芥川賞 「冥土めぐり」 を読む

 
 久しぶりに、芥川賞を受賞した作品というものを読んでみた。
 鹿島田真希 (かしまだ・まき) 氏の 『冥土めぐり』 。
 
 最後に読んだ芥川賞作品といえば、確か平野啓一郎の 『日蝕』 (1998年) だったから、なんと14年ぶり。
  
 それ以外となると、ずっと古くなって、宮本輝 『螢川』 (1977年)、村上龍 『限りなく透明に近いブルー』 (1976年)、古井由吉 『杳子』 (1970年)、丸山健二 『夏の流れ』 (1966年)、柴田翔 『されどわれらが日々-』 (1964年)、宇能鴻一郎 『鯨神』 (1961年)、石原慎太郎 『太陽の季節』 (1955年)、庄野潤三 『プールサイド小景』 (1954年)、吉行淳之介 『驟雨』 (1954年)、井上靖 『闘牛』 (1949年) …… 。
 
 芥川賞も今回で147回目だというが、自分が読んだものは、そのうちのわずか12作であるから、実に少ない。
 ここ20年くらい、どのような新人が受賞したのか、その名前さえほとんどを知らない。 
 
 もっとも、芥川賞の受賞ということ自体が、かつてほどセンセーショナルな出来事ではなくなった。
 その昔、石原慎太郎の 『太陽の季節』 とか、村上龍の 『限りなく透明に近いブルー』 などが受賞した頃は、その年のビッグニュースベスト10ぐらいに入るほど話題になったが、最近はマスメディアで大々的に扱われることも少ない。
 
 小説を読む人口は減っていないと思うのだが、近頃は、芥川賞がプロ作家としての登竜門であるという意識が薄れてきたからかもしれない。
 村上春樹や、宮部みゆき、東野圭吾のような現在 「人気作家」 とされている人たちは、みな芥川賞とは縁のないところから出てきている。
 逆に、芥川賞を取ったからといって、その後あまり活躍したというウワサを聞かない人たちもいっぱいいる。
 
 ここ最近では、西村賢太の 『苦役列車』 (2010年) や田中慎弥の 『共喰い』 (2011年) などが話題になったけれど、ともに作者のキャラクターのユニークさの方に話題が集中した感じがする。「作品が社会を大きく揺り動かす!」 という扱われ方ではなかった。
 
 で、今の芥川賞の状況はどうなっているのか?
 “覗き見” の気分で、受賞作の全文が掲載されているという 『文藝春秋』 (9月号) をちょいと買ってみた。


 
 『冥土めぐり』 。
 いかにもオーソドックスな純文学っぽい感じのタイトルである。
 しかも、女流作家が考えそうな響きがあって、なんだか “女の業” みたいなものがテーマになっていそうな感じに思えた。


 
 話は、主人公の 「奈津子」 が夫と旅に出て、新幹線に座るところから始まる。
 
 「 (夫の太一は) 新幹線に乗車すると、四肢が悪いため、あちらこちらの席にぶつかって、自分の指定席を見つけるや、どかっと座り込む。身体が不自由なことに遠慮を見せないので、同情されるどころか、顰蹙 (ひんしゅく) を買うという理不尽さを、彼はまだ知らない」

 のっけから主人公の夫は、妻にとってはとんでもなく世話のかかる男として紹介される。
 夫は、いつもどおり妻に甘えて、コートを脱がしてくれと背中を向け、妻の買い与えたアイスクリームを、さも当然といったように、機嫌よくむさぼる。

 要するに、図体ばかり大きいが、心はただの幼児なのだ。
 脳の病気を患って以来、夫の太一は、妻のケアに対して感謝の念すら失って、ひたすら “食べて寝るだけの存在” になっている。
 そして、アダルトDVDやら女性ヌードグラビアを大量に買っては、それを部屋中に散らかし放題にして、女房の前でも恥じることもない。
 
 そんな夫を、主人公は 「夫という人間を見ているよりも、理不尽という現象そのものを見ているかのように」 感じる。
 
 そして、新幹線に揺られながら、ふと、はるか昔、「借金苦で一家心中した家族が、死ぬ前にディズニーランドへ行った」 というニュースを思い出す。
 
 そのとき、まだ子供だった主人公は、「死ぬ前にディズニーランドに行くなんて楽しいのだろうか?」 と疑問を感じていた。
 それからかなりの年月が過ぎた。
だから、
 「今はもう知っている。(一家心中する前だって、人は十分にディズニーランドを) 楽しめるのだ、ということを」
 と、心の中でつぶやく。
 
 そこのところで、読者は、ありりゃ? ひょっとして二人は心中の旅に出たのか? … と不吉なことすら考えさせられる。
 
 こういう重々しくて、疲労感たっぷりの書き出しを読むと、
 「ああ、いかにも “純文学” だなぁー!」
 と思うのだ。
 昔は、けっこう最初から 「人生って辛いんもんだぜぇ~」 とうめくような書き出しの小説が多かった。
 しばらく、そういうものを読んでいなかったから、とてつもなく懐かしいものを感じた
 
 主人公の奈津子は、夫以外にも “うんざりする” 人間関係を抱えている。
 自分の母と弟である。
 
 元スチューワーデスであることが自慢の母は、自分が若くて、美しくて、しかも贅沢な日々を送っていた思い出からけっして抜け出そうとはしない。
 そして、女の幸せは、「金のある男を射止めて、何一つ不自由のない暮らしを謳歌し、富と名声に包まれて、他人から賞賛されながら生きること」 という信念を手放そうとはしない。
 
 だから、夫になる太一を母に紹介したとき、主人公は母から屈辱的な仕打ちを受ける。
 太一に料理店の会計をすべて支払わせた挙句、礼ひとつ言わずに太一を追い返した母は、席に残った主人公にこう尋ねるのだ。
 
 「あの男、給料はいくら貰っているの?」
 そして、主人公がもらった婚約指輪を眺め、
 「小さなダイヤ、可哀想に」
 と嘆く。
 
 母の言葉に傷つく主人公に、さらに追い打ちをかけるように、弟がしゃべる。
 「あいつどこの大学出てるんだよ。政治の話も、芸術の話も一切しないじゃないか。俺は自分と対等に議論できる兄貴じゃないと嫌だなぁ」

 たぶんに戯画化された描写ではあるけれど、主人公がこういう肉親たちからストレスを受けていることは、その会話だけからも十分伝わってくる。

 母も弟も、絵に描いたような俗物で、二人ともブランド品が大好き。
 人間の価値は、いかにセンスのいいブランド品を見つけ出し、それを人より早く身につけるかということで決まってくるという思想の持ち主たちなのだ。
 
 で、この弟は、エラそ~なことを言うわりには、まともな仕事ができない。
 一つの仕事を長く続けられるような根気がなく、金に困ると、母の年金をくすねるか、主人公にタカるか、あとはサラ金に頼るか。
 弟は、そうやって、主人公が用意した現金を手にしても、すぐにギャンブルとキャバクラ通いで間に使い果たしてしまう。
 主人公は、その弟の尻拭いばかりさせられるような半生を送ってきたのだ。
 
 一方の母も、ひたすら主人公の稼ぎだけに依存して生きている。
 そして、生活費の支給が滞ると、
 「あんな金のない男と結婚するからよ。これでよく分かった? あんたは本当に親不幸な子だよ」
 と主人公をなじる。
 
 こんな身内たちに囲まれていれば、主人公のたまの旅行も、「冥土めぐり」 にならざるをえないだろう。
 
 果たして、この主人公が救われる日は来るのか?
 
 実は、これは 「人間の苦悩」 と 「その救済」 という、非常に宗教的なテーマに貫かれた小説であることが途中から分かってくる。

 人の気持を斟酌 (しんしゃく) することもなく、動物としての本能そのままに生きているような夫の太一が、途中から、むしろ人間としてはまっとうな 「精神」 を持っているのではないか? … と思わせるような描き方に変わっていくのだ。 

 たとえば、信号を無視して、横断歩道を渡ろうとする主人公の手を引き戻して、夫はいう。
 「子供がいる時は信号無視しちゃだめだよ。真似するでしょ」
 愚鈍なはずの夫にそう戒められ、主人公は 「まあ、一理あるわね」 とため息をつく。

 1泊2日のホテル泊の旅を終え、夫婦は波の打ち寄せる浜辺に行く。

 「砂浜に降りる。砂に杖を刺すようにして、太一は確かめるように進む。小さい子供たちが、二人を追い越していく。太一は子供たちを見て、かわいいなあ、と立ち止まった。
 野良犬が寄ってくる。太一はかがんで、犬を撫でようとする。だが、なかなかかがめない。だから、太一は犬に笑顔を見せた」
 
 思えば夫は、主人公から見れば 「社会性」 というものを全く備えていないように見えながら、それなりに多くの人に愛されてきた。
 それは、いったいどういうことなのか?

 旅行に出て、海を眺めているうちに、夫を眺める主人公の視線が変わってくる。
 夫の持つイノセンスに気づくのだ。
 ただ本能のおもむくままに生きているようにしか見えなかった夫が、子供たちにも、犬にも優しい気持ちを持っていることが、ようやく主人公にも分かるような書き方に変わってくる。

 夫は、砂浜に座って、電動車椅子を手に入れる計画を主人公に話す。

 「その車椅子が来れば、どこにだって行けるんだ。そして、何でも運べるんだ。なっちゃん (主人公の奈津子) の荷物だって車椅子で運べるんだよ」
 
 まるで、おもちゃを買ってもらう幼児のように興奮してしゃべる夫。
 その姿を見ながら、主人公は、この人は特別な人なんだと思う。
 
 この海辺のシーンで、愚鈍な夫が、とつぜん “聖なる存在” に昇華されていく様子を読者は見守ることになる。
 
 「もっとも聖なる者は、愚者の姿を持つ」
 
 キリスト教の、しかもギリシャ正教会では、聖人に対してそういうイメージを持っているらしい。
 実は、この小説の作者が、そのギリシャ正教系の教会に通っている信徒であることを、受賞インタビューに答えている記事から知った。
 ああ、なるほどな … と合点がいった。
 
 イノセンスな愚者にだけ備わる “聖なるもの” の気配。
 主人公は、それを夫の中に見出すことによって、はじめて本当の意味での安らぎを得る。
 そこに、「信仰に目覚めること」 のメタファーを読み取ることができるかもしれない。
 
 そのような境地が主人公に訪れたとき、ようやく彼女は、理不尽な母や弟の存在を受け入れ、それを許すことができるようになる。
 
 テーマの分かりやすい小説である。
 主人公が心の平安を得ていく終わり方には、さりげない形ながらも、深い感動が用意されている (多少、図式的ではあるが … ) 。
 
 もちろん、解説や作者インタビューなどを読まない限り、この小説から宗教的な匂いを感じる人はほとんどいないだろう。

 それにしても、実母と娘の相克、その母の虚栄に生きることの醜さとはかなさ、夫と妻の心理的なすれ違い、そして聖者の発見。
 まぁ、ヘビーなテーマが目白押し。
 久しぶりに、「純文学」 というものをたっぷり堪能させていただきました。
 
 

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