マンハッタンの哀愁

 
 「マンハッタン」 という名のつく映画は、なぜか観る前から、心の深部をじわりと刺激するものを持っている。
 それは、「私の場合」 … という、ごく限定された個人的な印象でしかないのだが。

 だけど、「マンハッタン」 という固有名を持つ映画には、いつもコロリと騙される。
 実際に映画を観ると、どれも自分の想像とは違ったものになっていて、少しがっかりするところがあるのだ。

 たとえば、ウッディ・アレンの 『マンハッタン』 (1979年) などは、美しい画像のポスターが印象的で、その映像を眺めているだけで、私は勝手な筋立てを一人で “捏造” し、期待に胸をふくらませていた。

▼ 「マンハッタン」 の有名なスチール写真

 しかし、実際に映画を観てみると、ポスターで表現されていたようなセンチな叙情性は皆無で、いかにも皮肉屋のウッディ・アレンらしいニューヨークのインテリたちのスノビズムをあざ笑うようなヒネリの効いた話だった。

 それはそれで面白いのだけれど、自分が勝手に想像していた世界を裏切られたようで、かなり不満が残った。
 もっとも、「お門違いのストーリーを勝手に想像していた、お前が悪い」 といわれればそれまでの話で、映画を恨んでもしょうがない。

 マルセル・カルネが制作した 『マンハッタンの哀愁』 (1965年) にも期待したが、これもレンタルビデオ屋で借りたCDを観たら、またしても 「裏切られた」 という気分を持った。

▼ 「マンハッタンの哀愁」

 なにしろ、こちらは伝説のジャズピアニストであるマル・ウォルドロンの名曲 『オールアローン』 が全面に流れているという話を聞いていたので、かなり期待していたのだ。

▼ 「オールアローン」 が入っているマルのアルバム

 あの静かで哀切極まりないメロディから、クールで物静かな映画を想像していたのだが、展開する話は、中年男女のわりとホットな恋愛ドラマ。

 妻が若い愛人をつくったために傷ついたフランス人の男優 (モーリス・ロネ) が、苦い思い出のあるパリを捨ててニューヨークに渡り、行きずりの人妻と出会って恋に陥る話。
 その人妻には別居中の旦那もいれば愛人もおり、男優の方はその女を愛しながら別の女性と浮気もやらかす。
 倫理よりも奔放な愛に価値を置くという、いかにもフランス的なラブストーリーだった。

 ま、それも “大人の恋愛映画” として観れば面白いのかもしれない。
 しかし、ニューヨークの風景とジャズが溶け合うシックな画面展開を予想していた私としては、街の描写も、音楽も少なく、タイトルの 『マンハッタンの哀愁』 の “哀愁” という言葉だけ余分だと感じざるを得なかった。

 ただ、1965年当時のニューヨークの描写にエドワード・ホッパーの絵画の雰囲気が出ていたことだけは興味深かった。
 主人公の二人が深夜のカフェレストランで過ごすときに漂ってくる孤独感と倦怠感などは、ホッパーの名作 『ナイトホークス』 に通じるものがある。
 こんな場面ばかり続くような映画であったなら、ストーリーのない環境ムービーのようなものであったとしても、私は感激しただろう。

▼ エドワード・ホッパー 「ナイトホークス」 (夜更かしする人々)

 この 『マンハッタンの哀愁』 がつくられた1965年というと、フランス映画界ではもうヌーベルバーグの運動が盛んだった時代。
 それらの新しい映画に比べると、この映画の体質は古い。
 1959年につくられたゴダールの 『勝手にしやがれ』 が、どれだけ斬新な映画だったかを今さらながら痛感する。

▼ 「勝手にしやがれ」

 映画の話とはズレるが、『マンハッタンの哀愁』 で使われたマル・ウォルドロンの 『オールアローン』 という曲からは、いつも 「都会の朝」 を感じる。

 それは決して、希望に満ちた明るい朝ではない。
 歓楽にうつつを抜かした人たちの前で、夜が白々と明け、遊び疲れて帰る人たちの目に映るさびしい朝だ。

▼ 「オールアローン」 from YOUTUBE

 「ALL IS OVER」
 もはや、これまで。

 苦しいことを忘れるために夜通し遊び呆けても、その時間が終わり、再び現実の世界に連れ戻される時の諦観。
 そんな気分にとらわれた朝に、この音は身にしみる。

 若い頃、よくそんな朝を体験した。
 動き始めた始発の電車に乗るために、胃に溜まったアルコールがじゃぶじゃぶ動く気配を身体に感じながら、重い足取りで駅に向かう。

 夜の闇が消していた路上のゴミがあちこちに転がり、その光景も “宴の後の哀しみ” を倍加する。

 あれだけ飲んでも癒されることのなかった、さびしさ。
 そんなものが、深い後悔の念といっしょに湧き上がる。
 そんなとき、いつも頭の中に、マル・ウォルドロンの 『オールアローン』 が鳴った。

 私は、けっこうこの訥々 (とつとつ) とした演奏を繰り広げる彼のアルバムを持っている。
 ジャズマニアではないので、彼の技量がどれくらい評価に値するものなのかどうか、よく分からない。

 しかし、その哲人らしき風貌と、その演奏スタイルは妙に合っているように思う。

 「言葉を、音楽に変えて思索している」
 という雰囲気が伝わってくるからだ。

▼ 「TOKYO BOUND」 のジャケットに描かれたマルの肖像

 “アローン” とついたマルの曲では、ジャッキー・マクリーンとの共演で知られる 『レフトアローン』 の方が有名かもしれない。
 これも切々とした哀愁のこもった名演であるが、流行り過ぎたせいか、何度も耳にしているうちに、いささかその通俗性が鼻についてきた。

 しかし、『オールアローン』 の方は、絶対零度の孤独が、とろりとした濃さをともなって演奏の底に、ピュアモルトウィスキーのように潜んでいる。

 聞くところによると、この 「オールアローン」 のレコーディングには、あと二人のサイドメンが参加する予定だったという。
 しかし、レコーディングが始まる時間になっても、その二人は現れなかった。
 そこで、仕方なくマル・ウォルドロンはひとりでピアノに向かい、録音を開始したという。

 その “取り残された” 気分のさびしさも、もしかしたら演奏に反映しているのかもしれない。
 アルバム全般を通じて、身体の芯が凍るような冷え冷えとした孤独感が、鍵盤を叩くトーンに横溢している。

 表題曲もいいが、「ルカの眺め」 、「忘却のワルツ」 などといった曲もいい。
 特に 「忘却のワルツ」 の同じ旋律が微妙な変奏を伴って繰り返されるところは、聴くたびに心が震える。
 どこまで続くか分からないような螺旋階段を、地下に向かってひたすら降りていくような気分になる。

 そこには上質の文学に触れるような酩酊感がある。
 マルの音は、どれも 「音楽」 の枠を超えて、聞き手に想像力の広がりをもたらす。

 彼の 「オールアローン」 と 「忘却のワルツ」 に触発されて、昔、短編小説を書いたことがある。
 稚拙さが目立つ作品で、とても人様の前に差し出す気にもならないものだったが、そのようなものを書こうという気にさせたマル・ウォルドロンの演奏の力は、さすがだと思ったものだった。

 風貌もそうだが、人の想像力をかきたてるという意味で、彼には 「音の哲学者」 という雰囲気がある。

▼ 「マル4」

参考記事 「マンハッタン追想」

参考記事 「勝手にしやがれ」
  
 

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