オウムのチープな教義を笑えるか?

 
 長年指名手配となっていたオウム真理教の逃亡者たちが次々と捕まることによって、ここしばらくオウム真理教にまつわる過去のエピソードを紹介するような報道が続いた。
 
 その流れを汲んでか、彼らの教義そのものに触れる知識人の発言もちらほらと伝わってきた。
 作家の宮部みゆき氏は、ある雑誌のインタビューでこんなことを述懐している。
 
 「オウム事件は、私にとってすごくショックでした。というのは、ああいうカルトに若い人が吸収されてしまったことが … 。
 フタを開けてみれば、教義の内容は悲しいほどチープな物語でした。
 あれに私たちプロの物語作家が束になっても勝てなかったということが、ものすごく悔しい。
 (中略)どうして、あんな教団の中身に説得力があったのだろうか。二度とああいうことを繰り返さないために、 (ずーっとそのテーマを追うような形で小説を書いている)」
 
 この発言は、うなづけるような気もするけれど、なにか肝心のことが見落とされているような気もする。
 
 まず「悲しいほどチープな物語」。 
 
 作家という知的な職業にいる彼女にとっては、オウムの教義は “悲しいほどチープな物語” に見えるのだろう。
 事実、私にもそう見える。
 
 しかし、もし彼らの「物語(= 教義)」が、大学の講堂で教えられる宗教哲学のような深遠な言葉で占められていたら、あの教団は、あれほどの信者を獲得することができただろうか。
 
 たぶん、哲学書じみたアカデミックな論法で説かれた教義であったなら、当時の若者の心をあれほど捉えることもなかっただろう。
 宮部みゆき氏のいう「チープな物語」だからこそ、それを可能にしたのだ。
 
 では、そのチープ感の正体とは何か?
 
 実は、私の手元に一冊の小冊子がある。
 『VAJRAYANA SACCA』というタイトルが付いている。
 「ヴァジラヤーナ・サッチャ」と読むらしい。
 地下鉄サリン事件の首謀者がオウムであると言われた出したことに対し、警察やマスコミに対する彼らの “抗弁” をまとめた冊子である。
 
 
 
 これを私は、通勤に使う駅前の歩道で手に入れた。
 オウムの修行服と思える白い着物を着た若い女性が配っていたと思う。
 他の通行人は、それを汚らわしいとばかりに無視して通り過ぎていたが、私は好奇心に駆られて、手を伸ばした。
 
 いつ頃発行されたものか。
 冊子に日付がないのでよく分からないが、表紙を一枚めくったところ(表2)に、
 「1995年3月22日、戦後最大の宗教弾圧が幕を開けた」
 というキャッチが謳われていることからして、彼らの宗教施設に強制捜査が入るというウワサが流れ始めた頃にまとめられたものだろう。
 
 安い紙を使ってモノクロだけで仕上げたチープなつくりだが、コンセプトはなかなかはっきりしている。
 サブカルチャー路線なのである。
 いわゆる宗教啓蒙誌にありがちな、明らかに 「向こう側に行った人が作っています」 的な “あの世感覚” がない。
 
 かつての『ポパイ』、『ホットドッグプレス』のような青年向け情報誌に、『噂の真相』が持っていた過激なスキャンダラス性を混ぜたようなつくりになっている。
 表2には、防毒マスクをした機動隊たちがみなオウムの雑誌を手にしている合成写真が使われ、1人の機動隊が「みんな読んだか?」と命令しているジョークが盛られている。
 
 
 

 ▲ 誌面の作り方が若者の娯楽情報誌風

 この “サブカルチャー的なチープ感” にこそ、オウム真理教が、当時の一部の若者の好奇心を集めた秘密が隠されているのではないか。
 
 彼らのプロパガンダは、とてつもなくご都合主義的でお手軽だけれど、そのチープさこそが、既成の宗教的権威や、既成のアカデミズムや、既成のメディアへのカウンターパンチとして機能しているのだ。
 そこには、金儲け主義と、現世的快楽に満ちたこの世をぬくぬくと生きている大人たちの醜さには耐えられないと感じる (当時の) 青年たちと “同じ高さの目線” が存在する。
 
 実際には、この教団は麻原彰晃という独裁的な教祖が意のままに教団を操る閉塞的な組織ではあったが、少なくとも、好奇心に駆られて、入口から奥を覗いてみようと思う人間から見ると、
 「このチープさなら、自分が劣等感を感じなくてすむかもしれない」
 という “お気楽さ” の罠が仕掛けられている。
 
 だが、「チープな罠」はそれだけではない。
 実は、チープであることそのものが「人の心を動かす」ことだってある。
 
 宮部氏は、「プロの作家が束になっても、チープなオウムの教義にかなわなかった」と述べるが、すべての人間が、宮部氏らの書く小説に想像力を刺激されるような訓練を受けているとは限らない。
 人間は、自分の想像力の及ぶ範囲を超えたものには、心を動かされない。
 
 人間の心が刺激を受けるのは、高踏的な趣味の小説よりも、案外、友だちから下校時にそっと耳打ちされた都市伝説のようなものだったりする。
 
 マスクを取ったら口が耳まで裂けていた女の話。
 誰もいないはずのトイレで、そっと自分の名を呼ぶ声。
 
 それらは、すべて “身体的感覚” である。
 脳を介して整理される刺激ではなく、皮膚から直接心臓を貫いてくる刺激である。
 
 チープなものとは、実は、この身体的感覚を呼びさますもののことをいう。
 
 そして、チープなものが、ある個人にとっては経験したこともないような身体感覚と結びついたとき、その個人には、高級な哲学など及びもつかないほどの「世界観」が降臨する。

 オウムは、まさにこの身体的感覚を教宣の根幹に据えた。
 ヨガや薬物による心身の変容。
 それを「修行」という反復行動と結びつけて強固なものにしていくメンタル操作。
 
 彼らは、徹底的に「チープさ」を戦略的に使いこなした。
 
 「ヘッドギア」と呼ばれる単なる電流が流れるようにした布製の被り物が、「教祖の脳波を再現する」ものとして信者の必需品となったのも、実用性を確かめようとする気力さえ萎えてしまうようなそのチープ感が、逆に、そこに飛び込んでいく信者の決意を固める力になったからではないかと思う。

 ある程度の高みまで登りつめたものは、その情報内容の豊かさにおいて、解釈の多様性をはらむし、受け取る人間に選択の幅を与える。
 
 しかし、チープなものには選択の余地がない。
 丸ごと拒否するか、その全部を受け入れるかのどちらかしかない。
 丸ごと受け入れた場合は、もう全面的に信じこむしか進むべき道はないのだ。

 そして、彼らが巧妙なのは、その教義にうさん臭さを感じる人間に対しては、時代を覆う閉塞感やら経済的な行き詰まりなどに関して、意外とロジカルな分析も用意していたことなのだ。
 
 たとえば、その小冊子を読むと、
 「日本経済が貧しくなってきたのは、国際石油資本(その大半が大財閥ロスチャイルドやロックフェラーの系列)を通してエネルギーを買わなければならないからで、そのような多国籍企業の戦略に従属している限り、日本が政治的・経済的に自立することはあり得ない」 
 などと説教し、さらに話を転じて、
 「したがって、農業でも工業でも、これからは自給自足の精神が尊ばれなければならず、自分たちで作ったものを備蓄して、将来戦争などが起こり、食料封鎖や資源封鎖が行われたときにも耐えぬく力を養っていかねばならない」
 などと説く。
 
 それらの主張は「エコ」にも通じ、災害への「備え」を語っているようにも思える。
 つまり、これらの言説は、現在もどこかで流通していそうなことばかりなのだ。
 
 どの時代にも通用するような凡庸な、… ということは庶民の日常感覚に深く根ざした政治・経済感覚に基づいた教義は、いとも簡単に一般的な共感を誘う。
 
 だから、「オウム事件」は終わったとしても、「オウムを呼び戻す環境」は何ひとつ変わっていないともいえる。
 
 オウムの教義をチープだという一言で、切り捨てることはできない。
 もし「チープ」だと言うのなら、その「チープなもの」を生み出した時代とは何であったかを同時に問うべきだろう。
 宮部みゆき氏が、今後それを自分の小説のテーマとして掘り進めていくのだとしたら、そこに期待したいところだ。
  
 

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