ものを書くことの豊かさ

 
 心の中に浮かんだ “何か” が、まだ「言葉」の形をとらない状態にいるとき、それは、ひょっとしたら、いちばん豊かな状態なのかもしれない。

 たとえば、鮮やかな新緑に包まれた野山を見下ろし、その美しさを誰かに伝えたいと思ったり、あるいは自分自身で記録したいと思ったとき、人はそれを表現する「言葉」を探すだろう。
 もちろん、「きれいだ!」の一言でいいのだけれど、記録することを意識したりすれば、その「きれいさ」が、どのような「きれいさ」なのかを説明したくなる。

 で、「目に染みるような鮮やかさ」とか、「心が洗われるような爽やかさ」などという形容を思いつく。

 しかし、そう言葉で表現したとき、すでに何かが失われている。
 つまり、万人に理解してもらえるような「言葉」を思い浮かべたとき、最初に心を襲った、あのうまく言葉にならないような “得体のしれない” 感動は忘れさられていく。
 要するに、「言葉」を思いついたとき、何かが死んでいる。

 もの書きの多くは、誤解している。
 たくさんのボキャブラリーを持つことが、もの書きの条件だと思い込んでいる人は多いが、それは間違いだ。
 そうではなく、ボキャブラリーとして獲得される前の<原初の風景>をどれだけ感受できるかが、もの書きの条件となる。

 言葉にするということは、実は、妥協することである。
 どう処理したらいいのか分からないような原初の<感動>を、とりあえず、みんなが知っている言葉に置き換えて言いつくろうことである。

 そのとき、言葉はきれいに整理され、たぶん多くの人と共有できるものになっているだろう。
 しかし、そこには「愛」とか、「友情」とか、「思いやり」とか、「美しさ」とか、「正義」とか、誰にも否定できないような(だからこそ退屈な)言葉が並んでいるだけだろう。

 そのような、誰にも否定できないような “絶対的な” 概念こそ、「豊かさ」の敵だ。

 では「豊かさ」とは何か。
 それは、人が簡単に納得してしまうような、あらゆる言葉がまったく通用しないものと出遭うことだ。

 われわれ人間は、人間のスケールを超えた大きな何物かに出遭ったとき、言葉を失う。
 何かの書評で誰かが書いていたけれど、哲学者のカントは、こんなことを言っているらしい。

 「カントは『判断力批判』のなかで “崇高なもの” について触れている。(で、崇高なものとは何か? というと)激しい雷や巨大な渓谷のように “圧倒的な何か” を見て、呆然と “怖い” “美しい” と感じるときに現れるもので、相手があまりに大きくて自分とは比較できないときに感じる感覚が、 “崇高” なのだ」
 … と。

 で、このカントのいう「崇高さ」というのは、言葉の形を取る前に人間に訪れる “豊かさ” を指すのではないかと思っている。
 つまり、人間が “世界” を測るために考えた尺度を、軽々と超えてしまうような、圧倒的なスケール感 (それは物理的な大きさだけを意味しているのではない) 。
 それに触れたとき、われわれは言葉を失う。
 「言葉を失う」とは、言葉が生まれる前の状態にストレートに飛び込むことだ。
 そして、その中にこそ、本当の豊かさがある。

 別のところで読んだ話だが、文芸批評家のモーリス・ブランショは、
 「書くこと、それは、 “語り終えることのありえないもの” の残響になることである」
 といっているらしい。

 原典をあたったわけではないので、どういう文脈で語られた発言なのかよく分からないが、この発言は、近年とても気になる言葉として、自分の記憶の底に深く刻まれている。
 この表現の中で、気に入った箇所は2箇所。
 「語り終えることのありえないもの」
 そして、
 「残響になる」。

 残響とは、エコーだ。
 壁に当たって跳ね返った音が耳に入ってくる状況を指すが、跳ね返ってきたとき、すでに、最初の音は “沈黙の底” に吸い込まれている。
 だが、その沈黙は「無」ではない。
 「語り終えることのありえないもの」が眠っている茫漠と広がる沼のようなものだ。

 このブランショの言っていること自体が、「言葉」の奥に、とてつもない世界が存在していることをイメージさせる表現のように思う。

 それは、自分なりに解釈すると、けっきょくもの書きといえども、カントのいう「崇高なるもの」は、どんな言葉を尽くしても人に伝えきれないものであり、かろうじて、その「崇高なるものの残響」を言葉にとどめるしかない … と言っているように思える。

 われわれは、「言葉の力」を過大評価し過ぎてきた。
 言葉に「説得力」とか、「表現力」などというものを求めすぎた。
 だから、結果的に、われわれの言語生活は貧しくなった。
 「説得力」とか「表現力」が他者から評価されたとき、その表現者自身も、それで満足してしまう。そこで、すべてを言い尽くしたような気分になってしまう。

 しかし、そんなことはあり得ない。
 言葉の豊かさは、むしろ言葉にならなかったモノの方に残っている。

 それは、直感、触感でしか感知できないようなものかもしれない。
 しかし、同時に、それこそが幾千万ともいえる言葉を紡ぎだすパワーの源となるものなのだ。

 それは、日の射さない海底の奥に眠っている、名前すら知らない深海魚のようなものだ。

 もの書きは、その幻の魚に向かって、糸を垂らす。
 もちろん、それは海上に引き上げたとき、… すなわち文字にした段階で水気を失った干物のようになってしまう。

 しかし、その海の中に潜む正体の判らないものをたぐり寄せる瞬間こそが、もの書きにとっての最高の愉楽の時なのだ。
 
 
 参考記事 「シャバンヌ 『貧しき漁師』 」

 参考記事 「時間の止まる空間」
 
 

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ものを書くことの豊かさ への6件のコメント

  1. Sora より:

    町田さん今晩は。

    今回のテーマにおいて一番明確だと思うのですが、文化・芸術がらみで主張されていることに、いつも同じ底流があるように思うのですが。まったく、的外れの可能性ありますが、示してみなければそれもわからないものでしょうから、思い切って、述べてしまいますね。
    すこし、おつきあいを。

    その底流らしき命題を集約しますと、次のふたつ。
    ①言葉にはしにくい、したがって説明しにくい、ある種の源感動が人間には存在する。
    ②その源感動自体を大事に感受し、表現・創作しなくてはならない、文化・芸術にとって。

    ①と②をさまざまな事例で、形を変えながら、具体的に説明されますので、かえって共通項が見えにくく、議論がさらに進まないきらいがあるのではと、小生思っております。

    それで、少し一般化させてもらってよろしいでしょうか。

    まず②の命題の方から。これは言葉が感情をどう十全に表現できるかの問題ですね。
    ここの整理は、かの吉本隆明の提唱した概念が有効のように思います。
    吉本によれば、言語はすべて「自己表出」と「指示表出」に分けられる。野山の美しさを、「きれいだ!」と沈黙の中で思う、ないしはつぶやく、これが「自己表出」。一方、「きれいなのはあの山です」と誰か他人に向けて説明、伝達する言葉が「指示表出」です。「指示表出」をさらに磨いていけば「きれいなのは緑にか輝くあの山です」となる。言語は、根、幹、枝葉から成り立つが、自己表出、指示表出として外に表されたものが枝・葉の部分。根、幹の部分は沈黙(魂)だと。
    芸術は自己表出と指示表出が織り成すもの(「山は目に染み入るような鮮やかさです」)だが、芸術の大部分は自己表出で、魂に一番近い沈黙の部分を持つと。芸術は送り手の自己表出と受け手の自己表出の偶然の出会いにしか求められない。今日は、指示表出が過多になってきている。コミュニケーションの手段が多くなっているのも一因。一方、芸術的言葉(自己表出)は吐きにくくなっている。万葉の時代に比べて、芸術の部分が衰弱してきていると。

    私は、吉本のこの「自己表出」と「指示表出」という概念を用いることによって、「愛」「友情」等の言葉の過多使用がむしろ源感動を弱くしてしまうことがあるとか、言葉自体に感情表現の限界性があるのではなく、源感動の感受力が弱まっていることが表現の限界を招いているのでは、といった具合に言語の諸問題が、きれいに一般化して理解できる、と思うのです。

    魑魅魍魎(ちみもーりょー)として分りにくいのは、むしろ①です。①言葉にしにくい源感動が人間にはあるという、言葉にならない感動とはなんぞや、ということです。
    今回の町田さんの説明でも、カントの言葉を借りて“崇高なもの”だと。それは、人間の尺度を越えた、圧倒的なスケール感のある豊かなものだと。又は、モーリス・ブランショいわく、語り終えない残響だと。茫漠と広がる沼のような、とてつもない世界だと。直感、触感でしか感知できないもの。とまあ、私のように短気者にとっては、なんのこっちゃ!。

    吉本は、ぐちゃぐちゃ言わない。ここを単純に言葉の「根、幹の部分だ、沈黙の部分だ」と言い間接的に「魂」を示唆してバサッと詮索を切ってしまうのですが。

    それもそれ以上理解が進まないので、私は、あえてこの得体のしれない源感動(私の造語ですが)を3分類してみたいと思います。

    一つは人間どおしの交流から生じる源感動。特定のシチュエーション下で普遍的に生じる愛、憎しみ等の感情が存在するはずです。韓流ドラマは、この感情ツボを心得ており常にツボを刺激するストリーをうまく作る。

    二番目は、巨大な渓谷や圧倒的な自然、にふれて感じる源感動。人間が自然を前にして感動するストリーは何遍も繰り返されてきた。おそらく、自然を畏敬し怖れることが、かえって予期せぬ自然災害から身を守るすべだったのでしょう。自然に対し従順になるDNAを持つものが生き延びた結果、ということになろうか。

    三番目はその他、全部の言葉にならない源感動が含まれる。この記事の最後尾に参考記事として「シャパンヌ『貧しき漁師』」と「時間の止まる空間」で紹介するような「言い知れに寂寥感」「人のために供された空間に、人の不在を見つけたときのさびしい風景」。または、荒野の寂寥感も過去に頻出しましたね。簡単に言ってしまえば、われわれがふと感じては打ち消す虚無感ですよ。この虚無感を一生かけて凝視する人からほとんどのーてんきに過ごせる楽観主義の人まで、この感度は人さまざまですが。

    と、帰納的には3つの分類に収まると思います。したがって、生きる意味を見つける場合にもこの三つの源感動をエネルギーの源として、人は生きるともいえる。親子の夫婦の愛情交流を生き甲斐とする人、偉大な自然に矮小な自分をゆだね重ねて生きようとするタイプの人、極端に享楽的に又は逆に禁欲的に生きる第三の人群。それぞれのグループの生き方を主題にした文学もまたここに生まれる。

    とまあ、勝手に共通項があるという前提から、勝手な整理をしてしまいましたが。今後は、同様のテーマ展開があった場合、どのパターンに沿うものかを踏まえて考えてみたいと思っています。私としては、すっきりした気がしているのですが。

    勝手に、自分の書かれたことを整理されてしまいましたが、町田さん、これ的外れかなあ?

    • 町田 より:

      Sora さん、ようこそ。
      読み応えのあるコメントでした。
      コメントというより、ひとつの小論文のような質と体裁を整えていらっしゃるので、多少姿勢を正しながら拝読いたしました。
      いろいろ勉強になりました。
      特に、吉本隆明の 「自己表出」 と 「指示表出」 という概念は、昔 『言語にとって美とは何か』 を読んでもチンプンカンプンだったところなので、Sora さんの解説を読んで、「そういうことだったのかぁ!」 と、はじめて頭に入りました。

      また、Soraさんの造語である 「源感動」 を3つのパターンとして解析される整理の仕方にも感心いたしました。
      おっしゃる意味はよく分かります。

      ただ、吉本さんの言論論の分析や、Sora さんの整理の仕方には感服いたしましたが、実は、私はそのような解析そのものに、少し疲れています。… というか、はっきりいえば、違和感を抱いています。
      私にしてみれば、そのように 「整理」 したところには絶対残らないものが大事なわけで、むしろ 短気者? (笑) のSoraさんのおっしゃる 「なんのこっちゃ!」 の部分が楽しいんですね。

      基本的に、Sora さんの “言語論” を拝読すると、言語というものは、人間が管理してコントロールできるものという前提で考えていらっしゃるように思います。
      それは、「沈黙」 を <魂> という言葉に置き換えていらっしゃるところから推測するのですが、Soraさんのおっしゃる <魂> は、あくまでも人間の精神活動の結果として現れる <魂> であるように感じます。
      私が、言いたかったのは、そのような精神活動の <外> にあるもので、しかし、それがなければ精神活動すらうながされないような <何か> なんですね。

      英語でいえば、たとえば 「It’s A Beautiful Day」 といったときの、Beautlful Day を成立させている 「It」 に当たるもの。いわゆる 「仮の主語」 といわれるやつで、欧米人にとっても、それが何で主語であるのかよくわからないようなもの。
      その 「It」 の秘密に触れるようなものが、実は書きたかったんですね。

      だけど、そいつの正体を追い詰めることはあまりしたくない。(追い詰めると “神様”みたいなものを出さないと収まりがつかなくなりますから)。
      だから、それは、Soraさんからすれば、ぐちゃぐちゃ言っているように思える比喩のような形をとるしかなかったわけです。

      ま、俗っぽくいえば 「インスピレーション」 が生まれる秘密みたいなものですね。
      それは、それは必ず自分の <外> から降りてくるものだと思っています。
      『時間の止まる空間』 という記事は、そのインスピレーションの降りてくる状況を寓話のようなものとして描いたつもりでした。

      で、それは、「文字にした段階で水気を失った干物」 のようなものになってしまうと、自分では感じていたんですね。
      ただ、そのことを十分伝えきれなかった拙さ (つたなさ) みたいなものは確かにあります。ご指摘いただいて、それはよく分かりました。

      それにしても、私の駄文をもとに、わざわざ精緻な理論を展開してくださった情熱には感謝です。光栄に思います。
      ありがとうございました。
       

      • Sora より:

        私の“言語論”というよりも「町田考」みたいになってしまいました。

        考えることの少ない折、このブログにて自分も関心のあるテーマのとき、Soraは色々思索しております。(キャンピングカーを走らせているだけではありません)

        ただ思索した結果をだれに話しても、普通関心を示さないですね。私、空気がよくわかっております。 ただ町田さんは、私が感想を書くと真正面からお応えしてくれるわけで、非常にありがたく思っております。私みたいな読者がいると、“独り言”ですまないから(笑)大変だと思いますが。

        と、一応おことわりしておいて、少しだけ追加させてください。

        >そのように「整理」したところには、絶対残らないものが大事なわけで、・・「なんのこっちゃ!」の部分が楽しいんです。
        >だけど、そいつの正体を追い詰めることはあまりしたくない。

        そこまでのお言葉をいただいてありがとうございます。私は、町田さんブログに頻出する、言葉にできない心理機制(感動)、がわかったように思います。(えらく簡単に言うね)

        三番目の感動は、もっと一般化した名前をつければ、形而上的感動ないしは(意味合いを込める人には)啓示的感動です。この感動は、その感動の生起原因が説明できない(とみなす)ことが重要で、説明しちゃーおしめーよの世界だと思います。いずれ、神の素粒子が解き明かしてくれるでしょう(笑)。
        で、そこの、範疇に入るのだろうと。

        吉本隆明の「自己表出」と「指示表出」の概念は、今年3月25日のNHK放映「吉本隆明語る 沈黙から芸術まで」と題する2008年7月・昭和女子大講堂での講演の再放送で初めて知りました。私が録画を見ながら手帳に書きとめたものを、ここでご紹介しました。本コメントのために、私も「言語にとって美とは何か」上下のうち下だけ買ってきましたが、私もチンプンカンプンでした。
        おそらく、彼のこの言語論にしろ基本のテーゼは、「太陽は朝、東から上がって、夕方に西に沈む」的に単純な知見を言っているだけ。幻想論にしたって、「・・に沈む、と皆んな信じている。だけどなぜ、東なのか西なのかは知らない」程度の知見。それを、古今東西の膨大な書籍を例にして、著作者の内面の心理まで微細に(「朝に歯を磨いた動機深層は・・」)立ち入り説明するから、たいていの読者は圧倒され、幻惑されてしまうだけ。
        だから逆に、講演会で彼の話をきくと、時間制限があるから要点だけを聞かせてくれて、判り易いのがミソだと今回思いました。
        しかし、基本テーゼ自体は的を外れていないから、私の例のように、死後も彼の亡霊、言霊にしばらく引きずられるのでしょうね。

        ここまでです。

        • 町田 より:

          >Sora さん、ようこそ
          またまた示唆的なコメント、ありがとうございます。
          Sora さんの 「町田考」 のおかげで、こちらもいろいろ頭の中を整理することができました。
          特に、中段 >>「 … 三番目の感動は、形而上的感動ないしは啓示的感動を意味し、それは由来を説明できないことが大事で、説明しちゃーおしめぇよーの世界 …」 というくだりは、これまで私がいわんとしていたことを、適切な 3行で要約してくださったものと思います。

          話はいったんズレますが、昔、心理学者の岸田秀の著作をずっと読み込んでいた時期がありました。30年ぐらい前でしょうかね。『ものぐさ精神分析』 という本が評判になって、読んでみたら面白くて、刊行されている本を次々と買いあさり、仕事にかこつけてご自宅までインタビューに行ったこともあります。

          岸田さんの基本理論は、「人間は本能が壊れた動物である」 というところにあり、 「本能が壊れて、何をすべきかという規範が失われたからこそ、人間は “文明” を発明した」 というようなものでした。( 当時 「唯幻論」 などという言葉が流行りました)

          彼は文章がうまく、ロジックの展開が巧みなので、とことんハマりました。そして、人間の秘密みたいなものがみな “解った!” ような気になりました。
          だから、友だちにも読むことを勧め、知らない友だちには、自分の口から岸田理論を説いてまわり、まぁ、“岸田教” のマインドコントロール下に自分の方から入り込んでいったんですね。

          ところが、まるで憑き物が落ちたように、ある日突然、 “岸田的世界” が硬直した、退屈な、味気ない世界に見えてきたんです。
          「世界はそんなふうに固まっていない」
          ふと、そんな気がしたんですね。

          確かに、岸田理論は、ものすごく精緻に人間の恋愛感情が生まれる秘密やら、思考的エネルギーが沸き起こる理由やら、箸の上げ下げのクセが人によってなぜ違うのか … みたいな人間の行動パターンをうまく解析して、「現在目の前に展開している世界が、なぜ “そう見えるのか?” 」 という秘密をすべて解き明かしているように見えました。

          しかし、「ものごとの起源」 を論じる説というのは、当然、現在の結果とその起源をロジックでつなげなければならないので、どうしても硬直化を免れない。
          つまり、人間の不可思議さを、「本能が壊れた動物」 というひとつの “起源” で説明すること自体が、動脈硬化を起こしてしまう。それは、「起源」 でもなく、「仮説」 でもなく、「神話」 だ。

          つまり、あまりにも “世界” を整合的に整理しようとする理論は、それが確立された段階で、例外なく固まってしまう。
           
          たぶん岸田理論が突然つまらなく思えたのは、彼のほとんどの本を読み尽くした結果、周囲をぐるっと “理屈の壁” に覆われたしまったような閉塞感を感じたからなのではないかと思います。
           
          「もう “理屈の壁” はいいや …」
          そんな思いが言い知れず募ってきて、息苦しくなって、その <外> を求めたくなったんですね。

          「言葉が、言葉の形を取る前のもの」 に対する好奇心、… というか憧れは、岸田さんのような、システマティックでスタティックな説明体系への <外> に逃れたいという衝動から生まれてきているように思います。

          あまり、うまく伝わらなかったかもしれませんが、いろんな比喩を使って、ごちゃごちゃと 「言葉が失われる世界」 みたいなことを何度も言っているのは、たぶん、ロジカルに整理された世界に対する “うんざり感” のようなものをそこに込めようとしているだけかもしれません。

          そして、その 「ロジカルに整理された世界」 の最たるものが、科学ではなく、スピリチュアルみたいな 「神秘主義」 ですよね。「祖先の悪行が今のお前を行く道をふさいでいる」 … 風のチープなロジック。
          だから、「神秘主義」 の退屈感とも限りなく遠ざかっていきたい、とは思っているんですけどね。
           

  2. Sora より:

    町田さん、ご返事ありがとうございます。

    ロジカルに整理された岸田秀のコトバ世界も、神秘主義の語りかけ教義も、両極をすでに経験された上で、ご自分の形而上的感動を今、大事にしようとする町田さんの心境、なるほどそれならと、よく分かりました。

    両極のあいだ、そこを歩むしかないでしょうね。しかし、それは山の細い稜線をバランスをとりながら、自分を励ましながら歩き続けるようなものかも。。この稜線の果てに、”This must be the place.”の”the place” にたどりつけるかどうか・・という先のテーマへ、連なるのでしょう。

    私のほうは「理屈の壁」に囲まれた閉塞感、というよりできるだけその「納得の壁」を自分で積み上げて、そこでの自分だけの充足感を、まだ追い求めたいと思います。(すこしかっこいいな~)

    とりあえず、もう充足した気になっているSoraでした。

    • 町田 より:

      >Sora さん、ようこそ
      最後までご丁寧なフォロー、ありがとうございます。
      しかも、>> 「山の稜線をバランスを取りながら、自分を励ましながら歩き続けるようなもの」 なんて、カッコよすぎる修辞で飾っていただき、恐縮です。
      本人は、そんなご大層な覚悟など持っていないんですけど、そういわれると、少しくすぐったいような、でもうれしいような … という複雑な気分ですけどね。
      ありがとうございました。
       

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