吉本隆明が私に残してくれたもの

 
 夜遅く家にたどり着いたら、カミさんが顔を見るなり、「吉本隆明が死んだわよ」 と伝えた。

 

 彼女も年齢的には、団塊の世代の終わりの方に位置する。
 その世代は、彼の著作を読む、読まないは別にして、「吉本隆明」 という固有名詞が飛び交う議論の場に、何度かは立ち入っている。

 実際に、私たちの青春期は、誰もがその名を口にすることで、「オレは世の風潮に逆らっても自分の生き方を貫くぜぇ!」 ふうのポーズを取ることができた。
 言葉は悪いが、それが当時の 「インテリ」 と 「非インテリ」 を分ける試金石でもあったのだ。
 
 そういう風潮が嫌いだった。
 だから、彼がもっともカリスマ性を放っていた時代に読んだ著作は、ひとつもない。

 むしろ、社会人になってから、いわば彼の神格化がゆらぎ始めた時代になって、ようやく読むようになった。
 けっこう、その代表作といわれるものには目を通した。

 「解らない」
 というのが、素直な感想であった。
 解る必要があるのか?
 … とすら思った。 

 特に、『心的現象論序説』 と 『言語にとって美とは何か』 は、まったく歯が立たなかった。
 文章が難解である、という前に、そういう著作を表す彼の意志が何に基づいており、何を目指しているのか、それが解らなかった。 

 角川文庫の 『言語にとって美と何か』 の解説を書いた柄谷行人は、その書き出しを、こう始める。

 「 『言語にとって美とは何か』 は、孤独な書物である。それは読者を持たなかったということでもなく、学問的に批判・継承されなかったということでもない。実際に多くの読者をもったし、若手の国文学者にとって基礎的な文献になっており、また 『西洋派』 の記号論もまじめに本書は検討している。にもかかわらず、『言語にとって美とは何か』 は孤独な書物である」

 柄谷行人は、その 「孤独」 の意味を理論的に解析していき、そこに一つのオマージュさえ捧げているが、私は 「孤独」 という言葉だけで、なんだか吉本隆明の立ち位置というものが分かったような気になった。

 「この人は、読者なんか要らないのかもしれない」 と思ったのだ。

 当時の吉本ファンは、その 「孤独」 を 「孤高」 と読み変えた。
 そして、
 「語る内容が難しくて理解できないのは、自分の勉強不足、自分の精進の足りなさ」
 というふうに理解した。

 それは、吉本隆明をピラミッドの頂点に置く、「知のヒエラルキー」 を確立することにつながった。
 彼は、(意図したか、しなかったは別にせよ) ひとつの権力構造を形作っていたのだ。

 吉本隆明の訃報を聞いて、実は、申し訳ないが、あまり感慨が湧かない。
 しかし、吉本さんの著作に触れたことがきっかけとなり、私は自分が読むべき本というものの輪郭がつかめるようになったことは認める。
 
 吉本さんとは違う人の本を読もう。
 私にそう決意させたことが、この人が私に残してくれた最大の功績かもしれない。  
  
 

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