ストレンジャー・ザン・パラダイス

 

 STRANGER THAN PARADISE

 「天国より奇妙な … 」
 という意味なのだろうか。この映画のタイトル。

 「ストレンジャー」 は名詞として独立して使われるときは、「異邦人 (ヨソ者) 」 の意味となる 。
 だからこのタイトルは、なんとなく、「楽園の余計者」 と言っているようにも感じられる。

 しかし、タイトルなど、どうでもいいような映画かもしれない。

 話の筋は?
 そんなものはないに等しい。

 テーマは?
 よく分からない。

 面白いのか、つまらないのか?
 ビミョー。

 だけど、見終わって、奇妙な興奮状態にいる。
 BSだったか、WOWOWだったか忘れたけれど、今年の春ぐらいに放映していた映画を、そのタイトルがあまりにも有名だったので、ハードディスクに録画し、ふと思い出して、さっき見終わった。

 1984年につくられたアメリカ映画。
 監督は、ジム・ジャームッシュ。

 1984年といえば、アメリカではロス 5輪が開かれ、『ビバリー・ヒルズ・コップ』 や 『ゴーストバスターズ』 、『ターミネーター』 などの映画がヒットし、マドンナは 『ライク・ア・バージン』 でブレイク。マイケル・ジャクソンは 『スリラー』 を発売して “キング・オブ・ポップス” に登りつめた。

 繁栄を謳歌する、娯楽文化の華咲くアメリカ。
 しかし、この 『ストレンジャー・ザン・パラダイス』 に描かれるアメリカは、むしろ第二次大戦が終わって荒廃したヨーロッパのどこかの地のように、疲れ果て、物憂く、投げやりな表情をさらしている。

 こんなアメリカは、今まで見たことがなかった。

 ニューヨーク
 クリーブランド
 フロリダ

 “はつらつとしたアメリカ” をいかようにも描けるロケ地を選定しながら、監督のジム・ジャーニッシュは、舞台を終えた女優が疲れ果てて楽屋に戻り、けだるく化粧を落とすときのような、すっぴんのアメリカを描く。

 素顔をさらしたアメリカは、ニューヨークでさえ 『第三の男』 に出てくる濃い闇に埋もれたウィーンの街になり、クリーブランドは、繁栄から取り残された冷戦時代の東欧の郊外になり、フロリダは、カリブ海に浮かぶ貧しい島のような、寒々とした風景をさらす。
 ジム・ジャーニッシュの情熱は、まるでアメリカの中に隠された “異国” を探すことだけに注がれたかのように思える。

 似たテイストの映画としては、ジャームッシュの先輩格に当たるヴィム・ベンダースの 『パリ、テキサス』 があるが、この映画には、『パリ、テキサス』 に描かれた荒涼たるアメリカ中西部の風景もない。
 むしろ、アメリカからはじき出された風景のみを拾っているような感じだ。

 登場人物も、みなアメリカ社会では “余計者” の人生を送っている。
 職もなく、… というか働く意欲もなく、競馬やいかさまポーカーでその日の生活費を捻出している主人公。
 彼は、ハンガリー人であることを友だちにも隠しながら、ニューヨークの裏町で、その日暮らしの日々を送っている。

 勤勉に働くことを良しとするプロテスタンティズムの倫理とも無縁で、成功者としてのし上がるアメリカン・ドリームとも無縁な男。
 主人公には、上昇志向もない代わりに、貧乏な生活に対する危機感もない。
 「正義」 に加担する気持ちもない代わりに、「悪」 に染まる意欲もない。
 人間を、ある種のパターンに閉じ込めることでストーリー (物語) を構成してきたハリウッド映画には、およそ登場することのない人間である。
 
 そんな主人公のもとに、クリーブランドに住むハンガリー移民の叔母から電話が入る。
 叔母は 「自分が入院する間だけ、ブタペストからやってくることになっている従姉妹 (いとこ) を預かってくれ」 という。

▼ ブタペストからやってきて空港に降り立つ主人公の従姉妹エヴァ。彼女の背後の光景が、まるで第二次大戦後のヨーロッパのどこかの風景に見える

 人間とのつきあいに興味のない主人公にとって、たとえ美人であろうが、従姉妹は余計者。
 さっさとクリーブランドに住んでいる叔母のもとへ去ってくれればいいと思っている。

 彼女が叔母のもとへ行く日が近づいてくる頃、ようやく主人公に従姉妹への淡い恋心のようなものが芽生える。

 1年後、主人公は競馬仲間の友だちにクルマを調達させ、従姉妹の住むクリーブランドへ 2人で向かう。

 そして、その地で、ホットドッグ屋でアルバイトをしている従姉妹を連れ出し、(アメリカ人にとっては楽園の代名詞ともなる) フロリダまでの長距離旅行を企てる。

 言ってしまえば、この映画は、主人公とそのギャンブル仲間の友人、そして従姉妹の 3人が繰り広げるロードムービーなのだ。

 画面に登場するのは、ぽつりぽつりと取りとめもない会話を交わすクルマの中の 3人の無気力な表情。
 そして、安っぽく無機質なモーテル。
 

 “楽園” を目指しながら、彼らのバカンスには旅の高揚感もなく、主人公の淡い恋心は最後まで 「恋」 の形を取らず、従姉妹にはフロリダへの憧れもなく、主人公の友人には、奇妙な三角関係の居心地の悪さを感じる感受性もない。

▲▼ 右から、主人公のウィリー (ジョン・ルーリー)、従姉妹のエヴァ (エスター・バリ
ント)、主人公の友だちエディー (リチャード・エドソン)

 しかし、その彼らの噛み合わないバラバラの気持ちが、奇妙な笑いを誘う。
 こんな笑いもはじめて経験した。
 シニカルな笑いでもなければ、温かなユーモアに満ちた笑いでもない。
 いわば、気持ちのすれ違いが生むおかしみとでもいうのだろうか。
 彼らは、それぞれみな固有の優しさを抱えているにもかかわらず、その優しさを伝えるすべをもたないし、優しさを受け取る感性もない。

 凡百の監督なら、そこに 「現代社会を覆うコミュンケーションの貧困」 とか、「現代人の心の不毛」 などというテーマを見えやすい形で提示し、観客になんらかの問題提起を与えようとするかもしれない。
 しかし、ジャーニッシュは、そういう 「啓蒙的な主張」 からも遠ざかろうとする。
 ひたすら淡々と …、そう、まさに 「淡々と」 という言葉でしか表現できないような、3人のすれ違いの模様を、退屈なまでに長いワンショットシーンの中に描き込む。

 場面の区切りは、すべて、舞台に幕が降ろされるような画面の暗転で示される。
 真っ黒な闇がスクリーンを覆うたびに、観客は、「はたして、この先も同じ映画が続いているんだろうか?」 という奇妙な不安を抱え込むことになる。

 そして最後は、悲しくも滑稽な、ほんとうのすれ違いが 3人を襲う。
 

 その結末は悲劇的でもあるが、不思議なおかしさもある。
 かといって、喜劇とも言いがたい。

 「けっきょく何も起こらなかった」 、という索漠たる思いの中に観客を取り残したまま、映画はボソっと終わる。

 エンドタイトルとともに、ロックの名曲として知られる 『アイ・プット・スペル・オン・ユー』 が流れる。

 しかし、それは華麗で豪快なサウンドを展開するCCRのカバーではなく、古臭さと無骨さを漂わせるオリジナルのジェイ・ホーキンスの歌なのだ。

 映画の中でも、ジェイ・ホーキンスの歌は、従姉妹が欠かさず持っているカセットデッキから流れ続ける。
 従姉妹は、ジェイ・ホーキンスを嫌う主人公に対して、いつも反論する。
 「彼は最高の男よ。アメリカのヒーローだわ」

 しかし、エンドタイトルに流れる 『アイ・プット・スペル・オン・ユー』 は、擦り切れたレコードの雑音を拾っているような、不安定で、ぎこちない音をさらしている。
 それが、その音にしか “安らぎ” を感じられない従姉妹の殺伐たる心象風景を物語っている。

 ジェイ・ホーキンスのオリジナル曲がヒットしたのは1956年。
 ということは、この映画の時代設定が、50年代から60年代ぐらいに置かれているということなのだろうか。
 出てくるクルマのスタイルや登場人物の衣装を見ると、そのようにも思える。

 1980年代のアメリカに、こっそりとまぎれ込むように登場する1950年代。

 ジム・ジャームッシュは、空間的にもわれわれが見たこともないような 「アメリカ」 を掘り出してくれたが、時間的にも、いつの時代ともいえぬ 「幻の時間」 を掘り出したのかもしれない。
 
 
参考記事 「パリ、テキサス」

参考記事 「 映画 『ジェリー』 」

参考記事 「第三の男に描かれたウィーン」
 
 

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ストレンジャー・ザン・パラダイス への5件のコメント

  1. タイムジャンクション より:

    現実にもアメリカという国は不思議で場所も人も、明と暗、富と貧、時代よりも進んでいるような文化や昔のまま時間が止まったような文化や場所があったりがミックスされた国でつかみ所が日本人の感覚だと理解しがたいですけど日本やヨーロッパとは違う独特なものがありますね。 このストレンジャー・ザン・パラダイスのようなストリーはアメリカの50年代~60年代頃の連続ドラマのストーリーで見たことがあります。

    日曜日の夕方のFM聴きましたよ!!

    • 町田 より:

      >タイムジャンクションさん、ようこそ
      いつも示唆的なコメントありがとうございます。前回の自転車のハンドルの件も教えていただいて、よく分かりました。

      今回のアメリカの件、さすが渡米歴の長いタイムジャンクションさんのこと、アメリカのいろいろな側面をよく見ていらっしゃると感じました。
      つまり、アメリカは巨大な多面体みたいなもので、光を当てる角度によって、いろいろな色を反射してくるということなんでしょうね。

      日曜日のFM横浜の放送、聞いてくださったのですね。
      ありがとうございます。
      しかし、自分はうっかり忘れてしまって、聞き逃しました。
      局の方でそのうちCDを送ってくださるというので、それを聞いてみるつもりです。
       

  2. ZELDA より:

    とても興味深く読ませていただきました。
    皆さんこの作品に意味はないと書かれているんですが、個人的には意味はあるんじゃないかと思っています。(下は私のこの作品の記事です。)
    http://ameblo.jp/madamezelda/entry-12224125951.html

    ご意見伺ってみたくて、コメントさせていただきました。
    ご返信いただけましたら幸いです。

    • 町田 より:

      >ZELDA さん、ようこそ
       さっそく貼ってくださったリンクをたどって、ZELDA さんのページ(シネマ万華鏡)に飛んでみました。

       で、ZELDA さんの『ストレンジャー・ザン・パラダイス』論を拝読。
       いやぁ、とっても面白かったです。
       …… ああ、なるほどね、と思いました。

      ≫「あのウィリ男とエヴァ子がブダペストとフロリダへと盛大にすれ違ってしまったラストシーンは、お互いに相手と一緒にいたいという思いがあったからこそのスレ違いであって、漸く2人の気持ちが明確になった瞬間なのかなと思っています」

       というのは、実に小気味よい解釈ですね。
       映画が進むにつれて、ウィリ男のエヴァ子に寄せる想いがだんだん濃くなってきたなぁ … という感触は持っていましたが、2人の愛がついに交差する瞬間を、すれ違いという “断絶” によって捉えるという視点は鮮やかでした。
       お洒落な解釈だと思います。
      :
       ZELDA さんのように、この映画を二度見ると、より味わいの深い作品に感じられていくのでしょうね。

       それにしても、ZELDA さんのような映画をユニークな視点で処理できる才能に恵まれた方から注目いただくなど、光栄なことです。
       また何かありましたら、ご指導ください。

       プロフィールを拝読すると、好きな漫画が『日出処の天子』だとか。
       私もこの作品が大好きで、一度ブログネタとして扱ったこともあります。

       『明日に向かって撃て』の映画レビューも面白かったですよ。
       ブッチとサンダンス・キッドの仲が、ゲイである。
       これも言われてみると、あぁ、なるほどね ! と納得です。
       最後のストップモーションの終わり方も、良かったですよね。
       この映画は、私もブログで「ハリウッド超大作映画の終焉」というタイトルで記事化したことがありますが、これもZELDA さんの方が上手に本質をとらえていらっしゃいますね。
       勉強になりました。
       

      • ZELDA より:

        ひゃあ!
        読んでいただけるとは感激です。
        町田さんはとても美文の素晴らしいレビューをお書きになっていらっしゃって、私なんぞのレビューなんか読んでいただけるものかドキドキでしたが、ありがとうございます。

        映画の観方はいろいろあると思いますが、それでもただの独りよがりに陥っているのではないか・・・と不安になることがしばしばあって、この映画に関してはまさにそれでした。

        「明日に向かって撃て!」の記事も読んでくださり、ありがとうございます。
        町田さんの記事もぜひ拝読させていただきます(*^^*)

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