都市と消費とショッピングモール

 
 「都市」 について何かを語ろうとするとき、いまやショッピングモールという存在を抜きにしては何も語れなくなったようだ。
 それほどショッピングモールは、現代都市の機能と、景観と、そしてそれに関わる人々の意識を変えようとしている。
 
 フリーライターの速水健朗氏は、近著 『都市と消費とディズニーの夢』 (角川ONEテーマ21) において、次のように語る。

 「現代都市と、いまどきのショッピングモールは、少しずつ姿を変えながらにじり寄る関係にあり、近い将来、どこまでが “都市” で、どこから先が “ショッピングモール” なのか分からなくなってしまうだろう。つまり、ショッピングモールについて語ることは、現代の都市について語ることでもある」
 

 
 そもそも 「ショッピングモール」 とは何か。
 Wikipedia によると、それは 「複数の小売店が集まった商業施設」 であるショッピングセンターのことを意味し、それを英語で表現したものが 「ショッピングモール」 ということになるのだそうだ。
 
 そのなかには 「百貨店」 や 「アウトレットモール」 が含まれることもあり、多くの場合 (特に郊外に展開されるものは) 、大規模な駐車場を備える。
 その出店形式は、基本的にモールを管理する会社がそのスペースを他業者に貸し出し、テナント料を取るという方法で運営される。
 
 このようなショッピングモールは、日本においては1990年代から急激に増え始め、当時約1500店舗であったものが、2011年時点においては3090店舗にまで膨れあがっているという。
 
 以上が、ショッピングモールを概括するときの基礎的な説明となるが、そのような内容を吟味する以前に、すでに多くの消費者は、ごく当たり前のこととしてそれに馴染み、まったく自然な形で自分たちのライフスタイルに組み込んでいる。
 
 ただ、一方で、批判がないわけではない。
 その多くは、「郊外に進出するショッピングモールはみな同じ構造と機能を持っているため、それによって日本全国の文化と景観が画一化され、地方の固有性というものが喪失していく」 という声に代表されるもの。
 
 そのような意見は、
 さらに、「ショッピングモールはかつて駅前商店街に保存されていたような “共同体的な絆” を崩壊させ、人情味のある人間関係を薄れさせ、格差社会を是認するような冷たい社会の到来を招く」
 という見方にまで発展することがある。
 
 私自身も、ある部分、上のような見方に同調する。
 ショッピングモールの増殖を、「共同体的な絆の崩壊」 と受け止めるような極論に与する気持ちはないが、ショッピングモールによって変化していく日本の街の光景には、暗たんとした気持ちを持つことが多いからだ。
 
 それは、生活感覚や価値観の問題というより、趣味の問題である。
 生理的な問題といってもいい。
 
 私自身は昨今の、何もかもがピカピカ光ったようなショッピングモールの “明るく清潔な空間” というものに、どうしても馴染めないでいる。
 それよりも、「裏町」 とか 「場末」 と呼ばれるような、 “暗くさびしい” 空間を残している街の方が好きなのである。
 BS-TBSの人気番組である 『酒場放浪記』 に出てくるような、今にも崩れ落ちそうな古い店舗を “味” に対する店主のこだわりと、それを支えている客たちの情熱で維持しているような居酒屋が生きていける街が好きだ。
 
 私が住んでいる町も、駅前再開発という名目で、古くからあるさまざまな飲食店が軒並み一掃され、代わりに建設された駅ビルに有名ブランド店が進出してきたときには、腹立たしい気持ちになったことがあった。
 「俺がおいしいと感激していた “味” を返せよ!」 と泣きたくなった。
 
 ショッピングモールというのは、そのような街の再開発の “総仕上げ” みたいなところがある。
 そして、確かにそれは、新しい 「消費」 と 「雇用」 を生み出す。
 だが、そこで必ず何かが失われていく ( … と私は思っている) 。
 
 一言でいえば、それは 「街の陰影」 である。
 街というのは、人々に 「安全」 と 「清潔さ」 と 「快適さ」 と 「治安」 を保証しなければならない。
 しかし、それと同時に、どこか 「いかがわしい」 場所や、ほのかに 「危険な香り」 が漂う場所が残っているという、微妙なバランスの上で街というものは成り立っている。
 
 ショッピングモールは、その 「陰の部分」 をきれいに拭い取っていく。
 だからそこには 「退屈さ」 しか残らない。
 さらに “美学的” なことをいえば、そこには 「デカダンス」 がない。
 
 私が究極の “都市美” を感じるのは、映画 『ブレードランナー』 に出てくる近未来のロサンゼルスや、押井守のアニメ 『イノセンス』 に出てくる2030年の未来都市のような、デカダンスを秘めた都市に限られてしまう。
 ときには、廃墟そのものに 「美」 を感じる。
 
▼ 『ブレードランナー』 に出てくる未来のロサンゼルス

 
▼ 『イノセンス』 で表現された2030年の都市

 
 そういう “不健全な” 嗜好は、あまり多くの人の共感を得られないだろうと思っているから強く主張する気もないのだけれど、ショッピングモールの景観は、そういう私の嗜好の正反対にあるから、「嫌い」 なのである。
 
東浩紀の 「ショッピングモール賞賛」

 こういう私のようなショッピングモール嫌いの人間たちに、最初に挑戦状を叩きつけた思想家は東浩紀 (あずま・ひろき) であったかもしれない。
 彼は、ショッピングモールの重要性を、思想的な意味としていち早く捉えた言論人の一人であった。
 2009年11月に発行された 『週刊朝日』 の連載エッセイ (東浩紀の批評するココロ 29回) において、彼は次のように書く。
 
 「ショッピングモールというと、潤いのある生活に対極にある、粗雑で商業主義的な存在だと考えられがちで、商店街を破壊する悪の元凶として語られることも多い。
 しかし現実はどうか。都市近郊の生活者、とくに子育て世代であれば、ショッピングモールの社会的機能を簡単には否定できないはずだ。
 成功したモールは多数な消費者を集めている。ブランドショップに通う客もいれば、数百円しか使わず、フードコートに居座る高校生もいる。車が入らず、バリアフリーが整備されているから乳幼児や老人も安心して歩くことができる。
 つまりモールは、一種の公共空間として機能している。それを否定してしまえば、(今の都市で起こっている) 現実を捉えることはできない。
 したがって僕は、かねてより 『ショッピングモールを未来の公共空間の雛形 (ひながた) として捉えるべきだ』 と主張してきた。
 (ショッピングモールは) ゼロ年代を象徴する光景であり、言論はその光景の意味に正面から取り組むべきなのだ」
 
 ここで東浩紀は何を言いたいのか。
 
 「ショッピングモールは便利ですよ」
 と言いたいわけではない。
 「ショッピングモールを語れ」
 と言っているのだ。
 
 つまり、「ショッピングモールは未来の公共空間の雛形なのに、従来のメディアはあまりにもその存在の重要性に気づいていない」 。
 だから、「メディアはその意味について、正面から取り組むべきだ」
と言っているのだ。
 要するに、 “現代都市論” のテーマとして語れ、と言っているのだ。
 
 最初、この東浩紀の文章を読んだとき、かなり奇異な印象を受けた。
 私自身がこの人に抱いていたのは、戦後を代表する日本の思想的な営みに対して、そのほとんどが有効性を失ったことを論証するニヒルな批評家というイメージだった。
 
 上記の文章からは、そのニヒルさがストンと抜け落ちている。
 代わりに、あっけらかんとした (ショッピングモールに対する) 現状容認の姿勢が素直に述べられている。
 
 それが意外であったが、よく読めば、彼は相変わらず 「既成の言論の保守性」 を批判しているわけで、むしろそっちが主眼であり、ショッピングモールはそのためのネタとして使われているだけかもしれない、という気もした。
 
ショッピングモールを “語る” ことがトレンドになる時代
 
 同じく、若手評論家として 『ゼロ年代の想像力』 、『リトル・ピープルの時代』 などの著作を著している宇野常寛も、ショッピングモールを、既成メディアを批判する素材として使っている。
 宇野は、次のように語る。
 
 「ゼロ年代のサブカルチャーで多用されるメタファーはクリアでフラットな郊外。大型ショッピングモールとか、開けたロードサイドとか。
 そういった圧倒的なフラットで気持ちのいい空間こそが、ゼロ年代にあふれていたある種の希望の象徴だったと思う。何もないゆえに、なんでもできる。
 そして 『郊外のショッピングモール』 を 『喪失』 ととらえない世代は、どんどん新しいメディアを立ち上げて、どんどん人材を輩出していった。しかし、それを既存の新聞やテレビといったメディアはとらえてない」
 ( 『時代を斬る 若手対談 東浩紀&宇野常寛』 週刊朝日 2010 1/22号)

 宇野常寛の言っていることも東浩紀と同じで、
 「若い批評家たちと、旧世代の批評家やメディアとの思想的な差異とは何かといえば、それは “ショッピングモールに着目しているか否か?” という点である」
 と述べているわけだ。
 
 まさに、ショッピングモールを評価することこそ若い言論人の使命である、といわんばかりである。
 逆にいうと、それだけ旧世代の言論人たちは、ショッピングモールを嫌うか無視するかという態度に終始していたということなのだろう。
 
 そのような流れを整理するように登場したのが、前掲した速水健朗氏の書いた 『都市と消費とディズニーの夢』 (角川ONEテーマ21) である。
 本の帯には 「ショッピングモール化する世界」 というキャッチが添えられている。
 
都市とショッピングモールを分けることが困難な世界

 この本の主張は、前述した東浩紀、宇野常寛という若手論客と同じものであるが、より現状に即したレポートを添えて、現代都市において激しく増殖しているショッピングモールの “意味” を捉えようとしている。
 
 著者の速水氏に言わせると、
 「現代の都市を定義するならば、それはショッピングモールの定義と変わらなくなってきている」 という。
 すなわち、(冒頭の記述の繰り返しになるが … )、
 「現代都市と、いまどきのショッピングモールは、少しずつ姿を変えながらにじり寄る関係にあり、近い将来、その両者を区別することは困難になって、どこまでがショッピングモールなのか分からなくなってしまう可能性すらある。つまり、ショッピングモールについて語ることは、現代の都市について語ることでもある」
 
 では、いったい “現代都市” なるものは、どのように変貌しつつあるというのだろう。
 
 著者は、まず、現在東京を中心に再開発されたさまざまな施設を具体的に述べていく。
 たとえば、今年新設された施設のなかで、もっとも話題を読んだ 「東京スカイツリー」 について、それがどのような施設であるかを語る。
 
 「東京スカイツリーには、端 (はな) からプラネタリウムや水族館といったアミューズメント施設が備わった大型のショッピングモール 『ソラマチ』 が併設されている。(しかし) むしろ東京スカイツリーが 『ソラマチ』 というショッピングモールの一部であるという感覚である」
 
 つまりは、スカイツリーには、電波塔としての存在意義など最初からなく、それ自体が、膨大な観光客を引き寄せるショッピングモールの “広告塔” であったというわけだ。
 
▼ 東京スカイツリー (同書の口絵より)

 
 あるいは、羽田空港の新国際ターミナル。
 
 「新国際ターミナルにつくられた商業施設では、出入り口には、江戸の街並みを模した 『江戸小路』 という飲食・専門店街と、アニメやキャラクターを全面に展開し、『体感型』 を売り物にした 『 TOKYO POP TOWN 』 というスペースが接続されている。この両施設を合わせた呼称が 『 E・DO MARKET PLACE 』 である。
 これは、公共性の高い空港という場所に競争原理が導入されて生まれた商業エリアといえる。特筆すべきことは、それがテーマパーク性を持っていることである」
 
 ここで取り上げられる 「テーマパーク性」 というのが、現在のショッピングモールを構成する一大要素であり、著者は、そこに 「ディズニーランド」 の創業者であるウォルト・ディズニーの夢が、形を変えて世界中に広がっていることを確認する。
 
 さらに、2012年に新装される東京駅。
 
 「東京駅は2012年に改修を終えると、正式に 『東京ステーションシティ』 を名乗る商業施設となる。これは従来の “駅ビル” とは似て非なるものである。
 その業務は、東京駅側で設計したスペースを業者に貸し出して、テナント料を取るという形で行なわれる。要するに、駅そのものをショッピングモールにするということなのである」
 
 ここでは、ショッピングモールの運営形態が、貸主と店子 (たなこ) の自由契約に基づくものであり、いわば市場原理のもっとも自由な展開が許される空間であることが説明される。
 
ショッピングモーライゼーション

 ここに掲げた 3つの施設に共通するものは何か。
 
 それは 「競争原理」 の導入であるという。
 
 2012年に新装される東京駅、2010年に新規開業した羽田空港新国際ターミナル、そして2012年に開業した東京スカイツリー。
 これらは、もともとは鉄道駅、空港施設、電波塔という、それぞれ公共性の高い施設であり、従来なら非営利的な運営が行われていても、さほど気にとめる人もいないような場所だった。
 しかし、その集客力において、それらの施設は、他の商業施設などが束になっても敵わない絶対的なキャパシティを備えている。
 そこに民間の競争原理を導入して、より商業施設としての機能を高めようと考えるのは、資本主義の当たり前の精神である。
 … と、著者はいいたいのだ。
 
 そして、そのもっとも効果的で効率的な方法が、すなわち 「ショッピングモール」 としてリニューアル、もしくは新設されることである、という論法だ。
 
 このような民間主導型の施設運営が進んでいるのは、都市ばかりではない。
 たとえば、最近 「第二東名」 などで話題になった高速道路の新しいサービスエリア (SA) 。
 これなど、公共スペースに民間のサービスを導入し、競争原理が働くことによってサービス機能を向上させた格好の例である、と著者はいう。
 
 「民営化以降、SAは大きく変わった。以前はなかった地域の名物や郷土料理などが扱われるようになった。これは、他のSAとの違いを打ち出し、客を呼び込むという営業努力の賜 (たまもの) と言えるだろう」
 
 これも考え方によれば、立派なショッピングモール化である。
 
 さらに、著者にいわせると、
 「東京の六本木ヒルズや汐留シオサイト、そして六本木の東京ミッドタウン。これらの例を見ると、どれも商業施設、レジデンス (住居) 、そしてオフィス棟が総合的に配置され、その中核となる存在に据えられているのが商業施設、つまりはショッピングモールである」
 … ということになり、もう新しい建築物はすべてショッピングモールが軸となっているといわんばかりである。
 
 著者は、それを 「ショッピングモーライゼーション」 という造語をつくって説明しようとする。
 すなわち、20世紀の文明が 「自動車」 をパラダイムとした “モータリゼーション” によって規定されたように、21世紀の文明は “ショッピングモーライゼーション” という言葉で規定されていくだろう、ということなのだ。

次々とショッピングモール化する世界の観光都市

 そして、このような 「ショッピングモーライゼーション」 は、今や世界的なトレンドであり、特にアジア経済の興隆に乗って誕生するアジアの観光都市は、これからは、みな街全体がショッピングモールになっていくだろう、と著者は推測する。
 
 現に、高級ショッピングモールは、その新設数でいうなら、ドバイ、クアラルンプール、北京、シンガポール、マニラなどが上位に入ってくるのは間違いないことらしい。
 
 では、日本はどうなのか。
 
 著者は、東京の銀座が、まず生まれ変わったことに注目する。
 銀座といえば、かつては日本の繁華街の代名詞ともいわれるような町だったが、その後、新宿、渋谷、原宿、六本木といった新興都市にその地位を奪われ、いっとき “さびれゆく過去の繁華街” のように扱われた時代があった。
 
 その銀座が、いまや外国人観光客の人気ナンバーワンの街になっているという。
 それは、街自体が大胆なリニューアルに踏み切ったことが大きい。
 
 たとえば、銀座の老舗デパートである銀座松坂屋。
 松坂屋は、家電量販店の 「ラオックス」 を出店させ、ワンフロア全面を家電売り場に衣替えをした。
 ターゲットは中国人観光客である。
 
 現在、訪日外国観光客のなかで、いちばん数が多いのは中国人であるが、その中国人たちがもっとも喜ぶお土産品が、欧州の高級ブランド品と、日本製炊飯器であるという。
 著者は、その中国人観光客向けビジネスに思い切って路線を転換した松坂屋に対し、
 「銀座松坂屋は、デパートとしてのブランディングを切り捨て、実利を選んだ」
 と評価する。
 そして、
 「訪日観光客が日本観光に来る最大の目的は、名所でも遺跡でも自然でもなく、ショッピングであるからだ」
 と書き添える。
 
 東京のお台場もまた、1990年代以降、ショッピングモールによって都市計画が進んだ街の典型である。
 
 1996年に開業した 「デックス東京ビーチ」 を皮切りに、「アクアシティお台場」 、「パレットタウン (含むヴィーナスフォート) 」 、2012年開業の 「ダイバーシティ東京」 などの例を見ても分かるとおり、お台場は狭い地域に大型ショッピングモールが集積した街となった。
 
 このお台場には、海外からの観光客がどんどん増えており、いまやその中軸施設のひとつ 「ヴィーナスフォート」 は、銀座に次いで中国人観光客が訪れる人気スポットになっているという。
 
▼ お台場にある 「ヴィーナスフォート」 では、天井がスクリーンになっており、青空や夕暮れなどの空の模様が周期的に映し出される。これは、ラスベガスのフリーモント通りという商店街のアーケードを模したものだという

 
 このように、都市がショッピングモール化していくことを 「未来の明るい展望」 として描く著者が、実は、この本で何度も強調していることがひとつある。
 それが、最初に指摘した、アンチ・ショッピングモール論に対する “反論” である。
 
 彼は書く。
 「ショッピングモールほど知識人たちに忌み嫌われている存在もない。建築家たちは、ショッピングモールを無個性で画一的で商業主義にまみれた建築と言い放ち、むしろ嘲笑の対象として語る。
 もう一方で、ショッピングモールを忌み嫌うのは学者たちである。彼らにとってみれば、モールはかつての共同体を崩壊させる存在であり、人々の財布を空にさせるための装置であり、ときには衰退する都市のスラムであったりするようだ。ある文化左翼的な政治理論研究者は、ショッピングモールは 『グローバル資本による植民地』 とさえ発言した」
 
 しかし、著者に言わせると、そのような “知識人” たちの批判は 「消費者の立場を忘れている」 ということになる。
 
 「 (知識人たちに) 嫌われているからといって、ショッピングモールがこの社会からなくなることはない。ショッピングモールを支持するのは消費者たちだからである。今日もショッピングモールは多くの人で溢れ返り、道路には交通渋滞を引き起こし、フードコートはでは席の奪い合いが行われている」
 
ショッピングモールは 「新自由主義思想」 の純粋表現だ

 ある意味で、この本は、ショッピングモールを忌み嫌う人たちへの “挑戦状” として書かれたような側面がある。
 
 その証拠に、彼は、
 「ショッピングモーライゼーションとは、都市に競争原理が導入され、公共的なスペースが最大限有効活用されるようになった変化を示す概念である。
 それを別の言葉に置き換えるのであれば、 “新自由主義的な街の変化” になるかもしれない」
 … などと、反ショッピングモール主義者たちが敏感に反応しそうな 「新自由主義」 なる用語をあえて挿入し、意図的に挑発しているように見える。
 
 そして、そのような挑発に乗る人間をあらかた見越しているかのように、次のような “挑戦状” も用意する。
 
 「新自由主義 (ネオリベラリズム) などといえば、社会の画一化やコミュニティの崩壊などをもたらすといったマイナスイメージで捉えられることが多い。
 “新自由主義的な街の変化” と言われたとき、多くの人は、まさに駅前商店街が衰退し、画一的な大規模チェーンに駆逐されるといった現象を思い浮かべるだろう。
 このように、(ネオリベ的な) 競争原理の世界では常に弱者が切り捨てられ、個性や多様性は失われるというイメージで捉えられてしまう。
 しかし、大規模チェーンの大型店舗の進出が、駅前商店街を衰退させ、シャッター街化させたというありがちな批判は、消費者の立場を無視した主張である」
 
 そして、
 「新自由主義や消費社会を端 (はな) から批判するという姿勢では、いま起こっている事態を理解することすら困難になるだろう」
 と、彼は、左翼っぽい旧文化人たちの世代を “挑発 (?) ” する。

 著者にいわせると、
 「ショッピングモールというのは、そもそもが中間層、もしくは富裕層のためのものであり、その存在を “貧しい” と感じるのは、日本の特殊な時代性のもたらしたものにすぎない」
 という。
 「日本では、ショッピングモールの急速な普及期である1990年代が、バブル崩壊後から約10年にわたって続く不況期と重なった。そのため、その時代にたくさん登場したモールは、日本では不況の象徴のように見えてしまった」
 
 だが、世界では、ショッピングモールは富裕層の台頭と結びつけて語られることが多く、アッパーミドルの消費の象徴であるからこそ、観光都市としてリニューアルされた場合に魅力を放つのだ。
 したがって、「ファスト風土 ( = 画一化した地方の貧しい風景を指す三浦展氏の表現) の象徴として捉えることは間違っている」
 というのが、著者のスタンス。

 ここにも、「格差社会」 や 「貧困率の上昇」 などで日本を語ろうとする旧左翼的文化人の言論に反発する著者の心が見え隠れする。


 
きれいごとだけの “まちおこし” はショッピングモールに勝てない
 
 それと同時に、巨大企業が運営するショッピングモールへの対抗手段として、地元商店街などが結束して行う 「まちづくり」 や 「まちおこし」 運動に対しても、著者は冷ややかだ。
 
 「 (地方の活性化がテーマとなるとき) 地域の遺跡や歴史的建築物の保護などを通して、また、ときにはB級グルメなどの新しい名物の開発を行って、価値ある観光資源を創出することで地域の発展を促そうというのが、ここしばらく、もっとも多く語られ、かつ実践されている手法である。
 そして、その多くは、 “人と人とのつながり” に重きを置いたコミュニティの再生を謳い文句の中軸に据える」
 
 しかし、そのような運動のほとんどが効力を持たないというのが、著者の見解。
 なぜかというと、そのような試みの多くは、人々の 「消費生活」 というものに対して真剣に向きあっていないからだ、という。
 
 人間は、「歴史の保護」 や 「人とのつながり」 だけで動いているのではない。
 もっと実利的な消費を求めて動いている。
 そういう人間のシビアな経済感覚を無視して、きれいごとの理念のみ並べた “まちおこし” がショッピングモールに勝てるわけがない。
 
 著者は、そのようなはっきりと挑発的な書き方はしていないが、たぶん言わんとしていることは、そのようなことだ。
 
人間の生き方は 「消費」 だけでは語りきれない
 
 以上、駆け足でこの 『都市と消費とディズニーの夢』 という本を (少々強引に意訳して) 紹介してきたが、その内容自体に関して、私はそれなりに “うなずく” ことが多かった。
 理屈として、そのような主張がなされることに対して、意義を唱えるつもりもない。
 
 ただ、やっぱり大きな問題が見過ごされている。
 それは、人間の生き方は 「消費」 だけでは語りきれないということだ。
 「消費」 とは、出費に見合ったインカムが保証されたときのみに成立する。
 その出費とインカムのバランスがどんどん崩れつつある時代に、ショッピングモールはほんとうに 「消費社会のドリーム」 として君臨し続けることができるのだろうか。
 
 そして、もうひとつ。
 近い将来、「消費」 という概念が変わるかもしれないということがある。
 
 20世紀までの 「消費」 は、すでに消費者の手元にわたった商品やサービスを、次に開発した新商品の力によって “陳腐化” させることで回転してきた。
 だが、そのような 「消費」 が成立してきたのは、膨大な資源や消費人口があったればこそ可能であったに過ぎない。
 
 資源の有限性や、人口減少が目に見える形で迫ってきた日本のような成熟社会において、そのような “20世紀的な消費” が、いつまで有効性を持ち得るのかどうか。
 
 『第四の消費』 を書いた三浦展氏は、そのことに気づいた若者たちが、お互いに必要なものを物々交換したり、貸し借りしあったりする 「シェア」 という方法で、限られた資源を有効活用する方法を見つけだしていることに注目している。
 つまり、「消費概念」 が変わる萌芽が現れているのだ。
 
 こういう視点に対して、速水健朗氏の書いた 『都市と消費とディズニーの夢』 という本は応えきれていない。
 著者の頭の中では、その答があるのだろうが、それが著作を通じては、うまく伝わってこない。
 
J・G・バラードの描いた未来都市はショッピングモールに近いのか?
 
 いろいろな意味で、速水健朗氏の書いた今回の本は、十分に練り込まれていないものを感じる。
 私は、彼の書いた 『ラーメンと愛国』 という本を、ほんとうに面白く読ませてもらった。
 しっかりしたデータ収集と、卓越した分析力と、それを背景にしたユーモアあふれる筆致が目立つ良書であったように思う。
 
 それに比べると、今回の本には、あわててつくったという性急さを感じる。
 なぜ、そんなに急がなければならなかったのだろう。
 たぶん、商品としての “旬” を逃したくなかったのだろう。
 
 練り込みが足りないというのは、その文章においても現れている。
 例えば、
 「経済効率性と消費社会化によって公共の機能が私的なビジネスの場になることの暴力性について、無批判な姿勢を批判する向きもあるでしょう。しかし、新自由主義や消費社会を端 (はな) から批判するという姿勢では、いま起こっている事態を理解することすら困難になるでしょう」
 などという文章は、一回読んだだけでは、すんなり頭に入ってこない。
 
 特に、「 … 無批判な姿勢を批判する向きもあるでしょう」 など、“批判” という言葉が重複するところなどは、十分に推敲していないのではないかとすら思わせる。
 
 著者がショッピングモールを肯定的な視点で書いたのは、自分が 「ショッピングモールの愛好家であるという側面が強いからだと思う」 と、彼はあとがきに書く。
 そして、その興味の発端は、SF作家のJ・G・バラードの 「テクノロジーと結びついた都市像」 にあったと告白する。
 
 私は、そこに彼のアンビバレンツを見る。
 練り込みの足りなさ、というのは、もしかしたら、そこに起因しているのではないかとすら思う。
 
 J・G・バラードの描く未来都市には、テクノロジーへの “畸形的は偏愛” は表現されていたとしても、それは、けっして現在のショッピングモールが体現しているような明るく、健康的で、清潔感あふれるものではない。
 むしろ、陰鬱で、デカダンスに満ちた、終末的な相貌を秘めたものだ。
 
 そこに、著者は 「詩的なもの」 を感じている。
 一方で、そういう嗜好を持ちながら、そのような “美的” なものを洪水のように洗い流してしまう 「新自由主義的で、競争原理に満ちた」 ショッピングモールを称揚しなければならなかったという立場の不安定さが、この本の “煮え切れなさ” につながっている。
 
 惜しい本である。
 この本が、J・G・バラードのような趣味性に貫かれたショッピングモール論であったなら、私はもっと手放しで賞賛し、きっと感化されて、にわかにショッピングモールの積極的な擁護者になったかもしれないのだ。
 
 
参考記事 「ラーメンと愛国」
 
参考記事 「 『第四の消費』 とキャンピングカー」
 
参考記事 「グローバリズムの退屈な風景」
 
参考記事 「商店街はなぜ滅びるのか」
  
参考記事 「日本の都市から消えた裏町」 
 
  

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都市と消費とショッピングモール への8件のコメント

  1. 磯部 より:

    地方に忽然と現れたショピングモールというものは、そこの人たちにとって、ハレの場ができたことであり、割と歓迎されていると思います。もちろん都市部も同様のものはありますが、都市部はそもそもハレで満たされている素地があります。
    ハレの場は、消費も活発になり、その高揚は新しいお祭りとも置き換えられる。
    そんな気がします。
    私はよく、お祭りに疲れると、神社の裏の原っぱで寝転がっていました。いまでも、ショピングモールから出ると、ホッとして一服したりするのがたまりませんね。

    町田さんの書かれているショピングモール論とはかけ離れた話とは思いますが、私が考えるショピングモールは、言わば、季節のない新しいお祭り、と思います。

    • 町田 より:

      >磯部さん、ようこそ
      >> 「季節のない新しいお祭り」 !
      よく感じが出ていますね。そうかもしれません。

      また、>> 「地方に忽然と現れたショッピングモールというものが、地元の人たちにとっては “ハレの場” 」 という感覚も面白いですねぇ。
      「なるほど。そういうものか … 」 と思いながらメール拝読しました。

      ショッピングモールというものを、どのように感じるかというのは、たぶんにその人の住んでいる地域に関係してくるかもしれないと、という気もしました。

      私などは、都会には住んでいますが、近くにショッピングモールがわるわけでもなし、(スーパーならいっぱいありますけど)、都心に出ても、東京ミッドタウンや羽田も、あまり意識もせずに通りすぎてしまいます。「なんだか、おしゃれな建物になったなぁ … 」 ぐらいの感覚で。

      だから、ショッピングモールというものを意識して接するときは、たいてい旅に出たときなんですよね。
      そうすると、「こんな建物を建てるより、自然のままの方がいいなぁ …」 なんて思うわけですが、それって、無責任な旅人の視線なんでしょうね。

      >> 「地元の人にとっては、ハレの場」。
      なるほど! … と思い、またひとつ勉強になりました。
       

  2. s-_-s より:

    商店街衰退の原因の一つには「息苦しさ」にあると思います。

    私達が商店街で買物をするとき、ショッピングモールの
    画一的でマニュアル化された接客はことなり人と人との交流が発生します。

    それは商店街を散策する醍醐味であると同時に、重く息苦しいことでもあるのです。
    そこでは、店に入るときからして相手の縄張りに踏み込む緊張感があります。
    個人商店での買物をする事は、相手のホーム即ちアウェイで試合する心境に似ています。
    書店一つとっても、広い店内にアルバイトのお姉さんしかおらず、気軽に立ち読みできる大型店舗のものに比べて、人生の大先輩であるおじいちゃんが、狭い店内の奥で新聞を広げる閉鎖空間で気を遣わずに立ち読みする事ができるでしょうか。

    「絆」「人情」などの一見美しい人間的な魅力にあふれた商店街も
    それがただ単に商品購入に集中したい消費者にとってなんとも息苦しいのです。

    勿論、その魅力の為に生き残る商店街も存在するでしょうが、それはショッピングモールが既に存在する場合に限定されるのではないでしょうか。

    • 町田 より:

      >s-_-s さん、ようこそ
      >> 「商店街衰退の原因の一つには “息苦しさ” がある」 というご指摘。
      それは、非常に分かります。
      私にも、そういう実感がありますから。
      そのことを、>> 「相手のホーム即ちアウェイで試合する心境」 と例えたのは、実にうまい表現であると感心しました。

      確かに、地元商店街で買い物するときは、何度か顔を合わせているうちに店主と口を利くようになりますし、その場合、必ずしもその人と相性が合うとは限らない。
      そうなると、だんだん敬遠してしまう、ということも起こりますよね。

      そう考えると、マニュアルどおりに機械的に接客してくれる店の方が気楽であるときもあります。

      でも、私などは、スーパーで買えるものでも、よく地元商店街で買ったりすることが多いんですよね。
      もちろん、商品によっても違いますし、店によっても違うわけですが、顔見知りになることで、いろいろ個別のリクエストに応えてくれることが多いもので。
      特に食材関係は、向こうもうちの家族構成などを考えて、微妙な量でも加減してくれるのがうれしいです。

      けっきょく、どんな商品を買うか。… という問題であるような気もします。
      本など買うときは、大型店舗の方が、じっくり商品を選べるのでありがたいし、それに顔見知りのお姉さんがポツンと店番しているような本屋さんだとエロ本買えないしね (笑) 。
       

  3. HIROMITI より:

    僕も、ショッピングモール考を書きました。読んでもらえたらありがたいです。

    • 町田 より:

      >HIROMITI さん、ようこそ
      ご無沙汰でございます。
      ブログ、リニューアルされたのですね。デザイン的にとても見やすくなって、より内容とのマッチングが図られたように感じます。

      HIROMITIさんの 「ショッピングモール論」 拝読しました。
      冒頭の17歳の女子高生が、お産した赤ん坊をショッピングモールのフードコートに置き去りにしたというニュースは知りませんでしたが、そのところからHIROMITIさん独特の 「ショッピングモール論」 を展開される論旨の組み立て方には、相変わらずの鋭さを感じました。

      基本的に、HIROMITIさんの論は、私が言いたくても言いにくかったことの大半を代わりに論じてくださったように思っています。

      特に、>> 「都市近郊の新興地には 『歴史』 がない」 というご指摘は重要なところで、「歴史」 がないゆえに、それに代わるモニュメントを欲しがるというのは、ある意味、新興文化の悲しい性 (さが) かもしれませんね。
      アメリカ人は、ヨーロッパ人たちのような歴史を持ちません。だから、擬似歴史的なファンタジーを持ちたくなる。それがアミューズメント施設としての 「ディズニーランド」 であり、商業施設としての 「ショッピングモール」 であり、娯楽文化としてのCGを多用した 「ヒーロー物語の映画」 だったりするのだろうと思います。

      したがって、アメリカ風の擬似歴史的なモニュメントを日本に導入するということ自体、日本固有の歴史を否定していることになるのですが、大半の日本人はそれに気づいていませんね。
      そのあたりのことを、HIROMITIさんは、「都会と田舎」 というキータームを使ってうまく解説されているように思いました。

      久しぶりに、面白い記事を拝読しました。
      今後また、ちょくちょくとおじゃまさせて頂きます。

      ブログランキングにも登録されたのですね。
      すごいですね! いきなり10位以内に入られているんですね。
      まずはおめでとうございます。
      喜んで、ポチさせてもらいました。
      また、お立ち寄りください。
       

  4. より:

    はじめまして。少し古い記事ですが書きますね。そうですね、僕もこのモールやサバービア的なものには愛憎入り混じった妙な感覚を覚えずにはいられません。

    確かに自分自身イオン(名前はサティだとかコロコロ変わるけど)で育った世代でもありますし全否定できないほどに侵されてる部分もあります。確かに便利な上にリラックスできて居心地もいいですし何も買わずに昼寝に来ても誰にも咎められません。にわか信じられないかもしれませんが「ステレオタイプな里山的ふるさと(これまた胡散臭いでしょw)」と同じように僕ら20代からすれば善き郊外の風景とさえ思えるほどです。画一化ということに関しては何も悪くは言いません。

    しかし地域の小さなコミュニティや、それこそ吉田類が酒場をうろつく番組で登場しそうな場末の路地にひっそりとたたずむ、頑固親父によって営まれる看板もないような居酒屋にあふれる人情味がないがしろにされてることはムカつきますね。個人経営の路上店はたしかに儲けも知れてますし、コミュニケーションもめんどうです。しかしそのスロウさにこそ本当のクオリティが内包されるように思えるので個人的にもあえてその「めんどくさい」個人店にカネをつぎ込むようにしてます。

    むろんインスタントなものも必要があって登場したわけですし、時にそっちの方がいい場合すらありますが、薄っぺらなインスタントさは人間的な深みには本当のところ勝てないと思うのです。結局、いくらインスタントにしてアンドロイドのフリしたって我々は人間なんですから。

    僕は音楽畑の人間なのでこういう話になっちゃいますが(笑)、このような傾向を揶揄したvaporwaveという音楽シーンが現在アメリカのスノッブな一部の若者を中心として持ち上げられてます。主なテーマは80年代~90年代初期のバブル期の日本の異様な雰囲気やそれに対するシニカルな批判、そして同時にその時代への懐古的憧憬も含まれ、それはまさに僕自身が感じるモールへの愛憎入り混じった矛盾気味な感情なのだと思います。実際にそう言われてますしね。音楽的にもAORやフュージョン、スムーズジャズなんかのピッチを下げたリミックスに奇妙な日本語のタイトルと怪しいCGグラフィックのジャケ写をつけたものが大半で、悪意混じりにわざとゴミ一歩手前みたいなことをする特徴があります。

    https://www.youtube.com/watch?v=et89zeSPs4M

    それは90年代育ち特有のひねくれたセンスに起因するものでしょうが、そんなモールで育った世代にすら違和感を感じさせてしまうモールのパワー、ある意味すごいと苦笑せざるを得ません。モールのせいにしようというわけではありませんが、僕らがまっすぐ育てなかったのと全くの無関係にも思えないように感じます。^^;

    • 町田 より:

      >ぽ さん、ようこそ
      こちらこそ、はじめまして。
      ショッピングモールに関して、20代の方の貴重なご意見を賜ることができて、非常に勉強になりました。
      モール的なものへの >>「愛憎入り混じった妙な感覚」というのは、私にもよく分かります。
      私自身も、モール的なものが内包する画一性みたいなものに辟易する一方で、その快適性に身をゆだねていることを否定できません。

      実は、2ヶ月くらい前に、東浩紀氏の『弱いつながり』という本を読んでいて、(いつか感想文を書こうと思っていたのですが…)、その中で東浩紀は次のようなことを述べています。(※ 少し途中を省略しています) 

       「 …… 世界はいま急速に均質化している。20世紀には、旅(に出れば)まったく異なる他者、まったく異なる社会に出会うことが可能だった。けれども21世紀には、世界中のほとんどの人が、みな同じようなショッピングモールに行き、同じような服をまとい、同じような音楽を聴き、同じようなファストフードを食べる、そういう光景が現われると思う。
       この変化を批判する人もいる。たしかに、地方性や固有性がフラットに均され、世界中がマクドナルドとハリウッドに収斂していくのは退屈かもしれない。
       しかし、そもそも人間は、民族や歴史の差異にかかわらず、みな同じ身体をしている。
       となると、求めるものにそこまでバリエーションがあるわけではない。その前提のうえで、商業施設や交通機関といったインフラのデザインが効率的な形に収斂していくのは、別に暴力でもなんでもなく、一種の必然のように思う。…… そこで文化の多様性が失われるとしても、それはやはり歓迎すべき動きである。それは、アジアやアフリカの人々が、貧困や病気といった苦しみから今急速に解放されつつあることを意味するからである」

      この省察自体は、別に新しいものでも何でもなく、凡庸な結論であるともいえますが、彼自身は、そのようなインフラの画一性の果てに、一種のキッチュな遊び心の萌芽のようなものを感じたことが、別の章で述べられています。
      (詳しくは覚えていないのですが)シンガポールあたりのショッピングモールだったかの話で、なんでも日本の都市デザインをそのまま “引用” したようなエリアがあるとか。
      そこでは、日本の居酒屋とまったく同じような提灯を掲げた(吉田類が好きそうな)飲み屋があったりするわけですが、よく見ると、日本語っぽい形をした無意味な象形文字。
      デザイナーが不勉強で日本語を模したというレベルではなく、明らかにパロディー。彼はそのようなエリアを観察して、ある種の衝撃を受けたそうです。
      コピーでもなく、批判でもなく、厳密にいうとパロディーでもない。
      画一性の果てに、なんとも奇妙な人間の新しい生存空間が生まれてきたことの発見とでもいうのでしょうか。
      私は、その記述を面白く読みました。

      音楽のことは詳しくは分かりませんが、もしかしたら、ぽ さんのおっしゃる「vaporwave」というムーブメントに共通したものがあるのでしょうか。
      >>「悪意混じりにわざとゴミ一歩手前みたいなことをする …」という感覚に近いものかもしれません。
      そうなると、“ショッピングモールの未来” は、J・Gバラードの描く未来世界へと近づくようにも思えます。
      そういう観測には、なぜかわくわくします。

      リンクを張っていただいた「telepath テレパシー能力者 – プレジャープラネット」は面白く拝聴いたしました。
      貴重なコメント、ありがとうございました。
       

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