か異なるムーブメントが起こるのか、それは私にも分かりません。
      ただ、一時的な “あだ花” であるがゆえに、逆に歴史に深く刻印を残すということはあるかもしれませんね。
      私には、彼らのデフォルメされたエロ世界が、100年後ぐらいには、「平成の浮世絵春画」 のように論じられる時代が来るような気がしないでもありません。

      けっこういい絵がありますよ。
      最初は違和感いっぱいだったけれど、見慣れているうちに、割りと好きになってしまいました (笑)。
       

      • Sora より:

        >一般の人なら一笑に付すような、こんなたわいないテーマを真剣に議論されようとしているSoraさんの奇妙な(?)熱意に感動します。

        あははー、そうですね。そりゃもう、横溢な知的(痴的ではナイ)好奇心、知的探究心というエートスに突き動かされてですよー。

        >なんだか同類に接したような親近感を感じております。

        町田さんは、巷の風説(テーゼ)に対して、実に鋭い逆説(アンチテーゼ)を、具体例をこのブログにて提示される。ジャーナリストとしての真骨頂ですね。
        Soraはあおられて、「そうはいうものの」とその逆説に少しちゃちゃを入れて、できるだけ次のジンテー^ゼまでに議論を発展させようと、テーゼ、アンチテーゼのへんてこな一般化を試みてきて力尽きる。(そして大向こうにはいやがられる) このSoraの役回り、今後も続けたいです。

        されどわれらが日々を、ほぼ同じく経てきたものとして、Soraは同類かつ知的盟友として考えていますので(カッコいいな)、これからもよろしくスペースを貸してください(笑)。

        こういう硬い、嫌がられる話題でなければ、町田さん、私の拙ブログに旅の話、書き込んでいただいて結構ですよ。戦略的互恵関係(笑)。

        • 町田 より:

          >Sora さん、ようこそ
          お会いしたことはありませんが、Sora さんの好まれるターミノロジーから、ほぼ同時代に、似たような文化環境で育った方であるとお見受けします。
          「エートス」、「アンチテーゼ」 に 「ジンテーゼ」 。
          どれも、少し世代が変わると、「なんのこっちゃ?」 という用語ですよね (笑)。

          でも、そういう言葉を意気がって使っているうちにつかめた 「時代的真実」 というものが、確かにありましたね。
          それが、今の時代にはすでに古色蒼然たるものになろうとも、あの時代に使った 「言葉」 でなければ追いきれなかった 「真実」 というものが確かにあって、それは 「概念」 としては風化してしまっても、その 「感覚」 だけは、いまだに他の言葉に置き換えられないものとして身体の中に残っています。

          Sora さんに 「ジャーナリストの真骨頂」 などと持ち上げられて舞い上がったわけではありませんが、もし 「ジャーナリスト」 としての真価が問われるとしたら、そういう昔の言葉でなければ捉えきれなかった “感覚” のようなものを、どのようにして今の言葉の中に盛り込めるか、… にかかってくるような気がしています。

          Sora さんの鋭いツッコミで、それを磨けていけたらいい、と思っています。

          で、これからはちょくちょくSoraさんのブログにもお邪魔します。
          いつも楽しく拝読しておりますが、なかなかコメント欄に書き込めなかったのは、私のブログなどとは異なり、あまりにも、美しくピュアな旅のレポートなので、なんだかそこに書き込むのは、「清流に産業廃棄物を流すようなもの」 になるのではないかと恐れたからです。
          でも、そういうことならば、これから時々、足跡を残させていただきます。
           

  3. HIROMITI より:

    じゃあ、井上陽水の「探し物はなんですか~、探すのをやめたときに見つかることはよくある話で……」というのは、どうなるのですか。
    見たいものが目の前にあるのに見えていないことはよくある話です。
    性衝動は、根源において、そうした「追走」であるよりも、むしろ「敗走・逃走」の衝動なのですよね。だからどこかしらに、やましさがある。それは、社会的な意識ではなく、もっと本能的な意識です。

    じゃあ萌えロリマンガの彼らは、何からの「敗走・逃走」としてああいう表現になっていったのか。
    生身の女の子から相手にされていないから、というのはマスコミのステレオタイプで空疎な解釈です。
    彼らは、学校では、われわれのころよりもずっと男女が接近して生活しています。相手にされないというより、男女の近すぎる関係を生きたことの結果として、ああいう表現になったのです。
    そのマンガは、べつに、オタクだけが好きなんじゃないですよ。オタクはそれにマニアックに耽溺しているというだけのことで、いまどきの若者全体がその表現になじんでいるのです。女にもてる男の子ももてない男の子も、です。そして女の子にとっても、その巨乳ロリ顔の表現に、何かほっとするものがあるらしい。そうして男の子も女の子もAKBに注目している。
    いったいそれはなんなのか。僕の中にも、これだという結論はありません。町田さんも、そこのところ考えていただけませんか。参考にさせていただきます。
    いったい何からの「敗走・逃走」なのか、ということです。
    まあ僕は、人間そのものが「敗走・逃走」する生き物だと思っているわけで。

    • 町田 より:

      >HIROMITI さん、ようこそ
      >> 「性衝動が 『追走』 であるよりも、むしろ 『敗走・逃走』 の衝動である」 というのは、萌え系ロリ漫画を最初に見たときに、私もまた直感しました。

      ただ、それが 「何からの逃走」 なのか、私にもまだ確たる答は用意できません。… というよりも、HIROMITI さんほどには、そのことを強く問題意識にのぼらせることはなかったように思います。
      しかし、改めてそのことを指摘されて、「逃走」 という補助線を引けば、より明確に見えてくるものがあるかもしれないとは思いました。

      まだ、はっきりと突き詰めて考えたわけではないのですが、ここで取り上げた 「萌え系エロ漫画」 というのは、明らかに、他のネットで流されるような生身の人間同士が絡み合う実写系のエロ画像とは違っているということです。
      もし、「萌え系エロ漫画」 を愛好する人たち (仮にそれを若い男の子たちと仮定して … ) が、生理的な性欲の発散だけを意図しているとしたら、リアルさのないエロ漫画よりも、よりリアルな実写映像で満ち足りているはずなんですね。

      だけど、彼らは、そのような実写系のエロ画像には満たされなかった、… というより、そこから 「逃走」 したのだと思います。

      では、なぜ 「逃走」 したのか。
      たぶん、実写系エロ画像の虚構性、その白々しい嘘くささに辟易したのだろうと解釈しています。
      実写系のエロ画像には、万分の一ほどの真実性もありません。
      それは、すべて予定調和に満ちた虚構の世界。
      撮影者たちが、「満たされない男たち」 に向かって、「ほら、お前たちよく見ていろよ。これが女の真実なんだぜ」 と傲慢にうそぶいている世界です。
      実写系画像は、たまたま 「人間」 の姿をカメラで捉えたために “日常に近い形” で映っているというだけで、人間の性愛の真実からは驚くほど遠いんですよね。

      しかし、われわれ世代の男性は、そういう “ニセのリアル” さの中で性衝動を解消する文化の中で生きてきてしまったため、そういう映像を提示されないと欲求を満たされないように条件反射付けられています。

      そういった意味で、われわれの性衝動というのは、もちろん本能的なものをベースにしているとはいえ、やはりその時代の 「社会的な意識」 に大きく規定されているというべきでしょう。

      「萌え系ロリ・エロ漫画」 を好む若い男の子たちというのは、その一つ前の時代の、「一見リアルであるようで、その実、性愛の真実のひとかけら “性愛画像” 」 への嫌悪感を持っているように思います。
      だから、彼らは、自分たちの思い描く 「セックスの形」 を、自分たちの手で描き始めなければならなかったのではないでしょうか。

      もちろん、「萌えロリ漫画」 に登場する男女が昇つめていくときのセリフや、男性が女性の羞恥心をあおるときのセリフなどは、驚くほどステレオタイプ化されています。オヤジ世代以上に類型的です。

      しかし、画像はまったく違うんですね。
      それは、花火大会であったり、舞踏であったり、戦争であったり、祝祭であったりするわけです。
      あたかも、「オヤジ世代が使うセリフは、本当はこういう状況の中で使うんだぞ!」 と主張しているかのようです。
      私は、そこに若い男の子たちの 「逃走」 の形を取った 「闘争」 を感じますね。

      コメント中、>> 「男女が近すぎる関係を生きた結果、ああいう(萌え系)表現が生まれてきた」 という指摘は新鮮でした。
      なるほど … と思った次第です。

      しかし、それでもなお、私の感触では、同世代の女の子の方に、(ごく一部でしょうけれど)、現在の競争原理社会の文化に順応して、勝ち組志向を強めている子たちがいるように思えてなりません。
      これは、全体の傾向というよりも、同世代同士でも細分化が進んでいるようです。家庭環境の差があるのかもしれませんね。
      そういう競争原理社会に漕ぎ出ていこうとする上昇志向の強い少女の 「男の子蔑視」 は相当なものですよ。見ているだけで男の子が可哀想になるくらいです。
      そういう女の子は、一部の男の子たちから見れば、年齢的に同じながら 「同世代」 というよりも 「オヤジ世代の住人」 に感じられるかもしれませんね。

      余談ですけど、最近、ネット言論に参加しているような20歳代くらいの若いエリート女性たちって、驚くほど新自由主義的というか、市場原理主義的というか、勝間和代を一周り若くしたような若い女性たちが勢いを得てきていますね。
      それはそれで、また、彼女たちなりの 「左翼っぽい旧世代のオヤジ文化」 に対する反発や 「牧歌的な夢の中でまどろんでいる若い男の子たち」 に対するいらだちなんでしょうね。ある意味で、彼女たちの方が、「理屈」 や 「幻想」 で社会を眺めないリアリストなのかもしれませんが … 。

      以上、疑問に思っていらっしゃることへのお答えになったとは思いませんが、多少なりとも、なにがしかのヒントになれば幸いです。
       

  4. たかのゆき より:

    初めまして、たかのゆきと申します。
    恥ずかしながらエロマンガ家なぞやらせていただいております。
    こちらのページへは、「Albert King」の「Born Under A Bad Sign」の訳詩を
    探してこちらにたどり着きました。
    町田さんの考察はマンガというものから離れてみた視点として
    大変興味深く、また楽しく読ませていただきました。
    ですが「“肉のかたまり” みたいな体軀の上に、幼稚園児みたいなロリコン顔が乗っているのだから、異様といえば異様。」というフレーズは言いえていて大変感心いたしました。
    感情、人間性と向き合うは顔はキャラクター顔、幼児顔なのに体は大人。
    まさに自分のような大人になりきれない人間が、パートナーにえらぶならこうなってしまいます。
    守られたい甘えたい心が自分は強いので「“肉のかたまり” みたいな体軀」を好みますが
    攻撃性が高かったら体もロリ系になると思います(そういうものもあります)

    町田さんの評はわかりやすくて適切、対象物との距離感が最適で
    とても気持ちよく読むことができました。
    また機会があれば立ち寄らせていただきます。

    • 町田 より:

      > たかのゆき さん、ようこそ
      こちらこそ、はじめまして。
      たかのゆきさんのような、業界で広く活躍されている現職のマンガ家の方から直にメールをいただけるなど、思いもよらなかったことで、びっくりしています。
      ほんとうに、ようこそおいでくださいました。

      現場で実作を重ねていらっしゃる方らしい、貴重な感想をいただき、こちらも勉強になりました。
      >> 「幼児顔なのに体は大人。それは自分が守られたい、甘えたいという願望を投影したもの」 というのは、よく分かりました。うすうす感じていたことを裏付けていただいたように思います。
      また、>> 「攻撃性が高かったら、体もロリ系になるだろう」 というご指摘にも、十分うなづけるものがありました。

      どうかこれを機に、いつでもお立ち寄りください。
      コメントありがとうございました。

      あ、PSです。たかのさんのお描きになられた女性像、私の好みです(^-^)/
       

  5. 北鎌倉 より:

    町田さんの鉛筆のマンガの顔は美人ですね。
    楳図さんの原稿でヒロインを見たとき、女優の新珠三千代そっくりで、言ったらズバリでビックリしていました。
    顔って不思議で、いろんなマンガ家の手伝いをしましたが、例外なく顔だけは他人まかせにはしませんでしたね。首から下は見分けがつかなほど上手に描く人がいますが、顔だけは不可能なんですね。
    それとこれも例外なしでしたが、マンガ家の描く顔は、自分か、身近の奥さんとか恋人とか、あるいは好きな女優さんやタレントさんに必ず似ています。手塚治虫も、ちばてつやも、永島慎二も奥さんソックリでした。
    よく冠婚葬祭で親類縁者が集まって、お前はどこそこの誰にそっくりだとか、額や鼻や口元が似てるとか言われて、会ったこともない人に似てるといわれてもなあ、と戸惑いますが、顔には潜在化した多層の顔が、非決定に表出してるんでしょうね。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      素人の “落書き” のような女性像を、プロの方に「美人」だとおほめいただくことなど望外の喜びです。
      ありがとうございました。

      楳図さんのヒロインのなかに、確かに女優の新玉三千代さんそっくりの顔が出てくることにはよく気づいていましたが、やはり楳図先生は新玉三千代がお好きだったということなんですね。面白いです。

      ≫「どのプロの漫画家も例外なく、顔だけはアシスタントに任せず、自分で描かれる」というのは、それだけ顔って人間にとって特別の部位なんですね。
      たぶん、人類史のなかで、それが最初に個体を識別する部位になったからなのでしょうね。
      いわば、個体を代表するもの。
      だから、いまだに「 …… は …… の “顔” である」みたいな表現が成立するのでしょうね。

      私の描いている女性の顔は、特にモデルがいるというわけではありません。
      ただ、なんとなく、「こういうのが美人だな」という自分なりの基準というのはあります。
      目の位置、唇の形、鼻の位置など、いくつか試してみるうちにこういう定位置に収まったわけですから、そこに自分の好みの女優なり、昔の片思いの女性などの面影が影を落としているのかもしれません。
       

  6. 北鎌倉 より:

    町田さんは素人の落書きと言いますが、美人は描こうとしても描けないです。大友克洋の顔は、美人も可愛いいも無縁ですから。
    もちろんアニメ(萌系)の模写から入ればアニメ系の美人も可愛いも描けますが、それは、そのように描けば美人に見えるというだけで、それは記号化の方法なだけですね。
    町田さんの自分の基準で顔を造形したということは、つまり、町田さんの生理的な次元での顔ですね。生理的な線はそれまで生まれ育った全部を内包していますから、技巧や洗練の度合いを深めてもそこが基盤となりますね。
    竹久夢二なんて現実の恋人も、描いた女性も絶世の美女でしたから、真似の仕様がない、かなわないですよね。

  7. 北鎌倉 より:

    マンガ界の「アニメ絵」台頭前後だったか、それまでマンガの絵が野暮ったく見えたときがありました。でも、「アニメ絵」がメインストリームになった現在、野暮ったく見えた絵をじっくり見ると、大人っぽい視線に感心するときがあります。
    抽象化された画の「アニメ絵」は、その後、写真や映像などの平面(一点透視)的な画像処理を取り込み、リアルさを再創造してきました。影の段数を増やし、線を増やす、画像処理でした。言ってみれば、大脳による画、ですね。
    それに対してアニメ絵以前の、野暮ったい画は、視線による画、と言えます。その画像空間では、顔は望遠レンズで撮影しているのに、からだはワイドアングルで捉えているような、対象への臨場感―つまりリアルな距離感(視線)がキュビズム的に合成されているんですね。
    それにしても、ホステスさんやスナックのオネーさんを描くマンガ家も、その必要性も、急速に消えつつあります。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      マンガの “線” というものが、いかに奥行きの深いものであるのか、あらためて教えていただいたように思います。
      特に “萌え系” のアニメ絵少女の顔が、ひとつの記号化の結果であるというご指摘は新鮮でした。
      「記号」であるということは、いわば「観念の産物」であるということなんですね。

      なんとなく分かってきたように思います。
      「オタクか、オタクでないかの違いは、2次元少女に欲情できるかできないかの差となって表れる」
      と言っていた方がいらっしゃいました。
      つまり、「非オタク男子はマスターベーションするときに、どうしても3次元少女の画像(実物動画か写真)を借りなければならないが、オタク男子はマンガのアニメ絵少女で射精できる」というわけです。

      そういう説にどれほど妥当性があるのかどうか、よく分かりませんけれど、もしそうだとしたら、オタク系男子の妄想の在り方が、ずいぶん観念的になってきたということなのかもしれません。いわば生身の女性に欲情する意欲も経験もない男子たちが増えてきたということなんでしょうね。

      ホステスさんやスナックのオネーさんを描くマンガ家の必要性が急速に消えつつあるというのは、そういうリアル世界に生きている女性を妄想する男子が消えつつあるということなのだと思います。
       

  8. 北鎌倉 より:

    AbemaTVの「指原莉乃&ブラマヨの恋するサイテー男総選挙」という番組が好きで初回から欠かさず見ているのですが、これが世間でいう品性下劣の見本のような番組で、指原やブラマヨも一回で終わると思ったというくらいで。ところが30回を越えようとする人気番組になっているんです。イメージダウン必至なのによくアイドルの指原も引き受けたもんだと驚きます。
    車座になってホストやAV男優やナンパ男や童貞男や2次元専門オタクが、自分の体験エロトークを展開してMCの3人が受けて突っ込むだけの基本構成なんですが、その話をするサイテー男たちが、エロ行為を自慢も卑下もしてなくてごく日常の感じがよく出ていてリアルなんです。、ある回にブラザートムがゲストで来たんです。そしたらさすがで、番組のマトのど真ん中を射抜く笑いの一言で、「俺、もしかしたら童貞かもしれない」(笑)。
    地球とセックスするゴキブリに憧れる真面目なサイテー男がいて、メスのゴキブリは生涯で1度だけ性行為をして、そのおなかの精子で子供を産んでいくという話に、指原は哲学的!と言って感心しきりで。哺乳類で射精をコントロールできるのは人間だけですから、AV男優の話は興味深いです。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      アイドルグループAKB48の指原がバラエティーに単独出演し、タレントとしての才能を発揮するというのは、AKBがはじめて “個性” のある人物を創造しえたということで、これはAKBの「長い終わりの始まり」を象徴するできごとであるように思います。

      ま、それはよいとして、その番組に出演してくる “サイテー男” たちが、自慢も卑下もすることなく、エロ行為を告白するというのは、なんだか今の時代を表現しているような気もします。
      つまり、そういう男性たちは、エロ行為をしている自分と、それを観察している自分に分けて考えられるのかもしれませんね。昔の男性は羞恥心があるために、自分のエロ体験を語るのはごくごく限られた身内の間だけで、とてもテレビで告白するなんてできなかったでしょう。
      その場合の羞恥心というのは、エロ行為を行っている自分を、自分の自我がコントロールしているという “一体感” からくるものだったのでしょうね。

      ≫「哺乳類で射精をコントロールできるのは人間だけ」……なるほどなぁ。
      それはやっぱり人間だけが、生殖行為に伴う快楽に過大な期待をかけているからなんでしょうね。
      もっとも私などは、昔からなかなか射精をコントロールできない方だったので、動物に近い存在だったのかもしれません(笑)。
       

  9. 北鎌倉 より:

    おっぱいにしか興味がないというサイテー男もいるのですが、かなりのおっぱい通で素人には考えられない話をするのですが、そんな話を聞きながら、指原莉乃を前にして自分もおっぱいでどんな話ができるかなと(笑)。
    母親が、幼児の欲求に100%適応することで、幼児は乳房は自分の一部だという幻想をもつことができるといいます。幻想をもつことで、魔法のような全能感を持つというわけです。つまり、幼児にとって、乳房は二重性を持ちます。実際の乳房であり、同時に、魔法の乳房である。幼児が、最初の段階で、たっぷり全能感をもつことで、やがて「幻滅」をおぼえていくことができるようになるのですね。乳房は、生まれ落ちた世界で、赤ん坊が出会う、最初の<同一性>なのです。母親(乳房)と全能感にいる幼児は、<ふたりでいてもひとりでいられる><ひとりでいてもふたりでいられる>状態の起源になっています。
    乳房は、あることの(存在の)乳房と、すること(行動する)乳房に対応しています。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      母親と幼児の関係は、いろいろと精神分析学の研究対象になるようですが、北鎌倉さんは、それを母親の乳房に焦点を合わせ、≫「母親の乳房が幼児にとって最初の<同一性>の獲得となる」とご指摘されました。とても分かりやすい例だと思います。確かに全能感の獲得という意味では乳房は象徴的な対象物ですよね。
      その場合、男の子と女の子の違いはないんでしょうかね。どうも男性の方が、女性よりも、乳房に対する固着が強いような気もしますが(笑)。ま、私は乳房よりもさらに尻フェチですけど。
       

  10. 北鎌倉 より:

    サイテー男たちのマスターベイションの話も興味深いです。
    AVで看護婦がするシーンがよくありますが、本物の看護婦さんたちの間でも肯定・否定の二派に割れるそうです。
    きっかけの話はこうです、進行性筋萎縮性の13歳の寝たきりの少年があと何年かで呼吸もできず死んでしまうわけです。先が見えている、少年の最後の楽しみはマスターベイションでした。
    年寄とか病人を見ていると、マスターベイションというのは、人間に残された最後の何かかもしれないと言うわけです。手も動かなくなって、それもできなくなったら、そのとき看護婦は、触ってほしいとせがまれたらどうするのか?
    要求する人は一種のセクハラだから、断固拒否。いいじゃないかそれこそ最後の一番の心のケアの重要な部分じゃないかと真っ二つ分かれ、結局この問題は個々人の気持ちに委ねるとなったそうです。個々人任せでは、確実に秩序が乱れるのはわかりきってるようにおもいますが。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      介護の現場における身体の不自由な人の性的処理の問題、どこかのテレビ局がシビアな問題として取り上げていたことを記憶しています。
      健常者の場合なら、簡単な「セクハラ」で切って捨てられるテーマですけれど、健康な性欲がありながら、手足が不自由でマスターベーションもできない人たちの場合は、なんだかすごく深刻な問題であるような気もします。
      もちろん、そう簡単に結論の出ることではないし、私も、どう意見を述べればいいのか途方に暮れるばかりです。
      社会的には、どういう方向で決着が付けらるのでしょうか。専門家の意見も聞いてみたいと思います。
       

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