幻の女

 
 晴れ渡った秋の午後のことである。
 黄色く色づいたイチョウの落ち葉が、歩道を覆い尽くしている。
 私は所用で、そのイチョウ並木が続く道を、バス通りに向かって歩いていた。
 

 休日だった。
 家族向けの遊戯施設が近くにあるこの道は、ふだんは親子連れの姿でにぎわう。
 
 しかし、その時間は、まるで “異空間の空気” が流れこんできたかのように、私の視界から人々の姿が消え、冷え冷えとした静けさが辺りを領していた。
 
 振り返ってみると、後ろにも人影はない。
 
 クルマだけは車道を走っていた。
 しかし、その数はまばらで、ファミリー向けの観光施設が近いこの場所においては、休日の午後とは思えないほど交通量は少なかった。
 
 女が一人だけ、こちらに向かって歩いてくる。
 ダークベージュのコートを羽織った中年の女だった。
 
 私は、人気のない歩道に突然現れた人物が珍しくて、横目でちらちらと女の顔を盗み見た。
 もちろん、女の方は、私の存在など歯牙 (しが) にもかけない様子で、まっすぐ前を向いたまま歩いて行く。
 
 すれ違いざまに、香水の匂いが私に鼻腔をかすめた。
 
 珍しいことだった。
 私は鼻が悪いせいもあって、よほど強烈な匂いのする香水以外、意識にとどめることがない。
 なのに、この日は、不思議なくらいその甘い香りが鼻についた。
 
 … もしかしたら、ずっと、昔、これをどこかで嗅いでいる。
 遠い日の情事を思い出すような、ほの暗い記憶がざわめきたち、心が乱れた。
  
 振り向くと、視界から、女の姿が消えていた。
 
 進路を変えるような横道があったとは思えない。
 幻というには、あまりにも印象がなまなましく、亡霊と呼ぶには、女は美しすぎた。
  
 それを機に、私はときどきこの種の体験を重ねるようになった。
 すれ違う女はさまざまである。
 若いOL風の女性がいたかと思うと、初老と呼べるような女性もいた。
 
 しかし、その女たちと出会う状況は酷似している。
 いずれも、人通りが一瞬途絶えるのである。
 
 商店街の連なる街角であっても、電車を待つ駅のホームにおいても、それまで視界に入っていた人々の姿がいつの間にか消え、一人の女だけが現れる。
 そして、必ず同じ匂いの香水が漂う。
 
 私は、女の姿が消えるかどうか確かめるために、後ろをしっかり振り向いて、その姿を目で追ってみた。
 街で出会った女は、屋台のクレープ屋の影に入ったかと思うと、そこで姿を消した。
 ホームで出会った女は、キオスクの売店の裏に回った後にいなくなった。
  
 その話を、友人にしたことがある。
 
 「お前、若い頃ずいぶん女を振っただろう」
 と、彼はいう。
 
 「そんなことはないよ。 “振った振られた” というほどの深い付き合いをしたことがない」
 
 「そうはいっても、相手が片思いだったということもあり得る。きっと、そういう女が最近亡くなったんだ」
 
 「じゃ、幽霊というわけか?」
 
 「ま、そんなもんだ」
 
 友人はまともにとりあってくれなかった。
 
 
 帰宅すると、あの匂いが漂っていた。
 私に気づいて、カミさんが振り向いた。
 
 「香水の匂いがするけど…」
と、私は言った。
 
 「あれ、これのことかしら」
 
 「お前、香水なんか付けるんだっけ?」
 
 「それは付けますよ。女ですもの」
 
 「その香水使うの、はじめてじゃない?」
 
 「あら、どうして分かるの? そういうものに頓着したことがないあなたが … 。あ、なんだか怪しい!」
 
 笑ったカミさんの顔が、いつもより妖艶に見える。
 
 …… こんな女だっけ?
 
 知らない女が目の前にいるような気がする。
 どこかしら、様子が違う。
 顔は笑っているが、その目は、水晶玉みたいに光を失っている。
  
 あの女が来ている …
 
 後ろを振り向いたりしたら、カミさんが消えてしまうような気がした。
 念のために、くるりと振り向いて、もう一度カミさんと向き合った。
 
 「女」 は姿を消していた。
 代わりに、いつもとまったく変わらないカミさんが立っていた。
  
 視覚と嗅覚に異変が起こるようになったのは、歳をとったせいかもしれない。
 
 歳を取るということは、何かの機能を失っていくことを意味するが、しかし、それは今まで得られていたものが、得られなくなったということとは、少し違うのかもしれない。
 違った世界が現れてくるのかもしれない。
 
 この春から、今まで経験したこともなかった花粉症のような症状にときどき襲われる。
 
 医者に診てもらうほどのことはないと思っているのだが、なんだか落ち着かない日々が続いている。
 
 
 創作 「小説・深夜の夕焼け」
 
 

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幻の女 への4件のコメント

  1. cbr929 より:

    こんにちは、
    おかげさまで40年近く前の出来事を思い出しました。

    忘年会をかねた社員旅行、宴会のあと先輩達と面白い所へ行こうとどてらを着て旅館から繰り出しました。
    温泉街とは名ばかりの少し歩けば酔いも覚めるよな生活臭が漂う住宅街が見え始める街並み、そこに場末という表現がぴったり当てはまるストリップ劇場がありました。

    二十歳過ぎてのストリップ初体験、うれし恥ずかしと最小限の衣装で着飾った踊り子達の写真を見ながらすえた臭いの漂う館内へ入りました。
    でも先輩が言ってたとおり出てくる踊り子は金返せと怒鳴りたくなるような年増ばかりでした。とまれ最後の踊り子は少しはよかったよな(比較論だけど)。それにしてもあの香水はちょっときつかったよなあ。でも自分が知らないだけできっと高価で有名なブランドものの香水違いないと旅館の布団の中で瞼に残った妖しい肢体とともに思いました。

    春先、久しぶりに帰省した折に中学校時代からの友人A子に会いました。A子とは友達以上恋人以下、そんな感じの間柄でした。はやりのファッションを控えめに着たショートヘアの似合うA子が軽く手を振り笑顔をうかべ近づいてきました。同時にあの夜嗅いだ甘い香りも近づいてきました。。。

    • 町田 より:

      >cbr929 さん、ようこそ
      「匂い」 というものは、どこか忘れていたような記憶を呼び戻す力があるようですね。
      たぶん、五感の中でも原始的な感覚だからなのかもしれません。
      それも、若い頃のドキドキするような記憶と混ざり合ったものは、強烈にそのとき感じた情感を引っ張りだしてくるのかもしれませんね。

      場末のストリップ小屋というのは、風情があるもんですよね。
      私にも、一人旅の夜に、そんなところに行った記憶があります。
      温泉街の、雨のふる夜のことで、夕飯を食った後、退屈しのぎに、旅館の下駄をひっかけて、傘をさしてストリップ小屋に行きました。

      観客は私一人だけで、それでも踊り子さんたちは、「客が来たから仕事でもするか … 」 といった、投げやりな踊りを披露してくれました。

      そのときの踊り子さんたちの、仕事に飽きたような “やるせない” 表情に、とてつもない旅情を感じたものです。

      今はそういう旅情がなくなったような気もします。

      ところで、A子さんとの出会い。
      >「あの “夜” 嗅いだ甘い香り」 …
      ちょっと意味しんのニュアンスがありますね。
      考えすぎですか?
       

  2. Take より:

    待ち時間の暇つぶしに買った東野圭吾氏のパラレルワールド・ラブストーリーを読んだばかりだからかもしれませんし、小学生の時に読んだ眉村卓氏の二十四時間の侵入者の中で、自宅に帰ったら母親が垢なめに取って代わられていたというシーンを思い出したからかもしれませんが、「記憶」というのは果たして本物なのか、今見ているのは果たしてリアルなのかバーチャルなのか、なんて思うこともあります。
    見えるから本物ではなく、見えないから幻でもない、僕らの科学や生体では答えが出せないものもたくさんあるんでしょうね。

    ジュラシックパークでは、恐竜の血を吸った蚊の体液から恐竜のDNAを復元させたはずです。肉体ってやつは理論上ではそんな復元は可能ですが、記憶ってやつは一時保管した脳が機能しなくなった時点で終わってしまうんですよね。儚いから夢や幻を生み出せるのかもしれません。

    • 町田 より:

      >Take さん、ようこそ
      非常に興味深いコメント、ありがとうございました。

      おっしゃるように、>「記憶は、一時保管した脳が機能しなくなった時点で終わってしまう」 というのは、確かに、そうだと思いました。

      考えてみると、「自分は自分である」 ということを保証するのは、自分の “記憶” しかないんですよね。
      自分が 「今も生きていているから、明日も生きていくのだろう」 という時間の連続性に対して疑うことがないのも、記憶が保証してくれるからなんでしょうね。

      しかし、その記憶というものは、実にあいまいなものだし、頼りないものでしかない。
      そこに、人間存在の危うさがあるようにも思います。

      リドリー・スコットの 『ブレードランナー』 という映画には、人間の記憶をプリントされたレプリカント (アンドロイド) が登場します。彼女は、その記憶が自分のものであると信じているかぎり、自分が 「人間」 であることを疑わない。
      しかし、その記憶が 「捏造されたものである」 ということを示唆された時に、動揺するわけですよね。
      それは、レプリカントという存在を離れて、広く人間一般が感じる根源的な不安と寂しさに通じるもののような気もします。

      荻原浩氏の小説 『明日の記憶』 は、まさに、この不安と寂しさに真っ向から向き合う男性の話でした。

      「記憶」 の問題というのは、けっこう 「人間ってなんだろう?」 と考えるときの重要なテーマになりそうですね。
       

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