「空気感」 の正体

 
 「空気感」 という言葉がある。

 由来はよく分からない。
 そもそもは “写真用語” だという話も聞くが、いつ頃から使われるようになった言葉かよく知らない。

 しかし、そういう言葉で言い表せるある種の “情感” のようなものが、確かに存在する。

 その情感のキーとなるものは、透明感と寂寥感だ。

 別の言葉に置き換えれば、「静けさ」 に近いのだろうか。
 しかし、ただ 「静か」 というだけではない、その核となるところに異次元の世界に通じる “扉” のようなものが見え隠れするときに使うと、なぜかぴったりする。

 「言葉」 に言い表せないもの。
 いわば、形而上学的な静けさを言い伝えたいときに、この言葉はうまくハマる。

 そういった意味で、エリック・サティの音楽などは、すべて 「空気感」 の表現であるかのようにも思う。

 サティの音楽に最初に触れたのは、BS&T (ブラッド・スェット&ティアーズ) の演奏だった。
 その出だしの部分が、「JUN」 というファッションブランドのCMのBGMとして使われていたと記憶する。

▼ エリック・サティの主題による変奏曲 (BS&T)

 なにしろ、40年近い昔のことだ。
 そのCMのディテールまでは詳しく覚えいていない。

 しかし、静かに晴れ渡った秋の午後を想像させるような林か草原をバックに、「JUN」 のファッションを身にまとった人物が、ゆったりと歩いて行くといった映像の印象が脳裏に残っている。
 記憶違いかも知れないが、それはもう 「幻の情景」 として、自分の心を潤す映像に昇華し、40年にわたって、自分の 「空気感」 の原点として根を下ろしている。

 おだやかだけど、少しさびしい午後の日差し。
 木々の葉を風がなでていくときの木漏れ日のゆらめき。
 そのような映像の流れが、サティの 「ジムノペディ」 を背景に、静かな時を刻む。

 「木漏れ日」 と 「午後」 という言葉は、自分のお気に入りの言葉なのだが、それを思い浮かべるときというのは、いつもその映像と音が、頭の中に去来するときだ。
 いわば、自分の感受性の原点なのだ。

 「空気感」 とは、その言葉どおり、透明度が前提となる。
 「透明」 とは、視覚が夾雑物に遮られることなく、ストレートにモノの本質にまで届くということだ。
 しかし、視覚がモノの本質を捉えたとき、思考がクリアになるとは限らない。
 むしろ、それは 「言葉にならないもの」 との出会いなのだ。

 「言葉にならないもの」 に出会った時、人間の思考は立ち止まる。
 その動きの止まったときの静寂こそが、「空気感」 の正体かもしれない。
 
 
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