植物という不思議な生命体

 
 植物というのは、動物と比べて、なんとも不思議な生命体だと思うことがある。

 植物は、植わった場所から一歩も動きもせずに、その果実を小鳥などに食べさせることによって、繁殖地を広げていく。

 しかし、目もなく、耳もない植物は、なぜ鳥の存在を知ったのだろう。
 また、脳もないのに、その鳥のフンにタネを忍ばせて、鳥に運んでもらうという智慧をどこで身につけたのだろう。

 そう考えると、植物というのは、われわれが考える以上にしたたかな生物だという気がしてくるのだ。

 われわれのイメージする植物は、だいたい “平和主義者” の相貌をしている。
 それは、人に踏まれようが、動物に食いちぎられようが、大地から逃れることのできない受け身の存在として生きているように思えるからだ。

 しかし、なかには凶悪な素顔をもった直物もいる。
 椎名誠さんのエッセイを読んでいたら、こんなことが書かれていた。

 椎名さんによると、アフリカには 「ライゴンゴロシ」 という恐ろしい名前のついた植物がいるらしい。

 その植物は、鈎爪 (かぎつめ) の付いた10センチ程度の果実を持っているという。
 その鈎爪が、なんとも恐ろしいのだそうだ。
 爪自体がそうとう固く、鈎は鋭く、しかも 「返し」 が付いているため、それを動物が踏んだ場合は、たちまちのうちにその脚にからみつき、ちょっとやそっとじゃ抜くことができなくなるらしい。

 で、動物はそれを取ろうと思って、反射的に歯を使うが、今度は鈎が口の中に突き刺さる。
 口に刺さった鈎を前脚で取ろうとすれば、すかさず前脚にも取り付き、鋭い爪が口にも前脚にも食い込んでいく。

 そうなると、もうライオンなどは、狩りをするどころか、獲物も食べられなくなり、水さえも飲めなくなる。
 やがて、傷は化膿し、そのライオンは狂ったように死んでいく。

 なぜ、そんな凶悪な果実をもった植物が存在するのか。
 椎名さんによると、それも植物が身につけた生存エリアを広げるための戦略なのだという。

 つまり、そのように死んだ動物の死体には、やがて、ハイエナやらハゲタカなどのような死肉をむさぼる動物たちが寄ってくる。
 すると、果実の鉤爪は、今度はそういう動物たちを襲う。
 そのようにして、「ライオンゴロシ」 の生存圏は、サバンナ中に広がっていく。

 なんとも恐ろしい話を読んだような気がした。

 植物のそういった “智恵” は、どこから生まれてくるのか。

 動物がこの世に誕生するずっと以前から、植物はこの地球上に繁栄していた。
 彼らは、われわれ動物の大先輩なのだ。
 気の遠くなるような長い時間をかけて、彼らは “頭脳とは異なる部分” でものを考えるように進化したのかもしれない。

 やつらは、まず動物より、圧倒的に “世界” を知る感度が高い。
 なぜなら、動物よりその表面積がとてつもなく広いからだ。
 植わっている場所から移動しなくても、彼らは葉を茂らせることによって、一定の空間に最大の表面積を実現する。

 表面積が広ければ、それだけ “世界” に接している面を広げることになる。

 彼らは、動物以上に、雨のしずくの甘さを知るだろう。
 空気の湿った匂いや、風に舞い散るホコリのざらつきを敏感に察知するだろう。
 そして、遠くから接近してくる動物たちの気配を、器官で捉えることもなく、頭脳を通すこともなく知るだろう。
 そして、その動物が、自分たちに危害を与える動物なのか、うまく利用できる動物なのかを判断するだろう。
 
 植物、おそろしや!
 彼らの叡智には、いかに人間であろうとも、動物であるかぎり勝てないのではないか?
  
  

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

植物という不思議な生命体 への17件のコメント

  1. タイムジャンクション より:

    植物を種から発芽させて育てるのが趣味なので、いろいろな種類試しましたが・・・おそらく植物は宇宙から来たと信じています♂ 条件さえ揃えば10年20年前の種でも発芽する可能性高いですし。おじぎ草やハエ取り草などの動きのある植物もまるでセンサーがあるかのように瞬時に反応しますし、実が付く物は蜂や蝶を使い受粉させたり、花も季節を感じながら毎年間違えないで同じ色、形の花を咲かせますしね!!水と光と空気さえあれば光合成なんてことも出来るのも凄いです♂ それと人間の言葉も理解しているような気がする時もあります・・・

    • 町田 より:

      >タイムジャンクションさん、ようこそ

      >>「植物は宇宙から来た」 。
      それ本当でしょうか!? だったとしたら、すごいことですよね!
      でも、TJ さんのコメントを読んでいると、なんだかそんな気もしてきました。

      「おじぎ草」 や 「ハエ取り草」 などが、体内にセンサーがあるみたいに瞬時に反応するというのも、まるで動物みたいですよね。

      考えてみると、植物は神秘的です。
      >>「人間の言葉も理解しているかも」 という指摘も、「釈迦頭君」の時系列シリーズみたいに植物の観察に興味を持っていらっしゃるTJさんがおっしゃると、なんだかそんな気もしてきます。
       

  2. Take より:

    真偽のほどは確認できていませんが、アフリカのとある部族は方位を確かめるのに鼻を使うという話を聞きました。鼻にはそうした機能があったものの使わなくなったので退化したのだと。
    サボテンなどに声をかけると成長が変わるとも聞いたことがあります。やさしい声、いい音楽を聞かせると成長はよく、逆に罵声を浴びせると成長を止めたりする、と。こちらもどこまで本当かはわかりません。
    でも、目は目の機能、というのは人間が勝手に思い込んでいるだけで、植物は動物になっていくさなかに忘れ去っていく(捨て去っていった)機能を持ち続けているのかもしれませんね。
    蝉が最後の一瞬の短い期間を喜ぶように鳴いている、という話も(風情。人情的にはいいですが)もしかしたら温湿度の変化が少なく暮らしやすかった土の中から外の世界に出ざるを得ないことを恨んで鳴いているのかもしれません。外が良い、というのも人の勝手な判断でしょう。

    動物と植物との違いは、細胞壁があること、といいます。一つ一つの細胞が固い壁に守られているが故に形を変えることができない=移動はできない。それは良いことなのか悪いとなのか?(ただ、ガジュマルなどは根を使って水を求めて移動します)
    仰るように葉や根の広さは多くの動物の対面積(表面積)をはるかに凌ぐもので、そこからの情報はすごい大きなものがあるでしょう。
    動かなくても済むことは体力を使わないこと、生命体の維持としては理想的な姿ではないでしょうか?
    そう考えると、(すべてではありませんが)動物が短命で植物が長命は分かるような気がします。

    ところでベニクラゲというクラゲがいます。このクラゲはある意味不死身だそうです。
    蝶々は、芋虫の時は生命体で、それぞれの部位が機能しますが、さなぎになった時、それは一度クリアーされてしまうのだそうです。そして再度蝶になるとき部位が形造られるという不可思議な変態をします。
    生命って不思議で面白いですね。
    興味ある話でしたので、長々と失礼をしました

    • 町田 より:

      >Take さん、ようこそ
      コメント、とっても興味深く拝読しました。
      特に、>>「植物は動物になっていくさなかに忘れ去っていく機能を持ち続けているのかもしれない」 というくだりは非常にイメージがふくらみました。
      そこのところで 「鼻で方位を確かめるというアフリカの部族の話」 と結びついてくるわけですね。納得です。

      おっしゃるように、人間は、人間以外の世界を観察するときに、あまりにも 「人間」 というスケールで物事を測り過ぎますよね。だから、人間のスケール (基準) で測れたものは合理的な説明を付けられますが、人間のスケールから外れたものは、その存在価値を軽視しすぎてしまうのかもしれませんね。
      植物に対しても、「たかが草じゃねぇか」 という驕りが、どこかにあるかもしれません。

      植物の根や葉の表面積の広がりが、情報取得に関係しているかもしれないという省察は、自分が当てずっぽに言ったことを適切に補っていただいたように思います。

      面白いコメント、ありがとうございました。またひとつ勉強になりました。
       

  3. 今井 豊 より:

    ・植物は味覚が無いのにどうして甘くておいしい実をつけるのか?
    ・植物は視覚がないのにどうして鮮やかなきれいな花を咲かせるのか?
    要するに植物が動物の感覚をどのように手に入れたのか、という問題ですね?
    私の推測では今のところ次の二つです。
    ①人間が知らないだけで、本当はどちらの知覚もある
    ②動物と植物のゲノム同士でコミュニケーションしている

    人間八十年、こんなことがわかったところで糞の役にも立たないかもしれませんが、気になりますよね?
    ちなみに、私は地球上の生物は全て外来であり、植物と動物では星人系が異なると推測しています。

    • 町田 より:

      >今井 豊さん、ようこそ
      とても面白い考察で、なかなか勉強になりました。
      特に「人間が知らないだけで、本当はどちらの知覚もある」という見方は示唆的ですね。
      なにしろ、人間は地球上の全生命の頂点に君臨しているという意識が強すぎて、人間以外の生命を “下級の存在” と見なし勝ちです。そこに我々の驕りがあるのかもしれませんね。
      植物と動物では「星人系が異なる」という考え方も面白いと思いました。
      短いコメントながら、今井さんのお話は、ちょっとしたSF小説の趣がありました。
       

  4. 北鎌倉 より:

    四季や季節という概念は、植物からではなく太陽の動きからもともとはきています。太陽の動きが、この地球上の春夏秋冬を作り出しています。この太陽の動きに最も敏感に反応して生きていたのが植物です。太陽のもたらす光、熱、公転、自転といった大規模な働きを植物はよく感知し、それを自らの生きる仕組みに生かしてきたのです。こうした天体的な動きに反応するというのは、天体的な動きを自らの内に取り込むということです。つまり「天体の‐中に‐いる」というふうにして、常に天体の動きが植物の中で反復されています。植物はそれだけ天体的な動き方をしているということなのです。天体のような大規模な動きが、植物のような小さなものの中に取り込まれている。それは植物それ自身が、太陽を巡りながら、食と性を交替させる一個の惑星、いわば地球の生きた惑星になっているのです。植物たちは、こうして宇宙交響の宴に加わりながら、そこに生の彩を添えます。これが植物の心というものなのです。

  5. 北鎌倉 より:

    中学の教科書にはタンポポは葉緑素をもつので、光を受けてデンプンなどの栄養分を作れると説明されていますが、植物の光のエネルギーを利用する能力は、人類の模倣できないこの単純な化学過程が、どのようにして起こるのか、まだ説明がつかないのです。植物は光と水と空気だけを使って、たった一枚の葉っぱでデンプンを作ります。でも人間はまだ機械から作り出すことはできていません。植物の創り出すものは炭水化物で、それを作り出すのは理論上可能です。でも、厚さ1ミリの手のひらの大きさの中で、電気も機械も使わずに、水と空気を混ぜる合わせるだけで、いったいどうしてデンプンを作れるのか、人間には依然わからないのです。そういう意味では一枚の葉っぱは、わたしたちにとっては「奇跡」のような存在物なのです。

  6. 北鎌倉 より:

    目がなぜ植物に必要ないかと言えば、動かないために天体の動きを自分の内側に取り込んでいて、自ら食べ物を作り養うからです。
    動物はエサを求めて動きますから、目や感覚器官は生きるうえで不可欠となりす。
    アメーバのような単細胞は、敵不適の条件に対して、向背の運動をおこすだけですが、多細胞生物になると、外部に面した皮膚が外界の刺激を受け、近くを受容して触覚と味覚の器官に分化します、脊椎動物になると、近くのものから遠くのものまで感ずるようになります。遠方から波及した科学的な変化(臭い)や物理的な変化(音や光)に反応するようになり、嗅覚・聴覚・視覚がそなわるようになります。この遠隔の受容はついに人類では、何万光年の宇宙の彼方までを見ることができるようになります。鼻・耳・目はすべてからだの前端に集まり、しかも左右対称に配列します。近接の受容器官の触覚が体全体に広がっていることと対照的です。この前端を、顔とよびます。顔とは、植物と動物の全体を象徴するひとつの形態なのです。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      植物に対する一連の考察、たいへん勉強になりました。

      ≫「植物は、春夏秋冬をつくり出す太陽の動きにもっとも敏感に反応して、天体的な動きを自らの内に取り込む」

      ≫「植物は光と水と空気だけを使って、たった一枚の葉っぱでデンプンを作る。しかし人間は、機械からデンプンを作り得ない。植物がどうしてデンプンを作れるのか、人間には依然分からない」

      ≫「エサを求めて動きまわる動物にとって、目のような感覚器官は生きるうえで不可欠である。しかし、動かずに、天体の動きを自分の内側に取り込んで、自ら食べ物を作える植物には目が必要ではない」

      やぁ、面白い !
      どれもこれまで考えたこともない素晴らしい知見のオンパレードで、大変刺激を受けました。
      私の書いたブログ記事は、目も頭脳もない植物がなぜ動物たちよりも前に地球上に君臨し、かつ現在も動物たちよりも賢明に生きているように見えるのか? …という素朴な疑問をそのまま書き連ねただけのものですが、そのすべての答がこの一連のコメントで集約されていました。

      本当に、ありがとうございました。
       

  7. 北鎌倉 より:

    ヒトのゲノムにはどのくらいのDNA塩基対が含まれているか。いいかえれば、精子や卵子の核内に含まれる遺伝的命令文の全体は何個の文字(DNA塩基)で書かれているのか。核あたりのDNA量から推定するとほぼ30億です。仮に23個の染色体を構成するDNAの二重らせんの糸をすべて端と端をつなぎ一直線に引き延ばすと、約1メートルの長さになる勘定で、体細胞核ではこの2倍の二メートル。それで、人体の全部のDNAをつなぎ合わせると、長さが2000億キロメートル、地球と太陽の平均距離(約1億5000キロ)のほぼ130倍になるのは驚愕です。こういう記述はもちろん科学的ではありません。机上の試算です。でもこの試算には、極微なるものに秘められた力を、具体的な情景として思い描くための手がかりが含まれています。手品師が、大きなスカーフをもみながら手のひらに押し込んでいくと、どんどん小さくなって、本当に指の間に入って見えなくなる時があります。巧みに折りたたむことができれば、スカーフも見えなくなるほど小さく押し込めることもできるというわけです。遺伝子とか染色体も、もとは一つ一つがスカーフのような大きな「機能(かたち)」を持っていたのに、それが巧妙にたたみ込まれることで、見えなくされていたのです。逆にそのスカーフを広げて、つないでゆくと、地球と太陽の距離の130倍にも達するというのです。手品も顔負けの話です。

  8. 北鎌倉 より:

    体内の染色体をすべてつないだら、とてつもない長さになるという手品の話ではなく、そうした<極微なるもの>が実は<天文学的な広がり>を内包しているのだという、その具体的なイメージを思い浮かべられることなのです。別様に言えば、私たち地球上の生き物は、ふところの中にしまってある「手」を出して伸ばしてゆけば、おおよそ太陽までは十分にとどくだけの長さは持っているということなのです。そしてその「手」を考えてみた場合、それがはじめからこちら側に折りたたまれてあったと考えるわけにはいかないところが次に問題になってきます。もともと、地球は太陽との関係で成立しているもので、つねに太陽との関係に左右されてきました。だから地球上に生き物が現れたというとき、太陽との関係を自らの中に取り込んでいない限り地球の上にいること自体ができなかった。つまり、そうした遠くにある太陽の動きに反応できる力が自らの中に収められていない限り、生き物は地球の上に存在することはできなかったのです。こうした太陽との関係、つまり太陽の動きに触れることのできる力が比喩的に言えば太陽までとどく「手」としてここで表現されているのです。その手はある。けれども折りたたまれ、極微なるものの形におめられているので見えない。見えないけれど、その手を伸ばしてみれば、机上の計算だけでも太陽との距離の130倍にも達するというのです。

    • 町田 より:

      >北鎌倉さん、ようこそ
      またまた面白いお話、ありがとうございます。

      ≫「人体の全部のDNAをつなぎ合わせると、長さが2000億km、地球と太陽の平均距離(約1億5000km)のほぼ130倍になる」
      ≫「地球は太陽との関係で成立している。だから地球上に生き物が現れたとき、太陽の動きに反応できる力を自らの内に取り込まない限り、地球上に存在することはできなかった」

      植物と太陽の話から発展し、あらゆる生命の生存の秘密を遺伝学や天文学の見地から分かりやすくご説明いただき、とても勉強になりました。

      なるほど。
      古代文明の多くは太陽神を第一の神として崇拝する信仰体系を確立していましたね。これなども、人間と太陽の関係を示唆しているのかもしれません。
      太陽神信仰がはっきりとあらわれるのは、エジプト文明ですよね。中南米のインカ、アステカ、マヤなどもそうです。中国も古代から「天帝」思想というものが普及して、そこには「空に輝く太陽」のイメージが重ねられています。日本も天照大伸の神話があるように、太陽神信仰と無縁ではありません。仏教でも大日如来というのは、要は太陽ですよね。

      太陽神を掲げた民族の文化体系をみると、みな農耕文明の国です。米、麦、トウモロコシ … そして野菜。要するに、古代人はみな、太陽の動きを自らの生命原理としている植物を栽培する農耕を通して、直感的に太陽の恩恵を意識していたといえるかもしれません。

      こういう太陽中心の宗教・哲学体系には、やはり「生命は循環する」という思想が潜んでいますよね。永劫回帰ですね。
      それはまさに、四季のリズムですよね。
      すなわち太陽の恩恵を授かった地球のリズム。

      こういう自然のリズムを失ったのが、ユダヤ教・キリスト教・イスラム教に代表される一神教的文明かもしれません。
      なにしろ、キリスト教などは “最後の審判” が下る日まで、時間は永劫に一直線に伸びきっていくわけで、「永劫回帰」といったときの “回帰” の部分が欠如する。

      そういう文明だと、「花が咲いて、実が地に落ちて、母体が枯れても、土に埋もれた実が再生する」という植物の生命サイクルにあまり重きをおかない。

      だから、彼らの間に普及した “戦争ゲーム” であるチェスは、一度奪った敵コマを再生させてやろうという発想がない。
      それに対し、日本の将棋は、奪ったき敵コマの命を再生して使う。

      ま、どんどん脱線していきましたけれど(笑)、… というようなことまで考えてみました。
      いろいろとありがとうございました。
       

  9. 北鎌倉 より:

    いやいやまったく脱線していません。町田さんのインタビューアーとしての受けて返す言葉の力能よくわかります。むかしのラーメンのどんぶりの縁に描いてあった、雷文の図柄がありました。あれは紀元前430年~420年頃のコドロスの画家の皿にある縁取り雷文様なのです。運動原理としての巻き出し巻き込みーー巻き出しは巻き込みを反復し、巻き込みは巻き出しを反復する、という意味なのです。つまり、太陽との関係、ひいては宇宙との関係を、自らの中に取り込んでいる状態を、古代の人は「巻き込み」として意識していました。古代の皿に描かれた文様の巻き込みは、迫力があって根本的な何かを訴えることができています。この巻き込みは、あの手品のように、ただ小さくなって折たたまれたというようなものでなく、それは世界として充満する「極微なるもの=分子」に反応して、それをとり込み、変化させる「化学=反応」の仕組みでもありました。微生物の巻き込みという活動があってはじめて私たちの巨大生物(微生物から見れば私たちはそう見えます)も成立し養われていたのです。

  10. 北鎌倉 より:

    チベットに咲く小さな花の生態を、テレビで見たことがあります。めったに雨の降らない3千メートル級の高原で、それらの花は、朝晩の温度差を利用して巧みに水分を補給していました。ガラスに水滴がたまるように、葉につく水滴をとり込むのです。氷点下の夜に対する、その防御の仕組みも見事です。夕方になると葉から水分を水滴にして、あらかじめ外へ出しておくのです。氷点下の間に、葉に蓄えた水分が凍って葉が破裂してしまわないためです。チベットの花は、昼と夜をの周期をよく了解しています。周期を科学的に説明したら、地球の公転自転にかかわる惑星規模の反復運動です。でもこの説明は、草木には似合いません。草木にとっての太陽は、実際には、光、熱、そして巡りの運動として感知されているものです。それが周期としての中身です。周期を知るとは太陽を知るということになっていました。太陽を絵に描けば、上の方にポツンと輝いているものにすぎません。でもそれは単なるものでなく、夜と昼を作り、暑さ寒さを作り、その温度をもとに、大地の上に大規模な大気の流れを作り出す源でした。この意味で太陽は世界の中の周期を作り出していました。周期を利用し読み取ることで植物は科学者が逆立ちしてもできないことをやってのけていました。

  11. 北鎌倉 より:

    植物は先を見越して生きています。ここで先とは、周期的にやってくる状態のことです。そのことに昔から気付いていた人に、粘菌の研究で知られた南方熊楠がいます。原生体の粘菌が、日光、日照、湿気、風の天候によって、ある時は茎となり、胞壁となり、胞子となり、糸状体となり、そしてまた原生体に戻ることを報告していました。粘菌も周りの状況によって自らを変えていたのです。ここにも太陽ー周期を感知して行動するさまがよく見いだされます。周期を感知するとは自らを周期体として作り出すことにつながっていました。それが原生体の粘菌を、茎ー胞壁ー胞子ー糸状体ー原生体と周期体に変形させる原動力になっていました。この「太陽感覚」が、あらゆる生き物の内部に、周期に反応する周期体のしくみを作り出しています。それは私たち動物の間では、「内臓」として継承されています。内臓は全く周期体です。大きな周期で見れば、内臓は、「幼少ー成人ー老人」という周期を生み出す源としてあります。また、日々の疲れをいやす昼-夜の周期体としてもあります。こういう周期体が植物神経に支配されているといわれてきたのも当然です。この内臓に対抗するのが「脳」です。言ってみれば、脳は「ことば」に感応し、内臓は太陽に感応しているのです。太陽に感応するということが、「ことば(ロゴス)」とはまた違った仕方で宇宙に感応し、世界を「考える」ことになっています。

  12. 北鎌倉 より:

    小学校以来私たちは植物と動物の違いについていろいろと教えられてきましたが、植物の生まれながらの合成能力が動物には全くない、この一点から両者の生き方が大きく分かれました。いながらにして、自分を養うことのできない動物たちは、ついにこの植物というエサを求めて、動かざるをえなくなってきます。泳ぎ(魚類)、のたうち(爬虫類)飛び(鳥類)、歩く(哺乳類)、といういずれも地球の動きに逆らった、ひとつの冒険をおかしつつあるものは冬の荒野に木の実を求めてさまよい(草食動物)、あるものは夜陰に乗じて、草食動物にとびかかり(肉食動物)、あげくの果ては、仲間どうしがおそいあう(人類)というさまざまの無理な生活の道を考え出します。つまりエサに向かって進むための感覚ー運動という生活が、動物たちにとっての、新たな一つの課題となります。太古の昔、単細胞生物の時代にすでに見られた二つの生き方が悠久の年月の間にかくも著しい違いとなって、私たちの眼前に展開されることとなりました。

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