吉祥寺の昔の音楽喫茶

 
 東京・武蔵野市にある吉祥寺という町が、小さい頃からの遊び場であった。
 幼い頃、吉祥寺の近郊に越してきてから、もう50年以上過ぎている。
 
 5~6年前に、本屋で 『吉祥寺 消えた街角』 (土屋恂・著/河出書房新社) という写真集を見つけた。
 買い込んでパラパラと眺めていると、1950年代から1980年代の写真が収録されていた。なかでも60年代後半~70年代前半のものが多い。吉祥寺という町の変貌ぶりが手に取るように分かって面白かった。
 
 
 
 その写真集を見ていると、今、マスコミで 「東京でいちばん住んでみたい町」 などという特集が組まれたとき、必ず上位に顔を出す吉祥寺が、昔は中央線沿線のどこにもある、ただのアカ抜けない町の一つにすぎなかったことが分かる。
 
▼ 1978年の北口駅前 ( 『吉祥寺 消えた街角』 より)
 
 
 この町で最初に登場した大きな建物は、1959年に公園通り (吉祥寺通り) にできた 「名店会館」 だった (今は、 『東急デパート』 になっている) 。
 屋上に遊園地があるという、その当時の 「百貨店」 のコンセプトを忠実に守ったつくりで、母親に買い物連れて行ってもらったとき、その屋上で遊ぶのが楽しみだった。
 
 駅の北口には、最近脚光を浴びている 「ハモニカ横丁」 があったが、昔は終戦直後の “闇市” の延長線にあるような、汚く、暗い小商店街の集まりでしかなかった。
 それでも、そこには “大人の愉楽” を楽しめそうな飲み屋が連なり、子供心に 「怖いけど覗いてみたい」 場所の一つになっていた。
 
 実際に、自分が 「ハモニカ横丁」 で飲み始めたのは、1970年代に入ってからである。
 今でも人気のある 『峠』 という居酒屋にはよく通った。民芸品に囲まれた山深い田舎家の室内といった雰囲気の店で、ちょっとした “小旅行” の気分を味わえた。

 南口の井の頭線のガード下には、 『豊後』 という居酒屋があり、少し落ち着いて飲みたいな … と思うときは、ここに顔を出した。
 洒落た盛り付けで、しかも美味しい料理がたくさんあったが、特に 「とん味噌」 という料理のおいしさが忘れられない。
 豚肉をゆがいて、そこに甘口の味噌だれを垂らす。それを玉ねぎと混ぜあわせて口に含む。
 適度に脂肪分がありながら、あっさりした味わいで、何度もお代りをしたくなる。
 
 しかし、調理場の排水口がその豚の脂で詰まることが多いらしく、途中からメニューから除かれた。
 それが残念で仕方がなかった。
 
 この店は、近くにある成蹊大学の教授連やその教え子たちで埋まることが多く、それゆえか、常連客の間で交わされる会話が濃かった。
 文学、絵画、音楽。
 そういう古典的な素養を必要とする会話が飛びかい、ぽつんと一人でカウンターに座っていると、両隣で交わされる会話のレベルの高さに圧倒された。
 
 
 そういった意味で、吉祥寺はけっこう文芸的な気分に浸れる町で、北口には梶井基次郎の短編小説 『檸檬 (れもん) 』 の名をそのまま店名した喫茶店があった。
 音楽も流れない殺風景な店だが、それは、お客が 「コーヒーを飲みながら読書をする」 という気分を大切にしていたからだと思う。
 
 店主が、コーヒーカップを載せた皿を、そのまま手に持ってテーブルに運んでくる。
 カップぎりぎりの線までなみなみとコーヒーが注がれているため、慎重になりすぎた店主の手が神経質に震えることがある。
 その震えは、 「コーヒーをたっぷり飲んでください」 というその店の “良心” を意味していたのだが、僕らの仲間は、友達のアパートなどに集まってインスタントコーヒーを飲むとき、ぶるぶると受け皿を震わせ、
 「檸檬!」
 とかいって、お互いに笑いあった。
 ろくでもない友だちが多かったのだ。
 
 うまいメシを、しかも安く食いたいときは、公園通りに面した 『甚助』 に通った。ここの餃子に勝る味は、その後どこの中華屋に行っても出合ったことがない (詳しいことは、このブログの別のところで書いた) 。
 
 
 音楽系の喫茶店も多くあった。
 クラシック音楽の店としては 『古城』 が有名だった。
 1階、2階と地下があり、地下になると人影もまばらで、高校生のときは、学ラン姿のまま隠れてタバコを吸うにはおあつらえの場所だった。

 
  
 『古城』 の近くには、東京西郊のジャズ喫茶の老舗 『FUNKY』 があった。
 吉祥寺の喫茶店文化を切り開いた野口伊織さんのお父さんが経営していた店で、ここも高校時代、隠れてタバコを吸う店としてよく使わせてもらった。
 
 地下に向かう階段を降りる途中から、もう厚いドアを突き抜けて、大音量のジャズが頭から降り掛かってくる。
 テーブルの正面には、でっかいJBLのスピーカーが左右に置かれ、異教の神の偶像のように、客を睥睨 (へいげい) している。
 
 当時、倉橋由美子の小説に登場したか、あるいは本人が聞きに来ていた店などという評判がある店で、客層を眺めても、気難しそうな顔つきの芸術系青年が額にシワを寄せながら、空中に漂う音をじっとにらんでいるという印象の店だった。

▼ 「FUNKY」マッチデザイン(白川保晴氏 蔵)

 
 時代は前衛ジャズの最盛期。
 コルトレーン、オーネット・コールマン、アルバート・アイラーなどが、猛獣の咆哮 (ほうこう) のような音を吹きまくっていた。
 
 実は、そこでそれらの音を聞くのは、ちょっとした “苦行” だった。
 音の “洗濯機” の中に入れられて、振り回されるような気分になるのだ。
 しかし、ジャズ好きの先輩などに影響され、そういうものが 「理解」 できない限り、現代音楽などは一言たりとも語れることができない、といわれ、我慢して聞いた。
 
 聞いているうちに、コルトレーンの 『アフリカ』 とか 『至上の愛』 などのスピリチュアルな精神が分かるようになってきて、やがて自分でもレコードを買うようになった。
 それでも、ある日、コルトレーンの 『バラード』 がかかったとき、 「あ、これならすぐに理解できる」 とほっとした記憶がある。
 ちなみに、この『FUNKY』は、2015年に発売された桐野夏生さんの『抱く女』という小説では、『COOL』という店名で登場している。

▼ ジョン・コルトレーン 「アフリカ」
 
 
 この初代 『FUNKY』 の前には、 『スカラ座』 という映画館があった。
 その 2階が 『スカラ』 という雀荘になっていて、そこにも足しげく顔を出した。
 夕方になると、必ず常連の仲間が集まってきて、多い時は 2卓分、3卓分ぐらい自分たちの仲間で占めることもあった。
 
 夜になると、その 『スカラ』 のあった横丁には屋台のおでん屋が店を出す。
 名を 『太郎』 といった。
 オヤジさんが阪神ファンで、阪神が勝った夜は、かなり盛り上がった。
 常連客がたくさんついた 『太郎』 は、やがて近くに店舗を構え、今では、おでんの他に、いろいろなツマミを揃える立派な居酒屋になっている。
 
 
 吉祥寺の “音楽喫茶” で、自分がいちばん通いつめた店は、なんといっても、南口の 『Be Bop (ビーバップ) 』 だった。
 これは、初代 『FUNKY』 を手がけた野口さんの息子さん、伊織さんが開いたロック喫茶だった。
 日本で最初に生まれたロック喫茶は、東京・国分寺の 『ほら貝』 だという話を聞いたことがあるから、 『Be Bop』 は、2番目ということになるかもしれない。

▼ 「Be Bop」マッチデザイン(白川保晴氏 蔵)

 
 初期の頃は、ジャズも流れていたと思う。 「ビーバップ」 という言葉自体がジャズ用語だから、開店当時は、 『FUNKY』 の2号店のような位置づけだったのかもしれない。
 しかし、欧米で、新しいロックが矢継ぎ早に生み出されていた時代だから、ここには日本で最新ロック情報が集まることになった。
 
 ジャニス・ジョップリン、ジミ・ヘンドリックス、クリーム、レッド・ツェッペリン、サンタナ、CSN&Yなど、アルバムを通してじっくり聞いたのは、すべてこの店であった。
 
 野口伊織さんは、その後 『赤毛とそばかす』、『赤いカラス』 、 『西洋乞食』 、 『サムタイム』 、 『Dレイ』 など、吉祥寺の新しい店舗文化を創造する野心的な店を次々とオープンさせた。
 最後は、井の頭公園を “借景” として使い切る和風割烹の 『金の猿』 にまでたどりついた。
 『金の猿』 が生まれた時 (もう自分は社会人だったが)、インテリア造形としては、吉祥寺で最高の店ではないかと感心したことがある。
 しかし、肝心の料理の方は、それほど印象に残るものではなかったように思う。
 
▼ 「赤毛とそばかす」マッチデザイン(白川保晴氏 蔵)

 
 伊織さんが、 「バップ」 や 「FUNKY」 で人気を得た頃 (1970年当時) 、今ではジャズ評論家としても知られる寺島靖国さんが、いっとき “近鉄裏” といわれたバー、キャバレー街に 『MEG (メグ) 』 をオープンさせた。
 伊織さんが慶応出身。寺島さんが早稲田出身だったため、吉祥寺ジャズ喫茶における 「早慶戦」 などといわれた。

▼「meg」マッチデザイン(白川保晴氏 蔵)

 
 開店当初の 『メグ』 は、伊織さんの系統の店づくりに比べ、はっきりいって野暮ったかった。
 代わりに、オーナーの音楽へのこだわりだけは強烈に伝わってきた。好みの音楽が明確であり、流している音楽に共感を示す客たいたときは、本当にうれしそうだった。
 マイルス・ディビスがファンク色を強めた頃のアルバム 『ビッチェズ・ブリュー』 や、ハービー・ハンコックの 『ヘッド・ハンターズ』 などをはじめて聞いたのはこの店。ジャズの新しい流れを追求することにおいて、寺島さんは、昔からそうとう強いこだわりを持っていたように思う。
 
 ちなみに、人気女流作家としての地位を不動なものにしている桐野夏生さんが若い頃、この店でアルバイトをしていたことがあったと聞く。
 
 
 話は前後するかもしれないが、当時のフォークブームを反映して、吉祥寺にもフォークのライブを聞かせる店が生まれた。
 店の名前は 『ぐゎらん堂』 。
 確か、サンロードから今の東急に抜けるダイヤ街の一角にあったと記憶している (違うかもしれない) 。
 
 ここでは、高田渡、中川五郎、友部正人、加川良、さらには三上寛、あがた森魚、なぎら健壱という日本フォーク界のビッグネームのライブが行われ、 “吉祥寺サブカルチャー” を生み出していた。
 
 ただ、この店には自分は 1回して行っていない。
 そのときライブをやっていたのは、友部正人だったと思う。
 けっして悪い雰囲気ではなかったが、なんとなく気後れするものを感じた。
 「俺たちは、吉祥寺の若者文化を創っている!」 的な、店に集まった人たちの、カウンターカルチャーの心意気を見せるぜぇ! … ふうの圧力が自分には重たかった。
 
 何度か通っていれば、また別の印象を抱いたかもしれない。しかし、そのときは、やはり自分は洋楽の方が好きだという気分で店を出た。
 
 
 女性が加わるような飲み会のときは、 『ベルファン』 という店によく足を運んだ。
 焼肉 『李朝園』 の入ったビルの地下だった。
 
 店内は広く、円形のカウンターがいくつも点在していた。
 そういう店舗形式を、当時 「コンパ」 と呼んだと思う。
 記憶はおぼろなのだが、生バンドが入っていたような印象もある。
 そのバンドのひとつがサンタナの 『ホープ・ユー・フィーリン・ベター』 をコピーしていて、「日本人のくせになかなかやるじゃない」 と感心した記憶があるのだが、もしかしたら、別の店のことだったかもしれない。
 
 
 この頃、自分はブリティッシュ系ブルースロックの影響を受けて、黒人ブルースに関心を抱くようになっていた。
 五日市街道の北口に、 『なまず屋』 (確かそんな名前だったと思う) 、というブルースの店がオープンしたといううわさを聞きつけ、さっそく店を探した。
 オーナーが手作りで店づくりをしたと思わせる素朴なインテリアの店で、どちらかというと、「安い居酒屋」 の雰囲気だった。
 
 この店には 「暗くて、淋しい」 という印象しか残っていない。
 繁華街から少し離れた場所にあったためか、お客の姿もあまり見ることがなかった。
 かかる曲も、素朴なデルタブルースが中心で、みんなお経のように聞こえた。
 
 当時は、ようやくデルマークシリーズが日本でも発売された頃で、そういった意味では、ハウリン・ウルフやジョン・リー・フッカーなど、 「名前だけ知っている有名なブルースマン」 の原曲に触れることはできたが、いかんせん、地味すぎた。
 モダンブルースがほとんどかからない。

▼ スリーピー・ジョン・エスティス
 

 スリーピー・ジョン・エスティスのような、ギター一本で延々と歌い続ける枯れたブルースを、サントリーホワイトの水割りを舐めながら一人で聞いていると、陰々滅々とした気分になるだけで、そのうち行かなくなった。
 自分の耳は、やはり “通俗的な” ブルースロックしか受け付けないんだな … と自覚した。
 
 
 ソウル系の店で、通いつめたのは東急デパートの対面ぐらいにオープンした 『ホワイトハウス』 という喫茶店だった。
 この店には偶然入った。
 
 『ホワイトハウス』 という店名どおり、ほとんどが白一色のインテリアで統一された、(当時としては) かなり洒落た喫茶店だった。
 ところどころにドライフラワーを差した花壺が置かれ、印象派風の絵画の複製が壁にかかっていた。女性客を狙っているのは一目瞭然だった。
 
 白シャツに黒い棒タイを締めた紳士然とした青年が、丹念にサイフォンコーヒーを入れていて、男同士でドヤドヤっと入って行ったら、 「お前たち、コーヒーの味が分かるのか?」 風の、ちょっと値踏みされるような視線を送られた。
 
 しかし、店内に流れる曲は、スタイリスティックス、オージェイズ、ハロルド・メルヴィン&ブルーノーツ、デルズ、デルフォニックス …… 。フィーリーサウンドを中心とした当時の最新ソウルナンバーばかり。
 それ以外は、マーヴィン・ゲイ、スティービー・ワンダー、ダイアナ・ロスといった後期モータウンサウンズ。
 
 ファンシーなインテリアと、ソウルミュージックの取り合わせが、意外といえば意外。絶妙といえば絶妙。
 しばらくの間、ほぼ毎日そこに通った。
 
 そのうち、 「町田さん、ジェイムズ・ブラウンとか好きですか?」 とマスターに聞かれ、「あ、好きですよ」 と答えると、 「今度武道館で日本公演があるのですが、一緒に行きませんか?」 と誘われた。
 
 でも、ジェイムズ・ブラウンのようなファンキー系ディスコサウンドは、その店では一度もかかったことがない。
 
 「この店ではかけたくないんですよ」
 と、マスターはいう。
 理由は、 「店のガラが悪くなるから」 。
 
 本人は、そっち系の音も好きでたまらなかったらしいが、 (今でいう) ヤンキー系の人たちが入りびたることを神経質なほどに嫌っていた。

▼ ジェイムズ・ブラウン
 

 ジェイムズ・ブラウンのコンサートに一緒に行ったとき、彼は椅子の前で立ち上がり、拳を振り上げ、ダンスを踊り狂った。
 品行方正なそのマスターが “崩れた“ 姿を見せた、最初で最後の瞬間だった。
 
 その後、こっちも会社勤めを始めたために、自然とその店からも足が遠のいた。
 店はいつの間にかひっそりと幕を閉じていたらしい。
 一度だけ、そのマスターから、会社に手紙が届いた。
 「今は故郷の岡山に帰り、地元のホテルマンをのんびりとやっています」 という連絡だった。
 
 
 吉祥寺に、ソウル/R&B系の音を聞かせる店が、実はもう一軒あった。
 平和通りの、今の 「パルコ」 がある前にあった 『ロコ』 という店だった。

▼ 「ロコ」マッチデザイン(白川保晴氏 蔵)

 
 店の名前はそうとう前から知っていたが、看板が普通のスナックにしか見えなかったため、入ったことがなかった。
 ある夜、深夜に飲める店を探していたとき、そこしか開いていなかったため、はじめて中を覗いてみた。
 
 カウンターを中心にしたウナギの寝床のように細長い店づくりで、インテリアの雰囲気は、当時でもそろそろ時代遅れという感じの普通のスナック風。
 
 しかし、流れている曲がガチガチのR&Bで、これは意外だった。
 ウィルソン・ピケットに似たリーゼントヘアの日本人のお兄ちゃんが、リズムに合わせてアイスピックの氷を割っている姿が、いかにもサマになっていた。

▼ ウィルソン・ピケット

 
 もしかしたら、 (記憶はあいまいだが) 、そのとき、立川あたりから流れてきた黒人が何人かいたかもしれない。
 それが理由だったのか、めちゃ黒っぽい雰囲気であったことを覚えている。
 早くから知っていれば、もっと通っていたものを … と、少し後悔した。
 それからしばらくして、この店も閉店した。
 
 
 もう一軒、思い出にあるジャズ喫茶を挙げるとすれば、南口の吉祥寺行きのバスが入ってくる細い道 (パークロード) に店を開いた、『デイブ』 。
 ここは、ジャズを聞きながら軽食も楽しめるという、カクテルラウンジ風の志向を持つ店だった。
 
 当時の最新ジャズスポットを意識した造りで、間接照明なども上手に生かし、店全体がほのかなブルーに染まるようなライティングで統一感を出していた。
 店の雰囲気が洒落ているため、ボトルも入れたりして、友人を誘うときの自分の “社交場” として使った。
 
 店の一角には、レコードをかけるためのガラス張りの個室があり、そこに店のマスターがこもりきりになって、客層や場の状況を観察しながらレコードを選択する。
 客が聞きたい曲と、マスターが選んだ曲が合うか、どうか。
 この店では、そんな駆け引きも楽しめた。
 
 
 最後に、いちばん思い出深い店をひとつ。
 サンロードをまっすぐ北に進み、五日市街道とぶつかったところの正面に位置していた 『ハックルベリー』 。
 ここは自分がバイトをやっていた店なのである。
 
 パッと見は無愛想なマスターと、肉付き良いきさくなママさんが共同経営する店だった。
 1階がスナック、2階がイタリアンという店で、そのイタリアンのウェイター兼レジ係をやった。
 
 給料は、当時時給で750円。
 やがて、2階のイタリアンをクローズした後に 1階スナックのカウンターにも入るようになり、ようやく時給が2倍になって、一息ついた。
 
 そこのママさんには可愛がられた。
 「あんたは人懐っこい子だね。客商売に向いているよ」 とよくいわれた。
 
 そのうち、マスターにも信頼され、 「パーティーで儲けたいのだが、何かいいアイデアはないか?」 と相談されるようになった。
 
 「ソウルパーティーというのはどうでしょう?」 と、2階のレストランを貸し切りにして、ディスコにすることを提案した。
 
 店を閉めてから、黒のラシャ紙に銀色の文字を載せた手作りのパーティー券を何十枚も造り、1階スナックの常連客を中心に売りだした。
 
 
 
 パーティー用の音源は、自分のソウルミュージックのコレクションをそのままテープに取ってお手軽に済ませたが、曲の配列には気をつかった。
 ダンサナブルな曲を 5曲ぐらい続けた後は、チークダンス用のスローバラードを 2~3 曲。
 このタイミングが良かったのか、チークタイムでは、にわかカップルがいくつか誕生し、それをきっかけにスタディーな関係になった若者たちも出た。
 
 パーティーの大盛況に気を良くしたマスターからは、 「即座に次のパーティー企画するように」 と指示を受け、さらにママさんからは、 「あなたは人を楽しませる才能がある」 とまで持ち上げられた。
 今まで、吉祥寺の数々の音楽喫茶から受けていた恩を、ようやく自分で返すことができたと思えた瞬間だった。
 
 振り返ってみると、吉祥寺という街は、けっこう音楽文化が栄えた街だったと思う。
 自分の今の音楽的嗜好は、たぶんに、この街から授かったものだという気もしている。
 
▼ 吉祥寺で組の若頭を勤めていた時代の自分 … うそ

  
 
関連記事 「桐野夏生 『抱く女』に描かれた70年代の吉祥寺」

関連記事 「吉祥寺ビーバップ (Be Bop) 」
 
関連記事 「甚助の餃子」
 

 

カテゴリー: コラム&エッセイ   パーマリンク

吉祥寺の昔の音楽喫茶 への28件のコメント

  1. スパンキー より:

    やはり吉祥寺って、文化の街ですね。
    こういうところで青春を過ごされたのは、町田さんの財産です。
    高円寺は吉田拓郎の歌で知りました。
    村上春樹は国立、椎名誠は国分寺(いや幼少時は千葉か)
    中央線文化は、なんか凄いな!

    比較ですが、桑田佳祐の歌を聴いていると、湘南がよく分かり、
    やはり良いところだなと思うのです。
    私は、ご存知のように、その頃横浜で遊んでいましたので、
    なんというか、ドブネズミのような青春でした。
    だから、書くものにも品がない(笑)

    人それぞれの原風景って、やはりいつまでも消えない。
    生まれ育ったところは、みんな心に焼き付いています。
    これも個性の一端を形作っているのでしょうね?

    今度、吉祥寺へ行ってこよっと!

    • 町田 より:

      >スパンキーさん、ようこそ
      「財産」 … なるほど。
      そうかもしれません。
      渦中にいるときは、まったくそんな意識もなかったんですけどね。
      でも、振り返ってみると、いろいろ教えられることが多かった街のような気もします。

      横浜も、私たちにとっては “憧れの地” だったんですよ。
      その実態は、もちろんスパンキーさんの方がご存知なんでしょうけれど、僕らの若いころは、家に自動車がある金持ちの息子を夜中に呼び出して、そいつに運転させて、よく横浜までドライブに行ったものです。
      人気のない、明け方の元町の空気とか、山下公園の朝焼けとか、けっこうしっかり記憶に残っています。
      早朝の、紫色に染まる本牧あたりの、ちょっと淋しい光景に、カーラジオから流れてきたマル・ウォルドロンの 「レフトアローン」 とか、よく合っていました。
      吉祥寺にも来てください。
      ご案内を務めます。
       

  2. カップス より:

    街は変わっていくものなんですね。
    同じ風景であってほしいなどと思うのは我儘なセンチメンタルにすぎない。

    地方の商店街はそりゃひどいものです。疲弊を通り越して瀕死状態。
    子供のころに通った菓子屋、出前をたのんだ蕎麦屋は駐車場か飲み屋に変わっている。

    仏頂面の店主が切り盛りするジャズ喫茶も70年代の初めのころは3件ほどあり通ったものです。不思議な空間がありましたね。独特の文化。
    トミー・フラナガンのオーバーシーズは店でよく聞きました。1曲目の終わりのころにキズがあってボツン・ボツンと3回大きな音がしていた。
    暫くして店はつぶれてしまいましたが、その店の名が書かれた中古レコードが見つかった時は嬉しかった。レコードで聞こえてくる1曲目の終りのキズの音に、ついつい感傷的になってしまうんです。
    CDでは味わえない思い出ですね。(笑)

    • 町田 より:

      >カップスさん、ようこそ
      おっしゃるとおりです。街は変わっていくものですね。
      それは、人間の欲望の形が変わっていくのを、そのままなぞっているような気もします。
      だから、地方都市がみな均一化してきて、東京も、名古屋も、大阪も似たような街並みなっていくというのは、それだけ 「現代」 を生きる人々の欲望の形が似通ってきていることを物語っているのかもしれませんね。

      地方都市の近郊には、みな似たようなコジャレたカフェや、お手軽イタリンや、回転寿司が同居するショッピングモールが建ち並び、広い駐車場があって、その一角にパチンコ屋が同居するというような景観は、現代人が 「そういう街が楽しい」 という感性を持ってしまったがゆえなのかもしれません。

      音楽も変わってしまって、レコードを聞くような人はもういなくなって、ジャズ喫茶でかかるレコードのポツン、ポツンというキズを 「いつくしむように楽しむ」 という風情もなくなりましたね。CDの時代ともなれば、それは、もうただの 「ノイズ」 ですから。

      文化全体から 「ノイズ」 がなくなってしまったように感じます。
      ノイズというのは、文字どおり、「雑音」 でもあるわけだけど、きれいな整合性を保とうとするときに消されていってしまう “豊かさ”でもあるように感じます。

      都市近郊のショッピングモールやアウトレットモールは、みな清潔感にあふれていて、不健康なもの、いかがわしいものなど何もなく、ファミリーが安心して遊べる場所かもしれませんけれど、陰影がない。怖いけど覗き見したくなるような 「影」 の部分がない。つまり、「ノイズ」 がない。レコード版に 「ポツン、ポツン」 を刻む、そのレコード固有の “個性” がない。

      とりとめもない返信でごめんなさい。
      ちょっと、カップスさんの中古レコードに対する感傷に触発されて、いろいろと考えてみました。
       

  3. ユミ より:

    bopは私にとっても青春の場所でした。なんて懐かしいんだろう。
    町田さん・・写真を見ても誰だか判らない。時代がずれているのかなぁ
    bebopはあの当時、名前を忘れてしまったけど伊織さんの弟が任されていたよね。
    井の頭公園に住み毎晩のようにbopの地下に通っていた・・
    古き良き吉祥寺 今は随分変わってしまいました。

  4. 町田 より:

    ユミさん、ようこそ
    Be-bop仲間だったんですね。
    それだけでも親しみがわきます。コメントありがとうございました。
    井の頭公園の近くに住まわれていたんですか。
    どこかでお会いしていたかもしれませんね。

    確かに、吉祥寺はずいぶん変わりました。
    吉祥寺独特のローカルな香りというものがなくなり、普通の町と変わらないような光景も随所で見られるようになりました。
    それでも、やはり面白い街であることは変わらないようにも思います。

    今は、もう夜遅くまで飲み歩くことはなくなりましたけれど、時間があればゆっくり飲み歩きたい街でもあります。
     

  5. ユミ より:

    町田さん、こんばんは。
    やはり時代がかなり違うのかもしれませんね。実は私、BE・BOPやFANKYでバイトしていたこともあるんです。もともとJAZZが好きでFANKYでバイトしてたんですが、多分その時BOPの人員不足でそっちに行かされたというか・・でもROCKも勿論好きですから すっかり自分の居場所になってしまった感じです。
    地下と2階にいる人達は人種が違っていたけどバイトしていたせいか両方ともそこそこ仲良しでしたがバイト辞めたあとは殆ど地下に出没していました。
    その頃、誰もが知ってる有名人(?)はマンガちゃんでしたっけ。

  6. 町田 より:

    >ユミさん、ようこそ
    『ファンキー』 にいらっしゃったんですか。日本のジャズ喫茶でも老舗中の老舗といっていい店でしたね。私が通っていたのは高校生の頃です。だから年代でいうと、1968年頃です。
    『ビ・バップ』 には学生になってから通うようになりました。1970年か71年、72年頃だったと思います。
    ツェッペリンの1枚目、ジャニス・ジョプリンの 「チープスリル」、バンドの2枚目などがよくかかっていた時代です。

    >「誰でも知っている有名人」 はマンガちゃんでした。顔の小さい人でしたね。
    レジには、よく背がスラリと高くてモデルみたいな人が立っていました。伊織さんの奥さんだったのでしょうか。
    彼女にも憧れたな。

    2階と地下ではやはり “人種” が違っていたのですね。
    私は、2階の方は1~2度ほどしか上がったことがなく、ほとんど地下にいました。
    今でも、あの時代独特の “空気” のようなものをときどき思い出します。
     

    • マンガちゃん.
      今でも顔をはっきり憶えています。
      由来は漫画を描いていたことだそうです。
      曲に乗ると数秒ダンスのステップを
      あのやさしい眼差と破顔とで。
      地下のウエイトレスでふっくらした人は
      トマトという愛称でした。
      あの無機的な地下のスペースが
      グッと浮かんできます。

      • 町田 より:

        >下連のシラサンさん、ようこそ
        マンガちゃんは、あの店ではそれなりに有名人でしたね。
        あの人は本当にROCKが好きだったんだなぁ … と今さらながら思います。
        マッチの件、ありがとうございます。
        今あらためて「バップ」のマッチを見ると「JAZZ & BLUES」って書いてありますね。
        ROCKというよりも、BLUESの店としてスタートしたということなんでしょうね。
        そういえば、地下で「オーティス・ラッシュ」を聞いたことがありました。そのとき「ブルースって、すげぇカッコいい !」と思った記憶があります。
         

  7. ユミ より:

    町田さん こんばんは。
    まんがちゃんは知っていらっしゃるのですね。まんざら時代がずれてるわけでもなさそうなのかな。FANKYは大学1年くらいの時のバイトだったかな・・私もBOPは70年前後からのような気がしますが町田さんを全然知らないとなるとやはり時代がずれてるんでしょうか。もっとも本名を知らない人も多かったかもしれないですけどね。町田さんもニックネームとかで呼ばれていたのではないですか?
    確かにたまにレジに立っていたモデルのような背の高い美人は伊織さんの奥さんですよね。
    でも、名前を思い出せないのですが伊織さんの弟がBOPを任されていたので その弟の彼女もたまに立っていました。美人の部類(失礼か)ではあったと思うけど伊織さんの奥さんには確実に負けてましたけどネ(笑)。
    かかっていたレコードの話になると一言では言えないのですが、何回もリクエストが入る曲がその時代の流行りのROCKなんでしょうが、私個人は黒人ブルースが好きでした。

    • 町田 より:

      >ユミさん、ようこそ
      マンガちゃんは、よくドラムスのスティックを持ってきて、曲に合わせて膝を叩いたりしていましたよね。よく覚えています。

      レジに立っていた背の高い美人は、やはり伊織さんの奥さんだったのですか。
      ファッション雑誌からそのまま抜け出てきたような人でしたね。
      私はあまり常連の方々としゃべったこともないので、確かに名前を知らないお客さんの方が大半だと思います。
      でも、伊織さんには顔を覚えていただき、街ですれちがったときなども声をかけてもらいました。
      いかにも慶応ボーイという感じの洒落た雰囲気の人でしたよね。

      初期のバップには、確かに黒人ブルースも流れていました。
      オーティス・ラッシュなどのモダンブルースをはじめて聞いたのはあの店でしたから。
      白人ではポール・バターフィールド・ブルースバンドもかかっていたかな。
      新しい音なら何でもあり、という感じの店でしたね。
      リクエストしても、昔はレコードでしたから、A面ならA面だけとか、B面ならB面だけという感じでした。CDが流通する前の時代でしたね。
       

  8. ユミ より:

    町田さん こんばんは
    マンガちゃんは確かによくドラムのスティックを持ってきてましたね(笑)
    伊織さんはカッコよくていい男でしたよね。あれだけの洒落た店を次々と出して才能も
    並みじゃなかったと思います。伊織さん達のお父さんをご存知ですか?
    上背はなかったけれど粋なカッコイイおじさんでしたから  この父にしてこの子ありって
    感じましたもん。
    音楽はレコードが全盛の時代でリクエストは当然片面でしたもんね。黒人ブルースは好きでよくリクエストしたもんです。オーティス・ラッシュも大好きで
    THIS ONE`S A GOOD`UN は幻の名盤で今もレコード大事にしています。
    でも黒人ブルースはリクエストすると他の客に案外嫌がられてましたけどね(苦笑)
    若者はハードロック大好きでしたからね。
    CDはとても便利で音もいいけどレコード針やスピーカーとかに気を使って少しでもいい音で聴こうとしてたあの時代はいいもんでした。

    • 町田 より:

      >ユミさん、ようこそ
      黒人ブルース。うん、最初のうちはバップでよく聞いたように思いましたが、確かにハードロックが主流になった頃には影をひそめましたね。
      やっぱりツェッペリンの登場以降、UK系のブルースロックもどんどんハードロック化していきましたものね。
      でも、私もブルースの、あの独特のグルーブ感は好きでした。
      けっきょくそのへんが、自分の感じる “心地良いリズム” の原点になったように思います。

      野口伊織さんのお父さん。
      私も、ファンキーでお見かけしています。
      言葉をかけてもらうほどのお客ではありませんでしたが、あの店は、あのお父さんの雰囲気がそのまま空気の中に溶け込んだような店でしたね。

      私はファンキーのコーヒーカップが好きでした。
      コーヒーを入れる部分が真っ直ぐな円錐形で、それを支える部分が細くなっていて。
      カッコいいな … と思って、ひとつ売ってもらおうかなどとも考えたこともありましたが、高そうな気がして、つい声をかけそびれてしまいました。
      今から思うと、手に入れておけば良かったと後悔しています。
       

  9. ユミ より:

    町田さん こんばんは。
    FANKYのコーヒーカップ・・・・さてと  覚えてないなぁ。
    すっかり忘れてしまっております。円錐形で?何色でしたかね・・
    BOPのも覚えてないです。バイトしてた癖に記憶力なんてお粗末なもんですね。
    BOPを閉める時に、地下で使っていたテーブルを一つ貰ったので暫くは自宅で使っていましたから 流石にそれは覚えていますが調度品などは案外忘れてしまうもんですね。
    とはいえ、どれもやはりセンスの良い物ばかりだったように思います。

    FANKYはもとはと言えば兄がよく通っていたのでマネして始めて行った時にあまりにも
    垢抜けた店だったので衝撃を受けた記憶があります。JBLのスピーカーの音の良さにもね。

    • 町田 より:

      >ユミさん、ようこそ
      ファンキーのコーヒーカップの図を、ちょっと本文記事の下の方に描いてみました。おぼろげな記憶を頼りに描きましたから、縦横比だとか全体のプロポーションは違っていると思います。
      けど、カップを支える下のところが細くなっているのは明瞭に覚えています。
      色は白でした。
      カップの円錐形のところには、確か 「funky」のロゴが入っていたように記憶しています。大文字の 「FUNKY」だったか小文字の 「funky」 だったかは忘れましたが …。
      それまで、そんな形のコーヒーカップを見たことがありませんでしたから、洒落ているなぁ… とびっくりしました。

      バップのカップはあまり覚えていないんですよ。
      普通のカップだったと思います。色は黒だったような気がします。
      確かに、伊織さんの店は、みな調度が洒落ていましたね。
      おっしゃること、よく分かります。
       

  10. ユミ より:

    町田さん こんばんは
    コーヒーカップの図?本文記事の下のほう?
    ごめんなさい・・・見方がよく分りませんでした。BOPは黒のカップでしたかね?
    いやぁ全く覚えてない。もう何十年も前ですから   どうしようもないです。
    BOPで貰ったテーブルは確かに黒で正方形の分厚いテーブルに何というか三角錐のような足がついてなかなかカッコイイテーブルでお気に入りでしたがすごく重いのでいつ処分したのかも忘れてしまいました。
    駅前にはラーメンやさんがあって夜BOPが閉まってからよく何人かで食べに行った記憶があります。決して美味しい店じゃなかったけど懐かしい思い出です。

    • 町田 より:

      >ユミさん、ようこそ
      コーヒーカップのイラスト、分かりづらくてごめんなさい。
      このコメント欄の上にある本文記事で、「関連記事 吉祥寺ビーバップ(BeBop)」、「甚助の餃子」 などとという文字がある下の方に、ヘタなイラストを入れてみました。
      本当はこのコメント欄に入れればよかったんでしょうけれど、コメ欄に画像などを入れるやり方が分からなかったもので …。

      駅前のラーメン屋さんは2軒ありましたね。
      ひとつは 「おおむら」 で、これは今でも営業しています。あいかわらずチャーハンがおいしいです。
      もう1軒は、「福 … なんとか」 という名前の店だったように思います。
      こっちはもう20年くらい前になくなっていますね。そこではよく餃子ライスを食べていました。
      でも、どちらもバップが閉まる頃には店を閉じていたように思いますので、あるいはまったく違うラーメン屋さんなのでしょうか。
      いずれにせよ、もう昔のことなので、記憶もあいまいです。
       

  11. Get より:

    今日は。

    昔懐かしの吉祥寺ですね。
    それでキーボード上をうろついていたら、こんなものも見つけました。
    ぐゎらん堂亭主、村瀬春樹氏の現在においてのブログ。
    これを読むと、当時の吉祥寺はそーとー原始時代だったんですかね。

    https://www.cataloghouse.co.jp/yomimono/doguno-shinsou/0054/

    • 町田 より:

      >Get さん、ようこそ
      リンクを張っていただいた『ぐゎらん堂』の村瀬春樹さんのブログ拝読。
      ありがとうございました。

      なかなか音楽全般に関心を持たれていた素晴らしい方だったんですね。
      私はあの店には1回ぐらいしか入ったことがなかったので、その本当の面白さを見逃していたのかもしれません。

      村瀬さんは、昔の吉祥寺に関する記憶もしっかり持たれているようなので、勉強になりました。
      ま、あそこでも書かれていたように、あの時代の吉祥寺には、かなりアナーキーな空気が流れていたんですね。
      今は、小じゃれたセレブおばさんと若者の町になりましたけれど。
       

  12. S.Murakami より:

    昔、昭和の古い時代に…吉祥寺でキャバレーを経営していた村上とか岡本とかいう親戚がいる方を御存じないでしょうか?

    • 町田 より:

      >S.Murakami さん、ようこそ
      誠に申し訳ないですが、そういう名前の方はちょっと存じ上げないです。
      しかし、昔の吉祥寺のことを知っている方にお会いしたときに、ちょっと尋ねてみましょう。
      もし、何か心当たりのある方がいらっしゃるようでしたら、またこのコメント欄に連絡を入れます。
       

      • アーミー より:

        あまりにも懐かしいので、コメントします。
        僕も1970年から2年位、ファンキーとバップでアルバイトをしていました。学生時代、武蔵野公会堂の近くのアパートに住んでいましたので。
        伊織さんの奥さんは元モデルで「あきこさん」だったかな。
        当時真っ赤なスカイラインGTRに乗っていました。一度だけ乗せて貰ったことがありました。
        アウトバックをオープンした頃に、ロック喫茶をもう一つ作ることになり、伊織さんから「鹿鳴館と赤毛とそばかす」どっちがいい?と聞かれ、「赤毛」と答えた記憶があります。このお店はどうなったのかな?
        ファンキーのバイトが11時40分に終るので、そのあと「太郎」や「ロコ」によく行きました。
        ファンキーの地下でコーヒーを落としていたおばちゃんやバップの地下でスティックで膝を叩いていたマンガさんも覚えています。
        僕はいつもジーパンに米兵のジャケットを着ていたので「アーミー」って呼ばれていました。
        いつか吉祥寺に行ってみようと思っています。

        • 町田 より:

          >アーミーさん、ようこそ
          そうとう前にコメントをいただいたようで、返信が遅くなり、失礼いたしました。しばらく東京を離れていたので、申し訳ございません。

          ≫「1970年から2年ぐらいファンキーとバップでアルバイトを …」ということなのですが、だとしたら、ぜったいお会いしていると思います。もしかしたら、お客としてコーヒーなど注文させていただいたかもしれません。
          ただ、米兵のジャケットにはあまり注目していなかったのか、申し訳ないですが、お客様としていらっしゃったアーミーさんの記憶はありません。ごめんなさい。

          伊織さんの奥様、ほんとうにお綺麗でした。背が高くて、細身で。ときどきレジに立っていらっしゃいましたよね。物静かな感じで、ミステリアスでクールで。カッコよかったですよね。

          マンガちゃん、私もよく覚えています。
          おっしゃるように、いつもドラムスのスティックを持ち歩いていて、バップの地下でもそれを自分の膝で叩いてリズムをとっていましたね。
          ときどき話しかけられたのですが、なにしろあそこの地下は大音量で(笑)、しかもマンガちゃん自身の声があまり通らないので、何を話したのか当時からあまり記憶に残っていないのです。でも、なつかしいです。

          「太郎」と「ロコ」ですか。
          どちらも懐かしいな。
          「ロコ」は後から知った店で、もっと早くから行っていれば良かったと思っています。
          「太郎」の前にはスカラ座という映画館があって、その上に「スカラ」という雀荘があって、そこが我々のたまり場でした。

          いやぁ、まぁ懐かしい !
          作家の桐野夏生さんの小説にこの時代の吉祥寺を舞台にした(『抱く女』)という作品があります。
          「COOL」という店名で、「FUNKY」も出てきます。
          興味がおありならば、面白いかもしれません。
           

          • アーミーより より:

            町田さん返信ありがとうございます。
            僕の人生においても楽しい時代だったので、こんなやりとりができて、本当にうれしいです。
            吉祥寺に2年半ほど住んだ後、大学の仲間がたくさん住んでいる、福生の米軍ハウスに越しました。でも時々連絡が来るので、バイトに行ってました。
            帰りに寄る「太郎」では「ぐぁらん堂」によく出ていた故・高田渡さん夫婦に会い、剣菱で乾杯したり言い争ったりした覚えがあります。
            今回の事で色々調べたら、伊織さんは16年前に58歳で亡くなっていたんですね。残念です。いつかお会いできる日もあるだろうと思っていたんですが。

  13. 町田 より:

    >アーミーさん、ようこそ
    こちらこそ、このようなブログ記事にご厚情あふれるコメントをお寄せいただき、うれしい限りです。

    アーミーさんが福生の米軍ハウスに越された頃、私は吉祥寺の五日市街道に面した『ハックルベリー』というスナック(2Fがイタ飯屋)でやはりバイトをしておりまして、週末は福生・牛浜方面に遊びに行っていました。

    牛浜駅のそばに『B・P』というSOULバーがあり、土曜の夜は終電でここまでたどり着き、一晩遊んで、始発に吉祥寺に戻るという生活でした。

    伊織さんの若死はほんとうに悼まれます。
    やはり70年以降の吉祥寺文化を作られた方だと思います。
    街ですれ違ったときに、ときどき声をかけていただきました。
    すべてもう昔の話になってしまい、ふとさびしい思いに駆られることもあります。
     

  14. チータへ

    『吉祥寺 消えた街角』はライブを見るが如しです。
    全部が生きて入ってきます。

    steppen wolf のエピソードは追々お送ります。

    来年はM島工業が創業50年を迎えます。

    「バップ」のレジもこなしていたM口さんの奥さんは
    エレガントでしたね。

    あと明大前の「マイルス」は19歳から40年以上常連でした。
    Coltraneが死ぬ半年か一年前立ち寄ったことを
    ママが折にふれ誇らしげに話してました。

    オペ大変だと思います。
    頑張って下さい。

    こういった投稿はtoo personalなので
    差しつかえのないメールアドレスを教えて下さい。

       下連のシラサンより

    • 町田 より:

      >下連のシラサンさん、ようこそ
      M島工業さんも創業50年ですか。
      われわれも年をとったものですね。

      シラサンが明大前の「マイルス」というお店に通われていたことは以前も一度おお話を聞いたことがあります。ジャズの大御所であるコルトレーンが実際に店に立ち寄ったということは、ママさんにとってはかけがえのない思い出なのでしょうね。ある意味、うらやましいですね。

      個人メールのアドレスも送ってありますので、プライベートな連絡はそちらにお寄せください。
       

町田 への返信 コメントをキャンセル

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*

次のHTML タグと属性が使えます: <a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <strike> <strong> <img localsrc="" alt="">